第二十四章 サイレントマジョリティー

現状


 二〇一八年六月、働き方改革関連法案(働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律)が、国会で可決成立した。

 法案の目玉は、『高度プロフェッショナル制度』であろう。

 しかし、この高プロ法は、別名『働かせ放題』法とも呼ばれる。

 事実上、労働時間規制が緩和され、更に今後、対象業務が拡大し、年収の下限も下げられる可能性が高い。

 労働時間を削減し、生産性を高めるようなことを謳ってはいるが、その内容は、全くもって不充分と言わざるを得ない。

 お前ら、本当にやる気あんのか。やる気がないなら、窓から飛び降りろ、と言いたいレベルである。

 そもそも、本当に時短を実現する気があるのかも疑わしい。

 元々は、経団連の求めに応じて、実現した法案だと言われている。

 彼らは安価に労働者を使い潰すことしか考えていないのではないかと疑うレベルである。

 これだけブラック企業の問題が、メディアを賑わせるようになっても、未だに過労死、或いは過労による自殺が後を絶たない。

 相変わらず職場には血が流れ、尊い人命が失われている。


 しかし、今や時代の趨勢は確実に変わりつつある。

 ブラック企業の問題が、大きくクローズアップされるようになり、国民の関心も高い。メディアやインターネットでは、ブラック企業に関する記事も、珍しくはなくなった。最早定番とも言える。

 今や形勢は逆転しつつある。今まで多数派に見えた長時間労働大好きサビ残容認派どもは、確実に、時代の片隅へと追いやられつつある。

 どれだけ政府や経団連が無能の集まりで、ブラック企業に対して何ら有効な対策が打てなくても、企業や労働者たちは、自ら脱ブラックの方向へと舵を切りつつある。

 しかし、だからと言って、無暗に自己愛性ブラック野郎どもの残業を禁止したら、一体何が起きるのであろうか。

 彼らが大人しくすごすごと一人で家に帰るとも思えない。

 毎日優しく話しかけてあげないと、サボテンのように枯れて干からびてしまうかもしれないからだ。

 それを回避する方法はただ一つ。飲みにケーションwwwしかない。


「よーし、飲みに行こうぜ。今日はどこ行く?やっぱ和民じゃね。ウェーイ。カンパーイ、ぐはあ、やっぱ仕事の後のビールは最高だな、ウェーイ」

「何だよ、もう帰るのかよ。今夜はオールに決まってるじゃん、オーーーーーーーーーーーール、ウェーイ。よーし、次カラオケな、カラオケ。ウェーーーーーーーーイ」

「よーし、サイマジョ歌っちゃうぞ、サイマジョ」


『チャーララーララーラーラララララー

チャーララーラーラララララ』

フォーーーーーー」


 しかし、自己愛性ブラックに、誰もいない道を進むことは出来ない。だって寂しいじゃん。

 自己愛性ブラックには仲間(だと思っている人々)が必要なのだ。

 現実的問題として、自己愛性ブラックが時代に適応出来ないからと言って、社会から排除する訳にもいかない。

 簡単に会社をクビには出来ないし、かと言ってそのまま飼っておけば、確実に会社は自己愛性ブラックへの道を辿る。

 自己愛性ブラックを逮捕して、収容所や刑務所に送るのも現実的ではない。そもそもそうした場所では、仲間たち(本当の仲間たち)が二十四時一緒にいるし、過酷なブラック労働も出来るので、彼らにとっては罰にもならないかもしれない。ただし、残業は出来ない。それが罰と言えば、罰となるかもしれない。

 良識ある文明人としては、何とか彼らを生かし、共存共栄する方法も考えなくてはならない。そうしなければ、我々は彼らのような、弱肉強食の世界に生きるけものフレンズ、略してけもフレのレベルにまで堕ちてしまうことになる。『私はサーバルキャットのサーバルだよ、ララララ~、ララララ~』。

 今、時代は大きく変わろうとしている。


自己愛性ブラックのメリット


 では、自己愛性ブラックが、この先生きのこる道はあるのであろうか。

 ホワイト企業であっても、自己愛性ブラックが紛れ込んでいることは充分に有り得る。

 強力な、底なし沼のような自己愛を満たし、分離不全の寂しさを埋め合わせるため、自己愛性ブラックは、まるでアラスカの雪原を疾走する機関車のように、仕事に邁進する。人並み外れた、常軌を逸した仕事への情熱は長所と言えないことはない。

 一応、仕事に対しては真摯に取り組み結果を出そうとする。問題は、それが行き過ぎるため、普通の人々にとっては迷惑で不気味で気色悪く感じることと、巻き込まれた場合に、ブラック労働に付き合わされることである。

 自己愛性ブラックを有効に活用出来るとすれば、何はなくとも、とにかく忙しい場合である。

 何をやるにしても、彼らは文句も泣き言も言わずに仕事をこなすであろう。そして、周囲の誰よりも早く、誰よりも多く、作業をこなそうとする。負けず嫌いで一番にならなければ気が済まない。

 元々ブラック企業ではなくても、そうした状況であれば、彼らの特性を生かせないこともない。

 ただし、自慢げに自身の成績を誇示するのは、かなりうざいかもしれない。

 自己愛性ブラックは、常に短期的な成果を求める。

 長期的な作業には向かない。

 すぐに成果が出ないと、彼らの幼く不安定な精神は耐えられないのだ。

 よって、数を競わせるような作業、そして結果がすぐにわかるような作業の方が向いているかもしれない。

 例えそれが超絶単純作業であっても、彼らはプロフェッショナリズムを発揮して作業に没頭するだろう。そして給料も上がらないのに、数を競い合い自慢することだろう。

 製造業全般での細かい作業、或いはPCでの入力作業、経理での計算作業などは向いているのかもしれない。

 プログラミングはどうであろうか。

 IT系にはブラック企業が多いと言われるが、これは起業しやすいためで、経営者がブラック野郎なだけであろう。しかし、長時間労働は好きだし、仲間たち(に見せかけた人々)に囲まれてスピードでも競わせてやれば、過剰適応出来るのではないだろうか。『偉いね、よく出来たね。なでなで』。

 接客や販売業はどうであろうか。

 他人の気持ちがわからないという致命的な欠点はあるが、彼らの人並み外れた陽気さ、常にハイで自信に満ちた態度、そして他者への渇望は、その欠点を補って余りある。

 例え目の奥が笑っていなくても、一見さんはそんなことまでは気付かない。

 しかし小売りだと、どうしても待ち時間がある。暇な時間に自己愛性ブラックが耐えられるかどうか疑問である。

 何を扱うかは、本人の趣味嗜好とか、ルックスにもよるだろう。

 高級車や高級ブランド品など、売っている本人のステイタスを満たせるような商品やサービスであれば、案外とブラック化しにくいのかもしれない。

 飲食は忙しくて、その日その日で客数と売り上げのデータが出るので、自己愛性ブラックには向いているかもしれない。

 特に居酒屋などは、例えばフランスで何年修業したとか、そういった経歴も必要ない。長期に渡って厳しい修業が必要で、すぐに結果が出ないので、プロのシェフや料理人には向いていないような気もする。

 そう考えると、居酒屋という業種にブラックが多いのも仕方のないことなのかもしれない。そして、ブラックの中のブラック神、ブラック界の不動のセンター、チ〇ポの先まで真っ黒なあのお方が居酒屋という業種を選んだのも、あながち偶然ではないのかもしれない。

 飲食は元々薄利多売と言われている。利益だの、拡大路線を突っ走り、チ〇ポ、ではなく店舗数にこだわるとなると、従業員を使い潰すブラック経営に走らざるを得ないであろう。

 営業でも接客と同様に、表層的な人当たりのよさと自信、そして押しの強さが役にたつかもしれない。

 捌くなら、その場で契約が取れるような商品の方がいいのではないだろうか。

 後は、迷路を彷徨うマウスの如くに住宅地を駆けずり回るだけだ。

 とは言うものの、こうしたスタイルの営業では、一日足を棒にして歩き回っても、契約を取ることは至難の業であろう。果たして、短期的な成果を求め、寂しがり屋の自己愛性ブラックが、一日中拒絶されるような状況に耐えられるのであろうか。

 そう言えば、例えば消火器(消防署の方から来ました)やソーラーパネル、怪しげな金融商品、たわしの押し売り、或いは貴金属の押し買いなどなど、こうした営業スタイルの企業にはブラック企業が多いような気がする。ブラックなことは間違いないとしても、『自己愛性』ブラックと、何か関係があるのであろうか。

 自己愛性ブラックは元々負けず嫌いではあるので、せめて一件だけでも契約を成立させようと思うかもしれない。そして苦闘の末、運良く契約に至ると、ブラック上司に褒められる。営業中は、ゴビ砂漠を彷徨うかの如くに地獄の苦しみを味わうが、一発契約が取れると、オアシスを発見したかの如くに脳内大花火大会が開催される。それが、ジャックポット並みの快感を脳にもたらすのではないだろうか。そうして、ジャンキー同然となり、仕事に邁進するようになる。やがては経営者への道を辿り、自己愛性ブラックの再生産が始まる。

 これは、かなり飛躍した推測でしかない。実際のところ、そうした業者の皆さんが、何故にリスクを冒してまでそうした仕事を続けているのか、経営者は余程儲かるのか、理解に苦しむ所ではある。

 まっとうな業種で営業をさせる場合には、自社より上の立場の企業を担当させた方がいいかもしれない。

 より理想化転移しやすいし、先方の担当者のケツを舐めてでも御機嫌を取り、良好な関係を維持することが出来るかもしれない。相手が下の立場だと、ほぼ間違いなくパワハラに走るであろう。

 例えば、一部上場有名大企業の部長さんと知り合いとなれば、彼らの人並み外れた虚栄心も満足するだろう。飲み屋ではほとんどの時間をその自慢話に費やすはずだ。

 ただし、問題を起こす前に配置転換を。勿論、相手との相性もある。


 自己愛性ブラックは、リーダーには向いているのであろうか。

 元から彼らは、自分が他人より優れており、他人の上に立つのが当然だと思っている。

 そういう意味では、生まれついてのリーダー向きと言えなくもない。

 ただし、今まで散々述べてきた通り、ブラック化への道は避けられない。

 そして、出世の階段を昇れば昇るほど、重要な決断を求められるようになる。

 彼らは、表面的な自信と尊大さの裏側に、不安に満ちた、脆く壊れやすい心を抱えている。

 果たしてそのような人物に、企業の存続を左右するような重大な決断を求めようと思う人物がいるだろうか。

 高度成長期であれば、慎重さとか、熟慮する姿勢は必要なかった。とにかく、前に前に、上へ上へと進むのみであった。実に、自己愛性ブラック向きの時代ではあった。

 しかし現在では、TPOを考えずに突き進むような姿勢は、破滅への一里塚である。これはブラック企業の盛衰を見ていても、容易に実感出来るであろう。


 最も弱肉強食の新自由主義経済的なお仕事と言えば、やはりトレーダーであろう。

 ちょっと引用させて頂こう。


『ナルシシストは自分は正しく、何事もうまくいくと強く信じているため、リスク許容度が高い。そのため、上げ相場に投資した場合、すなわち過剰な自信とリスクを厭わない姿勢が功を奏する場合に成功しやすい。株式市場の模擬実験を利用した研究で、ナルシシストは市場が上向きなときはほかの人よりも利益を上げた。ところが相場が下がりだすと、すばらしい投資パフォーマンスはとたんに鳴りを潜め、その後はリスク許容度が高いせいで一文なしになってしまった。』

