第二十二章 自由への疾走
元々処理量が多く、月初に部品の供給が停滞していたにもかかわらず、今月分は終わりつつあった。
ところが、残り後数日というところになって、来月分の一部が今月分に上乗せされることになった。
どうせ梱包がなくても、ラベル切りだの来月分を仕掛けるだので残業となっていたので、残業自体は最早どうでも良かった。しかし、二月までは忙しいと言われると、タスクが終了した段階で休めずにいつ休むのか、と改めて思った。
実験Z棟に梨本さんが送られてきたので、ワイリンクの箱を作らせた。
運搬のために成見がやって来ると、梨本さんに指導を始めた。どことなく苛ついていた。
ワイリンク用は、台車に積んで重ねなくてはならない。ところが梨本さんは、普通に段ボール箱を積んでいた。作り終わった時点でまた指示しようと思っていたのだが、成見はそれがどうも気に喰わなかったらしい。
後で私に言ってきた。
「丸投げしないで下さい。ちゃんと自分でやって見せて下さい。ここは朝木さんの担当なんですから」
私の担当という割には、口を出してくるのであった。
未だに梨本さんに対しては、転移が上手くいってないようだった。
しかも、何が問題なのかはっきりとは言わなかった。あくまで私の推測でしかなかった。本人は、私が自分と同じように問題点を理解していると思っていたことであろう。うーん、自己愛性PDだ。妙な感慨に浸った。
月が変わると、タスクが多いにもかかわらず、いつもの如くワークが途切れ、残業にてラベルを切ることになった。
事務所には、伴野さんと成見がいた。
太田さんが入ってきた。
「あれ、笹井さんは」
「帰ったよ」
伴野さんが言った。太田さんが空いた椅子に座ると、向き直って行った。
「早くね」
「早いよね」
「全然、仕事してねえじゃん」
仕事してないのは困る。しかし、そもそも定時が普通ではないのか。彼らはいつもこういった会話をしているのであろう。この社員どもも、成見の仲間なのか。
成見が、面白がって叫んだ。
「ササイー」
声は周囲の機械音に紛れて消えた。
太田さんは、何のリアクションもしなかった。
彼らはブラック仲間なのかもしれないが、成見に対しては、多少は温度差があるのかもしれない。彼らとは、笹井さんの方が付き合いは長いはずだ。愚痴は言っても、成見が文句を言うのは気に喰わないのかもしれない。そもそも、成見は彼らに溶け込んでいるように見えるが、彼らの方も『何でここにいるの』と思っているのかもしれない。私は黙々とラベルを切った。
自己対象転移が上手くいっていないのは、松井さんに対しても同様だったようである。
運搬をしていると言い出した。
「さっき、松井さんに仕事を振ったんですよ」
この時は、残業の最後の三十分だった。
「時間がないのに、四チャージやるんですか、とか言ってくるんですよ。三十分で出来る訳ねえのに。一体何なんだよ」
何をそんなに切れているのか、よくわからなかった。そもそも、何チャージやるのか指示しておけば済むことだった。
「どうせ、小迫さんが手を出しそうですけどね。手伝うなって言ったんですけど」
別にいいじゃん、手伝ったって。
「そうか。わかった。段取りだけで終わると思ったんだ。あいつの計略に引っかかった」
そこまでは考えていないであろうが、自己解決したようなので、まあヨカッタヨカッタ。
数日後。
昼休み前に、成見が実験Z棟に現れると、入庫ラベルを貼り出した。
チャイムが鳴った。
ダラダラと社食に行こうとしていると、成見がまだラベルを貼っていやがる。
ダイレクト部品は、一応私の担当ということになっている。ここで彼を置いてとっとと休憩に行くと、彼はどういう反応を示すだろうか。
案外、何も気にしないかもしれない。しかし、彼のリアクションが予測出来ない。後で何か言われると面倒だ。自分がやっているのに何故私が休憩に行くのか。そんなもん、知ったことか。
かといって、手伝ってやるという選択肢もない。そこまで恭順の意を示すのは危険だ。ブラック仲間だと思われてしまう。
しかし、こいつに他者に対する気遣いというのはないのか。そういうことをされると、こっちが休みづらいとは思わないのだろうか。まあ、思わないのであろう。
ここは黙ってやり過ごすしかない。ロッカーの前でスマホを見た。ドル円も株も下がっている。まだ終わらない。ニュースアプリを立ち上げた。まだ貼ってやがる。
結局、五分近くかかって、全てのパレットにラベルを貼りやがった。
裏紙をゴミ箱に捨てると、そのまま黙ってヤードを後にした。
私が何故そこにいるのか、彼は気にも留めていないようだった。
翌週には、朝から雨が降った。午後になって成見が現れた。
何か言われて付いていった。運搬だと思ったが、そのままヤードの裏へ回り、ダイレクト工場へと向かった。一体何のつもりだ。
一階の小部屋に入った。そこの半分は機械が並んでおり、カチャカチャと機械音が響いていた。人はいなかった。『串』と呼ばれる工程で、プレートを文字通り、串状の長い棒に指す工程だった。そいつが製造へ回され、機械にセットされる。もう一方の半分には、使用されていないらしき機材やらパレットやらが置かれていた。
「ここじゃ狭いですね。丈選も一緒ですからね」
一体何の話かと思ったら、どうもこの場所に、ダイレクト梱包ヤードが移転するらしい。そんなの初耳なんだが。いや、噂レベルで聞いてはいたが、正式な話は聞いていなかった。
何を言っているのかよくわからないので、適当に話を合わせるしかなかった。
既に、こいつの性格は把握している。恐らく、私も移転について概要を知っているものと思い込んでいるのであろう。
どうも、梱包のみならず丈選も一緒になるらしい。そうすると確かに狭い。パレットをどこに並べるのか。そもそもフォークリフトが入れない。
当たり障りのない話を適当にしていると、成見が言い出した。
「まあ、椅子はいらないですよね」
『い・す・は・い・ら・な・い』だと。
おいおい、マジで言ってるのか。キヤノン電子か。いや、こいつはキヤノン電子のことなど知らないだろう。やはり発想が一緒なんだな。
とうとうここまで来たかと、気色悪さよりも妙に感心した。
しかし、よくよく考えてみるとこいつはUCが中心で、こっちは私の担当ではないか。
取り敢えず、そこだけは何とか阻止しようと思った。まさか、社員どもが同調するとも思えないし。
自己愛性ブラックから解放されてヤードに戻ると、松井さんがフラフラするから帰宅したいと言い出した。成見と一日一緒にいれば、そうなっても無理はない。或いは、気圧の影響かもしれない。にこやかに送り出してやった。代わりに梨本さんが送られてきた。
ガイドは、完成品を番号順で並べるようにと以前指導したが、何故か逆に並べやがった。番号を全く無視なら忘れていると思うが、何故逆なのか理解に苦しむ。先日はきちんとやったので、私の指導に問題はなかったはずだ。
どうも、明るく返事はするが、微妙に人の話を聞いていないようだった。内心、テンパっているような感じがする。これもDSMに記載されている症状なのかもしれない。或いは『DSMが病気を作り出している』のか。
月の前半は、三時間残業が何回かあった。
笹井さんは、今度はバレルの夜勤でヘルプとなり、KD梱包には顔を出していなかった。
月末近くになると、成見が言い出した。
