第二十三章 黒く塗れ

自己愛性ブラックへの十三階段


 自己愛性ブラックについては、第十九章で一通り解説した。

 ブラック企業やブラック野郎に対処するには、彼らの心の内と、行動原理を理解することが第一歩となる。そのためには、そのブラックネスが、意図的なヤクザ型なのか、何も考えていない無能型なのか、或いは自己顕示欲と寂しさによる自己愛性ブラック型なのか見分ける必要がある。

 ここでは、職場における、自己愛性ブラックの具体的特徴について、簡単にまとめてみたいと思う。


(1) 会社にいたがる、帰りたくないの

 自己愛性ブラックが残業をしたがるのは、もちろん仕事で成果を出したい、そしてそのことをアピールしたい、という側面もある。しかしそれ以前の問題として、自己愛性ブラックは、一人で家に帰りたくないのである。何故なら、寂しいから。

 彼らは、一羽にして放っておくと寂しくて死んでしまう、ウサギちゃんのようなものなのである(『ヤフー知恵袋』によると、これはデマらしい)。

 ただし、長時間労働が常態化しているブラック企業では、こうした欲望はわかりにくいかもしれない。


(2) 長時間労働に対する肯定的な言動、何でこれがブラックなの

 長時間の時間外労働を、自ら進んでやりたいという労働者はまずいないであろう。

 命令で、仕事が終わらない、或いは残業代を稼ぐために仕方なく、という人がほとんどであるに違いない。

 そうした普通の人々であれば、大抵はこう言う。

『クソ、何でこんな残業が多いんだよ』

『早く帰りたいお』

『課長の野郎、とっとと帰りやがって。ふざけんなよ』

『有給取れないとか、何なの』

『誰か人入れろよ』

 しかし、自己愛性ブラックは、こうしたことは一切言わない。これは、成見の例でも明らかである。『仕事があるから』『みんなの評価に影響するから』『みんなの収入の心配をしてやらなくちゃいけないから』などなど、あくまでポジティブに正論じみた言辞を繰り返す。

 ただし、元々自己愛性ではなくても、完全に洗脳されてこうした思考に陥っている場合もあり得る。


(3) 飲み会が好き、二次会はカラオケ、朝までオール。

 最近の若者は、飲み会が嫌いと言われる。

 しかし、自己愛性ブラックは飲み会が好きである。何故なら、寂しいから。

 アルコールで現実逃避出来るし、仲間(みたいな人々)と、共に語らい(七割は自慢話)、朝までハイテンションでカラオケでもして盛り上がれば、寂しさも紛れるというものだ。躁状態で、神経伝達物質の大花火大会が始まれば、眠気も吹き飛んでしまう。挙句の果てに、居酒屋に就職したり、居酒屋を始めたりすることもある。そう考えると、キング・オブ・ブラック、ブラック生まれブラック育ち悪そな奴はだいたいブラック、脳味噌まで真っ黒けなあのお方が、自身の事業で居酒屋を選んだのも、決して偶然ではないだろう。

 ただし、単なる酔っ払いが、気分が高揚して『もう一軒もう一軒』『よーし、朝まできゃりーぱみゅぱみゅ歌っちゃうぞ』という場合とは区別するべきである。また、単なるリア充パリピ野郎の可能性もなくはない。


(4) 境界性PD的しがみつきと躁状態、孤独を嫌う、一人ではいられない、

 残業や飲み会自体が、既にしがみつきの一形態ではある。

 第三の男の場合は、手分けして並行して進められる仕事でも、『みんなで一緒に』やるのが好きだった。送別会では、私の駅まで付いてくるという謎の行動に出た。これも、一人になりたくない故の行動である。

 第二の男の場合は、休日に職場で飲んでいた。学生バイトはドン引き。

 中学教師の場合は、私にシカトされてキレた。

 第三の男の場合は更に、部下にシカトされてキレていた。流石にこれは誰でもキレるかもしれないが、自己愛性ブラックの場合は、特にシカトされたり無視されたりすることに対して耐性が低い。

 成見が、残業をさせようと何かと理由をこねくり回していたのも同様である。つまり、寂しくて一人では耐えられないのである。

 そして、誰かと一緒にいると嬉しくて、ついハイになってしまう。

 シャブをやっている訳でもないのに、というより、シャブをやっているかの如くにハイな状態となる。職場でも居酒屋でも躁状態となり、半ばコントロールを失ってはしゃいでしまうかもしれない。

 この点に関しては、成見はそうでもないのだが、第三の男、第二の男では何回か見たことがある。中学教師がやたらに元気だったのも躁状態のためと思われる。

 某アイドルや某アーティストがキメた時の映像をYouTubeなどで見られるので、参考にされたい。

 ただし残業の際に、同僚に対して『もう帰るの。一緒にやってこうよ』と冗談めかして言うことはよくある。読者の皆さんも経験があるに違いない。こうした場合は、自己愛性ブラックではないかもしれない。


(5) 成果を過大に評価、自慢する、天性のアピール力

 自身の成績や評価を自慢する。或いは、成果自体がいまいちでも、俺は頑張っている、努力している、寝ないでやった、などと全力で全力アピールし、周囲の関心を買おうとする。

 作業は素早いが、音を立て、オーバーアクションで髪をかき上げ、ちょっとカッコイイかもしれない。デスクワークでもご心配なく。オフィスの端にいても、彼らが作業をしているとすぐにわかる。『タタタタタタタ、タンタタン、ダンダン、タタタタ』と、キーボードを叩く音が聞こえてくる。

 第二の男の場合は、ホストでナンバーツーになり、時給九百円に満たない投入作業でも、速さを自慢していた。飲み会では、俺様スゲエ話を延々と聞かされることになる。

 第三の男も仕事はいまいちだったが、自分が出来る奴だと思い込み、そうした態度を取っていた。

 中学教師は、電球を変えた、日教組に入らなかった、スーパーで電卓を使っている、などといったことを中学生に対して自慢げに語っていた。どうでもいい小さなことでも、まるで犬橇で北極点に到達したかの如くに、自慢げに語ることが出来る。

 これらの言動は、根本的な自信の欠如によって生じる。誰かに認めてもらわないと、とにかく不安なのである。


(6) 上司に媚びて理想化転移、下には尊大で、やっぱり自己対象転移

 自己愛性PDは、より強い者、優れた者、美しい者に魅かれる。経営者や上司に対しては、理想化転移を起こすかもしれない。

 成見の場合は、恐らく長田さんに理想化転移を起こしていた。そして、脳内正社員と化して、正社員どもと同化していた。下の人間に対しては、まるで自身の一部か延長でもあるかのような言動をしていた。同じ非正規の分際で『収入の心配をしてやる』といったことを言ったりする。

 そして人間のみならず、会社自体に対しても、同一化しているかもしれない。

 ブラック企業が、世間の批判に対して反発したり、逆上したりして、空気を読まない言動を繰り返す場合は、経営者が、或いは会社自体が、他者の気持ちや立場が理解出来ない分離不全―自己愛性ブラックと言える。


(7) 自己愛憤怒に陥ってキレる

 自己愛性ブラックは、分離不全のために、他人を自分の一部として感じており、自分の思い通りに動かなかったり、自分と考えが違ったりするとブッチ切れることがある。

 先にも述べたように、『あれはどうした。何でやってないんだ』とか言ってキレることがある。また結果が思わしくないとキレる。自己愛やプライドが傷つけられるとキレる。或いは、我々がよくわからない原因でキレる。理由を尋ねても、『何でわからないんだ、意味がわからない』という態度を取られると、こちらが悪いような錯覚に陥ってしまう。

 成見の場合は、防錆しろと言われて、私が従わなかった時に自己愛憤怒に陥った。

 スポーツ指導者が手を出す場合、それは自己愛憤怒によるものかもしれない。


(8) 良心の欠如、ルールの逸脱

 良心の欠如はサイコパスとも共通する特徴であり、実際、自己愛性PDとサイコパスは混同されることもしばしばである。しかし、サイコパスの場合は、脳の気質的異常で最初から良心が欠如しているのに対して、自己愛性PDの場合は、自身のプライドを守るために不正に手を染めることが多い。また、自身の都合のいいようにルールを捻じ曲げたり、都合よく忘れることも出来る。根底にあるのは、自信の欠如や恐怖心、見捨てられ不安などである。問題は、本人が悪いことだとは思っておらず、むしろ正しいことをしていると表面上は信じていることである。自己正当化に関しては天才的な能力を発揮するであろう。そういう意味では『良心』という表現を使用するのは、紛らわしいので控えた方がいいかもしれない。

 中学教師の場合は、禁止されているにもかかわらず、保護者から寄付金を集めていた。

 第三の男の場合は、欠品に構わず大量の部品をラインに送り込んでいた。

 成見も、入庫するために補充のルールを勝手に破っていた。

 企業やスポーツにおいては、主に自身の成績や評価のために不正に手を染めるであろう。

 自己愛性ブラックは、自分だけはルールを破ってもいいと思っているらしい。


(9) パワハラ、セクハラ、モラハラ

 倫理的なガイドラインも、自己愛性ブラックにとっては意味がない。

 そもそも、自分は何をしても許されると思っているし、自分は常に正しいと思っている。

 中学教師はよくキレていたが、その理由が明確ではなかった。その結果、やる気がない、だからお前らはダメなんだ、といった抽象的な人格否定を持ち出すことになった。女子生徒へのセクハラについては、既に触れた通り。