ジーン・M・トウェンギ/W・キース・キャンベル『自己愛過剰社会』桃井緑美子訳

河出書房新社(2011)


 この点に関しては、私も身を持って体験した。ただし、上げ相場でもそこまで利益にならず、下げ相場でも、一文無しになった訳ではない。まだ退場はせず、市場の縁にしがみついて生き残ってはいる。

 後に紹介するアメリカのトランプ大統領は、まさにこのパターンと言える。

 また、業種はともかくとして、我が国の名うてのブラック経営者たちにも、同様のことが言えるかもしれない。

 自己愛性ブラックは、時と場合によっては大成功を収める可能性がある。しかし、それも一時で、転落は不可避である。


 彼らは、飲み会では盛り上げ役となるだろう。

 しかし、楽しいのは最初だけで、酒が回ってくると、後半は俺様スゴイ自慢を延々と聞かされることはほぼ確実である。そして、朝まで引きずり回されるだろう。オーーーーーール、ウェーーーーーイ。これも、時と場合に応じて活用するべきであろう。接待では使えるかもしれないが、調子に乗り過ぎないように、監視役が必要だろう。

 運が良ければ、職場でもムードメーカー的な役割を担えるかもしれない。しかし、ハイテンションが毎日続くと、普通の人々は疲れてしまう。ノリが悪くなってくると、自己愛性ブラック自身も不機嫌になってしまうだろう。


 スポーツ選手はどうであろう。

 健全で、バランスの取れた自己愛は、スポーツで結果を出す上で必要不可欠のものである。

 しかし、アスリートの強い自己愛が、幼児的で歪んだものであった場合、それは諸刃の剣となるだろう。

 彼らは,内心では自分に自信が持てず、常に周囲に評価されていないと不安感に脅かされる。

 彼らが厳しいトレーニングに没頭するのはそのためである。

『これじゃあ勝てない。どうしよう。ママに褒めてもらえない。もっと練習しなきゃ。もっともっともっともっと』

 彼らは決して、その競技を愛している訳でもない。彼らの情熱は、自分自身に向いている。日々のキツイ練習に耐えられるのは、それが安心感をもたらすからだ。

 昔なら、それで良かったかもしれない。

 練習時間と練習強度が結果を左右していた。

 しかし、合理的で科学的なトレーニングが優勢となった現在では、それは通用しない。

 練習のやり過ぎで、怪我や故障をするかもしれない。疲労が蓄積して、望むような結果を出せないかもしれない。そして、更に練習に没頭するようになり、更に事態は悪化する。

 そうして、ある程度の結果は残せるかもしれない。あくまで、ある程度は。

 超一流のアスリートたちを見ていれば、成功するためには、実力だけではなく人格も重要であることは明白であろう。

 大リーガーの大谷翔平や、松井秀喜、或いは野茂英雄はどうであろうか。フィギアスケートの浅田真央や羽生結弦、卓球の福原愛はどうか。オリンピックや大リーグで、優秀な成績を残しているとは思えぬ、彼らの謙虚で控え目な人柄は、虚栄心とか自己顕示欲とは無縁のものに見える。

 中田英寿やイチローはどうだろう。メディアでは、彼らの態度が批判されることもあった。しかし彼らは、他人によく思われたいとか、どう思われるかとか、そういったことはほとんど気にしていないように見える。関心があるのは、自身の技術の向上のみであろう。自己愛は強いかもしれないが、分離不全とは最も縁遠い人々であろう。

 才能も実力もあったが、運が悪かった。指導者に恵まれなかった。あいつにだけは勝てなかった。

 自己愛性ブラックアスリートは、こうして現役を引退すると、指導者への道を選ぶかもしれない。

 私には『運悪く』果たせなかったが、この子たちには全国に行かせてやりたい。メダルを獲らせてやりたい。

 しかし、全国に行きたいのは自分自身であって、『この子たち』ではない。彼らは、自身の自己愛を満足させるための駒に過ぎない。

 彼らは自身の存在レベルでの、自信の欠如や不安感を抱えている。そうなると、指導やゲームにおいてもこうなる。『とにかく早く点を取らなきゃ、取らなきゃ、取らなきゃ、どうしよう、どうしよう、勝てない、ママに叱られちゃう。こいつら本当にやる気あんのか。ふざけやがって』。

 よって攻撃が中心の作戦となる。

 守りに徹することは、耐えられない。

 本当に自分に自信があり、スキルのある優秀な指導者なら、ゲームの予測も正確に出来るし、危険な状況でも冷静に状況を見極め、耐えることが出来る。よってこうなる。

『二点は取られるかもしれないが、最終的には一点差で勝利出来るだろう。ここはもう少しの辛抱だ。選手たちには自分を信じて頑張ってもらうしかない。彼らならきっとやり遂げてくれるだろう』。

 もし劣勢であれば、それに見合った戦術を立てることも出来る。負けを受け入れることも、自分に自信があり、心が強いから出来ることだ。『あそこをこうすれば良かった。選手たちは頑張ってくれたが、私の作戦ミスかもしれない。次はカイゼンしよう』。

 しかし、自己愛性ブラック指導者の場合は、冷静に状況を見極めて作戦を立てることも出来ないし、負ければ選手に責任を擦り付けるだろう。

 どうも、こうして書いていると、やっぱり旧日本軍とそっくりのような気がしてきた。戦時中のブラックぶりも、自己愛性ブラックが原因なのかもしれない。この点に関しては、いずれ考察する機会があるかもしれない。

 後は、ブラック指導でそこそこの成果を残し、才能も実力もあったが選手に恵まれなかった、あの選手を指導したかった、と本気で後悔しながら年老いていくことであろう。自分の指導力が至らなかった、とは一切考えない。本人にとっては、そこそこ幸福な人生なのかもしれない。しかし、ハズレを引いた選手たちにとってはたまったものではない。

 もし、本気で子供にスポーツをやらせるのであれば、余程、合理的で優秀で、人格的にも優れた指導者を探すべきであろう。自己愛性PD傾向も矯正出来れば、一流のアスリートになることも夢じゃないかもしれない。


 作家や芸術家には、自己愛性PDの者が多いとも言われている。

 この辺は、パーソナリティ障害に関する書籍においてよく指摘されているので、興味のある方は、巻末の参考書籍リストを参考にされたい。

 しかし、前章でも述べたように、アーティストなどはともかくとして、人間の内面を描く作家が、果たして私が名付けたところの分離不全で勤まるのかという疑問を、抱かざるを得ないものである。


自己愛性ブラックのデメリット


 自己愛性ブラックのデメリットについては、これまで散々述べてきた。そもそもこの本自体が、そのために書かれたものである。

 ここでは、ブラック化すること、或いは職場でクソウザイ、といったこと以外に、仕事上での問題点について、簡単にまとめていきたいと思う。

 まず、彼らは他者の気持ちを理解出来ないという、致命的な欠陥を抱えている。

 よって、販売や営業でも、その場限りのゴリ押しで、何かを売りつけるといった手法なら向いているかもしれない。

 しかし、現代のビジネスにおいては、顧客や大衆の心理的ニーズを、正確に掴むことが至上命題となっている。

 自己愛性ブラックに、そうした芸当はまず不可能である。

 消費者や市場のニーズを把握することなく、自分本位でモノを作ったり、サービスを提供したりしていては、幾ら長時間労働で仕事に邁進していても、その商品やサービスが売れる訳がない。

 よって、商品の企画開発、マーケティング、広告、宣伝などの業務はまず向かないであろう。

 もしかして、我が国の家電メーカーが凋落した原因はこの辺にあるのかもしれない。

 ユーザーが求める、シンプルで低価格な商品より、高機能、高価格の商品を売りつけようとする。

 自分本位で、高機能、複雑かつニーズの低い作品を創り上げて、悦に入っている姿は、まさに水面に映る自分の姿に見とれて水仙になってしまう、ナルキッソスを彷彿とさせる。

 このように考えると、例えば広告代理店が自己愛性ブラックだった場合、根本的な適性レベルで、職務遂行能力に疑問符を付けざるを得ないであろう。

 自己愛性ブラックは、孤独を恐れる。よって、一日中一人でやるような仕事には向かないであろう。

 例えば、トラックのドライバーなどをやらせると、孤独なうえに、無意味に記録でも出そうとして高速道路で暴走しかねない。かなり危険と言える。タクシーやバスなら、お客さんとの温かな触れ合いもあるし、案外向いているのかもしれない。しかし、仕事の成果で自己愛を満たすのは難しいのかもしれない。

 自己愛性ブラックは、常に短期的な成果を求める。逆に長期的な仕事には向かないだろう。成果を実感出来ないと飽きてしまうからだ。『ママー、つまんない』。

 よって、何年かけても成果が出るかどうかわからないような調査研究とか、技術開発、商品開発は、止めておいた方がいいだろう。

 iPS細胞の山中伸弥教授などを見ていても、自己愛性PDとはおよそ縁遠い人間であることは容易に理解出来よう。何年も地道な研究を続けることなど、自己愛性ブラックには到底不可能である。


 既に触れたが、自己愛性ブラックには、適切な指示、教育が出来ない。

 これは、第三の男の例でも充分に理解出来よう。

 他人の立場に立って考えるということが出来ない、新人が右も左もわからないという状況を理解することが出来ないため、下手をすると、わからないと言われてキレるかもしれない。これは、スポーツ指導者でもよくある例であろう。

 よって、情報の共有という概念も持ち合わせていない。

 自分が知っていれば、世界中が同じことを知っていると思っている。

 先に紹介した、ユニク、ああいやいや、衣料品販売X社での例を参照のこと。

 そもそも指導以前に、人を見る目がない。

 能力よりも、自身の自己愛を満たしくれる人物を評価する傾向にあるため、人事や教育、研修などの仕事には向かないだろう。

 彼らが好むのは、従順な人間か、自身と同じような自己愛性ブラックか、自身のハイテンションに付き合ってくれるパーティ野郎であろう。能力があっても、まともな人間であればまず話が通じないし、いずれは離れていく運命にある。

 現在のコミュニケーション能力至上主義も、もしかしたら自己愛性ブラックの蔓延と無関係ではないのかもしれない。他人のスキルと才能を評価するのも、スキルと才能が必要なのだ。この点は芸能界などを見ていても、容易に理解出来よう。

 我が国では、成果主義が導入されつつあるとはいえ、まだまだ長時間労働がそのまま仕事の評価に直結する傾向にある。現場においても、毎日遅くまで残業をしている(何をしているかはともかくとして)自己愛性ブラックを全く無視する訳にはいかない。