「来月は休みもあるし、引っ越しもあるんで、来月分を先行して仕掛けていかないと、まあ今月みたいに残業七十時間にはならないと思いますけど。出来るだけ、やっちゃわないと」
おいおいおいおい。今月七十時間残業じゃないかと言われているところへ、来月分も上乗せするだと。それで来月は『休暇だから』とか言って、また来年分を仕掛けるとか言い出すのであろう。今月分が終わらなくて残業休出、来月分を仕掛けるために残業休出。一体いつ休むのだ。流石にうんざりだった。
まだ、当たり前に愚痴でも言い合えるのであればマシというものだが、ここの連中が相手だと、ガス抜きすら出来なかった。
トラックの運転中にスマホが鳴ると、わざわざダイレクト工場の裏でトラックを停めて電話に出た。
部品の上りがどうのと話していた。
どうも、工場の社員らしかった。何とか課長がどうのと言った。
流石にトラックを停めて、電話に出る訳だ。
残業が終わり、UC工場に戻ると、時間がまだ四分もあった。
事務所に入り、PCで来月分のチェックをしようと思ったが、デスクの上にセットの表があったのでそちらを手に取った。
成見が入ってきた。時間潰してんだから邪魔すんな。
「ラベルですか。ダイレクトはまだ出してないですよ」
それは、見りゃわかる。UC分は既に、一部出力されているらしい。
「笹井さんに切らせるんで。どうせ三十日まで来ないんだから」
そりゃ、夜勤だからな。
「もう夜勤明けでも出てもらいたいくらいですよ。今月の残業、三十六時間とかなってるけど、ぜってえ違うよ」
三十六時間でも、彼にとっては多いくらいなのであろう。私にとっても普通に多い。正直羨ましい。手伝ってくれないのはふざけんなと思うが、ブラック野郎ではない。我々は同じ側にいる気がする。
結局、その月の時間外労働時間は六十時間だった。タスクは一部持ち越しで、全て終了しなかった。これが来年まで続くのか。
ヤードが引っ越すと、入庫作業は、以前と同様にダイレクト工場の事務所で行うことになっていた。
実験Z棟のPCでは、密かに自身のファイルを使用していたが、それが向こうでも使用可能かどうか不明だった。
許可が取れないかもしれないし、許可が取れても、成見にもバレるであろう。やり取りするのが面倒なので、そうした事態は避けたかった。
取り敢えず、引っ越し前の土曜日に、自前のUSBメモリをこっそり持ち込んで保存しようと試みた。
ところが、外部HDDには保存出来ないようになっているらしかった。ウィルスを仕込んで破壊工作をしたりするのは難しそうだった。
サーバーに保存されているのなら、パスを打ち込めば、ダイレクト工場のPCからでもアクセス可能かもしれない。しかし、向こうのPCは共用なので、キャッシュを見られて誰かにバレたら、また面倒なことになりそうだった。仕方なくファイルは削除した。作業状況が把握出来なくなるが、また向こうで考えるしかなかった。それに、どうせ長くここにいる気はなかった。
小迫さんが、75RXピンの防錆を終えると、チューリップを拭き始めた。
「ああ、次Lね」
「何だ、何も言わないから」
確かに言わなかった。先程、存在に気付いた。明日が引っ越しなので、部品の搬入は既に控えていた。この状況で、ワンセットだけ残すなどというオプションは考えられなかった。
最後の餌も喰い尽くし、とうとう防錆するブツがなくなった。
すると何を思ったか、ハンドフォークを持ち出してきた。
防錆機の下に爪を突っ込もうとしているが、狭くて入らなかった。
「あ、あの、何やってるんですか」
「ピンがたくさんあるから拾おうと思って」
「いや、それはいいですよ」
何だか納得いかなそうな表情で、防錆機を見つめていた。
どうやら、こいつは本気らしい。
こんなデカくて重たいブツを持ち上げて、ブッ倒したりしたらどうするつもりなんだ。弁償だけじゃ済まないぞ。防錆が不可能になると、その分の損失も払えとか言い出しかねない。
そもそも明日に引っ越しなんだから、今更そんなことする必要ないだろ。
こうして、実験Z棟とはお別れする……はずだった。
引っ越しと言っても、日曜日に工場の担当者たちが、機材を運搬することになっていた。我々請負が手で押して、荷物をダイレクト工場へと持って行く訳ではなかった。月曜日以降に、机やらホワイトボードを運搬すると聞いていた。残った部品は、その前に梱包して片付ける予定だった。
ところが、週明けに出勤してみると、防錆機や画像選別機のみならず、事務ブースも全て新ヤード予定地に移動されていた。
部屋の半分は、丈選用のブースで占められていた。
中央に事務用デスクが並び、ホワイトボードで三方を衝立風に囲まれていた。周囲から見えないのは悪くなかった。椅子も確保された。ダイレクトの担当者は、成見並みのブラック野郎ではないようだった。
実験Z棟に残った部品は、トラックで運搬して新ヤードで梱包する羽目になった。
我々が梱包したパレットを並べると聞いていたスペースには、丈選用のピンが並ぶこととになった。
ダイレクトの社員が図面を片手に、あれこれと対応策を協議していた。どうも、計画に狂いが生じているようだった。狭すぎることは一目瞭然だった。
長田さんが現れると、相談という名の要求をし始めた。成見が加わったので、仕方なく私も後ろから加わった。
部屋を出て通路を左に行くと、バレルのエリアだった。その壁際に、ピンのパレットを置くことになった。更に奥の事務所の壁際も、取り敢えずパレットを置くスペースとなった。我々の方は、梱包済みのパレットを通路に出して並べなくてはならなくなった。恐らく私がやるのであろう。辞めるまでの間は。
防錆機は、部屋の隅に設置されていたが、ホイストがまだ無かった。天井が低かったので、ポールを設置出来るのか疑問だった。
私が雑用をこなしていると、担当者がやって来てメジャーで高さを図っていた。
どうも、実験Z棟のポールをぶった切って設置するようだった。小迫クンならホイストいらずだったが、彼一人に全てやらせる訳にもいかなかった。
翌日に早速工事が行われ、ホイストが設置された。
通路の壁には、物流の島貫さんが、緩衝材代わりのスチロールを張り付けた。
梱包作業もボチボチ開始した。パレットの隣で作業をするような状態だった。三人で作業をすると、スペースが埋まった。作業が終わる度に、私が廊下へパレットを運び出した。
成見がやって来ると、床にテープを貼れと言い出した。作業スペースやらパレットの表示をしなくてはならなかった。こちらは、二三日作業をして決めようと思っていたところだった。
仕方なく適当に指示を出すと、自分でテープを貼り始めた。
メキシコ向けは六枚のセットだったが、余程タイミングを合わせないと仕掛けられるような状況ではなかった。
成見が、セットはしばらく実験Z棟でやると言い出した。ピンは、ダイレクト工場から物流に運んでもらうことになった。
そちらは彼がやってくれることになったので、何も言わずに全て任せた。
小迫さんが、用があるとかで休むと、梨本さんが派遣されてきた。
「小迫さんがいなくて寂しいですね」
上ずった声で言った。随分表層的な会話だなと思った。彼のキャラクターとポジションを未だに把握していないのだろうか。