 第三の男の場合は、新人教育も、或いは残業の説明すら、まともに出来なかった。

 これも、他人と自分が別人格であるということが理解出来ない分離不全が原因である。自分が出来ることが出来ない、或いは理解していることを理解していない、という状態が、自己愛性ブラックにとっては本来有り得ないことなのである。そのため、何が問題なのか説明や指導が出来ない。その結果として、怒りの理由が明確でなく、『親の顔が見たい』『人間としてどうなの』などなど、いきなり人格を否定するようなことを言ってくる。こうなると、分離不全―自己愛性ブラックの可能性が高い。当然、酷い時には暴力に走ることもある。これらの行為は、分離不全と自己愛憤怒の結果として生じる。しかし本人は、悪いのは自分ではなく相手であり、自分は正しいことをしていると思っているかもしれない。

 ただし、ヤクザ型の場合は、洗脳のために、意図的にこうした行為を行っているかもしれない。


(10) 表層的なコミュニケーション能力らしきものが高く見えるが、話が通じない

 自己愛性PDには、陽なタイプと陰なタイプが存在すると述べた。

 元々、誇大型の場合は、コミュニケーション能力が高いとされている。

 彼らは自己愛を満たし、分離不全の寂しさを埋めるため、常に自己アピールをして、仲間たち(らしき人々)に囲まれている必要がある。コミュ障に、自己愛性ブラックは勤まらない。彼らのコミュニケーションは、常に命がけなのである。学校や職場でも、運が良ければムードメーカー的な立場にいるかもしれない。

 本書に登場する四名も、コミュニケーション能力は高い方だったと思う。彼らは情感を込めて話し、どうでもいい内容でも説得力がこもっていた。その一方で、感情がこもっておらず、平坦な印象を受けることもあった。表面的には自信に溢れ、時には他者を見下すような態度を取るため、元々メンタルの弱い者にとっては頼りになると錯覚することも多い。

 しかし、彼らの認識は歪んでいるため、どうも話が通じないという印象を受けることも多い。それも、他者の立場に立って考えることも話すことも出来ないことが原因である。そこから疑義が生じ、自己愛性ブラックに気付くきっかけになることもあるだろう。実は私がそうだった。


(11) 夢、仲間、世界平和、遠大な目標、誇大妄想的理念

 自己愛性ブラック経営者は、会社や経営の理念として、壮大なテーマを掲げるかもしれない。そして、下っ端が自己愛性ブラックの場合は、その経営者に理想化転移し、そうした理念に対しても、本気(マジ)で共感して、具現化しようと努めるかもしれない。これは、肥大化した自己愛が原因である。実現不可能に見えるような目標であっても、自己愛性ブラックは、それらを達成するために本気で取り組む。その結果、更にブラック労働が加速されることになる。

 会社において、『トモダチ』『家族』『仲間』『友情』『同志』『ファミリー』『絆』といった、キナ臭いワードを強調するのは、言うまでもなく分離不全が原因である。こうしたワードを常に意識して強調しておかないと、不安で孤独感に苛まれる自己愛ブラックは安心出来ないのである。

 そして、どのような内容であっても、自己愛性ブラックにとって重要なのは自分である。

 彼らが求めているのは、自身への評価、崇拝であり、自分が凄いと思い、また他人にそう思われることなのである。

 ただし、世の中には、純粋な正義感や優しさからそういった活動に身を捧げている人々もたくさんいる。例えば、マザー・テレサやダイアナ妃といった人々と自己愛性ブラックを混同するべきではない。

 また、ヤクザ型においては、こうした理念を、社員の勧誘と洗脳のために意図的に使用している場合もあることは、既に述べた通りである。


(12) 自分は正しい、天才的な自己正当化

 自己愛性ブラックは、常に自分が正しいと思っている。

 自分に非がある、ということはまずあり得ない。それを認めることは、死ぬことと同義である。

 常軌を逸したパワハラやモラハラ、或いは暴力でさえ、彼らは簡単に正当化出来る。それは相手に非があるからであり、あくまで相手のためにやっていることなのである。相手の痛みや恐怖は、自己愛性ブラックには理解出来ない。凡庸な人間どもは、良心に訴えかければ、彼らが非を認めると思っているが、自己愛性ブラックにはそんなものは通用しない。真実を都合よく歪曲し、ルールそのものを書き換えることが出来るからだ。

 例えば(あくまで例えです)、ブラック企業との批判に対して、このようなことを言ったりする。

『働くということが悪いことのようだ』

 『働くことが悪い』とは、誰も言っていないのだが、このような論理のすり替え、事実の歪曲が無意識的かつ自然に出来る。本人は、そのことに気付いてさえいない。

 よって、自身に都合の悪いことは絶対に認めないし、自身の責任も絶対に認めない。自信に満ちた態度で断言し、反論されても聞く耳を持たない。論理的な話し合いは不可能である。

 彼らの脆弱なで不安定なメンタルは、自分が間違っている、或いは負けるという状況に直面することに耐えられない。自分自身の存在そのものが否定されたと感じてしまうからだ。

 そのため、命がけで自己肯定と自己保身に走るのである。


 普段の会話でも、常識的で平凡な内容のはずなのに、どうも話が通じない、というような印象を受けた場合には、自己愛性ブラックの可能性を考えてもいいだろう。


(13) 適切な指示、指導が出来ない、相手の立場に立って考えることが出来ない。

 これも、分離不全が原因である。

 彼らは他人を、自分の一部、或いは延長と見做している。よって、自分の考えていることは相手も同様に考えているし、相手が自分の思い通りに動くのが当然であると思っている。

 成見は、私が聞いていないことを、私が理解しているものと思い込んでいることがよくあった。『あれ聞いた』と確認すらしてこなかった。

 第三の男は、残業の説明も、新人教育も碌に出来なかった。棚卸の時には一言、『探して』だけだった。

 自己愛性ブラックは、相手が新人であっても、彼らが右も左もわからない、という状況を理解出来ない。

 『アレ、どうなった』『やってません』『何でやってないんだ』『聞いてませんけど』というやり取りがある場合は、分離不全の可能性が高い。

 叱られたり、非難されたりしても、その理由がよくわからない、ということがよくある。

 これも、相手は『何か』を理解しているのに、こちらがその『何か』を理解していないからである。そして、その『何か』とは、説明などしなくても、誰でも理解していなくてはならないことなのである。何故なら、彼らが理解しているのだから。彼らが理解しているのだから、世界中が理解していて当然なのである。

 これは先に例に挙げた、ユニク、ああいや、衣料品販売X社での研修の例でも、よくわかる。

 本来は、ビジネスマナーや会社のルールを理解し、身に付けるために研修を行っているのに、その研修において、何でそれを理解していないのだと言ってキレるのは、本末転倒にも程がある。そしてこちらは、何が悪いのかすらわからない。

 これはスポーツ指導にも当てはまる。そもそも出来ないから練習が必要なのであって、練習中に出来ないといってキレまくるのは、分離不全による自己愛憤怒だと思っていいだろう。こうした指導者に、合理的な指導は期待出来ない。もし可能なら、とっとと指導者を変えることを検討するべきだ。


おまけ ラーメンが好き、寝なくても平気

 成見はSNSで、ラーメンのレヴューを書いていた。

 第三の男にも、入社当日にラーメンが好きかと聞かれた。

 ラーメンの蘊蓄を自慢気に語りたがる奴は、自己愛性PDだと思ってまず間違いない。この点に関しては断言出来る。

 ラーメンは、誰もが手軽にグルメ気取りになれるので、自己愛性ブラックにとってはうってつけの食べ物と言える。実際にマニアではなくても、話を振ってやれば、スープがどうとか、ダシがどうとか、あそこが上手いとか、得意気に語り出すに違いない。彼らはラーメンが好きなのではなく、ラーメンのことを語る自分が好きなのである。しかし、その情報を信用するとバカを見る。

 睡眠時間も短い者が多いような気がする。

 本文では触れていないが、成見は、ハードワークとジム通いにもかかわらず、毎日一時二時まで起きていると言っていた。第三の男、第二の男も同様である。更に、後に触れるが、今の職場の自己愛性PD野郎どもも、同様のことを言っている。中学教師に関しては覚えていない。

 ブラック経営者が、『人間は眠らなくても死なない』などと宣う時には、社員を煽るためではなく、本人がそうだから他人も同様なのだと本気で信じている可能性がある。

 自己愛性PDの睡眠については、神経伝達物質や脳の働きが関係しているのかもしれない。今後の研究に期待したい。


 以上、自己愛性ブラックの特徴を、簡単にまとめてみた。

 これらは、あくまで職場という環境で現れると思われる、具体的な特徴ということになる。

 しかし、自己愛性PDと雖もロボットではないので、基本的特徴と行動原理が同じであっても、その性格には個人差がある。

 これらの特徴が、全てピッタリ当てはまるとは限らないかもしれないし、当てはまるからといって、自己愛性ブラックではないということも有り得る。表面的な言動の裏に、どういった意図があるのか、その心理的メカニズムが重要となる。