 長時間労働~評価される~更に長時間労働の悪循環(本人にとってはいい循環)に陥るだろう。


 現代の企業では、業務効率化とコストダウンが至上命題となっている。

 そして、より長く会社にいたい自己愛性ブラックにとっては、仕事が減らされることは死ねと言われているに等しい。定時に一人で帰宅することなど、悪夢以外の何物でもない。

 そうした場合には、意識的に抵抗するか、無意識的に避けるかもしれない。

 例えば、ある作業があるとしよう。

 工場での製造工程でも、オフィスでの入力でも何でもいい。

 その作業において、無駄な作業を排して、効率化によって三十分の短縮が可能になる。

 普通の社員たちは大歓迎であるが、自己愛性ブラックは違う。

「そんなの必要ないでしょ。今まで通りでいいじゃん。これ確認しながらやらないと、やっぱりマズイんじゃないの」

 勢いに押され、結局カイゼン案は棚上げ。

 そして、気合と根性で十分短縮させることを選ぶ。

 自己愛性ブラックは言う。

「ほらな、今まで通りで大丈夫じゃん」

「すごいっすね。俺らこんなに早く出来ないですよ」

「いやあ、頑張ったからさあ」

『こいつ、早く辞めてくれねえかな』

 第三の男の場合、より効率的にピッキング出来る方策があるにもかかわらず、そこから目を背け、気合と根性で乗り切ろうとしていた。

 某牛丼チェーンの場合、券売機を導入すれば、現場の負担がかなり減るとも言われている。

 社内の状況はよくわからないが、もしかしたら、自己愛性ブラックの巣窟になっているのかもしれない。

 仕事が終わらなければ残業、或いは人を増やす。

 いずれにしても会社にいられるし、仲間(だと思っている人々)が増えて、自己愛性ブラックにとってはうはうはである。

 しかし企業にとってこの状況は、決して容認出来るものではない。

 効率化は進まず、仕事が終わらない。そのため残業は相変わらず。

 しかもただ一人で会社にいたいだけではなく、寂しさのため、周囲の人間をも巻き込む。場合によっては人を増やす。人件費の抑制は出来ずに膨れ上がるだけ。

 結果、その企業は競争力を失い、最悪の場合、倒産ということにもなりかねない。

 運良く倒産までは免れたとしても、自己愛性ブラックが昇進し、ブラック労働がエボラ・ウイルス並みの凶暴さで蔓延すれば、その企業では、鬱病と過労死のリスクが増大することになるであろう。


 自己愛性ブラックには、いい面も存在する。しかし、リスクを考えると採用しない方が無難であろう。

 もし、既に企業内に巣食っている場合は、取り扱い方法を考えなくてはならない。

 ベストな選択は追い出すことだが、アンチブラック本でそのような指南をする訳にはいかないので、この段落は読まなかったことにして欲しい。

 彼らのパーソナリティをよく理解した上で、上手にコントロールしていかないと、自己愛性ブラックは必ず暴走し、企業とそこで働く人々に大災害をもたらすことになるであろう。

 では企業は、自己愛性ブラックに対して、どのように対処していけばいいのであろうか。


企業はどう対応するか


 健全な企業にとって、自社をブラック化し、また業務にも悪影響を与えかねない自己愛性ブラックの存在は脅威でしかない。

 彼らの生態に関しては、本書を読んで頂ければ、だいたいのところはご理解頂けたかと思う。

 しかし、成見のように分かりにくい場合も多々ある。

 この反ブラック企業時代においては、従業員をスクリーニングし、自己愛性ブラックを炙り出すことは、全ての良識的な企業にとって最重要課題とも言える。

 でなければ、企業はブラック化し、パワハラやセクハラが横行し、従業員は使い潰されて鬱病となり、過労死や過労自殺が続発する、イスラム国やボコ・ハラムの支配地域のような現代の無法地帯と成り果ててしまうことであろう。


 自己愛性パーソナリティ障害に関しては、現在、様々な検査方法が考案されている。

 大手企業であれば、自社のカウンセラーによって、全社員に対する自己愛性パーソナリティ障害のテストを実施することも可能であろう。

 ブラックの部分に関しては、前章や他の書籍を参考にして頂きたい。

 プロのカウンセラーや精神科医であれば、本来の目的を隠した上で、独自の検査方法を実施することなど容易いことに違いない。

 ただし、そうした秘密検査が医療倫理に反する行為に当たるのか、私は医師ではないので分からない。実施する時は自己責任でお願いします。何か問題が発生しても、私に一切の責任はないことだけは、ここに明記しておく。

 もし、運悪く自己愛性ブラックが発見された場合に、企業にとって最善の対応とは、排除することであろう。すなわちクビだ。『ユー・アー・ファイアード』(トランプ大統領)。

 しかし正社員であれば、そう簡単にクビにすることも出来ない。自己愛性ブラックを理由としてクビを宣告しても、訴訟沙汰になることは間違いない。誰かやってみても面白いだろうが、そもそも、解雇の要件として認められるとは思えない。

 良識ある大人としては、自己愛性ブラックに対して通院を勧めたいところではある。

 しかしながら、精神疾患の治療というのは、本人が何か不都合を自覚して、自発的に治療を受ける必要がある。余程、他傷或いは自傷行為があるという状況でなければ、周囲の人間が強制的に医療機関を受診させるという行為は困難である。

 それに、『課長。あなたは自己愛性パーソナリティ障害です。通院して下さい』などと言おうものなら、自己愛憤怒に陥ってキレまくることはまず間違いない。

 社会保障と財政のことを考えると、ブラック労働で鬱病になった人々を通院させるよりは、自己愛性ブラックを通院させた方が、よりメリットがあるような気もするが、まず実現不可能であろう。

 クビにすることが困難なら、自発的に辞めてもらうしかない。

 自己愛性ブラックを排除するのに最も効果的な手段とは、孤立であろう。すなわち、シカトである。

 閑職に就ける。一人きりの職場に異動させる。

『どうしても人がいない。任せられるのは君だけなんだよ』

『ちょっとポストが空くまで、しばらくそこで待っていてくれないか。少しの辛抱だから』

 そうして、既に十年の歳月が経っていた。

 或いは、カーンバーグばりに事実を突き付けてやれば、自己愛憤怒を引き起こし、自分から辞めるかもしれない。『こんな会社辞めてやる』。

 しかし、今の会社を辞めたとしても、また別の会社に転職するであろう。そうなると、ただババ抜きをしているだけで、社会からブラック労働が無くなる日は、いつまで経っても訪れることはないであろう。ここは何とか、現代労働者の責任として上手く飼い慣らす方法も考えたいものである。

 会社で活かすことを選択するのであれば、自己愛性ブラックの特性を踏まえて、メリットとデメリットを検討した上で、配置を決めてやる必要がある。

 先に述べたように、とにかく忙しい部署、短期的な成果が求められる仕事、彼らの自己愛を満たせるような仕事の方がいいだろう。

 或いは、リストラ中の企業であれば、追い出し部屋の看守などは、最高に適しているかもしれない。追い出しが終われば、次は自分の番という訳だ。

 しかし、そもそもアンチブラック本で、辞めさせるとか、リストラ部屋とか、そういった前提は不適切なので、この部分も忘れて頂きたい。

 何をやらせるにしても最重要なのは、周囲への自己愛性ブラック化を如何に食い止めるかであろう。

 この点に関しては、第三の男のケースが参考になるであろう。

 工場では、二百メートル離れた製造ラインの人々までもが、彼の異常性を認識していた。

 一人で朝七時に出勤し、夜は八時以降まで会社にいた。

 閑散期であっても、何もせずに会社に居残っていたらしい。

 しかし周囲の人間は、そうしたブラック行動に一切同調することはなかった。

 だからと言って、孤立させることもなかった。

 毎朝のように堀之内さんが、サボテンに話しかけるが如くにフレンドリーに話しかけ、おトモダチ感、仲間感を職場全体で演出することを怠らなかった。周囲の人々も、陰口を叩きながらも、本人がハイで罪悪感もなかったこともあって、表面上は仲間っぽく接していた。決してシカトしたり、ないがしろにしたりすることはなかった。

 ムカつくことも時にはあったが、正面衝突は避け、適当に受け流していれば何とかやり過ごすことの出来るレベルではあった。本人も、職場のみんなと仲良しだと思っていただろう。

 尤もこれは、自己愛性ブラック本人の性格にも左右される.

 ブラック化を防ぐためには、自己肯定感を与えつつ、同時に長時間労働を否定するような価値観を植え付けて、時間をかけて洗脳していくしかない。

『君はもう充分成果を上げた。たまには帰って休みなさい』

『出世するつもりなら、部下を掌握することも重要だ。部下を休ませるのも、上に立つ者の重要な使命だ。今から慣れておきなさい』

『これからは時短の時代だ。残念だが仕方ない。君は将来の幹部候補生なのだから、そのつもりでいたまえ』

 ああ、面倒くさい。面倒くさいが仕方ない。


 出世とか言っているが、言うまでもなく、可能な限り自己愛性ブラックは出世させない方が、会社にとっては無難であろう。

『君がいないと、現場が回らないじゃないか』

『君はうちのエースじゃないか』

『イチローだって、まだ現役じゃないか』(二〇一九年三月引退)

 尤も、そうして誤魔化している内に嫌気が差して、自分から辞めてしまう可能性もある。

 自己愛性ブラックの本質は、悪ではなく弱さなのだ。コフートは、共感することによってクライエントを支え、精神的成長を促し、パーソナリティ障害を治療しようと試みた。周囲の人間が広い心で彼らを支えてやることで、案外彼らのパーソナリティをいい方向へと導いてやることも不可能ではないのかもしれない。

 しかし、企業の自己愛性ブラック化が進行し、既に鬱病による休業や、或いは過労死、過労自殺などが生じているという場合には、結局、排除するという選択肢も必要になるかもしれない。そうした場合では、前章を参考にして頂くことになるであろう。下の立場の自己愛性ブラックを排除するのは、上の人間よりは容易かもしれない。しかし、その場合でも、充分に準備をして事にあたろう。下手をすると、こちらがブラック扱いされかねないので、その点だけは注意した方がいいだろう。


 自己愛性ブラックを自社から追い出したとしても、救急患者の如くにたらい廻しにするだけでは意味がない。もしかしたら、あなたの知り合いや、或いは子供たちが、次の自己愛性ブラックの養分となってしまうかもしれない。社会からブラック労働を根絶するためには、結局のところ、どこかで誰かが引き受ける必要もあるのかもしれない。しかし、そのような重責を自ら担おうという奇特な経営者は、流石に存在しないであろう。今後、彼らをどのように扱っていくべきか、健全で安全な労働環境を取り戻すために、社会全体で考えていく必要があるだろう。


ブラック労働と経済学


 経済学と言っても、筆者は完全なる素人である(そもそも精神科医でもない)。大学で講義を取った記憶はあるが、授業にはあまり出席しておらず、単位を取得したかどうかも最早覚えていない。よってこの項に関しては、素人が感じた素朴な疑問程度に思って読んで頂ければ幸いである。

 本書を執筆するにあたっては、ブラック企業関連の書籍を多数読ませて頂いた。

 それらの書籍の著者は、今野晴貴氏を始めとする、POSSE関係者の方々が何と半数以上を占めている。その他は、労働問題専門の弁護士さん、そしてジャーナリストやライターさんといったところである。

 ここで、一つ不思議なことに気付く。

 経済学や経営学などを専門とする、大学教授やエコノミストによる著作がない。

 考えてみれば、これはおかしな話である。

 人類の歴史とは、まさにブラック労働の歴史なのだ。

 記録上で最古のストライキは、古代エジプト第二十王朝まで遡る。ラムセス三世の統治下で、ファラオの墓の建設に従事していたユダヤ人奴隷が、神殿まで行進して、座り込みを敢行したという。