休憩時間に少々話をすると、どうもここに来る前は、私が以前に勤めていた工場にいたらしかった。第三の男の工場である。彼はモーターの製造ラインにいたらしい。直接雇用の契約社員だった。時期は被っているので、工場内ですれ違ったことくらいはあるのかもしれない。
私の方も告白するべきか迷ったが、結局白状した。成見も既に知っていたはずだ。
「向こう、酷かったですよね。こっちの方が全然いいですよね」
何故、そのような結論に至るのかさっぱりわからなかった。
どうも、残業が多いとか、社員の態度が気に喰わなかったらしい。
しかし向こうもこちらも、工場自体はブラックとまでは言えない。残業時間はどっちもどっちだ。たった一人の自己愛性ブラックのせいで、ブラック化に拍車がかかっているだけだ。他の連中は、ただ無自覚なだけであろう。
どちらの自己愛性ブラックがいいかと言われれば、まだ向こうの方がマシのような気がする。恐らく、自己愛性PD自体の病理は深いが、まだ可愛げがある。しかし、辞めたことは後悔していない。どちらでも重要な知見を得られた。
どうも梨本さんは、目の前の人間に同調する気があるらしい。これも分離不全なのか、こっちは依存性PDっぽいのであろうか。表向きは快活に見えるが、内心は何かビクビクしているような感じだ。この人も、その内に自己愛性ブラックに気付くかもしれない。しかし、その時には恐らく私はここにはいないであろう。
やっと時間が取れたので、移転後に初めて実験Z棟に戻った。
どうせ取り壊し予定らしく、年内は使っていても問題ないとのことだった。
中に入ってみると、作業をしているとは思えないような混乱ぶりだった。ゴミ箱もないため、使用済みの台紙やらが、適当に段ボール箱にぶち込まれていた。椅子もなかった。どうやって事務作業をしているのか謎だった。適当に片付けた。ゴミ袋が必要だった。
以来、ダイレクト工場と実験Z棟を行ったり来たりするようになった。
一人での作業は禁止されていたため、松井さんや梨本さんを連れていった。
ラベルだの仮組表だのを一々持って行かなくてはならなかった。積み上げたパレットをテーブル代わりにした。椅子はコンテナで代用した。入庫のために、ダイレクト工場の事務所まで往復する必要があった。
資材倉庫では、パートの常見さんが今年一杯で定年退職することになっていた。長田さんの二歳くらい年下ということになる。代わりは、やはりパートの女性らしい。ワークネード社員の娘は、既に退職していた。
今後の発注について話し合うとか言われて、成見に付いていった。
しかし話し合うと言っても、朝注文を出す、足りない分はまたオーダーする。それだけだった。ダイレクトはヤードが移転していたため、工場の入り口に、既にパレットの置き場を確保してもらっていた。こちらには一切関係のない話だった。
長々と話していたが、どうも内容が噛み合っていなかった。
もし足りなくなったらまた発注するしかない。なきゃないで、こちらで調整するしかない。しかし、余程のことが無ければそこまでの事態にはならないだろう。その日に翌日分を作るので、足りなくなったらそいつに手を付ければいい。それが全部無くなるという事態は、通常は考えられない。ところが、成見が何やらごねていた。二十分も費やして何を話したのか、さっぱりわからなかった。
土曜日は、ダイレクト工場のラインは休みである。稼働しているのは成形など一部だけだ。入庫するべく事務所に入ると、電灯すら付いていない。半分だけスイッチを付けて、PCに向かった。PCは電源が入ったままである。
実験Z棟の時と同様に、PC本体に保存は出来ないらしい。サーバーにファイルを作成出来るようだが、避けた方が無難だった。インターネットにも接続されていない。電灯を消して部屋を出た。
元々タスクが多く、また移転の影響もあってか、その週の土曜日は、平日同様、五時に終了した。
やや天井は低くなったが、ホイストの稼働に問題は無かった。自分でも一度試してみたが、ぶつけたり、部品をブチ撒けることはなかった。
防錆は、相変わらず小迫さんの仕事だった。その日は朝から06cを振った。ところが、前日の最後に06Fの防錆をしていた。その二つは長さがほぼ同じなので、混入を避けるために連続作業は禁止されていた。
仕方なく、75RXに変更させた。
「あーあ、やっちまったな」
小迫さんは、何度も繰り返した。そこまで言う程のことか。しかも、順番がどうのこうのと言って私を拘束してきた。ピン径の順番通りに計量すればいいということが、未だに理解出来ないらしかった。
物流も、担当者が変わった。
ネリスさんという日系ブラジル人の若者と、最近入ったという年配の日本人だった。日本人の方は斉木さんという。
ネリスさんの方は、ブルちゃんと仲良しらしく、よくポルトガル語で話をしていた。
しかし、物流のヤードに近いせいか、島貫さんが来たり、或いは他の人が来ることも多かった。三好さんや佐野さんはほとんど見かけなくなった。
冬休みが近付いていた。
朝礼にて、その話題になった。
最終日は金曜日だった。翌日の土曜日はワークネードの忘年会だった。
出来れば行きたくはなかったが、これが最後かもしれないので、まあ参加しておこうと思った。例によって、小迫さんと浦田は固辞した。
浦田が訊いた。
「休出はあるんですか」
笹井さんが答えた。
「いや、休出はないです」
笹井さんが断言しているにもかかわらず、成見が狼狽したように言った。
「ちょっと保留で」
まあ休出はしたいのであろう。こいつは休暇中、一人で耐えられるのであろうか。
しかし、笹井さんが断言しているので恐らくないのであろう。
最終日には、台車で実験Z棟の荷物とゴミを撤収した。その内に取り壊されるらしい。
ガランとしたヤードを見回してみたが、特に何の感慨も沸いてこなかった。
夜に予定が入っていると、その日一日はどうにも落ち着かない気分になる。
部屋を引っ繰り返して掃除をする訳にもいかないし、結局、昼ドラの録画を観たり、PCの整理をしたりしてダラダラと過ごした。
会場は、駅前の居酒屋だった。
なるべく時間ギリギリに行くようにした。成見一行に捕まってしまうと厄介だった。
座敷に案内されると、既に満員状態だった。私が最後のようだった。
テーブルの隅に陣取った。正面に松井さんがいた。
成見は奥のテーブルで、加藤さんや黒須君と一緒だった。やっぱり脳内社員と化しているようだった。梨本さんも同じテーブルだった。
最初は、言葉少なに食べて飲んだ。松井さんの方も、私の態度が冷淡なせいか、最近ではあまり懐いていないようだった。
その内、隣の男性と話すようになった。歳は五十代くらいで、UCの成形にいるという。
都内の工場に勤めていたが、そこが潰れたため、この近所に引っ越してきた。近所とは言ってもそこは、この市街地から離れた山の中である。中二の娘がいる。
家族がいるとなると、残業もやらざるを得ないだろう。しかし、生活は大変に違いない。娘の学費はどうするのだ。
しょぼい鍋を食い尽くし、デザートのアイスが回ってきた。二つ頂いた。楽しい宴ももうお開きだろうかと思った頃、梨本さんが、我々の元へとやってきた。律儀に、年末の挨拶をしてきた。話していると、成見までが我々の元へとやって来た。
「松井さん、飲んでますか。これ何杯目、ダメじゃないですか。まだまだいけますよ」
既に酔っている。ああ、ウザイ。
おもむろに話し始めた。
