第二十章 中学教師
中学校に入学して最初に選択を迫られるのは、どの部活に入るのかということであろう。高校ではあまり関係ないが、中学生の時期というのはまだ、スポーツが出来るか否かが、スクール・カーストに多大な影響を与える。文化系の部活に入っている生徒は、少々肩身が狭い思いをする。少なくとも誰もが常識としてそう思っている。
しかし、今になって思い返してみると、それほど序列とか差別とか気にする必要があったとも思えない。もちろん学校にもよるのだろうが、部活よりも、結局は運と、その生徒自身の人となりが重要なのではないかと思える。
そういう意味では、バレーボール部を選んだのは今でも間違いだったと後悔している。
元々スポーツは苦手だった。そのことに気付いたのは、地域の少年野球チームに入団した時だった。
私には元々、瞼に持病がある。面倒なのでメカニズムについて説明するのは次の機会にするが、この持病のために、肩とか首の挙動がいまいちぎこちなく、動体視力も良くないので、小さなボールを追いかけたり、肩や腕を振り回すスポーツには向いていなかった。
しかしそうした正しい認識に至るのは大人になってからで、当時は他の子供たちとの、肉体的構造の違いなど全く理解していなかった。今思い出してみると、どうもコーチたちは、私が少々おかしいということに気付いていたような気がする。
そしておかしいのは肉体的要因だけではなかった。
私が多少は努力する姿勢とか真剣な姿勢を見せていれば、彼らの目も幾らかは違っていたのだろう。
ところが私には、競技に対するモチベーションというものがまるでなかった。下手だからやる気を失くした、ということも多少はあるかもしれないが、自律性とか自発性とか積極性とか意欲というものが従来から備わっていなかったらしい。自分では普通にしているつもりでも、コーチなどからどうも厳しい目線を浴びているような気がする、ということがよくあった。これは機能不全家庭が原因のアダルトチルドレン症状といえるものだ。
更にそこに貧困による無気力が加わった。グローブは、あの父親にさえ別のものを促されたにもかかわらず一番安いのを選び、バットもボールも購入しようと思ったことは一度もない。その点も恐らく周囲の私に対する厳しい認識に拍車をかけたことだろう。
極めて合理的に考えれば、退団するべきであっただろう。しかし周囲に『嫌ならやめてもいいんだよ』と助言してくれる者はいなかった。そして幾ら下手でやる気がなくても、自ら去り行く者は裏切り者なのだ。今考えても、自分の人生にとって、全く得るもののない無駄な時間だったと思う。
そういう訳で、小学校時代は、毎週日曜日が悪夢と化した。午前中には秘密の雨乞いの儀式が必須となった。
少年野球でそういう体たらくだったので、その後も自分から積極的にスポーツをやりたい、などという欲求は全くなかった。
中学でも、最初は卓球部あたりでお茶を濁そうと思った。体育会系とはいえ、一番緩そうな印象だったからだ。当時は今のような国民的人気もなく、『根暗』といわれ、カーストの中でも下位だったろう。しかし自分の性格とポジションは、だいたいそのくらいが妥当だろうと思った。レッドゾーンでもなく、ほどほどのところで透明な存在でいたかった。
ところが実際に、最初に見学に行ったのはバスケットボール部だった。同級生の河合に誘われて、数人で行くことになった。
体育館で並んで練習を見ていると、顧問の教師が言った。
「お前ら何ヘラヘラして喋ってるんだ。練習中なんだからちゃんと見てろ」
私は同級生たちと顔を見合わせると、その場を去った。
次に辿り着いたのがバレーボール部だった。
何故バレーボール部だったのかはよくわからない。しかし推測は出来る。
顧問は体育教師だった。その年に、隣の中学から異動してきた。初めての体育の授業でバレーボール部への勧誘をした。
もし全国大会に出れば、バスをチャーターして地方の会場に行って、皆で旅館に泊まって、後援会が結成されて、寄付金集めてうはうは、というような、いかにも口当たりのいいことを宣わった。
多くの生徒は、無邪気に感心していた。本当に大挙してバレー部に殺到しそうな雰囲気だった。しかし私はそこまで感じ入った訳ではなかった。元々大会とかどうでもよかったし、部活でレギュラーになるつもりなどそもそもなかった。しかし教師自身に好印象を持ったことは事実だ。体育の先生なのに、それほど怖くはなさそうだ。
その日のバレーボール部は、校庭のコートで練習をしていた。
顧問は怒号を飛ばすでもボールをぶつける訳でもなく、比較的穏やかに指導していた。全体の雰囲気も何となく明るいように感じた。
顧問が並んで見学している新入生のところにやってきた。
そして早速指導が始まった。
顧問はにこやかで、指導は上手かった。動きからして、技術が高いことがわかった。
初日からボールに触らせてもらえた、ということで同級生たちははしゃいでいた。
それが策略だったことに気付いた時には、既に遅かった。
仮入部期間が終わり、正式にバレーボール部に入部が決まると、顧問が豹変した。
中学校の部活においては、新入生は碌にボールにも触らせてもらえないということが多々ある。しかしバレー部では、最初からレシーブを教わった。
しかし特に楽しいということはなかった。
肉体的には楽な方だったかもしれない。
まずランニングがなかった。
サッカー部などは、校庭を毎日四十週走っていた。