 自己愛性ブラックは、自己愛性パーソナリティ障害であることが前提となる。

 彼らが、職場や学校において長時間過重労働を指向しブラック化すると、以上のような特徴が現れ、自己愛性ブラックと認定するに足る状態となる。

 判断する場合には、DSMに記載されている、自己愛性パーソナリティ障害の要件も合わせて参照することをお薦めする。

 ただし、あくまで自身の立場を弁えることをお忘れなく。

 医師でもなく、心理学の勉強もしていない素人が、他人のことを勝手にパーソナリティ障害の認定をすることには倫理的に問題があるし、非常に危険な行為でもある。

 また、プロの医師であっても、勝手に人様の診断を下すことは許されない行為である。そして正式な診断であっても、パーソナリティ障害の診断結果については意見が分かれることがある。サイコパスと自己愛性PDは、混同されることが多いらしい。自己愛性PDと境界性PDは、元々スペクトラムとして捉えられているため、その名の通り、境界の設定が難しいことがある。

 インターネット上では、ちょっと『ヤバイ』奴を安易にサイコパスと呼んだりする書き込みが横行している。

 判断(診断ではないことに注意)した結果は、絶対に他人に口外しない方が無難である。どこでトラブルの種になるか、わかったものではない。私も、会社でパーソナリティ障害の『パ』の字も、口にしたことはない。まず、関心のない人には理解出来ないし、浦田辺りが聞いたら本人に言いかねない状況だった。

 あなたが自己愛性PDでなければ、以上のことを御理解頂けるであろう。理解出来なかった場合は、あなた自身が自己愛性PDかもしれない。

 それでは次に、こういった自己愛性ブラックによって、企業はどのように黒く染まっていくのか考察してみたい。


自己愛性ブラック企業への道


 では、企業はどのようにして、自己愛性ブラック化への道を辿るのであろうか。

 経営者が自己愛性ブラックの場合、言うまでもなく、その企業は最初から自己愛性ブラックとなる。

 しかし、例えホワイト企業であっても油断は出来ない。

 自己愛性ブラックが一人いるだけで、強力な感染症の如くに、企業が真っ黒に染まってしまうことも有り得る。一人いると思ったら百匹いると思った方がいいだろう。

 そのプロセスは、どのように進行するのであろうか。考察してみたい。

 取り敢えず、新卒でも中途でも構わない。

 志望者はまず面接を受けるだろう。

 面接の段階から、自己愛性ブラックは本領を発揮する。

「では、弊社を志望した動機について、聞かせて下さい」

 普通の人たちはこう思う。

『動機だと。そんなもん、生活のために決まってるだろうが』

 それでも練習した通り、何とかそれらしいことを言わなくてはならない。緊張のあまり、アホらしくて口を滑らせてしまうかもしれない。

「お前のかみさんイカせることさ」

 しかし、自己愛性ブラックは既にここから違う。

 夢、チャレンジ、やりがい、崇高な理念、経営者に対する憧憬、そういったことを、淀みなくスラスラと、目を輝かせて宣うことが出来る。天性のアピール力で調子のいいことを言って、面接官たちに好印象を残すことなど、彼らにとっては朝飯前だ。

 面接官たちは考えるだろう。

 受け答えは悪くない。質問にはハキハキと答え、コミュニケーション能力は問題ない。自信に満ち溢れ、モチベーションも高そうに見える。元気があってよろしい。

 こうして採用が決まる。

 目出度く入社が決まると、早速独楽のようにフル回転を始める。

 仕事は難なく覚えた。残業も厭わずにやる。飲み会では盛り上げ役となり、朝まで奇声を上げる。『オーーーーーーーール、ウェーーーーーーーーーーーーーーーーイ』。職場にも溶け込んだ。そして、成績もまずまず。これならここで充分にやっていけるだろう。数年後にはまた新入社員が入り、後輩も増えた。表面的には仕事をバリバリこなし、成績も部署で一二を争うようになった。

 しかし、周囲の評価は芳しくない。具体的にどうこういうことではない。皆、何かがおかしいと感じるようになっている。

 どことなく人を見下したような言動、オレ様的な態度、話す内容も、自慢や大言壮語が多い。何を話してもどことなく鼻につく。成績は二番でも、今月は頑張ったと聞かれてもいないのにアピールしてきてウザイことこの上ない。

 残業を厭わないのはいいとしても、少々多すぎやしないか。仕事がなくても会社にいるように見える。それに文句一つ言わず、逆にポジティブなことしか言わないのが少々不気味だ。何というか、宗教がかっている。

 上の人間に対しては調子がいい。後輩に対しては、パワハラとまではいかないが、ちょっとイジリが過ぎることがある。飲み会も毎週は多い。こいつにプライベートタイムはないのか。女性社員は、トイレで陰口を叩くのが日課となる。

 しかし、多少は押しの強さがないと、営業でいい成績を上げることは出来ないであろう。

 仕事自体は多いので、残業もしてもらった方がいい。後輩に対しても、厳しく指導してもらった方がいいに決まっている。上のポストが空いたので、昇進させるなら彼しかいない。

 自己愛性ブラックは、蒼古的な暗い情熱に突き動かされて仕事に邁進する。

 分離不全による寂しさを紛らわすために、終業時間後も会社に居座り、仕事(らしきこと)を続けようとする。

 人並み外れた気合と根性、そして長時間労働によって会社での評価を高め、信頼を得ていく。そして、ある程度の成果を上げると全力でそれをアピールする。

 彼の自信に溢れた態度、他人を見下す態度は、上司に向いているかもしれない。

 元々、自分が優秀で、他人を見下しており、他人の上に立つのが当然であると思っているため、リーダーシップらしきものを命令された訳でもないのに発揮し出す。

 人の上に立つことが全く自然に出来るのは才能と言えなくはない。

 そうして、何となく職場の空気に従って順調に昇進していく。誰もが、まあ仕方ないと、従順に受け入れる。

 部下が増えれば、それだけのマネジメント能力も必要となる。

 自己愛性ブラック上司は、自分に従順であれば、取り敢えず嫌うことはない。自己対象転移を起こし、自分の延長として扱うであろう。

 しかし、自分の意図に沿わないことをされると、自己愛憤怒を引き起こすだろう。

 新人に対する指導も出来ない。これは第三の男や、中学教師の例でも明らかであろう。

 他人を自分の一部と認識して、自分が出来ると思っていることが、他人にも出来るのが当然だと思っている。何もわからない新人の立場に立って考えることなど、ほぼ不可能である。

「何で、やってないんだ」

 いきなり、キレる。そもそも、そんなことは聞いていないし教わってもいない。そうした事実は理解出来ない。

 昇進したからには、成果を上げなくてはならない。

 成績が悪い部下に対しては、パワハラじみた言動が始まる。何が悪いのか、どこに問題があるのか、原因の究明は出来ない。彼に出来るのは、プレッシャーをかけて、やる気と根性という抽象的な概念で煽り立てることだけである。

 時間外労働も多くなる。会社で部下たちに囲まれていると御機嫌なのだ。ある時、部下がPCを覗くとソリティアをやっている。やることないならとっとと帰れよ。あんたが帰らないと帰りにくいんだよ。時短というワードなど、そもそも耳に入らない。

 毎年、社員が入社するが、何故か辞めていく。その原因がわからない。やる気がないのは仕方ない。

 それでも、気合と根性と長時間労働で、ある程度の成果を上げる。命がけで上にアピールすれば、何となく認められた空気になってしまう。

 これによって、自己愛性ブラックは更に自信を深めていく。

 自分のやり方が正しいのだという確信を得る。

 元々自己愛性パーソナリティ障害は、傲慢で、自信過剰で、自分が正しいと思い込んでおり、他人の気持ちには無関心で、人一倍の寂しがり屋である。

 これらの性向が更に悪化する。

 昇進していけば部下も増える。自己対象転移の対象が増えれば、幼児的な誇大感は、更に膨れ上がるかもしれない。

 社内のドロドロした感情には気付かず、根性と恫喝だけで成果を上げれば、或いは手ひどいミスをしなければ、順調に出世するであろう。

 自己愛性ブラックに適応出来るのは、同じような性向を持った自己愛性ブラックか、自分の自己愛を脅かすことのない、従順な奴隷だけである。

 優秀で良識ある者は、とっとと逃げ出すことを選ぶだろう。この会社、何かヤバイ。

 ブラック労働が常態化し、自己愛性ブラックの自己愛は膨張を続ける。

 より尊大になり、神の如き全能感に包まれ、他者に対する敬意は消え失せる。ささいなきっかけでキレるようになり、パワハラはよりあからさまになり、会社の人間は皆、恐怖に怯えるようになる。上の人間に対してだけは相変わらずおべっかを使い、部下たちの声は届くことはない。