 新大陸では、インディオが銀鉱で酷使されて、水銀中毒で命を落とした。

 北米大陸には、アフリカ大陸から、千四百万人以上の奴隷が『輸入』された。大西洋上で命を落とした奴隷は、七千万人とも言われる。

 産業革命の勃発と、近代的資本主義の成立後も、世界中で労働者たちはブラック労働を強制され、反乱を起こしてきた。

 十九世紀イギリスの産業革命期においては、劣悪な労働環境により、労働者たちがストライキを頻発させた。

 『あゝ野麦峠』に描かれた、製糸工場の女工たち。

 新大陸において、大陸横断鉄道を建設したのは、低賃金で酷使される中国人移民たちであった。

 二つの世界大戦を経て、アジアやアフリカ諸国が独立しても、世界中でブラック労働は続いている。

 ロスアンゼルスの縫製工場(スウェットショップ)で、劣悪な条件でこき使われる不法移民たち。

 アパルトヘイト下の南アフリカの金鉱では、黒人労働者たちが、白人労働者の十七分の一の給料で、過酷かつ危険な採掘労働に従事していた。

 バングラディシュでは、縫製工場が倒壊して、千名以上の労働者が犠牲になった。

 アフリカやアジアでの話が、何故我が国に関係があるのか、と言われるかもしれない。

 しかし、言わずもがな、我が国は資源の六割を輸入に頼っている。自動車部品の原材料の金属は、アフリカの鉱山でブラック労働によって採掘されたものかもしれない。そうして製造した工業製品を、世界中に輸出している。国内で製造した乗用車が、シリアにおいて、ジャーナリストの人質の搬送に使用されたり、ロケット砲を搭載され、ちょっといかした戦闘車両となったりしているかもしれない。

 或いは、あなたは毎朝、職場の前のコンビニで、コーヒーを買うかもしれない。

 しかしそのコーヒー豆は、アフリカの農園で、児童による搾取労働で収穫されたものかもしれない。

 彼らの家では、コーヒー豆価格の暴落により学費が払えず、子供たちが高校退学を余儀なくされているかもしれない。

 コンビニそのもののブラックネスは、最早我が国の新常識であろう。

 配送トラックのドライバーは、GPSで監視されながら、元々無理のある配送スケジュールをこなすべく、サービス残業をして県道を突っ走っているかもしれない。

 真夜中に店に辿り着けば、重たいコーヒー缶の積み下ろしにより、腰を痛めているかもしれない。

 慢性的な睡眠不足のため、交差点をうとうとしながら通り過ぎ、あわててUターンしようとして、プロのレーシングライダーが運転するバイクをはね飛ばし、死亡させてしまうかもしれない。

 フランチャイズのオーナーは、ただでさえアルバイトが不足し、更に大学生のバイト君が、バーベキューでレアの豚バラ肉を喰いすぎて入院して休んだため、三十六時間連続勤務を強いられているかもしれない。

 借金は一向に返済出来ずに、更に店の筋向いに直営店が出来たため、売り上げが低下し、スーパーバイザーのクソ野郎が来店する日に、店でハングアップしてやろうかと本気で考えているかもしれない。

 レジのアルバイトは、シフトの穴を埋めるために、大学の講義を休んで仕事をする羽目になっているかもしれない。

 節分には、喰いにくい恵方巻を自腹で購入させられているかもしれないし、クリスマスには、本部が押し付けてきた仕入れノルマにより余ったクリスマスケーキを、バイザーのクソ野郎の顔に投げつけてやろうと、本気で考えるかもしれない。

 しかし、そうしたことは、経済学や経営学では俎上に載せられることはない。

 経営学では、需要と供給がどうとか、マーケティングがどうとか、ドミナント戦略がいかに優れているかとか、新鮮で安全な商品を欠品なく豊富に揃えるために、如何に配送のスケジュールを緻密に組んでいるかとか、アルバイトやパートにも発注をさせて、如何に怠惰な時給労働者どもの仕事のモチベーションを高めているかとか、いかに安価で美味しいコーヒー豆を調達してブレンドして焙煎しているかとか、有名デザイナーによるコーヒーマシンのデザインがいかにクールで使いやすいかとか、そういったことが賞賛されるだけだ。

 つまり、我々の経済自体がいずれかの過程で、また何らかの形で、ブラックな労働に依存し左右されているかもしれないのに、そういった点に関する考察が、近代の経済学や経営学においてほとんどなされていない、という事実には驚くばかりである。


 そもそも、企業は何故、ブラック化するのか。

 低賃金、長時間労働で従業員を酷使することの経営学的メリットは、経済に対する影響は,鬱病休業による経済的損失は、ブラック企業の烙印を押された企業の末路は、そういったことが、現代の経済学や経営学において充分に研究されているとは言い難い。

 元々はマルクスが、『資本論』において、そういった資本主義経済のダークサイドに踏み込んだはずであったが、後世の愚かな人間どもはイデオロギー闘争に明け暮れ、左右東西陣営にかかわらず、哀れな労働者どもの立場が顧みられることは、ついぞなかった。『資本家vs(or)労働者』ではなく、より俯瞰した、建設的な議論によって、共存共栄の道を探ればいいと思うのだが、利己的な上級国民どもや、視野の狭いイデオロジスト、或いはイデオロギーバカどもには荷が重いのであろう。


 ミクロ経済学の、労働供給の項目においては、『余暇』という概念が登場する。

 時間は誰に対しても平等で、資産や能力に関係なく、一日二十四時間、週に百六十八時間しかない。

 その限られた時間で、労働者は、余暇と労働によって得られる給料の最適な組み合わせを決定するとされている。給料以外の収入がある、または消費の必要がないとなれば、余暇を増やし、労働時間を減らす。逆に消費をしたい、或いはする必要がある場合には、余暇を減らし、労働時間を増やして給料を増やす必要がある。

 これが所得・余暇選好モデルと呼ばれるものである。詳細な図や式は、専門書やネットなどを参照されたい。

 しかし、ここでは余暇が、消費と関連付けられている訳ではない。

 『余暇』の経済学上の定義は、仕事および労働の再生産に必要な睡眠、食事、休息などの時間を除いた、自由な時間とされている。

 消費と結びつけられているのは、労働の方である。

 それも当然と言えば当然で、お金がなければ消費も出来ない。収入を得るには、余程の金持ちでなければ、あくせくと働くしかない。このように経済学では、消費を促すのは労働ということになっている。つまり、楽しみたけりゃまず働けということだ。

 しかし収入があっても、そのお金を使う暇が無ければ消費も出来ない。

 バブル時代には、『仕事が忙しくて、お金使う暇が無いんだよね』との、自虐とも自慢とも取れる冗談をよく聞いた。かつて、まだブラック企業なる概念がなかった、長閑な時代の話だ。

 一般人にとっては余暇とは、買い物をしたり、レストランで食事をしたり、テーマパークに行ったりして、消費をする時間として認識されていることであろう。

 そしてこれは一般人のみならず、政府にとっても同様らしい。

 平成十年版労働白書においては、労働時間の短縮により消費支出が増大するとされる研究結果が掲載されている。そして支出のみならず、労働生産性も若干だが上昇しているという。

 その後、平成十六年版では、更に詳細な研究が行われている。

 たまに、政府が休日を増やすので経済効果が幾らありますよ、といったニュースがお茶の間にも流れるが、そうした政策は、こうした研究結果に基づいたものである。

 確かに、休暇を取れば旅行用のカバンも売れるし、100エーカーの森で、ぬいぐるみみたいなクマさんと葉っぱを吸ったり、乱交パーティをしたり出来る。

 ディズニーランドで、きぐる、ああいやいや、最高にキュートで可愛いミッキーマウスとかドナルドダックに群がる人々は、何も仕事でやっている訳ではないのだ。彼らは自身の時間と収入を使って、余暇を楽しんでいるのだ。海外から日本へとやってきて、化粧品やオムツに群がったり、浅草寺で写真を撮る外国人観光客たちも、休暇を利用しているのである。

 余暇が無ければ、テーマパークも、アウトレットモールも、そして居酒屋だって軒並み潰れてしまうかもしれない。

 余暇の消費(時間とお金の両方)がさも悪いことであるかのように言っておきながら、余暇をビジネスにしているのは、大いに矛盾がある。誰とは言わないが。

 同じ給料でも、余暇があれば消費に回すかもしれないし、残業ばかりであれば、使わずに貯蓄に回すかもしれない。年収が同じ五百万円であっても、余暇の時間により、消費行動と金額には大きな差がでるはずだ。

 しかし経済学では、どちらも同じ年収五百万円としか扱われない。

 休日が日曜日だけで、それもほとんど曇っているとなると、高価なカメラとレンズを揃える意味もない。将来のために貯蓄した方がマシということになる。

 そもそも、バブル時代ならいざ知らず、このブラック企業時代においては、月八十時間残業しても、使う金すら残されていないという事態となっている。

 現在、若者の四割が非正規社員と言われている。

 正社員の場合は、八時間労働であっても休憩が一時間入る。

 非正規の場合、実働八時間(或いは七.七五時間)であっても、拘束は九時間というケースが多い。

 元々時給が安く、収入が少ないうえに、毎日一時間ずつ無収入で消費も出来ない時間が存在するのだ。

 毎日九時から勤務でも、終了は六時である。

 この状態では、毎晩三時間を費やしてプロ野球を観ることすら不可能である。

 最近は、若者の何とか離れということがよく言われる。

 しかし金もなく、遊びに出かける時間すら碌にないとなったら、速いスポーツカーも、高性能のカメラも、おしゃれなジャケットも必要ない。

 服はファストファッション、ランチはワンコインの牛丼、少ない休日には、定額制のネット回線を介して、部屋でYouTubeでも観ていた方がマシだ。

 自動車部品工場で働いていた日系人非正規社員たちは、皆結婚して家庭を築いていた。

 しかし、日本人男性の非正規社員が結婚することは、普通はためらうであろう。

 彼らは生涯独身で、家も買わず、中古の軽自動車に乗り、家具も売れず、家具屋の二代目がファンドに騙され会社を潰し、自動車会社の社長が、若者が車に乗らないと嘆く。そんなもの当然だ。高価なスポーツカーを無理して買ったところで、休日がなければドライブに出かける暇すらないし、高速道路を突っ走っていれば、煽り運転に遭遇してトレーラーに追突されてしまうかもしれない。まず、自社工場の非正規工員たちにアンケートでも取るべきだろう。

 これで、消費需要を喚起して、経済を浮揚させようと言われたところで、出来る訳がない。

 こうした状況を、政府や経団連の偉い方たちは、どう考えているのであろうか。

 生産性を上げて人件費を抑制するために、労働時間を無制限にしよう、移民を入れよう。

 この程度のアイデアは、誰でも思い付く。

 経団連のお仕事は、時給九百円の『誰でもできるおしごと』なのか。彼らは一体、幾ら貰っているのだろうか。


 家計の労働供給曲線は、労働供給量と賃金率の関係を表した曲線である。そこでは、賃金率が増えると、労働供給量も増えるが、賃金率がある一点を越えると、労働供給量も減ってしまう。ひらがなの『く』の字を逆にしたような曲線が描かれる。賃金率、つまり時給が高ければ休みを増やしても問題ないし、低ければ低いで、長時間労働しても仕方ない、という感じだ。

 現在の日本社会は、深刻な人手不足に陥っているらしい。同時に、格差社会とも言われている。

 この家計の労働曲線に従って考えると、二極化が進むと、労働供給量が減ることになる。賃金率が曲線の下と上に集中しており、労働供給量の方も、ゼロに近い位置に偏っているような状態なのではないだろうか。労働供給量を増やしたければ、所得を最適な点に、上下にシフトさせればいいような気がするのだが、これは素人考えなのであろうか。