「四月になると、人事異動があるんですよ。今、係長がいるところで言うのも何ですけど、時給五十円でも上げたいでしょ」
係長が誰なのかもわからないし、時給ももうどうでも良かった。
「四月から、俺が社員になって、笹井さんが異動になるんですよ。」
それはヤバイ事態だ。しかし、以前もそんな話を聞いたような気がする。
「朝木さんはね、本当、勿体ない」
情感を込めて言った。自己愛性PDの場合、感情がこもってはいるが、同時に平坦な印象も受ける。何故か寒気がした。少し飲み過ぎたのかもしれない。
「後二年しかないんですよ。長田さんが後二年すると辞めちゃうんですよ。だからその前に、アピールしとかないと」
俺に一体、何の関係がある。
「大したことないと思っても、小さなことでも言わないと。自分はもちろん、失敗したことも言いますけどね」
流石に、こちらがシカトしていることは認識しているんだな。まだ話は続いた。
「志田さんとか、うちの黒須さんとか、まだ若いから、ちゃんと見てくれないんですよ」
自己愛性ブラックは、常に評価を求める。他の連中は、仕事さえ最低限やっていれば、後はどうでもいいのであろう。『ママ、ボクを見て』。
「大学まで行って、朝木さんが羨ましいですよ。俺バカだから。頑張ることしか出来ないんですよ」
これは嫌味なのか。
「年下にいろいろ言われて嫌だと思うけど」
いや、歳は関係ない。問題は、君が自己愛性ブラックだと言うことなのだよ。
しかし、避けているということは一応認識しているんだな。
「俺は二人しか面倒見ないから。今度は朝木さんがみんなの面倒見るんだよ。みんなに仕事してもらわないと、俺も何も出来ないから。出来ない奴はいらない。出来ないって言っても何の意味もないから」
以前は、自分と言っていたが、今では俺という表現を使っている。酔っているせいか、或いは誇大感が膨張しているのであろうか。
演説をぶって満足したのか、松井さんと、梨本さんに挨拶をして、また社員たちの元へと帰って行った。
こちらからは一言もなし。しかし、大して気にする様子もなかった。相変わらず、妙な上から目線だ。自分が時給を上げてやって、昇進もさせてやるような態度だ。これだけ聞いても何一つ理解も出来ないし、共感も出来なかった。それとも、私の方がおかしいのか。いつも悩まされる。
隣の人も黙って聞いていたが、どう感じたのであろうか。聞いてみたかったが、酒も入っているし、そこまでのガッツはなかった。
しかし、本当に社員になるとしたら大変だ。いつもの戯言だったとしても、ここまで社員社員言っているとなると、その内に臨界点に達してキレるかもしれない。とっとと辞めた方が良さそうだった。もう何年も前から漠然と辞めようとは思っていたが、そろそろ具体的に考える必要が出て来た。今まではきっかけが無かったのと、後継者がいなかったので、あまり真剣には考えていなかったのだ。いや、後継者がいないこと自体は百二十%どうでもいいが、引き留められると面倒なことが問題だった。梨本さんが定着しそうなので、彼にババを引いてもらうしかなかった。こうして退職する度に、ババ抜きが行われる。運が悪かったと思って諦めてもらうしかない。
飲み会が終わり、店の外で松井さんとブラブラしていると、他の連中がぞろぞろと出て来た。
成見は、誰かと二次会に行くという話しをしていた。私も誘われたが、にこやかに断った。松井さんは同行したようだった。梨本さんはどうしたのか不明だ。彼は隣の市から、自動車通勤をしていたはずだが、どうやって帰ったのかもわからない。最早知ったことではなかった。その後どうしたのか、そのまま冬休みに入ったので詳細は不明のままだった。
年が明けた。
休出はなかった。
最初は相変わらず、ブツが少なかった。
他の連中は定時で帰り、私と成見だけ選別になった。
どうも、一人では寂しいということで付き合わされたらしかった。
休憩室でジャラジャラやっていると、伴野さんが現れた。
「バレルの方、三人定時で帰ったよ」
「そうですか」
成見が言った。
「さっき、『残業どうする』って聞いたら、定時で帰るって言うから、『じゃあ、お疲れ様』って言ってやったよ」
成見が笑った。
「そんなに定時で帰りたいかね」
何だか、胃の辺りがグリグリとグラインドしている。
プルータスよ、お前もか。そりゃ、帰りたいに決まってんだろ。
伊達に、非正規のままGLになった訳では無かったようだ。てっきり上からの要請で仕方なくやっているもんだと思っていたが、そうでもないのかもしれない。一体、頭の中はどうなっているんだ。それとも、ボーナスくらいは出るのか。
この人も、自己愛性ブラックなのであろうか。
しかし、成見のようなボーダー的しがみつきはないようだった。或いは、私が従順過ぎるだけなのか。
ワークネード社内でも、微妙な空気の違いがあるのであろう。
前田さんや笹井さんは、普通サイドに近い。この人や太田さんは、よりブラックサイドにいるのであろう。
新工場では百四十時間男がいるらしいし、こっちの連中もこの調子では、改善は望めそうにない。会社として時短に取り組もうという意識は皆無であろう。
非正規の利点は、責任がないことと、辞めるリスクが少ないことだった。
どうせ似たような仕事がどこかにある。年齢は問題だが、どうにかなるであろう。
今期の契約は三月までだった。
辞めるとなったら、契約を更新しないのが最も無難だった。これなら、引き留めようと思っても止められまい。ワークネードの方はダークグレイくらいなので、損害賠償を請求したりはしないであろう。まさか強制的にサインさせられるなどということはあるまい。
しかし一カ月ルールは守る必要がある。
二月中に、笹井さんに退職を告げればいい訳だ。
垣内さんや新海君の例を見ていると、若干の不安はあったが、その時はその時だ。
問題は成見の方だった。自己愛憤怒を引き起こして、持って回ったしがみつきをしてくると厄介だった。
『折角今まで頑張って来たのに、勿体ないじゃないですか』
『自分が他に異動になったら、朝木さんがリーダーになれるんですよ』
その程度ならまだマシか。
『折角今まで目をかけてやったのに、こんなところで辞めるなんて有り得ないでしょう』
これは対策を立てる必要があるかもしれない。
まずは、明確な理由を用意しよう。
仕事が嫌だから、残業が多いから、自己愛性ブラックが怖いから、ではマズイ。
しかし四十を過ぎて正社員になるため、とも言えない。成見はともかく常識人にはまず通じない。いや、成見に通じればそれでいいのか。
農業でもやるか。或いは林業でも。そんなもん、そう簡単に出来るのか。或いは起業するとか。アプリでも作るか。
事務スペースは、三方をホワイトボードで囲まれている。お陰様で、誰にも見られることなくスマホを操作出来る。
検索してみると、地元の森林組合の記事が出てきた。数年前のリーマン・ショックの時に行った研修が満員御礼だったという新聞記事だ。ということは既に定員オーバーで、しかもアラフォー男を雇う可能性はほぼないと見て間違いない。
専用のサイトを発見したので見ていると、全国の森林組合で募集が行われているようだ。年齢制限が四十五歳くらいまで、という所もある。研修の合宿も行っているようだ。地方はどこも過疎化しているので、地元のみならず全国から人員を募集している。