 お気に入りの部下は、自分同様の自己愛性ブラックで、自分に対して理想化転移を起こして共依存関係に陥っている。部下のみならず、既に会社自体に対して自己対象転移を起こし、一体化している。自身の発する会社名には神秘的なパワーが宿り、必殺の呪文の如くに、敵を蹴散らしていく。頼りになる仲間たち(この段階では、相手も本気でそう思っているかもしれない)に囲まれて、もう自分は無敵の存在である。

 彼の後には、更なる自己愛性ブラックたちが列を成して行進している。

 以下リピート。

 こうして会社は、徐々に自己愛性ブラックに染まっていく。

 経営者になり、社員が過労死する。

 世間から、壮絶な非難に晒されることになる。

 しかし、長年にわたって自分はこうやって成果を上げてきた。自分が間違っている訳がない。

 自分は常に正しく、誰に非難されたところでもう動じることはない。苦楽を共にした部下たち、いや仲間、戦友、ファミリーもそう言っている。我々の崇高な理念を汚し、友情と絆を断ち切ろうとする者は全員が敵だ。相手がその気なら受けて立つぞ。悪を滅ぼすのだ。『カーメーハーメー波あああああああ』。スドーン。

 表向きは経営者となり、社会的な地位を手に入れても、彼らの心の中は三歳児のままなのである。

 もう一度、成長を促してやる必要があるが、犠牲者が出た後ではもう遅すぎる。その前に、対処する必要がある。


 これまで自己愛の研究では、個人対個人の関係について検討されてきた。しかし、近年では、集団的自己愛(group narcissism/collective narcissism)という概念が研究されている。集団的自己愛が高いほど、外部に対する攻撃性も高まるとされる。これは愛情ホルモンのオキシトシンが、仲間意識と排外感情を同時に高める作用を持つこととも一致する。その内、関連が証明されるかもしれない。


 経営者までいかなくとも、自己愛性ブラックが経営の意思決定に参画しているとなると、その企業は真っ黒クロスケと判断するべきであろう。かなりヤバイ状況と言える。

 第三の男の場合は、将来、倉庫部門の職長くらいにはなれるかもしれない。

 中学教師は校長にまで昇り詰めた。教師としては最高位と言える。

 しかし、実際にそこまで昇り詰めるパターンはそう多くはないように思える。

 流石にまともな企業であれば、その前に社内で総スカンを喰らい、孤立し、出世コースを外れ、寂しさから鬱病コースに乗り換えるかもしれない。結局のところ、どこまで出世するかは、運と能力次第と言えるだろう。

 それに、第三の男は独身で、職場の女性陣からも総スカン状態であった。

 中学教師は、私の在学中に、既に妻との口論が絶えなったと言う。まだ生きているのか、離婚しているのか、不明である。

 いずれにせよ、自己愛性ブラックからは、まともな人間は逃げ出すことを選ぶ。彼らが幸せに人生を全うすることは難しいのではないだろうか。

 会社で出世コースから外れた場合は、自信過剰が高じて起業する道を選ぶかもしれない。起業すれば、今度は自身の会社が自己愛性ブラックと化すことになる。ついでなので、自己愛性ブラックの起業についても、少し考察してみよう。


起業する自己愛性ブラック


 善良なビジネスマンが起業するに当たっては、高邁な理想を掲げていることが多い。これは別に皮肉でも何でもない。純粋に応援すべきことである。例えば、『この技術があれば、水中の何とかを安全に分解して、水質汚染を止められる』とか、『このアプリがあれば、こうしたことがもっと便利になって、人々の生活の役に立つ』などといったことである。

 いずれにしても、具体的な理想とビジョンを抱き、自身でリスクを負い、綿密な計画を立てて会社を設立する、そういった起業家たちが、自身の会社をブラック化するとは、あまり考えられない。

 しかし世の中、そうした優秀な人格者ばかりが起業する訳ではない。

 起業の動機でメジャーなものは、ズバリ金であろう。

 ヤクザ型の場合は、まさに金銭一択と言える。従業員を使い潰して、自身がリッチマンになって、ベンツSクラスを乗り回し、プール付きの豪邸で美女を侍らして、葉っぱをくゆらしながらパーティをしてという、極めて人間的で現世的な動機である。

 では、自己愛性ブラックはどうか。

 彼らが起業する動機は、過剰な自己愛である。

 社長、経営者という肩書、社会的地位や名誉、世間に賞賛され、注目を集めたい、といったことが動機となる。金銭は、あくまでビジネスで成果を上げたことの結果として付いてくるものでしかない。おまけのようなものだ。

 彼らが起業する際には、そのようなスキルも技術も持ち合わせていないことが多い。

 当然、資金もない。銀行の融資を受けることも困難である。

 そのため、資本なし、経験なし、スキルなしで、簡単に起業出来る業種を選ぶことになる。

 例えば、某居酒屋チェーンの元経営者の場合、このお方が自己愛性ブラックかどうかはともかくとして、起業した動機というのは、小さい頃からの『社長になりたい』という漠然とした夢を実現させるためであった。最初は資本もなく、コンピューターと飲食業で迷った末に、最終的に居酒屋を選んだ。わざわざそのために、某居酒屋チェーンに友人を入社させて、ノウハウを学ばせた。酒が好きとか、料理が好きとか、そういった動機は一切なかったらしい。

 飲食店の場合などは、元々独立して自分の城を持つことが一般的なのかもしれない。料理が好き、お客さんにおいしい料理を食べて欲しい、小さくてもいいから自分の店を持ちたい、そういった動機は、身の丈に合った自己愛と、健全な自己実現欲求によるものである。全国にチェーン展開して、十年で一部上場する、というような場合とは次元が違う。


 近年、ブラック企業が多い業種として挙げられるのは、IT、飲食、個別指導塾などであろう。人材派遣会社などは、業種そのものがブラックと言える。ワークネードも、どこかの野心的な若者が、自身で起業したらしい。

 大がかりな設備も、特殊な技術も必要なく、箱一つで起業が出来るのは、自己愛性ブラックにとっては魅力的であるに違いない。

 しかし、派遣などはともかくとして、ITも飲食も、それほど儲かるという訳でもない。飲食は元々、薄利多売と言われるし、ITも過当競争で買い叩かれて、自転車操業状態と言われる。

 そうした『新興産業』にブラック企業が多いのは、最早必然と言えるかもしれない。

 起業しやすく、薄利多売で、人件費を抑制しなければ利益が上がらない。自己愛性ブラック自身も負けず嫌いだったり、成果への焦燥に駆られたり、或いは最悪の場合、そうした状況に快感すら覚えるもしれない。

 起業家の自信過剰の問題については、後に触れることにする。

 彼らと戦うのはプロに任せるとしても、もし巻き込まれてしまった場合には、自分を守らなくてはならない。

 では、どのように自己愛性ブラックに対処すればいいのか。考えてみたい。


自己愛性ブラックに出会ったら


 もし自己愛性ブラックに遭遇した場合には、どのように対処するべきか。

 これが実は、大変に難しい。

 相手はまともな人間ではない。

 認知が著しく偏っているため、まともな話は通じないと思った方がいい。

 それに、あなたと相手の立場、そして関係性によっても変わってくる。

 自己愛性ブラックが経営者なのか、上司なのか、部下なのか。そして、実際に何が問題となっているのか。長時間労働なのか、パワハラなのか、ただ話が通じないレベルなのか。

 よって、この点に関してはケースバイケースとしか言い様がない。


 最も有効、かつ無難な対処方法は、逃げることである。

 とっとと逃げて、一切の関りを絶つのが一番である。

 しかし、現実問題として、逃げることが出来ない場合も多々あるであろう。

 容易に会社を辞めることが出来ない、仕事が好きなので辞めたくない、生活のために辞められない、異動するまでは我慢したい。

 退路がない、逃げ道がない、騎兵隊もやってこない。海岸に迫るドイツ軍、しかし、海軍も漁船もやってこない。或いはジャングルの拠点で、ベトコンの精鋭一個大隊に包囲され、ヘリも来ない。そういえば、ベトナム戦争では上官殺しが頻発したらしい。

 サバイバルのためには、無能なブラック上官を殺害する。極めて合理的な考えだと思う。旧日本軍でもやればよかったのではないだろうか。しかしこうした考えは恐らく少数派なのであろう。

 人材使い捨ては、どうも昔から変わっていないようだ。もしかしてこれも日本人の性なのかもしれない。そう考えると、改善は期待出来ないかもしれない。

 それに、自己愛性ブラックだから、などといった理由で、上司をぶっ殺してやる訳にもいかない。

 最終的には解放を目指すとしても、それまでは、耐え忍ばなくてはならないかもしれない。

 或いは、正面切って戦いを挑むガッツがあれば、相手を潰しにかかるのも、当然アリであろう。

 そういう訳で、自己愛性ブラックに対処する方法は、大まかに三種類ということになる。

 『逃げる』『耐える』『戦う』である。

 これは、学校でのいじめに対しても同様だと思う。

 法的、実務的な対処方法に関しては、他のテキストを読んでもらうとして、取り敢えずここでは、自己愛性ブラックの心理に即した対処方法を考えてみたい。


自己愛性ブラックから逃げる


 自己愛性ブラックから逃げるということは、すなわち、会社を辞めるということを意味する。もちろん、異動が可能であれば、そうするにこしたことはない。

 常識的には、突然バックレるのは褒められた行為ではないとされる。

 或いは、ラインやメールで退職を伝えるとか、FAXを送り付けるとか、一度やってみたい気もするが、そうした行為は慎むべきであるとされる。

 しかし、もし自己愛性ブラックから本当に解放されるのであれば、ためらう理由は何もない。相手はブラックなのに、自分だけホワイトにこだわっていても無意味だ。そうした良識に相手はつけ込んでくる。自己愛性ブラックに対しては、綺麗事だけでは対処出来ない。