 所得・余暇選好モデルにしても、家計の労働供給曲線にしても、自己愛性ブラックの場合は、所得に関係なく、労働時間を限界まで増やそうとするであろう。どういう曲線になるか考えてみるのも一興ではないだろうか。

 やや、というかかなり古いが引用させて頂く。


『こうして勤労大衆は生産労働において搾取されるのみならず、自由時間〈余暇〉においても収奪される。~中略~この意味で、個性の自由な伸展としても余暇活動の充実のためには、個人自治の思想的成熟、制度的保証とともに、その前提をつくる活動としてのサークルや自発組織による自由時間の自主管理ならびにそのためのシビル・ミニマムの整備などにとりくむ必要があるし、同時にこの余暇が体制問題へとつらなっていることを理解する必要があろう。』

『経済学辞典 第二版』岩波書店(1979)


 このお堅い考え方は恐らく、マルクス主義に影響されているのであろう。

 どうも、マルキシズムと新自由主義は似た者同士に思えなくもない。


 経済学には、労働経済学という一分野が存在している。これは労働市場の動きを経済学の視点から研究する学問であるとされている。

 しかし、最新のテキストをめくってみても、賃金と労働時間の関係を考察する理論が存在しているが、そもそもの問題として、賃金が適正に支払われていない、労働時間が適正に管理されていないというブラック労働は想定されていない。賃金と労働時間は、リンゴと同様に市場によって決まるとされているので、低賃金と長時間労働もその結果でしかないと言われればそれまでなのかもしれない。

 よって、長時間労働をどう是正するか、という議論もなされることはない。

 長時間労働の弊害は、至る所で様々な指摘がなされている。しかし経済学的にみて、低賃金、長時間労働が悪なのか、それとも企業経営や国の経済にとってはメリットのあることなのか、ブラック労働市場は単なる市場の『見えざる手』の結果なのか、市場の失敗の結果なのか、経済学とはそもそも誰のための学問なのか、そういった点が俎上に載ることはほとんどない。

 ブラック企業というワード自体がまだ最近のものなので、もしかしたら中には、現在進行形で研究中の研究者の方もおられるのかもしれない。今後の研究に期待したいところではある。


 ミクロ経済学においては、行動主体が合理的かつ超利己的で、そのような行動を取ることにより、効用を最大化しているということを前提としている。

 ではブラック企業の行動はどうだろうか。

 超利己的なことは間違いないとして、彼らの行動は、果たして合理的と言えるのだろうか。

 労働力を増やすことなく、人件費を極限まで抑制したままで、生産量だけ増やして利潤を上げようとするのは、確かに合理的と言えなくもない。

 現在の日本なら、摘発や訴訟のリスクも、それほど気にする必要はないのであろう。

 しかしこれは、ヤクザ型のみに当てはまる。自己愛性ブラックはと言うと、そもそも自分たちのブラック労働が悪いことだとは思っていないので、リスクの評価も出来ない。同様に、彼らは自分たちが利己的だとも思っていない。従業員を自殺まで追い込んだとしても、世のため人のため、或いは世界平和のためにやっているとさえ思っている。最早、利益のためですらないかもしれない。

 こうした連中の行動を、経済学において果たしてどのように分析していけばいいのであろうか。

 従来の経済学では図れない、そうした非合理的な行動主体を想定して、心理学や認知科学を取り入れたのが、行動経済学である。

 しかし一口に行動経済学と言っても、その研究領域は多岐に渡る。

 ノーベル経済学賞受賞者のベッカー教授らは、『合理的中毒性(rational addiction』と呼ばれる理論を提唱している。麻薬や煙草の消費者は、中毒性やデメリットを便益が上回る、という合理的判断の元で、それらを摂取しているとしている。

 その一方で、グルーバー教授らの調査では、煙草への課税による価格の上昇によって、消費者の満足度が向上したという調査結果が出ている。経済的に合理的な判断をしているのであれば、価格の上昇、つまり効用の低下によって満足するというのは明らかに矛盾する。結局のところ彼らは、自己制御(self control)に問題があり、『やめたくてもやめられない』中毒状態、ジャンキーという訳である。

 実際のところ、自己愛性ブラックの脳内では、麻薬と同じような機序でブラック労働に快楽を感じるようになっているのかもしれない。

 ヤクザ型であれば、検挙や訴訟のリスクで効用が低下すれば、合理的な判断として、ブラック企業からは足を洗うか、より手口を巧妙化させるかもしれない。

 自己愛性ブラックの場合は、そうしたリスクに直面すると、逆上して、問題を更に悪化させるかもしれない。最早、合理性も効用もへったくれもない。彼らは独自のルールの中に生きており、常識的な合理性の判断など通用しないだろう。

 そうなると、『効用の低下』だけでは、解決が難しいことになる。事実、これだけ批判が巻き起こり、取り締まりも強化されているというのに、未だにブラック企業が根絶される気配はない。

 ブラック企業と宗教の類似性はよく指摘されるところであるが、もしかしたら経済学よりも、宗教学サイドから分析した方が、より理解しやすいのかもしれない。


 行動経済学においては、『自信過剰(overconfidence)』の問題についても研究されている。

 投資に関しては、第二十三章にて引用した通りであるが、これは起業についても当てはまる。

 彼らは自身の能力を過大評価し、反対にリスクを過小評価して、状況に左右されずに、自分だけは望む通りの結果を出せると思い込んでいる。

 その結果、ベンチャー企業も投資家もほんの極一部を除いて、数年以内には退場を余儀なくされているという。

 そう言えば第二の男も、かつて起業して失敗したと語っていたし、成見も個人経営で産廃業をやっているらしい。

 自信過剰=自己愛性PDという訳でもないが、無関係とも言い切れない。データがある訳ではないが、彼らの中には、その要件に合致する者も多数いることであろう。

 自信満々でビジネスを始めたはいいが、上手くいかず、結果としてブラック化しているブラック企業も多いに違いない。

 そもそも資本主義自体が、人間の自己愛的な欲望をベースとして成立したシステムと言える。

 消費への欲求は、自己愛を満たすためのものである。

 ブランドもののベビーカーで、近所の奥様たちにマウンティングをしたり、バベルの塔のようなタワマンで下の階の住人に嫌味を言ったり、ブラックカードをこれみよがしに見せびらかしたり、ミシュラン掲載のレストランで食事したり、外資の高級ホテルで東京の夜景を眺めながらジャグジーに浸かり、ルームサービスのシャンパンを飲んで悦に入ったり、そうした優越感を味わうために、過剰な消費が促される。

 そしてビジネスでは、会社だろうと個人だろうと、自由競争の名の元に、ライバルを蹴落としてでも勝ち抜くことが求められる。一等賞を獲って賞賛を浴びることが、自己愛的(ナル)な野郎どもの存在理由となっていることは、既に何度も述べた。

 本来は不必要な消費も、公正な競争も、資本主義と経済成長のためには必要なこととされている。

 しかし、それが自身の支払い能力、或いは信用能力を超えてしまうと、後に残るのは負債だけということになってしまう。

 またまた『自己愛過剰社会』から引用しよう。


『二〇〇八年の経済破綻は、根本的に自信過剰と強欲というナルシシズムの二大症状によるところが大きい。高金利の魅力に目がくらんだ貸し手は自信過剰から借り手が払いきれないほどの高額な住宅ローン契約を結ぶというリスクを負い、借り手は自信過剰からそのような物件をローンで買った。』

ジーン・M・トウェンギ/W・キース・キャンベル『自己愛過剰社会』桃井緑美子訳

河出書房新社(2011)


 心理学や行動経済学におけるこうした研究は、以前から行われてはいたらしい。しかし、我が国のバブル破綻にしても、サブプライムローン破綻にしても、その最中において彼らからの警告の声は、市場の狂騒にかき消されて聞こえなかったようだ。


 経済学においては、如何に雇用を確保して失業を減らすかということが至上命題とされている。

 よって仕事にありつけることが優先され、その仕事の質は問われない傾向にある。仕事がないよりはブラック労働の方がマシだろう、黙って残業しとけ、と言ったところだろう。

 そして、企業が利益を上げて存続しなければ、社員を雇うことも給料を払うことも出来ない、すなわち、企業の利益こそが社員の利益であるとされていた。

 そのため、社員は会社に忠誠を尽くし、どのような理不尽な命令でも受け入れて、会社のために死ぬ気で働くことが正しいことだとされてきた。

 ところが、終身雇用は崩壊し、会社に幾ら尽くしたところで、経営がヤバくなればリストラされるという状況となっている。今では、ピンチの時こそ会社のために頑張ろう、とはならなくなっている。

 そもそも、我が国の経済自体が成熟期を迎え、成長の余地はほとんど残されていない。

 人口は減少し、消費は落ち込み、市場は縮小し、工場は海外に移転し、技術までもが海外に流出し、老人が増え、社会保障負担が激増し、給料は減り、労働時間だけが増加する。

 最早、我が国の経済は、ブラック企業に依存しなければ存続することすら出来ないのであろうか。

 しかし、先にも述べたように、時代や地域に関係なく、ブラック労働は遥か昔から存在し続けている。

 我が国においては、バブル経済期から過労死が社会問題化していた。当時は、壮絶な地上げやリゾート開発による環境破壊なども問題となった。

 学校の社会科では、誰もが我が国の公害について学習するはずだ。

 古くは足尾鉱山鉱毒事件に始まり、高度経済成長期における四大公害では、日本全国で多数の被害者を出した。

 公正な競争の結果ということであればいざ知らずとして、経済成長期であれば、自身の利益を追求するために誰かを犠牲にするという行為は、本来は必要ないはずである。

 ところが高度経済成長期から、我が国では既にこのような状態であった。

 どうもブラック企業というのは、現在のような、成長なき成熟期だけの産物という訳でもないらしい。

 経済学の父と言われるアダム・スミスは、人間の利己心が他者の自愛心に働きかけることによって分業が促され、自然と生産力が高まり、経済が発展するとしている。所謂、市場の『見えざる手』である。

 消費にしても、経営にしても、他者を出し抜き、成果を誇示して見せびらかすことが出来なければ、自身の存在に自信が持てないというナルシシズムそのものが原動力となっているとすると、行き着く先は、結局ブラック企業ということになるのかもしれない。

 もし資本主義自体が、ブラック労働を前提として存在しているシステムだとすれば、我々は今後、どのように生きていけばいいのであろうか。

 ブラック経営者の奴隷に甘んじて、ブラック労働を受け入れるか、奴隷使いとなり、奴隷を使い潰す立場になるか、或いは第三の道を選択して、そこから立ち去るのか。立ち去るにしても、我々はどこへ行けばいいのか。

 経済学は科学だと言われる。

 しかし、科学にも限界はある。

 例えば天気予報の場合、一昔前なら、天気予報で晴れると言っていたのに、夕方になって雨が降ってきた、といったことは日常茶飯事だった。

 地震にしても同様で、阪神淡路大震災、三一一に熊本大地震などなど、事前に予測も警告もなかった。

 近年は気象衛星やスーパーコンピューターなどによって、天気予報の精度は、随分と向上してきた。

 地震の警報が、揺れる直前に発せられるようになってきたのは、つい最近のことである

 しかし、台風の進路を変えるとか、日照り続きなので雨を降らそうとか、地震そのものを無くそうとか、そういったことは、これだけ科学技術が発達しても未だに不可能である。

 経済学においても、同様のことが言えるのではないだろうか。

 経済予測に関しては未だに、一昔前の天気予報並みの精度しかないと考えるべきであろう。

 特に、国の経済政策に関与する人々は、雨乞いの儀式を行う巫女のようなものだと心得るべきだ。

 どうも彼らは、天候自体を自分たちでコントロール出来るとでも思っているようだ。

 そりゃ天候と違って、人間のやることなら、ある程度のコントロールは可能であろう。

 しかしそれも、正確なデータを収集し、現状を正確に把握分析出来ていればの話だ。

 特に人間のやることなら、愚かな人間どもが何を考えているのか知るところから始めなくてはならない。

 今の経済学者やエコノミストらがやっているのは、目の前で雨が降っているのに、古い計器で雨が観測されていないからといって、晴れているはずだと強弁しているようなものであろう。