実際にやるかどうかはともかくとして、これは使えそうである。大事なのはストーリーだ。書類を失敬するのに偽装が必要であれば、本物の自動車修理工場から電話すればいい。もし突っ込まれたら、林業への情熱を語ってやるとしよう。どうせ誰も異業種のことになど興味ないだろう。
月曜日の朝に目が覚めると、膝の高さまで雪が積もっていた。ここまで積もったのは、二年ぶりだった。
朝、笹井さんに電話した。
「他の人たちは出勤しているんですか」
「来てるよ。成見さんも、歩いて来てるよ」
『あ・る・い・て』だと。以前の部屋よりは工場に近いとは言え、歩くと一時間近くかかるんじゃないのか。社畜ぶりがエスカレートしているな。
「ああ、そうですか」
「どうする、休む」
笹井さんが、自分から聞いてきた。
「ええ、どうしようかな。休んでいいすかね」
ウチは山の方なんで、車出せません。いや、雪かきをしてお昼から、というオプションもないではない。しかし、そこまではやっていられない。相手の出方次第だった。
「ああ、いいよ。じゃあ、また明日出勤して下さい」
また、『来れないの』とか言われるかと思ったが、あっさりと了承された。まあ当然のことだとは思うが、笹井さんの方もキレる基準がよくわからなかった。
月が明けた。
有休をほとんど消化していなかったので、まだ数週間分は残っていた。前の工場では、派遣会社の腐れ社員のおかげで、数日分を会社に献上する羽目になってしまった。今回は、きっちりと休ませて頂くつもりであった。
そうなると、三月末に辞めるとしたら、その三月はほとんど休むことになるであろう。
引継ぎのことを考えると、と言うか、辞めた後にここがどうなろうと知ったこっちゃなかったが、一応常識を弁えた社会人としては、なるべく早く、退職の意思表示をした方がいいような気がした。後で恨まれても困る。
そう思って笹井さんを捉まえようと試みたが、何せ私は一日中ダイレクト工場にいるし、彼は残業せずに帰るしで、なかなか捉まえることが出来ずにいた。
数日後の午後にダイレクト工場に行こうとすると、彼がバレルのところで何やらうろうろしていた。ここで言うことにした。
理由は林業への転職。これならグーの音も出まい。
出来れば、何らかの前振りをしておきたかったが、碌に話もしていなかったので仕方ない。
「今回の契約が三月までだと思うんですけど、ちょっと、次の契約はしないということでお願いしたいんですけど」
「ああ、そうですか。じゃあ、もう三月で退職するってことでいいのかな」
「そうですね。そういうことでお願いします」
特に理由は聞かれなかった。彼もこうした事態には慣れているようだった。
もしこの後で成見が自己愛憤怒に陥ってギャアギャア騒いだり、加藤さんが遺留してくるようだったら、演説の一つでもしてやるつもりだった。
『私は四年間、この工場で、皆さんと一緒に仕事をさせて頂きました。皆さんの、仕事に対する熱意、情熱、何事も疎かにせず、細部まで気を配り、そして何時間残業をしてでも、タスクを完遂しようとする姿勢には、大変に感銘を受けました。そして思ったんです。今のままではいけないと。このままではいけない。私は変わらなくてはならない。私も皆さんのように、強くならなくてはという思いが、日に日に強くなってきました。皆さんが私を変えてくれたんです。そして考えました。自分の進むべき道は、どこにあるのか。私には私の進むべき道があるのではないか。自分の進むべき道を進むことが、私にとっては必要なのではないか。勿論、言うまでもなく、当然の如く、ここにいることも考えました。ここで皆さんといつまでも一緒に仕事を続けていきたい。そういう気持ちもあります。でも本当にそれでいいのか。ここにいては、甘えてしまうことになるのではないか。私は自分の力で、自分の道を切り拓いていかなくてはならないのではないか。そう思うんです。だからこそ、私はここにいることは出来ないのです。そして、ブラックの、ブラックによる、ブラックのための労働を、今こそ実現する時なのです。私たちは、工場で闘う、居酒屋で闘う、コンピニで闘う。そして、この三月三十一日は、アメリカ合衆国のみならず、人類にとっての、独立記念日となるのだ』
工場中で歓声が上がる。イエェェェェェェイ。自己愛性ブラック、自己愛性ブラック、自己愛性ブラック。
私の大脱走は、その翌日の朝礼にて早速発表された。
成見は特に何も言わなかった。しがみつきも非難もされなかった。
折角演説を用意していたが、無駄となったようだ。
忘年会の話から想像すると、事実を上手い具合に歪曲してくれたのかもしれなかった。自分が優秀で、先に社員になれそうだから、嫉妬して辞めるのだろうか。少々哀れだが、これも仕方のないことだ。無事に辞めることが出来れば、どう思われようと知ったことではなかった。
数日後、ダイレクト工場に行こうとしていると、中央通路で前田さんに会った。型通りの挨拶をした後で、彼が言った。
「まあ、理由は聞かないよ」
そして別れた。
辞める理由は一様ではない。彼が言っているのは恐らく成見のことだとは思うが、実際に話してみないと確信が持てなかった。私の方は用心深く、成見の愚痴など一言も言わなかった。そのことで彼も苛ついて、傷ついているのかもしれない。そもそも私の場合は、自己愛性パーソナリティ障害とか、メカニカルな話になってしまうので、感情を吐露して共感しあうといった芸当がどうにも苦手だった。いずれにしても、部署も変わって自己愛性ブラックからは解放されたし、彼にとってはもうどうでもいいのであろう。
加藤さんか何とか部長辺りに理由くらいは聞かれると思っていたが、その後、何故か会うことはなかった。『好きで残業やってると思ってんのか、このピンハネ野郎どもが』とでも言ってやろうかと思ってはいたが、結局最後まで挨拶する機会すらなかった。彼らが避けていたのかもしれない。
客観的にみても、一応事情聴取くらいはしておいた方がいいのではないかとも思うのだが、彼らの方もやはり心に疚しいことでもあるのかもしれない。この部署だけが突出して長時間労働をしているという訳でもないようなので、我々のことも特別に気に掛けているということもないのであろう。
折角気を利かせて早めに退職を告知したにもかかわらず、次のサブをどうするのかといった話は出てこなかった。しかし、最早私の知ったことではなかった。
もう辞めようという段階になって、スマホでクラウドと表計算ソフトが使えることに気付いた。土曜日でダイレクト工場の事務所には誰もいなかったので、入庫するついでに、管理ソフトで、以前と同様に今月のタスクを表計算ソフトで出力した。総数だけ計算して、ファイルを消去した。
プライベートタイムを仕事のために費やすのは不本意だったが、家のPCでファイルを作成してクラウドに保存すると、スマホで入力が出来るようになった。
とは言え、こいつを使うのも、もう今月だけだった。
笹井さんは、こちらが何も言わないのにワークネードの管理ソフトから有給の日数をプリントして持ってきてくれた。それによると、まだ二十日間残っていた。ラストデイが決まった。
前の派遣会社では駐車場代を徴収され有休を献上したが、こんなんでも、こちらの方がまだマシなのであろう。
土曜日の夜に、私の送別会が開催された。
集合場所は、電車で三十分程のとある駅だった。
何せ私が主役なので、参加しない訳にはいかなかった。