 しかし、これとて注意が必要だ。

 契約違反、ルール違反につけ込んでくるケースも考えられる。

 下手をすると、自己愛憤怒を起こし、境界性PD並みのしがみつき行為に及ぶ場合もあり得る。

 損害賠償を請求する、実家まで押しかける、などの行為は、実際に確認されている。ここまでくるとブラックというより、やはりストーカーに近い。そのうち、中傷ビラを近所に貼ったり、ウサギを鍋で煮たりといった行為に及ぶかもしれない。

 ストーカーであれば、自分から去られるのであれば、相手を殺してしまおうと考えることもある。自己愛性ブラックの場合はそこまでいかなくとも、心理的背景は全く同じ種類のものであろう。

 意図的に自己愛憤怒を誘発して、喧嘩別れをするのも一興かもしれない。

 しがみつきは、一体化しているはずの相手が、自分を見捨てて去ってしまうという恐怖から生じる。それを無理矢理断ち切ってやればいい。

 しかしその場合にも、修羅場を覚悟しなければならない。

 或いは、何度も述べるように、自己愛性PDの心は、実はガラスのように脆い。案外簡単に折れてしまうかもしれない。口論に自信があり、ガッツのある方はチャレンジしてみてもいいかもしれない。

 しかし、自己愛性ブラックに絡めとられるのは、そうしたことが出来ない人々である。

 ここはやはり、良識ある大人としても、穏便に済ませたいところではある。

 そのためにはまず、一カ月ルールを始めとする、退職のルールは必ず守ろう。相手につけ入る隙を与えてはならない。

 そして、おもむろに、自己愛性ブラックに退職を告げることになる。

 ここで重要なのはまず、相手の自己愛を傷つけないことである。

 相手には恭順の意を示して、全身で敬意を表現しよう。

 申し訳ないと同時に、悲しい、残念だという表情を相手に見せよう。

 そして、フレンドリーなおトモダチ感、従僕感をアピールして、敵ではないということを理解させよう。

 ただし、毅然とした態度は崩さないように。

 相手は言う。何で辞めたいんだ。

 それに対して、あなたはどう答えるのか。

 例えば、こういうのはどうだろう。

「本当は、私も辞めたくはないのです。こちらには大変にお世話になって、バイザーさんにも、本当に良く指導して頂きました(随分いたぶってくれたよなあ、おい)。自分にとっても、本当に充実した二年間だったと思います(もう一生分、働いたわ)。でも元々は、会長に憧れて、会長のようになりたいと思って、こちらを志望したのです。ですから、最終的には起業して、まあ会長まではなれないかもしれませんが、自分の会社を経営することが私の夢なのです。そのためには、今から準備しないと間に合わないのです。私もここで、まだまだ学びたいことがたくさんありますし、職場のみんなとも仲が良くて、ここで仕事を続けたいという気持ちはあるんです。でも、会長も仰っていたじゃないですか(成見話法)。夢に日付を。積極的にチャレンジし、困難を、競争を回避しないことって。ですから、私もここで、甘えている訳にはいかないなと思って。一人になると大変だけど、自分から厳しい環境に身を置いて自分を成長させていきたいんです。例え辞めても、バイザーさんは私の師匠だと思ってます。いつでも、飲みに誘って下さい(絶対行かない)。今まで本当に、お世話になりました。ありがとうございました」

 そして二年後、ライバルのネット通販アパレル企業に入社し、経営者の熱愛インスタグラムを見ながら、御機嫌で有休を消化するあなたの姿があった。

 アルバイトの場合も想定しておこう。

 ブラックアルバイトのトレンドは、個別指導学習塾であろう。

「私も、本当は辞めたくないんです。ここでは、本当によくして頂いて、社長にも、いろいろと親身になって指導して頂きました(随分、可愛がってくれたよなあ、おい)。職場も本当に楽しくて、生徒たちも可愛かったし、飲み会も多かったし(今時、飲みゅにケーションとか。全く笑わせるよ)。ですが私にも、教員になるという夢があります。実は、ここに来る前は迷っていたんです。でもここで、子供たちを教えてみて、皆さんに指導して頂いて、やっぱり教員ていいなって思って、それで教職を目指してみようかな、って思ったんです。面接では、ここでの経験を話すつもりです。何としても教員試験に合格して、立派な教師になることが、皆さんへの恩義に報いる道だと思うんです。本当に今までありがとうございました。飲み会があったら、いつでも呼んで下さい(絶対に行かない)」

 そして三年後、ブラック教員に見切りをつけて、しれっと地元の市役所で、九時五時で椅子を温めるあなたの姿があった。

 演説をぶちかます時は、なるべく自己愛性ブラックだけではなく、他の人も巻き込んだ方がいいだろう。サクラを仕込むのもアリかもしれない。自己愛性ブラックが何か言う前に、『残念だけど、しょうがないね。夢のためだもんね。頑張ってね』など言って、拒否出来ない空気を作ってもらうといいだろう。

 ポイントはまず、本当は辞めたくない、と明言することである。そして、全身でそれをアピールしよう。自己愛性ブラックが嫌だから辞めるなどと、相手に一瞬でも思わせてはならない。

 では何故辞めるのか。それは夢のため、自己実現或いは自身の成長のためである。

 自己愛性ブラックは、そうした歯の浮くような『やりがい搾取』系ワードに滅法弱い。しらじらしいほど感情を込めて熱弁してみよう。実は自己愛性ブラック本人も、そういったところがある。

 理念集、或いは社員に対して、『常に経営者の視点を持て』とか何とか宣わっている場合は、それらを利用出来る。こっちは経営者の教えを忠実に守ろうとしているだけなのだから、とやかく言われる筋合いはない。その経営者の姿に触発されて、逆に辞めなくてはならないんだ、という論理を展開すればいい。

 そして、自己愛性ブラックに対する尊敬の念を言語化して、おトモダヂ感、仲間感をアピールすること。『トッ○ダッチー、トッ○ダッチー』。分離不全の恐怖を感じさせない配慮が必要である。

 最後は、自己愛性PDお得意の既成事実化テクニックを使う。演説の最後は、お礼を述べて締める。辞めるということはもう決定事項であり、東から太陽が昇るかの如くに当たり前のことなのだ。くれぐれも『辞めてもいいか』、とか『辞めさせて下さい』などと尋ねてはいけない。

 そして、九十度に頭を下げる。顔を上げると、満面の笑顔で、その目には涙がキラリ。俺が天使だったなら。感謝と尊敬と悲しみと未来への希望の念を、相手の目に焼き付けてやろう。

 ここまでして折れない場合は、最早実力行使しかない。

 カーンバーグばりに、『貴様はファッ〇ンな自己愛性ブラック野郎だ』と、現実を相手に突きつけてやるしかない。法的、実務的手段に関しては専門家に相談を。


自己愛性ブラックに耐える


 自己愛性ブラックに耐えるのは、あくまで一時的な手段だと考えるべきである。

 余程、依存性PDとか、或いはマゾヒストで、耐え忍ぶことに快感を覚える性向なら、一生を自己愛性ブラックに捧げてもいいかもしれないが、普通の人類にはまず耐えられない。鬱病になる前に逃げることを考えるべきである。

 最終的には、相手から逃げるか戦うことになるとしても、それまではどのように耐えればいいのだろうか。

 自己愛性ブラックは、分離不全の寂しさを埋めるため、母親代わりのパートナーを常に必要としている。

 しかし、あなたがその役を演じる必要はない。

 可能であれば、同僚を生贄として差し出せばいい。私はそうした。

 もしその同僚が、長時間労働やパワハラで疲弊していたら、さりげなく励まして力になってあげよう。私は何もしなかったが。

 ただし、自分が生き残るためとはいえ、同僚を犠牲に供するのは人間としてどうなの、と言われるかもしれない。会社は不夜城とは違う。

 また、他に適切な人物がいない、あなたが矢面に立たざるを得ない、という状況もあり得る。適切な距離を置いておくのが最善ではあるが、あなたが出来る人間で好かれてしまった場合、また逆に出来ない人間で目を付けられてしまった場合、あなたに転移という名の、ストーカー的同一化執着行動に走ってくるかもしれない。