 そもそも、地球の気候自体が変わってしまったことに、未だ気付いていないかのようである。

 せいぜい一般庶民は、突然の雨に備えて傘を持ち歩き、有事に備えて余計な消費をせずに、せこせこと金を溜め込み、地震が来たら机の下にでも飛び込むしかない。

 末端の労働者の給料も上げることが出来ないのであれば、彼らの存在意義などどこにもない。自己責任論とか成果主義を振りかざして弱者を蔑ろにして切り捨てるだけなら、ブラック経営者と大して変わらない。『誰でもできるおしごと』以下だ。自己愛性ブラックの前に、彼らの精神分析もした方がいいのかもしれない。

 成長を求めるのもいいが、成長なき時代でも、誰もが食っていけるという状態を目指す、発想の転換も必要であろう。

 大企業や経団連など、上から目線の経済政策自体が、その根底にナルシシズムを感じさせるものだ。そうなると、末端の労働者やシングルマザー、ネットカフェで暮らす日雇い派遣労働者など、弱者の立場を全く顧みることが出来ないのも頷ける話だ。

 物価上昇率二%を目標とするのもいいが、例えばワーキング・プア比率の低下とか、シングルマザーの所得倍増とか、そうしたことを同時に目標とは出来ないのか。

 まあ実行は困難だとしても、政府や経済学者らが、そういった人々の存在を憂慮しているという姿勢が全く見えないことに、憂慮の念を感じざるを得ないものである。

 経済政策において実験は不可能と言われてはいるが、どうせ綿密に計画を立てたところで上手くいきゃあしないんだから、ちょっと実験してみるのもいいのではないだろうか。余程極端なことをやらなければ、ジンバブエのようになることも考えにくい。

 事実、イギリスでは、当時の労働党政権が最低賃金を引き上げたが、当初懸念されていたような失業率の上昇も、経済への悪影響も起きなかった。

 経団連に三%の賃上げを要求するよりは、手っ取り早いのではないだろうか。

 今後は経済学、或いは経営学サイドからの、ブラック企業の研究がより求められるであろう。

 経営の失敗や破綻に関しても、財務データのみならず、経営者や社員のマインドも研究することで、きっと今後の役に立つに違いない。

 そして心理学サイドでの、ナルシシズム研究においても、ブラック労働やパワハラといった類のものだけでなく、資本主義の成り立ちそのものといったテーマの研究も期待したい。

 ナルシシズムを前提としているのに、ナルシシズムの要素から経済を分析するというのも本末転倒に思えるが、今後の資本主義と人類の未来を占う上で、或いは牛丼を食べずに世界から貧困を根絶し、世界平和を実現する上でも、今最も必要とされている観点の研究ではないかと思われる。

 分析の結果、従業員を使い潰してでも、企業が利益を上げて存続していくことに、経済的合理性があるという結論が出たとしても、それはそれで構わない。

 それなら大麻やシャブ、武器売買や臓器売買、或いは人身売買も解禁するとしようではないか。いや、人身売買は既に半分くらいは解禁済みだな。

 そして、せいぜい末端の奴隷労働者たちも、合理的な行動を取るとしよう。武器を手にして、ブラック経営者を血祭りに上げるくらいは許されるに違いない。

 そうした弱肉強食でヒャッハーな世紀末ワールドになってこそ初めて、真の新自由主義経済国家が実現したと言えるのではないだろうか。

 資本主義自体が、ナルシシズムをベースとした自己愛性ブラックであれば、労働者がブラック化するのも悪いことではないはずだ。

 冗談を抜きにしても、現在の無能な経営者やエコノミストがやりたい放題なのも、労働者に力がない、或いは力を行使しようとしないことが、大きな原因の一つではないかと思われる。

 企業や政府にプレッシャーをかけることは、決して悪いことではない。むしろ、どんどん要求をするべきである。そうした危機感や緊張感があってこそ、経営も政治も正しい方向へと進むことが出来るのである。


提言


 これまで、個人、或いは企業レベルでの自己愛性ブラックへの対応を考えてきた。

 ここでは、社会や政策レベルで、思い付いたことを二三書いておこうと思う。

 まずは、自己愛性パーソナリティ障害を始めとする、パーソナリティ障害に関することである。

 パーソナリティ障害のみならず、ストーカーなどにおいても、自己愛だけではなく、私が名付けたところの分離不全の概念が役に立つのではないかということは、これまでも散々繰り返してきた。

 自己愛性PDの一般的なイメージは、自己愛の強い人間が、自分は他人とは違って特別で、一段高い所に位置しており、他人を顧みることなく、傲慢で尊大に振る舞っているといったものであろう。

 しかし、今までみてきたように、彼らを特別で傲慢にしているのは、『他人とは違う』、ではなく、『みんなと一緒だよ』といった一体感、おトモダチ感や安心感なのではないだろうか。

 すなわち『アイム・トゥー・セクシー』『アイム・ジ・オンリー・ワン』ではなく、

『ウィ・アー・ザ・ワー、ウィ・アー・ザ・チルドレーン、ウォウウォウイエイイエイイエイ(シンディ・ローパー)、ジャラジャラうるさいよ』の方なのではないだろうか。

 そして、誇大感や自己愛の大きさといった感覚は、私が名付けたところの分離不全の度合いによっても左右されるのではないだろうか。

 これはある意味で、今までのイメージとは、完全に逆ということになる。

 実際のところ、プロの精神科医の皆さんが、自己愛性PDをどのように理解しているのか、私にはわからない。『そんなこと、素人のお前如きに言われなくてもわかってるよ』ということであればどうでもいいが、少なくとも初心者向けのテキストには、あまり言及されていないので、この点は改善の余地があるかもしれない。

 そして、治療者や患者本人にとっては大した問題とならなくても、自己愛性ブラックの被害者にとっては、まさにその他者との未分化な一体感、私が名付けたところの分離不全こそが、諸悪の根源、深刻なブラック化の原因ということになってしまう。

 私は自己愛性PDではないので、この際名称は何でもいいのだが、分離不全、分離障害、境界線形成不全、一体感過剰、おトモダチ感過剰、ウィアーザワールド症候群などなど、乳幼児期における分離―個体化の失敗により、他者との一体感を感じたままの状態といった観点から、もう一度、人間の精神について捉え直すことを検討した方がいいのではないかと思う次第である。

 マスターソンの場合は、自己愛性PDの精神内界構造において、自己表象と対象表象が結び付いているというモデルを既に提唱している。しかし、その点には、あまり重点を置いていないように思える。

 心理学では、転移、同一化、同一視、一体化、自己中心性などなど、似たような概念がたくさんあるようだが、これらは最初から一体感を感じたまま、という状態という訳でもない。ゼロの状態から、いきなり境界線を乗り越えてくるイメージなのであろうが、最初から境界線が無いというイメージとは、ニュアンスがやや異なっている。こうした状態をひっくるめて、一次的ナルシシズム、幼児的な自己愛や誇大感といった表現が使用されているのかもしれないが、それらとはまた分けて、その部分だけを独立して考えた方が、自己愛性PDやストーカーの行動を理解しやすいのではないか、ということは、既に何度も述べた。恐らく、DVなどにも適用可能であろう。

 現在、自己愛については、世界中で様々な研究が行われており、自己愛の強さを図る尺度や測定法が、多数考案されている状況にある。自己愛同様に、私が命名したところの分離不全度についても、自己愛という概念から独立して、その強度や状態がより具体的に計測出来るようになれば、パーソナリティ障害のみならず、ストーカーの治療やその他の精神疾患の研究、治療にも役立つのではないかと期待するものである。

 もし、余程の暇か、或いは論文のネタに困った研究者の方がおられれば、一度トライしてみるのも一興であろう。ただし、学会や世間の笑いものになったとしても、私に一切の責任がないことだけは、ここに明記しておく。あくまで自己責任でどうぞ。

 もし浅はかな素人考えだったとしても、少なくとも同じく素人の一般の方々が、一つの考え方、或いは見方として、自己愛性PDやブラック野郎を理解するのに役に立つのであれば、それで充分であろう。


 提言の二番目は、ブラック企業の取り締まり、および摘発強化である。

 我が国においては、企業の存続こそが、社員の生存のために必要不可欠であるという企業ファーストの精神が根強い。

 しかし、終身雇用が崩壊し、いつ首を切られてもおかしくないという状況で、企業だけを守ることにどれだけの意味があるのであろうか。

 ブラック企業問題にしても、会社が潰れたら社員が困るではないか、という意見もある。

 しかし、これは全くの逆である。

 ブラック労働に頼らないと経営を維持出来ないような無能な経営者たちは、弱肉強食の市場原理に従って、じゃんじゃん退場してもらうべきであろう。

 そもそも我が国では、超絶人口減少中である。

 労働人口が減っているのであれば、企業数も減らすのが筋というものだ。

 この点については、デービッド・アトキンソン氏の『新・生産性立国論 人口減少で「経済の常識」が根本から変わった』に詳しい。


『人口増を反映して増えてきた企業数も、人口が減るのに比例して大幅に減らないと、企業の規模は更に縮小し、もっと非効率的になって生産性が悪化してしまいます。ITなどの負担の増加を考えれば、当然1社あたりの就業者数を増やし、規模の経済を追求させなくてはいけません。』

デービッド・アトキンソン『新・生産性立国論 人口減少で「経済の常識」が根本から変わった』東洋経済新報社(2018)


 安倍政権は、二〇一八年六月に成立した『働き方改革』法案の『高度プロフェッショナル制度』によって、労働者の生産性を上げることが出来ると自画自賛している。

 しかし、生産性をアップさせたいのであれば、末端の労働者のみならず、より大局的な視点に立って考えてみるべきであろう。

 産業全体、或いは日本経済全体における効率アップ、生産性上昇も考えるべき時ではないだろうか。

 社員数においても同様だが、経営者が多くなればなる程、彼らの質や能力の平均値は低下するであろう。先にも述べたように、起業する者には、ナルシシストが多いと思われる。というより、そもそも自信が無ければ起業しようなどとは思わないのであろう。自身の能力を過信した自己愛性ブラック経営者には、退場してもらうのが、生産性アップの早道なのだ。

 また我が国においては、下請けの多重構造も問題となっている。特にIT系や建設業で著しいことが知られている。福島第一原発の復旧作業においては、十次請けまで存在しているとも言われている。

 間に入っている悪徳ピンハネ企業を潰して、高給を取っている経営者たちにも、防護服を着て作業してもらえば、超絶単純計算で八人の労働者が増え、余った報酬は、他の労働者たちに分配出来ることになる。労働力不足と低賃金を解消出来る、まさに一石二鳥のアイデアだ。会社を統合すれば、スケールメリットを生かして、より効率的な経営も可能になるだろう。