店は、鶏の唐揚げがメインの飲み屋だった。
成見、松井さんと梨本さんに加えて、坂上君も参加してくれた。
小迫さんと浦田は、相変わらず参加を拒んだ。
ビールで乾杯すると、楽しい楽しい仕事の話が始まった。浦田の話題になった。
成見が言った。
「志田さんがやれって言ったのにさあ、やってないんだよね。それで結局、志田さんに怒られてんの。わかってないんだよ、あいつは。その日の分だけやればいいと思ってるわけ。後で出て来たら、それやんないといけないじゃん。そういうとこきちんと見てるからね。長田さんが全部チェックしてるからね。あいつはただゲームやりたいだけなんだよね」
そりゃゲームやりたいだろうよ。しかし、あいつはやる気があるんだかないんだかよくわからないな。最近、成見と浦田は、ヤードのデスクで一緒に昼食を食べるようになっていた。こいつらの仲はどうなっているのか。
梨本さんは、私の隣に座っていた。
またもや、前の工場の話になった。
「正社員が定時で帰って、契約社員が毎日残業なんですよ。だから僕言ったんですよ。何で、僕たちだけ残業なんですかって。そうしたら社員の人、何も言えないんですよ」
気持ちはわかるが、それは言わない方が良かっただろう。
その社員は第三の男ではない。ただ、平凡で想像力が足りないだけである。
「こっちの方が全然いいですよね」
残業時間はこちらもかなり多い。彼が入って以来、月四五十時間はやっているはずだ。本気でそう思っているのか、何故ここまでアピールするのか、一体この同調圧力は何なのか、よくわからなかった。
私が酔った振りをして何も言わないでいると、話はまだ続いた。
「だって、碌に手伝ってもくれない癖に、まだやってないのとか言うんですよ」
随分とフラストレーションが溜まっているようだ。
「こっちの方がいいですよね」
随分としつこい。仕方なく適当に同意してあげた。
「そうですね。こっちの方がいいですよね」
ここで嫌われたくなくて必死になっているようにも見える。ここまでこちらに同調しているのに、成見にはあまり好かれていない。何故だろう。成見の方も、自己愛性PD的に話が通じないが、こちらも相手に合わせるとか微妙な空気を読むという芸当が出来ないような気がする。コミュニケーションに支障が出ているのかもしれない。
一通り飲み食いして、夜も更けた。
最後に坂上さんが言った。
「自分がサブやってた頃、朝木さんがちゃんとやってくれたんで助かりましたよ。本当にありがとうございました。これだけ言いたくて今日来たんですよ」
恐縮した。こういうことを素直に言えるのは凄いと思う。やはり育ちがいいのであろう。
これで終わり、ではなかった。
梨本さんは反対方向だったので、駅で別れた。坂上君も途中で降りた。
成見は、わざわざ終点まで付いてきて、もう一軒行こうと言い出した。彼の最寄り駅は、工場と同じく終点の前の駅だった。第三の男と全く同じ行動だった。
私はともかくとして、普段はボロクソに言っている松井さんも一緒だった。
しかし、もう一ミリも驚くことはなかった。自己愛性ブラックは寂しがり屋なのだ。
「朝木さんの知ってる店、どっかないんですか」
知ってる店も何も店自体が少ないし、地元で飲んだりはしない。
仕方なく、駅の近くのラーメン屋を提案してあげた。三人して入った。刀削麺が売りの店だった。
唐揚げを山ほど喰ったというのに、それぞれの麺に加えて、ギョーザとエビチリを注文した。料理は好評だったので、紹介した方も一安心した。
料理を平らげると、無事に駅で別れた。公園で寝るとは言わなかった。
まだ、仕事は続いた。
有休の関係で、三月も数日は出勤する羽目になった。
残すところ後二週間といったところだった。
翌週の土曜日には、二時から丈選のヘルプに入って、六時まで勤務だった。
こういう時はいつも苛ついていたが、もうそうしたことはなかった。退職したらやることリストを頭の中で作成しながら、ジャラジャラやっていた。
気が付けば、実験Z棟が取り壊されて既に基礎部分だけになっていた。
工事をしていることすら気付かなかった。
この建物と共に、私のこの工場でのキャリアも終わる運命だったのであろう。
ダイレクト工場の裏手を歩いていると、佐野さんに会った。
「辞めるらしいじゃないですか」
「ええ、もう来週でいなくなりますね」
「あの、いかれた男のせいですか」
「いや、それも理由の一つですけど」
いかれた男はたくさんいた。
実は小迫クンがメインでもないのだが、適当に言っておいた。
「辞めなくてもいいのに。異動すればいいじゃないですか」
「いや、別にそこまでしなくてもいいですよ,もう」
数日後には、同じ場所で河村さんに会った。
「え、辞めるの」
退職の挨拶をすると、驚かれた。知らなかったらしい。
「そっちも大変ですよね」
こう言うと恐縮された。やっぱりあの部署は大変なのであろう。主に人間関係が。
島村君は、何故か来月から異動となり、以前こちらの担当だった仁藤さんが復帰することになるらしい。
昔はよく、部品を回してくれないと、志田君や長田さんが愚痴っていた。
「だから残業が増えるんだよ」
志田君が受話器を置きながら言った。
休憩時間にその話をすると、梨本さんが言った。
「そりゃムカつきますよね。部品来ないんじゃあ」
残業はともかくとして、部品のことは別にどうでも良かった。
向こうには向こうの都合があるのであろう。
ここまで、こちらの工場とKD梱包セクションを絶賛しているのであれば、サブリーダーになることにも抵抗はないはずだ。せいぜい頑張ってもらうとしよう。
しかし、正式に彼をサブにするという話は未だに聞いていなかった。
その話が出たのは、月が明けて私の勤務が残り後三日という時点であった。
成見が言った。
「じゃあ、梨本さんの指導、お願いしますね」
状況としては、彼をサブにして私が指導するしかなかった。
しかし、何の前振りもなくいきなり『じゃあ』とか言い出されると、自己愛性PDのことを理解していても、やはり違和感があった。最早笑うしかなかった。わざわざ気を遣って、早めに退職の意思を伝えたのに無意味だった。ギリギリに言ってやれば良かった。
尤も、教えることなどそう多くもなかった。
防錆は、後で成見クンに指導して頂くことになっていた。
取り敢えず計量の概要だけ教えた。実作業は小迫クンにやってもらえばいい。
後は、旗振りのやり方と入庫作業全般だった。
部品は、リストの順番通りに片付けていけばいい。
ラベルを貼る。端末で入庫する。完成品を外に出す。
彼に指導している最中に、小迫さんが再三私を呼んだ。
どうでもいいような内容だった。
もしかして、こいつは嫉妬しているのか。
小迫さんの扱いについては自分で覚えてもらうしかなかった。下手をすると、その内キレて喧嘩しそうだったが、そこは私の責任の範囲外であった。
少なくとも私のようなコミュ障ではないので、物流や工場の社員とは表面上は上手くやっていけるであろう。
作業自体は単純だった。
問題は順番だ。私の場合は、今日はここまでやるとか、そういったこだわりも一切ないので、状況に応じて適当にタスクを振るだけだった。小迫さんがアレやりたいと言えば、どうぞ御自由に、と言ってやるだけだ。おかげで長田さんには良く思われてなかったようだ。『何でセットを先にやらないの』。サブとしての矜持もプライドも一切ない。やる気がない分、適応能力はあると思っている。しかし、彼がそうした柔軟な考え方が出来るかどうか疑問だった。仕事のやり方は自分で確立してもらうしかない。せいぜい小迫さんと喧嘩しないことを祈るだけだった。