 そうなると、やはりあなたが、自己愛性ブラックのおトモダチ、仲間、ファミリー役を買って出なくてはならない。

 そのような時に、どうせ付き合わざるを得ないとなったら、相手の懐に入り込んでしまった方がいいだろう。

 相手が、リア充パリピか、脳筋体育会系で、あなたの方が超絶オタク野郎であっても、それほど気にする必要はない。無理して相手のテンションに合わせなくとも、そのままの君でいて。自己愛性ブラックどもは、そうした趣味の違いはそれほど気にしないようである。

 そして、ここでもやはり、相手の自己愛を傷つけないようにすることが基本である。

 ではガラスの少年のような自己愛を、どう扱えばいいのか。

 ここで参考になるのは、カーンバーグではなくて、やはりコフートによる『共感』であろう。

 最初は服従して、恭順の意を示す。にこやかに挨拶し、敵ではないことを全身で示す。

 むやみに反論したり、感情的になって口答えをしたりしてはいけない。

 従順な態度を示しつつも、正面から向き合うことはなるべく避けて、適度に受け流すようにしよう。

 見え透いたお世辞や、大袈裟な賞賛の言葉は、彼らには常に有効である。尊大な自慢話も、興味津々な態度で拝聴し、一言『凄いですね』『流石ですね』と言ってあげよう。

 ユーモアも忘れずに。彼らは常に、過剰な陽気さとハイテンションを好む。

 仕事でミスをした、成果が上がらなかったなどで、自己愛憤怒に陥ってキレた場合は、素直に謝罪したり、反省した方がいい。思い切って、助言を乞うてみるのもいいかもしれない。

 恐らくその話も、十中八九、オレ様的自慢話大会と化しほとんど参考にはならないかもしれないが、ここでもやはり『凄いですね』『流石ですね』とヨイショしてあげよう。

 とにかく、おトモダチ感を醸し出し、尊敬の念をアピールする。おべっかを使い、ヨイショし、褒めて褒めて褒めちぎる。あんたは凄い、あんたはグレート、お前がナンバーワンだ。

 いずれ辞めるつもりであれば、相手がつけ上り、自己愛が肥大化してブラックが悪化しようと知ったことではない。或いは、コフートばりに共感を示すことで、自己愛の成長を促し、案外真人間に生まれ変わるかもしれない。無料のセラピーだ。


 自己愛性ブラックにとって最もダメージとなるのは、孤立である。

 無視、シカトは、原則避けるべきである。怖いからといって話しかけないのはマズイ。自己愛憤怒を引き起こし、パワハラがエスカレートするかもしれない。

 もし相手が男性で、あなたが女性なら、自己愛性ブラックの母親代わりになってしまうというのもアリだ。

 多少キツいことを言っても、フレンドリーな態度なら問題ない。

 自己愛性ブラックにとって、人間関係は上か下かのみ。敬意を持って、対等な立場で他者と接することは出来ない。

 母親代わりとなって飼いならしていけば、あなたが自己愛性ブラックの幼児的な誇大感を掌握し、三歳児のようにコントロールすることだって不可能ではない。実際のところ、彼らは三歳児のようなものなのだから。

 ただし、プロの精神科医でも、患者に逆転移して、感情移入してしまい、治療に失敗したり、また自身が知り合いのセラピーを受ける羽目になったりすることもある。同調するのは表面上だけで、内心では、境界線をはっきりとさせておくことが重要である。


自己愛性ブラックと戦う


 戦う際に最も重要なことは、相手の急所を突くことである。

 自己愛性ブラックの急所とは、すなわち孤立である。無視され、シカトされ、傍には誰もおらず、呼びかけても誰も返事もせず、誰もやってこない。安心基地を求めて『ママ』と叫びながら走り回る。しかし、そこにいるはずの母親はどこにもいない。こうなったらもう泣き出すしかない。

 中学教師は、挨拶をしなかったと私を責めた。その時は、妙に子供っぽい、拗ねたような非難の仕方だったことを覚えている。

 普段はハイで陽気な第三の男が、ただ一度だけマジギレしたのは、須藤君がシカトした時だった。

 第二の男は、私が飲みの誘いに応じないと、『冷たい』と言い残して私から去った。

 部署全員で協力して、挨拶しない、返事をしない、報告しない、文書を回さないなどなど、自己愛憤怒で怒鳴り散らしても、シカト完黙で応じれば、恐らく三日と持つまい。シカトこそ、対自己愛性ブラックの最終兵器、リーサルウェポン、ウルトラマンで言うところのスペシウム光線、宇宙戦艦ヤマトの波動砲、モハメッド・アリの右ストレートである。

 しかし、いきなり必殺技を繰り出したら、三十分持たせるべきところが三分で終わってしまう。それではスポンサーも激おこである。

 それに、右ストレートのカウンターを繰り出すには、ジャブが必要である。

 とどめを刺す前に、ある程度のダメージを与えておかなくてはならないし、何より、いきなりそうした行為に及ぶと、それ自体がパワハラ認定されてしまうかもしれない。

 よって、その前にまず、相手の弱みを握り、シカトを正当化する必要がある。

 パワハラ、セクハラ、モラハラの証拠は、こまめに記録、収集しておこう。録音、録画は、簡単に出来るだろう。

 自己愛性ブラックは、ルールを逸脱し、不正に手を染めることが多い。動機は、極度の自己中心主義と、成果に対する焦燥感である。

 中学教師は、禁止されている保護者からの集金を、私の怪我を利用して、しれっと強行していた。

 成見は、必要も許可もないのに、計量のルールを無視していた。

 第三の男は、大量の欠品を無視して部品をラインに送り込んだ。

 例え一つ一つは小さなものでも、不正の証拠は、記録と収集に努めよう。

 そして、集めた証拠は小出しにせずに、タイミングを見計らって使うこと。戦力の逐次投入は避けよう。

 相手は、自己正当化と事実の歪曲化にかけてはプロである。

 自身に都合の悪い事実に対しても、本質をすり替え、他人に責任転嫁して、自身の非を絶対に認めようとしない。彼らは、ショウリョウバッタの脚並みの再生力で、すぐに復活してしまう。その隙を与えてはならない。

 それに、少々の不正であれば、上司や会社も目を瞑ってしまう可能性も高い。

 自己愛性ブラックは、取り敢えず成果らしきものは出すし、上司のケツを舐めることなど朝飯前で、上からの受けは悪くなかったりする。過労死や過労自殺の事案でも、上司の上司に上司のことを訴えていたにもかかわらず、『成績がいい』『仕事は出来る』という理由で聞き入れてもらえなかったという例はよくある。ヒット一本だけでは、得点は入らない。連続安打を繰り出すか、ホームランを狙うべきだ。

 会社のみならず、プライベートでの秘密を探ってみるのも当然アリだ。

 ブラックと戦うのに、こちらがクリーンかつホワイトでいる必要は全くない。犯罪行為や、弱みを握られるような行為は避けるべきだが、使える手段は全て使うべきだ。会社では従順を装い、プライベートで密かに相手を追い詰めるのも悪くないだろう。

 作戦の実行にあたっては、まず情報を収集し、きちんと計画を立てること。ジャブ、ジャブ、ストレート、或いはドリブル、パス、シュートと、段階を踏むべきである。

 正面切って自己愛を傷つけるような行為は、その時が来るまで厳に慎むべきである。

 途中で感情的になって衝突してしまうと、あなたは彼の敵になってしまうかもしれない。

 バックががら空きなのに、わざわざ正面に回ってから刺す奴はいない。奇襲、或いは裏切りの方が効果的なのは言うまでもない。これは関ヶ原の合戦でも明らかである。クラインの対象関係論も参照しておこう。

 相手に自身の非を認めさせて、謝罪させるなど、考えない方がいい。

 彼らの認知は、重力レンズ並みに歪んでおり、幾ら曲げようのない真実を突きつけたところで、自身に都合よく捻じ曲げることが出来る。彼らに自身の非を認めさせることは、至難の業だ。

 普通の人なら、良心に訴えかけることが出来るが、彼らに対しては無意味だ。

 彼らの良心は、全て自身に向けられており、他人の存在など目に入っていない。彼らは自身の行為が全て正しいと思っている。形勢がマズければ、引き籠る。『アーアー、聞こえない』という状態になってしまう。

 戦うことを選んだのなら、完膚なきまで叩き潰すしかない。

 そして戦う際には一人ではなく、自己愛性ブラックが大好きな、仲間を作ることが重要であることは言うまでもない。

 従順な態度でおトモダチだと思わせ、仲間を募り、弱みを握り、上司や他の部署も味方に付けて、口実を設けて全員でハブる。勿論、一発でノックアウト出来るような、不正や犯罪のネタでもあれば、それに越したことはない。

 相手は元々、邪悪な意図も悪気もない。しかしそのことで彼らを排除することをためらう理由にはならない。悪意が無いことが、逆に被害者を追い詰め、過労死や過労自殺に至ってしまうのだ。次はあなたの番かもしれない。『殺す』のではなく、『排除する』のだ。或いは『処理する』でもいい。