 勿論、善良で心意気のある中小下請け企業経営者もたくさんいることであろう。元請けや大手企業のピンハネやダンピングで、経営を維持するために、泣く泣くブラック化している企業の方が多いのかもしれない。

 そうした、実は優秀な経営者たちにとっては、真のブラック経営者を市場から放逐して、自身の会社の規模を拡大させるチャンスともなるであろう。

 しかしピンハネ、無能というだけで、摘発や検挙をする訳にもいかない。そもそもピンハネ自体、何らかの規制をするべきだと思うのだが、現行法ではどうにもならないようだ。

 前掲の『新・生産性立国論』では、二〇六〇年までに、企業数を半減する必要があるとしている。ちょっとやそっとのことでは、そこまでの規模で企業の淘汰を実現することは困難であろう。

 では、彼らを効率的に退場させるには、一体どうすればいいのであろうか。そこで、テレテレッテレー、労基署の出番である。

 労働基準局の規模を拡大し、労働関係法違反を厳罰化、ついでに武器携帯も可能にして、不必要と思われる企業は片っ端から検挙、ぶっ潰していけばいいのだ。

 一時間分の残業代不払いでも検挙、パワハラも即逮捕、あちらこちらで、ブラック経営者と労基署のエージェントとの間で銃撃戦が繰り広げられる、エキサイティングなディストピア社会が実現されるであろう。

 自分とこの労働者を食い潰して、不当な利益を得るしか能のない悪徳ブラック経営者どもを一掃し、彼らがヒラの社員として働くようになれば、多少は人材不足も解消される。彼らが不当に得ていた利益が、他の真っ当な労働者に回るようになれば、労働者の給料は上がり、余暇も増え、その分が消費に回り、内需が喚起され、アホノミ、いやアベノミクスにおいてついに達成出来なかった、物価上昇率二%も、達成出来る日が来ないとも限らない。

 ブラック労働撲滅こそが、日本経済復活の切り札かもしれない可能性もなくはないであろうと思われる。


 提言の三番目は、自己愛性ブラックの処遇に関するものである。

 先にも述べたように、ブラック企業の取り締まりは強化するべきである。しかし、ヤクザ型と無能型に対してはともかくとして、自己愛性ブラックに対しては、摘発のリスクは通用しない可能性もある。

 自己愛性ブラックは、ブラック労働に対して罪悪感がない。むしろ、自分達が正しいことをしているとさえ思っている。

 例え自己愛性ブラック経営者を摘発したとしても、またどこかで繰り返す可能性が高い。

 そもそも、自己愛性ブラックを改心させるのは、かなり困難であると思った方がいい。やるとしても、大変な時間と労力がかかる。現実的には不可能であろう。

 だからと言って、収容所に送ることも出来ないし、殺処分する訳にもいかない。よくよく考えてみると、労働と仲間が必要なのであれば、収容所送りにして強制労働に従事させるのも悪くないアイデアだとは思うが、進歩的な現代人の我々が、二十一世紀にもなって、そのような北朝鮮とか旧ソ連のようなことをやる訳にもいかないであろう。

 そうなると結局、良識ある人類は、自己愛性ブラックと共存共栄する道を選択するしかない。

 しかし、自己愛性ブラックが一人でもいると、その企業がブラック化することを防ぐのは、大変な手間と労力を伴う。そしてブラック化を上手く回避出来たとしても、自己愛性ブラックが近くにいるだけで激ウザなことは間違いない。そもそも常軌を逸した気合と根性だけで何とか結果らしきものを出すというだけで、本当に仕事が出来るとか、有能という訳でもない。

 だからといって、寂しがる自己愛性ブラックどもを、定時で会社から追い出すという行為は、人道的に問題があるだろう。崖で木の枝にしがみついている者を、蹴り落とそうとしているのと、大して変わらないではないだろうか。

 普通の人々は、長時間労働などしたくはない訳だが、自己愛性ブラックが、月百時間でもサビ残したいというのを邪魔したり禁止したりして、定時で会社を追い出すことも、逆に人権侵害となるのではないだろうか。

 まだ母親が恋しくて、庇護を必要としているチワワの子犬を、野犬の群れがうようよしている森に放つようなものだ。

 この二十一世紀に、果たしてそのような非道な行為が許されるのであろうか。

 ここはやはり、彼らにも思う存分働いてもらうことを考えた方が、社会のためにもなるのではないだろうか。

 そうなると、道は一つである。自己愛性ブラック向けの企業を用意するしかない。

 例えば企業を、一種、二種といった形に分ける。

 一種は、現行の労働法規厳守のホワイト企業。

 そして二種は、労働時間規制なしのブラック企業とする。

 求人に際しては二種であること、そして時間外労働その他の労働条件についても明記する。勿論労働契約に際しても同様とする。

 例えば、こんな感じ。


 店長候補急募

 月給二十万円から

 時間外労働無制限

 時間外手当は月四十時間まで

 店内にベッド(座席)、シャワールーム(厨房のシンク)完備

 24時間365日好きなだけおしごとできます

 夢の実現に燃える熱い仲間たちが君を待ってるぜ

 僕たちとおトモダチになろう

 「トッ○ッダッチー、トッ○ッダッチー♪」


 勿論、職場の集合写真も忘れずに。

 こうした二種企業においては、鬱病、過労死および過労自殺に関しては、労災も一切認めないこととする。

 このような労務管理を許すと、公正な競争が阻害されるのではないかという懸念は、当然あるであろう。

 しかし、幾らブラック企業大国の日本とは言え、このような企業に自ら好き好んで入社したいと思う求職者は、そうはいないであろう。

 二種企業の経営者が、どれだけ自身の会社を大きくしたいと望んだところで、従業員が集まらなくてはそれも限界があるというものである。

 恐らく、二種企業同士で壮絶な人材の奪い合いとなるであろう。喰らい合い、潰し合い、やがては淘汰されていくかもしれない。或いは彼らは少数精鋭で、一人でも三人分の仕事をこなせるだろうから、しぶとく生き残るかもしれない。

 某居酒屋、某広告代理店、某牛丼チェーン、某お天気屋さん、某財閥系家電メーカー、某引っ越し屋さん、某コンビニ、某光学系精密機器メーカー下請け、某ストライプアパート系不動産、某受託システム系不動産、某政商系人材派遣などは二種を選択すればよろしい。彼らがゴキ○リホイホイの役目を引き受けて、自己愛性ブラックの皆さんを預かってくれれば、他の善良なホワイト企業への自己愛性ブラック汚染も防止出来るし、一般消費者でもある我々は、せいぜい高品質の過剰サービスを低価格で享受しようではないか。


 いずれにしても我々は、ブラック野郎どもの心の内を、正しく把握するところから始めなくてはならない。

 自己愛性ブラックに関しては、本来であれば治療を受けさせたいところであるが、それは本人がクラッシュするまでは、ほぼ不可能というものである。

 ヤクザ型や無能型は排除すれば済むが、自己愛性パーソナリティ障害を患った自己愛性ブラックをどのように扱うべきかについては、今後更なる検討が必要であろう。それまでは、せいぜい対処療法的に彼らを隔離し、ブラック化を防ぐしかないであろう。

 そして、パーソナリティ障害に対しては、早期の対応も必要となるかもしれない。子供に対してパーソナリティ障害の認定がなされることはないが、次章でも触れるように、学童期において、既にその兆候が見られるということは多々ある。恐らく、私もそうだったのであろう。当時、学校でカウンセリングでも受けることが出来れば、もう少しまともな人生を送っていたかもしれない。

 自己愛性PDの原因は様々であるが、第一に考えるべきは生育環境であろう。

 貧困はそれだけで、子供の成長にとって重大なリスク要因となり得る。これは私も身を持って経験した。

 しかしパーソナリティ障害、その中でも特に自己愛性PDは、裕福な家庭なら安心という訳でもないようだ。逆に父親の上昇志向が、子供に受け継がれる場合も多い。後に述べるトランプ大統領は、まさにそのパターンである。

 自己愛性ブラックは、周囲の人間を不幸にするだけではない。自己愛性ブラック本人も、表向きの尊大さやハイテンションとは裏腹に、常に自身の存在に対する不安と恐怖を抱えている。どれだけ社会的に成功したとしても、その根源的な不安からは逃れることは出来ない。それは彼らにとっても、とてつもなく不幸なことである。

 家庭や学校、企業、各専門家そして政治に至るまで、彼らのために、そして非自己愛性の我々にとっても、やるべきことはまだまだたくさんあるようである。

 全人類の幸福と笑顔、そして恒久的世界平和の実現ために、我々は命懸けで、自己愛性ブラック根絶のための取り組みを、今この瞬間から始めなくてはならない。メシを喰う奴は二流、人間は眠らなくても死なない、月月火水木金金、二十四時間三六五日死ぬまで働け。

 では、自己愛性ブラックの存在についに気付いてしまった人類は、今後どのような進化を遂げるのか、考えてみたい。


自己愛性ブラック2049


 二〇一八年、安倍政権が推進した『働き方改革』法案が国会で成立し、翌年より施行された。

 安倍首相は当初、『七十年ぶりの大改革だ。これからも働く人の目線にたって改革を進めたい』と自画自賛していたが、その後、国民の大方が予想していた通り、過労死、過労自殺、そして過労による鬱病が激増した。

 政府は、法律の改正が原因ではないとの立場を貫き、自らの責任を一切認めようとしなかった。

 そして、労基法違反や過労死および過労自殺の背景には、自己愛性パーソナリティ障害を原因として、長時間過重労働を指向する自己愛性ブラックどもの存在があるとして、彼らに一切の責任を転嫁した。

 一方で、野党と世論の声に押される形で、面子をかけて、違法労働の摘発に血道を上げ始めた。

 労働基準監督局および全国の労働基準監督署を拡充し、労働基準監督官を、それまでの百倍の規模に増員した。その中から、選りすぐりの監督官を選抜し、ブラック労働撲滅特別対策班が編成された。