後は間違えないようにするだけだった。それが一番難しいとも言えた。せいぜい指差し呼称でもして頑張ってもらうしかなかった。
翌日に、浦田がダイレクトヤードにやって来ると、彼にも計量の概要だけレクチャーした。
小迫さんとは仲がいいようなので、代理でも何とかなるであろう。
「UCは、やることないの」
私が聞いた。少々気を遣ったつもりだった。これは言うべきではなかった。
どうも、厄介払いしたいものと誤解されたようで、すぐにUCに戻ってしまった。
夕方になって、先程ほど貼ったラベルの貼り間違えが発覚した。
メキシコ向けのセットで、ピンとリンクのラベルを、互い違いに貼っていたようだ。物流の誰かが気付いたらしい。よく気付くものだ。
ここ数カ月、ミスが多くなっていた。以前は、UCでミスが発覚しても対岸の火事と決め込んでいたが、最近になって、こちらでも毎月のように問題が発覚していた。やはり疲れているのであろう。しかも、もう辞めるということでモチベーションはほぼゼロだった。もう、どうでもいい感じだった。
残業が終わると、近所のスーパーで菓子折りを買った。
そして、最終日を迎えた。
結局、この工場には四年半いたことになる。
入社当初は派遣で、工場の社員である、長田さんと志田君の指示で仕事をしていた。
彼らは、個人的にはやや面倒くさい人々ではあったが、義務感と責任感から仕事熱心なだけで、決してブラックではなかった。彼らは人生を、この仕事に捧げてきたのだ。そして長田さんは、セクションの創設者だった。自分の作り上げたものが崩壊していくのは見たくないであろう。彼らのような人々が、工場やこの国の経済を支えているのだ。自分のことしか考えていない自己愛性ブラックとは本質的に違う。
ワークネードにしても同様で、請負という立場では、元請けに忖度せざるを得ない。加藤さんを始めとする社員どもも、一部を除いては、本当は長時間労働などそこまでしたい訳ではないのであろう。
当時から残業は多いと思っていたが、必要がなければ容赦なく切られた。おかげで土曜日は、月二回くらいは休めた。そのくらいは仕方ないだろうと思っていた。
請負になり、事態が良くなるかと期待したが逆だった。円安となったが、製造業の海外移転は止まらず、自動車工場が某国に新設され、部品の輸出量が増えた。おまけに、元請けに対する忖度で余計な残業も増えた。そして、成見が覚醒した。
厚生労働省の調査によると、月四十時間の残業が続くと、病気になるリスクが高まるという。私の場合には、まさに四年以上、その状態が続いていた。
有給を消化することも考えたが、根本的な解決が図られなければ無意味である。結局、耐えるしかなかった。
今の私は、休みの日にも何をする気にもならず、洗濯物を片付けるのがやっとで、音楽を聴いても最早何も感じず、映画のDVDを観れば疲労で寝てしまうし、午後からカメラを持って歩き回るのも、楽しいのか何なのかよくわからなくなってきた。仕事もプライベートも全てが惰性と化していた。
もう何も出来る気がしなかった。
休養が必要だった。
私より厳しい条件下で生きている人々がたくさんいることはわかっていた。
小迫さんも松井さんも、成見だって独身のアパート暮らしで、生活は楽ではなかったろう。いや、よく考えたら成見は御祖母の遺産を手にしているのか。
私は八十代の母親と実家にパラサイトしており、その点だけでも恵まれているのは充分承知していた。
成見ならこう言うだろう。
『六十時間で鬱とか、あり得ないでしょう』
或いは、こうも言うかもしれない。
『丈選の連中なんか、ここで六十時間残業して、家族まで養ってるんですよ。朝木さんなんか充分恵まれた方でしょう』
しかし、他人のことなど最早知ったことではない。
他人と比較することなど、既に随分と幼い頃からやめてしまった。改めて考えてみると、私の生育環境で分離不全になっていないのは驚くべきことだ。それとも、他者に対する依存の低さは、分離不全の裏返しなのであろうか。
いずれにしても私は非正規で、独身のパラサイト、友人なし彼女なし、ここにいてもキャリアの足しになる訳でもない、やめるリスクは何もなかった。続けることの方が、いろいろとリスクがある。
世の中には未だに、リーマン・ショック後でも絶滅することなく、ブラック派遣も存在するらしい。しかし、そうした連中に比べれば、ワークネードも加藤さんたちも、まだ良心的な方である。工場の方も同様で、流石に社員は皆優秀で、基本的には善良な人々ばかりであった。大学中退のアラフォー男を雇ってくれただけでも感謝するべきであろう。
しかし、この重労働で四年半も尽くせば、もう充分だ。借りを返してお釣りがくるというものである。
今まで散々ババを掴まされてきたが、それももう終わりだ。
データは充分に揃った。
今度は私がハートのクイーンを引いて、ロイヤル・ストレート・フラッシュを決める番だった。
浦田という仲間(っぽい人間)と、ナッシーという生贄も用意出来た。
小迫クンと松井さんは人柱だ。
成見の脳内自己愛性ブラック帝国で醜く聳え立つ神殿の柱にでも埋めてもらうがいい。
朝礼では、型通りの挨拶をした。健康には気を付けて下さい。
これは割と本心だった。今のままでは、その内に成見以外の全員が鬱病を発症するであろう。案外、小迫さんあたりが一番ヤバイのではないかという気がする。
こいつらは、長時間労働の現状をどう考えているのであろうか。ついぞ、そうしたことを話す機会はなかった。これだけブラック企業が問題となっているにもかかわらず、そうしたことに無関心なのは、最早自己責任としか言い様がない。こいつらがどうなろうと知ったことではなかった。
お菓子置いておくんで食べて下さい。ありがとうございました。
最後の挨拶が終わると、今度はラベルの貼り間違いに関して吊るし上げが始まった。
今日、パレットが戻ってくることになっていた。最後の最後でミスの処理とは。まあどうでもいい。
旗振りでは、私と小迫さんがダイレクトで、何故か梨本さんが選別の応援に回された。
朝礼が終わると、成見が言った。
「ラベル貼ったの、どうせ梨本さんですよね」
その説には、何の根拠もなかった。昨日のことなのに、私自身が全く覚えていなかった。彼が貼ったとしても、ダブルチェックは私がやっていることになる。指差し呼称したかどうかさえもう覚えていない。梨本さんには、未だに転移がされていないようだった。サブになってこいつとやっていくのは大変であろう。逆に私に対しては、客観的に考えても少々入れ込み過ぎのような気がする。やはり、この辺でフェードアウトした方が良さそうだった。
解散すると、松井さんが目の前をうろうろしていた。一言挨拶をした。何故辞めるとか、長時間労働がどうとか、自己愛性ブラックとか、そういった話は一切しなかった。
ダラダラとダイレクト工場へ行こうとすると、笹井さんが言い出した。
「長田さんに挨拶した」
「いや、まだです」
結局、事務所に二人で赴くことになった。
事務所にいたのは長田さんだけだった。
笹井さんが説明し、私が挨拶をした。