 ためらう気持ちがあるのであれば、過労死や過労自殺のケースを、本やネットなどで読んでおこう。

 戦いの後に彼はどうなるか。退職するか、鬱病を発症してしまうかもしれない。

 腕のいい治療者なら、流派にかかわらずきちんと治療してくれるであろう。そうでない治療者なら、『じゃあお薬出しときますね』とか言って、SSRIと眠剤と胃薬をチャンポンにして出すだけで、心理療法などは一切せずに、クスリと共に老いていくかもしれない。或いは、最悪の結果もなくはないかもしれない。しかし、そうなったとしても責任を感じる必要はない。原因はパーソナリティ障害によるものであって、あくまで本人に責任がある。

 ただし、実行する際には、自己責任でお願いします。もし自己愛性ブラックが会社でハングアップしていたとしても、私に一切の責任がないことだけは、ここに明記しておく。


 以上の対応策は、私があくまで個人的経験に基づいて考察したものである。何度も述べるように、私は精神科医でもカウンセラーでも人事労務系コンサルでもない。

 自己愛性ブラックは、基本的な特徴が似ているというだけで、人それぞれ生育環境も性格も違う。またあなたとの関係や、置かれている状況もケースバイケースである。

 相手と自身の状況を考えて、あなた独自の対応策を考案する必要がある。

 私の場合は、ひたすら回避戦術を取った。非正規だったので職場に執着する理由もなかったし、正直言って、戦うガッツもなかった。

 中学教師に対しては、失敗したとも言えるし、成功したとも言える。

 挨拶しなかったことでスゲーキレた。また、やる気がないと言ってはキレた。シカトとサボタージュによって、無自覚に敵の急所を突いていた訳だ。最終的に彼は、我々の元から去った。これは私だけではなく、部員全員の功績である。尤も、功績だと思っているのは私一人であろう。

 成見に対しては、さりげなく距離を置きながら耐えて、最終的には逃げた。

 こちらからはほぼ話しかけなかったが、彼の方は気にする様子もなかった。同時に反論したり意見もしなかった。指示には従順に従った。

 第三の男に対しても、ほぼ同様である。彼についは、病理は根深いが、あれでなかなか可愛いところもあった。自己愛性PD的躁状態で愉快な男ではあった。彼の場合は、周囲の人々が、賢明にも彼の病理を認識しながら、協力して上手く飼い慣らすことに成功していた。

 あなたが自己愛性PDでなければ、他人の立場に立って、彼らの考えや感情を想像することが出来る。

 相手は、見た目が大人なだけで、中身は三歳児同然である。上手くやれば、彼らの脆い自己愛を掌握して、操縦することも可能かもしれない。

 しかし、従業員や部下を死に追いやるような状態であれば、こちらも容赦なく、相手を潰しにかかる必要があるだろう。その後はどうなろうと知ったことではない。

 何度も述べるように、彼らに対しては、正面から非難したり、攻撃したりしても通じない。どういった手段を取るにせよ、戦略をきちんと立てて対応するようにしよう。

 健闘を祈る。


自己愛性ブラックの増殖


 自己愛性PDの患者数は、増加傾向にあると言われる。

 しかし精神疾患、特にパーソナリティ障害の場合は、本人が自覚出来ない場合も多い。何らかの症状を訴えてドクターの元を訪れても、診断を下すのに時間がかかったりする。

 よって、患者数を正確に把握するのは難しいのが実情である。

 では、自己愛性ブラックの場合はどうであろうか。

 近年の、ブラック企業問題の顕在化と、過労死、過労自殺、或いは関係諸機関への相談数の増加などの状況を考えると、減っているとは、とても考えられない。

 しかし、ここで疑問が生じる。

 自己愛性PDの原因は、主に親子関係と生育環境にあるとされる。

 かつては、戦争、貧困、病気などなどによって、早くに親を亡くしたり、家から放り出されたりといったケースは、珍しいものではなかった。

 現在でも、国や地域によっては、そうした不安定かつ危険な環境で、子育てを余儀なくされている人々が大勢いる。というより、地球規模で見ると、そうした人々の方が現在でも圧倒的に多い。

 子供たちにとっての安定した成育環境と、安全な住環境を満喫出来るのは、日本を始めとする、一部の先進諸国においてのみであろう。

 そう考えると日本でも、かつては自己愛性ブラックだらけで、現在はこれでもまた減ってきているということになるが、どこからどう考えてもそうは思えない。


 ここで、ある小説を紹介したい。

 三島由紀夫が、昭和三十九年に発表した『絹と明察』である。

 主人公の駒沢善次郎は、紡績会社を経営している。

 従業員を家族と見做し、自身は彼らの父親として、純粋な善意や使命感から、今で言うところのブラック労働を強要していた。

 彼の特異なキャラクターは、私が名付けたところの自己愛性ブラックそのものである。


『給料というものは、働きつつ貰うものであるが、働くから当然、という考え方は絶対にまちがっている。まちがっているのみならず、浅薄な考えである。会社へ入ってからの仕事の一つ一つが勉強であり、女子工員のお茶汲みも一つの勉強であり、何とかして仕事を多く覚えるよう、自ら進んで行えば、必ず能率はよく、勉強にもなるのであります。

 現在の労働基準法のごときも、労働者の権利の主張ばかりで、烈しい自由競争を生き抜き、世の動きに一歩先んじるだけの、労働者としての教養、判断力、体力の養成ということには一向目を向けていない。社会へ出たら、学校とちがって、一生が勉強である。たとえばこの会社で原綿を買うには外貨が必要だが、リンク制と言って、輸出の多い会社でなくては、政府が外貨を援助支給してくれない。輸出を多くするためには、製品の品質向上と、コストの低下を目標とせねばならぬ。新入社員諸君は、そのため、入社早々から、正確迅速な仕事を要請されるが、教養、人格、動議がそなわって、はじめて我が社の社員として、人に恥じない存在になれるのであります』


 しかし、息子同然だと公言していた社員たちの方は、ブラック労働によって、疲弊していた。


『たとえば英国十九世紀の工場監督官の報告に、労働者の食事時間の両端から五分十分を

盗掠することによって、週六時間ちかくの労働時間を増している工場のことが出て来たり、又、スコットランドの捺染工場に就業した児童を、法定通学時間を細切れにして工場から学校へ学校から工場へと小突き廻すやり方など、大槻自身の、試験勉強もままならぬ駒沢高校時代を思い出させたし、なかんずく、次のような一節は、入場の太鼓がいつも心持ち早く、退場の太鼓がいつも心持ち遅い、駒沢紡績の実情とよく見合っていた。』


 結局、工場でストライキが勃発し、主人公は破滅への道を歩むことになる。


『「父親のために工場をでっかくし、ここを日本一の工場にするには、それくらいの苦労が何や。わしかて夜の目も寝ずに働いて来よったんやで。わしはかねがね、こないな健気な息子娘を持ったことを自慢に思うとった。有難い思うて、寝る前には、毎夜工場のほうへ手を合わせとった。外国へ行く時、羽田の飛行場で、安心して行って来なはれ、あとは引き受けた、と力強う言うてくれたとき、思わず涙が溢れた。これこそほんまの我子や思うた。この気持ちは今でも変らへん」』

三島由紀夫『絹と明察』講談社文庫(1977)


 五十年以上も前に、自己愛性ブラックの心の内面を、ここまで正確に描いている事実には、戦慄するしかない。主人公の一挙手一投足から、周囲の人々の戸惑った反応全てに至るまで、機械の如く精緻に表現されている。パーソナリティ障害の概念すらない時代に、何故こんなマジックのような芸当が出来るのか不思議でならない。読めば読むほど、駒沢善次郎は、我々の良く知るブラック経営者たちそのものである。何と学校まで設立している。

 しかし、この当時から既に、彼の世にも古めかしい経営理論は、同業者からは白眼視されていた。工場の地元では、酷使される工員たちに同情の声が集まっている。

 この作品を読むと、我が国の財界は、五十年前に退行しているとしか思えない。

 作中では、主人公の経営理論を、前近代的で、かつ日本的な家父長制度に根差したものだとしている。

 しかし、彼は明らかに自己愛性パーソナリティ障害であり、彼の経営スタイルも、その心理的メカニズムに根差したものなのである。

 実際のところ、この作品はあくまで小説であり、事件はともかくとして、現実の人物にモデルがいるのかは定かではない。

 パーソナリティ障害関連の書籍では、典型的な自己愛性パーソナリティ障害の例として、三島由紀夫がよく引き合いに出される。

 しかし、自己愛性PD野郎が、人間の心理を、ここまで深い洞察力で、機械の如く正確に描くことが出来ることに、個人的には疑問を抱かざるを得ない。ナルシシズムと言われれば、確かにその通りかもしれないが、少なくとも、私が名付けたところの分離不全だとは思えない。私が間違っていると言われれば、それまでだが。


 昔から存在していたにせよ、現在になってブラック企業、或いは自己愛性ブラックが『増えて』いる背景には、一体何があるのであろうか。

 取り敢えず、自己愛性PDの自己愛、そして私が命名したところの分離不全的観点から、我が国の歴史を振り返ってみよう。

 ビッグバンが起こり、恐竜が、いや、それでは長すぎる。テレンス・マリックじゃあるまいし。戦後からにしよう。

 江戸時代から終戦を経て、昭和三十年代まで、我が国において、GDPと就業人口の比率が最も高かったのは第一次産業、すなわち農業である。その後、高度経済成長期を経て、第二次産業、そして第三次産業へと移行していく。