 彼らには、それまでになかった、強力な捜査権限と武器携帯権限が付与された。彼らが使用するのは、通称ドミネーターという大型拳銃状のハイテク武器であった。

 彼らは、ブレードランナー(Blackろうどうぼくめつとくべつたいさくはん)と呼ばれた。


 東京、二十三時。汐留の一角に聳え立つ、巨大なオフィスビル。

 既に全館消灯され、社員たちは、全員帰宅したものと思われていた。

 ところが、その四十二階のとある部屋では、暗闇の中で異様な物音が響き渡っていた。

 コソコソコソコソ、ガサゴソガサゴソ。

 バタバタバタ。パタパタパタパタ。

 カタカタカタカタ、ダンダンダダン。ダンダンダンダダン。ダダダダダダン。

 所々で薄明かりが、男たちの顔をぼんやりと照らし出している。モニターの弱弱しい光でもそれとわかるほど、彼らの目は落ち窪み、表情は生気を失い、窶れ果てていた。

 彼らは、会社から残業を禁止されているにもかかわらず、どうしても帰宅出来ない自己愛性ブラックどもであった。

 何故、帰宅出来ないのか。

 だって、寂しいじゃん。

 その時、突然一人の自己愛性ブラックが部屋に飛び込んできた。そして叫んだ。

「手入れだ。逃げろ」

 自己愛性ブラックたちは、一斉に椅子を蹴飛ばして、反対側のドアへと殺到した。

「ロウキショだ」

「逃げろ」

「こっちだ」

 ブレードランナーの一団は、部屋に飛び込むなり、いきなりドミネーターを乱射し始めた。

 逃げ遅れた自己愛性ブラックたちが被弾し、ストローカエルの如く爆発した。オフィスがどす黒く血に染まった。

 追跡を逃れた数名の自己愛性ブラックたちは、一階のフラッパーゲートをジャンプして、建物の外へと飛び出して行った。


 同時刻。東京都大田区某所。

 カラオケボックスの一室で、男たちがカラオケを熱唱していた。

 近くの会社の社員たちが職場を追われ、会社の前の居酒屋にて、カルパッチョに舌鼓を打った後に、このカラオケボックスへとやって来たのであった。

 もう真夜中を過ぎているというのに、彼らは異様なハイテンションで、歌に合わせて腕を振り上げていた。一糸乱れぬ完璧な振り付けであった。


『テレテレッテテレッテッテレ、テレテッレッテテレッテテレ』

『ふっきょおっわっおんを、ン・ヘイ・ン・ヘイ・ン・ヘイ・ン・ヘイ』


 間奏に入ったところで防音のドアが蹴破られ、黒服の男たちが雪崩れ込んできた。

 狭いボックス内で大乱闘が始まった。混乱の中で、一人の自己愛性ブラックが、ドアから這い出して外へと飛び出した。

「逃げたぞ」

「追え」

 路上を疾走する自己愛性ブラックの背後から、監督官の一人が迫ってくる。

 井出角は息を切らせながら、交差点を見回した。その時、自己愛性ブラックの背中を発見した。再び走り出すと、徐々に距離を縮めた。

 何せ相手は、毎晩のように同僚たちと飲み歩き、碌に家にも帰っていない。本人はハイテンションだが、実は睡眠不足で過労死寸前の状態だ。長時間走れる訳がない。

 一気に距離を縮めると、井出角はその背中に狙いを定め、ドミネーターのトリガーを静かに引いた。

 自己愛性ブラックの背中に、どでかい穴が二発空いた。

 そのまま彼は、目の前のファストファッション店のウィンドウを突き破り、フリスとウルトラライットダウンを体に巻き付けて、マネキンを抱いたまま店内に突進した。

 今にも倒れ込もうとする自己愛性ブラックに、井出角は更に二発、ドミネーターの銃弾をぶち込んだ。

 フロアに倒れ込んでもがく自己愛性ブラックの手が、足が、胸が膨れ上がり、爆発して果てた。棚に詰め込まれたSサイズのヒットッテクが、彼の血と体液でどす黒く染まった。

「任務完了」

 井出角は無表情で呟いた。

「井出角さん」

 同僚の監督官が、後ろから近付いてきて言った。

「二匹逃しました」

 この日の夜。

 港区汐留、大田区某所、港区港南、山口県山口市などなど、日本全国各地において、自己愛性ブラックの一斉摘発が行われた。

 検挙または処理された自己愛性ブラックは、百数十名にも及んだ。


 一方、都内某所のクリニックには、職場を追われた自己愛性ブラックたちが、大挙して押し寄せていた。

「大雪の翌朝、あなたは車で会社に着く。しかし駐車場は雪で埋まっている。雪かき中の常務が、今日は帰れと怒鳴る。あなたはどうするか」

「常務をひき殺して、車を停めます」

「部下から電話がかかってきます。仲の良かった従妹の弟の祖母の娘のはとこの妻が亡くなったという連絡です。部下は欠勤を申し出ました。あなたはどうするか」

「申し出を却下します。親の死に目にも会えないのが、我々の仕事です」

 医師は、クライアントの微かな変化を見逃さなかった。

 瞳孔の変動、虹彩の無意識の膨張が、モニター越しにはっきりと確認出来た。

 目の前の男が自己愛性ブラックであることは、最早疑い様が無かった。

『先生。ボクはもっと仕事をしたいんです。職場にいたいんです。でも、みんな終業と同時に帰ってしまうんです。上司も早く帰れって言うんです』

『残業して、カルパッチョの仕込みをしないといけないんです。でも、仲間達はみんな帰ってしまうんです』

『成長し続けないといけないんです。現状で満足していてはいけないんです。でも、誰もわかってくれないんです』

『店にいるのは僕一人だけなんです』

 自己愛性ブラックは皆、仕事をしたい、しなくてはならないと繰り返す。しかし彼らが求めているのは、仕事そのものよりも、他人に認められ、寂しさを紛らわせることだと言われている。

「家に帰ればいいではないですか。一人で静かにテレビでも観るとか、ゲームでもするとか」

 医師がそう言うと、クライエントが激昂したように言った。

「でも、仕事が終わらないんですよ。課長は必要ないって言うけど、やらなきゃいけない作業が山積みなんですよ。評価にも影響するし、後輩の給料の心配もしてやらないといけないじゃないですか」

 医師は、グループセラピーを勧めた。

 クライエントを帰すと、回転椅子に深々と体を沈め考えこんだ。

 たまには、グループセラピーに顔を出してみるか。

 都内から車で一時間。山間にある総合病院で、自己愛性ブラック向けのグループセラピーが、定期的に行われていた。

 がらんとした講堂の中央には、二十名程が輪になって椅子に腰掛けていた。

 心理療法士の声が響き渡っていた。

「では、皆さん。隣の方と手を繋いで下さい」

 患者たちは、その言葉に従い、皆で手を繋いで一つの輪になった。

 それでは皆さん、続けて唱和して下さい。

「トモダチ」

「トモダチ」

「仲間」

「仲間」

 このセラピーは、連帯感、一体感を味わわせることで、自己肯定感と安心感を向上させ、分離―固体化を促す効果があると言われる。その結果、寂しくて会社に居残るということがなくなるようにと期待されている。しかし、これはあくまで対処療法に過ぎないようだ。今のところ、患者の落ち込んだ気分を一時的に高揚させるだけの効果しか確認されていない。自己愛性ブラックに効果のある治療法は、未だ確立されていないのが現状だ。

 やがて、唱和は熱狂的な調子を帯びてきた。それは最早、野獣たちの咆哮とも言うべきものだった。

 気が付くと、全員が立ち上がっていた。

「トモダチじゃないか」

「トモダチじゃないか」

「水臭いぞ」

「水臭いぞ」

「何で言ってくれないの」

「何で言ってくれないの」

「オーーーーーーーール」

「オーーーーーーーール」

 唱和は続いた。今や立ち上がるだけでなく、繋いだ手を離し、全員が激しく動き回り、絶叫していた。

 医師はため息を吐いた。

 電気ショックやロボトミー、そして抗鬱剤とSSRIと眠剤と胃薬と勃起薬と抗炎症剤とビタミン剤をチャンポンにしてカクテルにして服ましていれば済んでいた時代が懐かしかった。

 彼はその場を後にした。

 背中に、患者たち声が響いた。

「トモダチ」

「トモダチ」

「仲間」

「仲間」


 その同時刻、関東地方某県の航空自衛隊基地内にある、とある建物の一角。

 隊員たちでさえその存在を知らない極秘の研究施設において、極秘の研究が行われていた。

 ルームランナー上では、一人の男が快調に走り続けていた。

 体中にセンサーを張り付け、そこから細いコードが伸びている。

 頭には、ヘッドディスプレイを装着していた。

 ガラス越しに、白衣の研究員たちが、彼の様子を見守っていた。幾つものモニターが、ランナーのバイタルデータを映し出していた。

 自己愛性ブラックは何故、月百時間もの残業が出来るのか。

 彼らの力の源泉がわかれば、様々な分野に応用出来るかもしれない。

 例えば、戦場において恐れを知らないバイオニックソルジャーとか、高放射線下においても恐怖を感じない作業員とか、普通の人間が行動するのに困難な状況下でも、自己愛を高揚させ、おトモダチ感を与えてやれば、恐怖を感じることなく任務を遂行出来るのではと期待されている。

 更に、今後は人口減少により、労働力が不足することが予測されている。二十四時間働ける居酒屋店長とか、二十四時間ワンオペ出来る牛丼屋店長とか、二十四時間働けるコンビニ店長などにも応用出来るであろう。

 快調に走り続けていた自己愛性ブラックだったが、突如、膝から崩れ落ちて、そのまま倒れ込んだ。

 一斉に、周囲の研究員たちがルームランナーに駆け寄った。

 怒号が飛び交う中で、医師らしき男が自己愛性ブラックの脈を取った。誰かがAED(自動体外式除細動器)を持ってきた。

 指示に従って処置をしたが、自己愛性ブラックの心臓が、再び鼓動を始めることはなかった。

 医師はロレックスの腕時計を見て、時刻と共に厳かに死亡宣告を行った。

「百六十時間。新記録だ」

 研究員の一人が呟いた。

 床に転がったヘッドディスプレイには、映像が流れ続けていた。

 何やら麦わら帽子を被った少年が、海賊旗を背にして叫んだ。

「友達じゃねェか!!」

 遺体はすぐに検死室に送られ、病理解剖されることになった。


 都内某所。

 昼にアプリで確認すると、今夜は晴れるはずだった。

 ところが今は、しとしとと冷たい雨が降っている。

 一体どうなってんだ。井出角は思った。

 おかげで手が滑る。これではもう持たない。

 彫像の牛の角は丸くて、引っ掛かりもない。おまけに指が二本折れている。

 恐る恐る下を見ると、ぶらぶらとぶら下がっている自身の脚と、ボーダーラインのアパートの壁が見えた。

 ここから落ちたら、助かる見込みは全くない。

 そもそも何でこんなことになったのか。

 このアパートに、先日逃走した自己愛性ブラックが潜んでいるとの通報を受けて踏み込んだ。通報してきたのは、自動車組み立て工場で働く派遣社員の男性だった。

 一匹目はドミネーターで始末した。

 二匹目を探していると、薄い壁をぶち抜いて腕を掴まれた。指を折られた。

 格闘の末に、やっとのことで屋上に逃げてきて、隣のアパートに飛び移ろうとした。

 その挙句にこのザマである。

 だいたい、何でアパートの壁があんなに薄いんだ。

 あれじゃあ箸を置く音すら隣に聞こえてしまうじゃないか。

 隣のアパートの屋上から、自己愛性ブラックがジャンプしてこちらに飛び移ってきた。常人とは思えない、凄い跳躍力だった。

「おびえて生きるのはどんな気分だ」

 自己愛性ブラックが言った。

「それが自己愛性ブラックの一生だ」

 手がすべる。もうダメだ。

 井出角の手が角から離れた瞬間に、自己愛性ブラックが彼の手首を掴んだ。

 そのまま、屋上に引き上げられた。

 自己愛性ブラックは、静かに語り始めた。

「俺は、お前ら怠け者どもには想像も付かないものを見てきた。俺は見た。夜明けの厨房で、まるで天の川のように無数に輝く、魚たちの死んだ銀色の目を。俺は見た。百時間連続勤務の午前二時のオフィスで、摩擦熱で燃え上がるキーボードの青白い炎の揺らめきを。それらの瞬間も、時が来れば、全ては、消えていく。雨の中の、涙の、ように」

 そう言うと、自己愛性ブラックは、静かに目を閉じ、顔を伏せた。

 彼の手から一羽のハトが、雨空に向かって飛び立っていった。

 検死解剖の結果、彼の心臓はズタズタに引き裂かれており、脳神経系は、使用済みの花火のように焦げて焼き切れていた。

 壮絶な過労死だった。

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