長田さんは、『辞めるのか』と一言言って、微笑んだだけだった。やや元気がないようだった。年のせいか、たまたまなのか、私が相手だからなのかわからなかった。
年のせいで衰えているのだとすると、成見を社員にゴリ押し出来るのかも怪しいところだ。じゃあまた後で、と言って笹井さんとは別れた。
ダイレクト工場に行く途中で休憩室に寄ると、梨本さんが選別を始めるところだった。もし何かあったら連絡して欲しいと言って、携帯の番号を渡しておいた。上手くいけば、情報の一つでも聞き出せかると思った。ところが結局、登録確認すらなかった。どうも人望がないらしい。
ダイレクト工場に着くと、隣の丈選へ菓子折りを持って行った。ブルちゃんと女性二人に挨拶をした。
次は資材倉庫だった。
既に常見さんは退職していた。パートの女性が箱を作っていた。
退職を告げると、一応は残念がってくれた。
「二年くらい、土曜日休んでないんですよ」
そう言うと驚かれた。これが普通の感覚だ。
この部署は、土曜日にはきっちり休んでいる。こちらが毎週出勤すると、倉庫はしっかり閉まっている。
次は島村さんだった。組立ラインで捉まえた。指導中らしく、先輩らしき社員の後を付いて回っていた。一瞬だけ引き留めて一言挨拶をした。残念そうな顔をしたのは意外であった。
その組立のサブにも一言。彼とよくつるんでいるもう一人は、今日は休みらしかった。
バレルの大男も捉まえた。
「えー、辞めちゃうの。折角知り合いになったのに」
可愛い声で言った。
「みんな辞めちゃうよね」
そう言うと、どこの誰が辞めたという話しをした。そりゃ、これだけの長時間労働が続けば辞めたくもなるさ。
中二階の画選でも、顔見知りの作業員に一言。梨本さんに引継ぎをした方がいいような気がしたが、いないのでどうしようもなかった。
物流の斉木さんがやって来ると、彼にも退職を伝えた。
「三年くらい、土曜日休んでないんですよ」
実際のところ、二年だか三年だかそれすら覚えていなかった。
取り敢えず、さりげなく悪評を広めておこうと思った。
「実は僕も、この間面接受けたんですよ」
「そうなんですか」
「ここって、責任取らされるから嫌ですよね」
これも普通の感覚だ。やはりワークネードはそういう傾向にあるらしい。ただ単に無神経なのか、それともブラック的モチベーションによるものなのか、よくわからなかった。
一通り挨拶が済むと、適当にタスクをこなした。
社食で、最後の晩餐を迎えた。
昼礼が終わると、退職届にサインをした。
「残業はどうしますか」
成見が言った。流石に断った。
午後になると、昨日のメキシコ向けセットが物流の倉庫に戻されてきた。
笹井さんと成見と、三人してパレットを見に行った。
戻ってきたのはワンパレだけだった。
ピンとワイリンクのラベルが、一枚だけ互い違いに貼られていた。
笹井さんがラベルを引っ張ると、綺麗に剥がれた。
結局、再入庫の必要はなかった。ラベルを貼り替えただけで済んだ。
成見とダイレクトヤードに戻った。彼が言った。
「梨本さんを正式にサブにするのは、まだやめとこうと思って。意外といっぱいいっぱいだから、いきなりサブリーダーとかやらせると壊れそうですよね」
それで今日は選別な訳か。
壊れそうというより、君が壊さないことを祈ってるよ。
しかしその点については、私も賛成だった。意外と正確に見ているようだ。分離不全というのは間違っているのか。
しばらくは、こちらも自分で指示を出すつもりであろう。勝手にやってろとしか言い様がなかった。
「飲み会があったら誘いますよ。電話番号変えないで下さいね」
少々不安もあったが、私を誘ってくる可能性は少ないものとみていた。目の前にいなければ、私の存在など、猫並みに三日で忘れてしまうであろう。
万が一誘われても、適当な理由をでっち上げて断ればいい。誰が行くか。
「いい関係でいましょう」
よく、こういうセリフを思い付くものだ。流石に感心する。これもナルシスティックと言えば、ナルシスティックだ。しかし、私が電話番号を変えるくらいに忌み嫌っていると認識している訳だ。
それにもかかわらず、私に対しては転移して、随分と気に入ってくれているらしい。私が辞めると言ってもそれは変わらないようだ。こちらがどう思っていようとも、自身に従順な限りは気にならないようだった。重要なのは真実ではなく、見せかけなのであろう。
成見がUCに戻ると、また小迫さんと作業を続けた。
「辞めたらどうすんの」
小迫さんが言った。
また仕事を探すと言った。他の連中と同様に、それ以上の深い話はしなかった。
この男も、性格は木星の彼方までぶっ飛んでいるが、重労働そのものや、長時間労働に関して不満を聞いたことはない。
面倒くさいことも多々あったが、やりたいようにやらせておけば、シマウマの死体を前にしたハイエナの如くに夢中になって部品を貪り食ってくれたので、その点は大いに助かった。
彼は彼なりに、この仕事に対して愛着を感じているようだ。確かに、前田さんが言うように、この仕事は彼にとって天職なのであろう。
終業のチャイムが鳴ると、小迫さんに別れを告げた。じゃあ、頑張って下さいね。
まあ、勝手にやっててくれ、と思った。
そうしてダイレクト工場を後にした。
UC工場に戻ると、成見と浦田におざなりな挨拶をした。笹井さんが待っていたからだ。
通行証を渡した。ヘルメットはロッカーに置いていくことになった。
制服はクリーニングして返しほしいけど、自分で処分してくれてもいいと言った。まあ、どちらでもいいのであろう。
四月から、笹井さんが新工場に異動するという噂があった。それについて訊いてみた。まだわからないと言った。それ以上は聞けなかった。現時点で決まっていないとなると、成見が社員になるというのもやはり彼の妄想なのか。それとも、無暗に口外してはいけないのか。しかし忘年会以来、そんな話は聞いたことがなかった。
このストーリーの結末を用意出来ないのは、私としても心苦しく思う。
成見が希望通りワークネードの社員となれるのか、それとも加藤さんににべもなく断られるのか、それはわからない。
もし加藤さんに拒絶され、長田さんに見捨てられれば、彼の捻じ曲がった世界は音を立てて崩れ去るだろう。
その時に一体何が起きるのか、見当もつかない。
正社員になったらなったで、ブラック街道を驀進することになる。後釜には浦田が収まるだろう。いずれにしても私は関わりたくない。そこまでは付き合っていられない。私もそろそろ、自分自身の人生を歩むべき時だった。
私にはやるべきことがあった。この世の真理の一つをこの手に握っていた。突き詰めて考えれば、それは愛に関するものだ。親の子への愛、子の親への愛、そして自分自身への愛。このストーリーを、誰かが人々に伝えなくてはならない。それが出来るのは、私しかいない。ここで立ち止まっている暇はなかった。
ロッカーの荷物をまとめると、事務所のドアを開けた。
成見はPCに向かっていた。そんなにやることがあるとも思えなかった。自分が帰るなり、誰か帰らせるなりすればいいのに。
「どうも、お疲れ様でした」
挨拶をすると、彼も立ち上がり深々と頭を下げた。そして事務所を後にした。
それが成見を見た最後だった。それ以来、彼にも他の連中にも会っていない。
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