 農村では、農業すなわち職場と、地域コミュニティが一体化しており、早朝から暗くなるまで、隣近所の人々と一緒に汗水を流して働いた。米作はまだまだ手作業で、一人で作業したところで収穫量はたかが知れており、効率も悪かったであろう。祭りでは、皆で協力し合って神輿を担いだり、ひょっとこ踊りを踊ったりして、豊作を祈念した。戦争を挟んではいたが、農村の基本的な生活スタイルは、江戸時代から一続きのものであった。

 工業化の進展と、農村での機械化が進み、若者たちは集団就職のために、農村から都市部へと上京してきた。高度経済成長期とは言うものの、我が国はまだまだ貧しかった。生きていくためには、助け合いが必要だった。隣近所で、醤油や塩を貸し合ったり、困った時には何かと面倒を見合ったりした。それが当たり前だと見做されていた。

 娯楽もまだ少なく、近所の人たちと一緒に街頭テレビに群がり、力道山の試合に熱狂し、長嶋選手の活躍で盛り上がり、三億円事件の犯人を推理し合った。まさに映画『三丁目の夕日』の世界である。

 幾度かの停滞期はあったものの、経済は上向きで、作れば作るほどモノは売れ、働けば働くほど給料は増えた。

 一九六八年には、GDPがアメリカに次いで、資本主義諸国第二位となった。一九七〇年代半ばには、第三次産業がGDP比五〇%を超え、経済のサービス化が進んだ。

 一九八〇年代に入ると、バブル経済に日本中が湧き返った。この頃までは、娯楽の王様はテレビで、教室でも会社でも、先週観たドリフやプロ野球の話題で盛り上がった。某ドリンク剤のCMで使用された『二十四時間戦えますか』のフレーズが流行語となった。

 バブル経済下においては、夜中まで会社にいても、誰も疑問には思わなかったし、咎める者もいなかった。勿論、それだけのリターンも得られた。

 つまりこの頃までは、仕事で成果を上げて、自己愛を満足させることが現在より容易に出来たし、また職場でもプライベートでも常に誰かと一緒にいて、共通の話題があり、寂しさを感じることはなかった。恐らくその暇もなかったのであろう。いつでもどこでも他者との一体感を感じていることが出来たのである。むしろ一人でいることの方が、異常であるとされた。

 恐らく、この頃までは、多少自己愛性PDの気があったとしてもあまり目立たなかったのであろう。わざわざブラック化せずとも、自己愛は満足し、他者との繋がりを感じることも出来た。

 変化が訪れたとしたら、この後であろう。

 バブルが弾け、仕事自体が消えて無くなった。企業はリストラとういう名の首切りに走った。工場は海外に移転し、産業の空洞化が進んだ。会社に居場所はなくなった。収入も減った。労基法を無視して長時間働いても、目に見える成果を上げることは困難になった。

 元々、我が国における長時間労働は、国際的にも批判を浴びていた。一九八七年には、労働基準法が改正され、週四十時間労働が定められた。時代は確実に時短へと向かっているように見えた。

 都市化と核家族化が進行し、親戚付き合いもなく、隣の住人の顔も知らず、人々は孤立するようになった。

 娯楽が多様化し、Jリーグが誕生し、職場でプロ野球の話題は通じなくなった。

 子供たちは、日々進化するテレビゲームに夢中になり、PCとインターネットの普及により、一人でも退屈することはなくなった。現代の若者たちにとってクールなのは、日産スカイラインよりもiPhoneとなった。若者たちは自分の部屋に引き籠り、ネット掲示板に『飲みゅにケーションwww』とか書き込んで満足するようになった。

 ブラック企業というワードが誕生したのは、恐らくこの頃であろう。最初はIT企業における長時間過重労働を指す言葉だったが、その後、燎原の火の如く急速に広まった。まさに、ブラック企業時代の幕開けである。

 経済のグローバル化、そして弱肉強食の新自由主義経済政策の元で、企業は国内外で壮絶な競争に晒され、人件費の抑制が至上命題となった。派遣労働が解禁され、雇用の流動化が進行し、終身雇用は崩壊した。

 雇用と労働環境の悪化による低賃金長時間過重労働の正当化。TPOを無視した成果主義の導入による、なりふり構わぬ競争と勝利至上主義。短期的で表面的な成果への希求。表層的なコミュニケーション能力と自己アピールの賞賛。従順で順法意識の強い若者たち。

 こうした状況は、自己愛性ブラックにとっては天国のように見える。

 人々との繋がりを失った自己愛性PDが代償を求めるのは、職場において以外にない。目に見える成果を出さなければ、自己承認欲求を満足させることが出来ない自己愛性PDは、他人を利用し、蹴落としてでも、結果を出して一番になろうとする。こうして自己愛性PDはブラックへと疾走し、自己愛性ブラックとなる。

 自己愛性ブラックとはまさに、埃を食して大繁殖するダニのようなものなのである。恐らく彼らは、時代状況に適応しているだけなのだ。或いは、こうした時代そのものを、彼らのような人々が作り出しているのかもしれない。


 パーソナリティ障害の概念が誕生する前から、彼らは存在していた。

 しかし、職場でバリバリ仕事をこなし、目に見える成果を誇示し、プライベートでも寂しさを感じることなく過ごすことが出来た時代には、それほど目立たなかっただけなのかもしれない。変ったのは彼らではなく、時代の方なのであろう。モノは幾らでも売れ、年功序列で昇進出来れば自己愛も満足するだろう。常に誰かと一緒にいて共感を得られる環境にいれば、もしかしたら自己愛性PDが快方に向かうことも有り得る。人類誕生以来、つい数十年前まで、自己愛性PDの方が正常で、シゾイディで孤独をものともしない私のような人間の方が異常だったのかもしれない。

 人間は、社会的動物と言われる。肉体的に脆弱な人類が生き残っていくためには、群れにならざるを得なかった。群れることを好むのは、我々が元々、弱い存在だからだ。

 その一方で、我々は技術を進化させ、文明を発展させてきた。

 最初は、豚の骨を武器として、豚をぶん殴って狩りをし始めた。前足で道具を使い、二足歩行を始めた。他の群れとの戦いに勝ち抜いて、強い者だけが生き残ってきた。著しく文明を進歩させ、今では、恋するアパレル社長が月旅行にまで行ける時代となった。そのうち月で謎の黒い板が発見されるかもしれない。

 群れることと技術革新によって、我々人類は、より楽に生産活動を行うことが出来るようになった。生産力は増大し、人口は爆発的に増加し、発達したテクノロジーによって、今や表面上だけでも、一人で生きていくことも可能になった。本来は、労働の負荷から解放され、より安全かつ快適に生きていくために、我々は社会化し、文明を築き上げたのである。そして確実に時代は変化している。

 こうして考えてみると、この二十一世紀にもなって、夜中まで職場に居座り、同僚や従業員にしがみついてブラック労働を強要するような行為は、人類の進化と、文明の進歩に対する反逆行為とすら思えてくる。シゾイディな私の方が、人類の進化形、まさにニュータイプなのではないだろうか。そんなに労働したいのであれば、アフリカの砂漠で、豚を喰らう生活に逆戻りすればいいのだ。

 資本主義は行き詰まり、飽くことなき欲望と、行き過ぎた経済活動によって、逆に貧富の差は拡大し、地球環境は破壊され、紛争が多発し、テロや核兵器の脅威に晒され、愚かな人類どもが、未来永劫に渡って安穏と繁栄するとは、とても思えない状況となっている。

 本来は生きていくための生産活動によって、逆に生存が脅かされているのは、まさに、生きていくための仕事によって、過労死や過労自殺に追い込まれる、ブラック企業の構図にも通じるものがある。

 最早、イデオロギーも立場も関係ない。

 今こそ我々は立ち上がり、圧政に対して反旗を翻し、正義と自由の名の元に、公正な労働環境を取り戻さなくてはならない。我々は居酒屋で戦う。我々はコンビニで戦う。我々は牛丼屋で戦う。人民の、人民による、人民のための労働を。あなたが祖国のために何が出来るのかを問うのである。我々は出来る。我々は戦わずして、絶滅しない。七月四日は、アメリカ合衆国のみならず、人類にとって、真の独立記念日となるのだ。イエェェェェェェェイ。


 さて、最後に疑問を一つ。農業と自己愛性ブラックの関係である。

 少なくとも我が国においては、つい最近まで、人口の五割近くが農村で生活していた。長時間労働、そしておトモダチ的自己愛性ブラック指向は、農業と、その延長である製造業に原因があるのではないか。

 これらの疑問に関しては、またその内検討する機会が訪れるかもしれない。

 いずれにしても、時代の流れは、確実にブラック労働根絶へと向かっている。

 では、時代の流れに取り残された自己愛性ブラックと、健全で平凡な労働者たちは、今後どのように生きていけばいいのか。次章で考えてみたい。

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