野球部では、学校の裏山にランニングで登り、頂上でファイトとか何とか叫んで、校庭の上級生に聞こえなければ、いつまでも終わらないという過酷、というか面倒くさいことをやっていた。
元々バレーボールに、ランニングはそれほど必要ないのかもしれない。
しかし今にして思えば、この頃に体を鍛えておいた方が良かったような気はする。楽な方に流されて、結局ろくでもない結果になるのは、今でも変わっていない。
そして、他の基礎的なトレーニングも最小限だったように思う。
基礎的なトレーニングをすっ飛ばして、いきなり実技を教えるということが、どういうメンタルに基づいていたのか、当時は考えたこともなかった。しかしすぐに、精神主義を否定した合理精神によるものではないということは理解出来た。それどころか、無意味な精神攻撃に晒されて、常に緊張状態を強いられた。遮蔽物のない草原で、敵の機関銃座に対峙しているようなものだった。自分なら上手く指導出来る、とでも思っていたのかもしれない。
「何でよ、何でそうなるのよ」
レシーブに失敗すると、上ずった声でヒステリックに叫んだ。
声もやたらとでかかった。体育館中どころか、外での練習では校庭中に声が響いた。
「こうだろ、こう」
レシーブの型を自分でやってみせた。動きのキレが尋常じゃなかった。
しかし『何で』とか言われても、ズブの素人に理由などわかる訳はない。
『こうだろ』とか言われても、何をどうすりゃいいのかさっぱりわからない。
おまけに、あまりの剣幕にこちらは硬直してしまう。
「返事」
顧問が叫んだ。
「はい」
私も叫んだ。
「何で返事しないのよ」
しかし、『何で』と言われても、明確には答えられなかった。
確かに返事というのは、部活のみならず人間関係の基本ではある。この点は、私の方に大いに問題があった。最初は他の連中も、まあ似たようなものだった。しかし、こちとら小学生から中学生になったばかりで、そのようなマナーは身に付いていなかった。そういうことは最初に言っておくべきではないかと思う。しかし最初に、挨拶をしましょう、返事をしましょうといったことを言われた記憶はない。
軍隊などでは、恐らくこうしたことを意図的にやっていることであろう。『今からお前は微笑みデブだ』『サー、イエッサー』。
そして一部のブラック企業も、こうしたメソッドを意図的に取り入れている。
しかし、この顧問の場合はマジ切れだった。
しかも、普通なら一喝するば済むところを、『何で』と執拗に理由を聞いてきた。これは、その後もずっと続いた。
何故か。それは自己愛性PDで分離不全野郎だからだ。
最初から顧問がいる時は、ウォーミングアップから全力を出して大声を張り上げなくてはならなかった。普通に声を出しているだけではダメだった。ウォーミングアップをそんなに緊張状態でやっても無意味だと思うのだが、この点は顧問に限らずどこも似たようなものなのであろう。今思えば成見の言う通りだ。全くくだらない。
そして、彼がいない時でも気を抜けなかった。
ウォーミングアップの途中で顧問が現れる。一通りメニューが終わって集合する。
第一声はこうだ。
「お前ら、何で声出さねえんだ」
体育館は、片面をバスケットボール部と交代で使用していた。
そのため、練習は体育館と校庭のコートで交互に行うことになっていた。
校庭のコートは職員室から丸見えだった。そのため、一瞬でも気を抜けなかった。少しでも気を抜いて、誰かとへらへら話していたりすると、後で容赦なく突っ込まれた。
後になって上級生が笑いながら言った。
「顧問が笑ってたもんな」
「俺たちも笑いながらやってたよね」
野球部やサッカー部では、部員は皆丸刈りで、ランニングは校庭四十周だった。テニス部では、新入生は延々と素振りをさせられ、ボールに触れる機会はほとんどなかった。しかし彼らは、最初からそんなことを隠そうともしなかった。新入生の方も、皆それを踏まえた上で入部していた。
勧誘において、顧問があそこまで甘い顔をするのは、求人広告で集合写真を載せたり、社員旅行をアピールするのと大して変わらない。新入部員を集めたいという意図よりも、どうも、根本的な自信の欠如が原因ではないかと思う。そして、そうした方策による勧誘では、結局、優秀な人材は集まらない。その年の新入部員は十名程だった。レギュラーは六名で、後に私もその中に入ることとなった。ところが、最初に述べたように、私は本来スポーツ向きの人間ではないのだ。私がレギュラーに入るようで強いチームになる訳がなかった。
ある日、私が同級生たちと体育館に行くと、三年生の一人が制服のままで顧問と対峙させられていた。
三年生は四人しかいなかった。その中の一人は、実家の歯科医を継ぐべく、私立高校への受験を控えていた。そのため週何日か進学塾に通っていたらしい。
その日は、その塾の日だったという訳だ。
しばらく睨み合っていたが、塾行きを許されたらしく、彼は去っていった。
元々上級生たちは、部活に熱心ではない生徒たちが集まっていた。
そもそもバレー部自体が、運動部の中のホットスポットだった。
丸刈りもランニングもしたくない、部活なんてほどほどにやろうぜ、という生徒たちのための部だったのだ。それが顧問の赴任によって一変したという訳だ。
しかし、三年生に対してはやや遠慮が見られた。
これは恐らく同一化の不全によるものであろう。
自分が最初から教えた訳ではないので、自分の一部であるという感覚が薄かったのではないかと思う。
先にも書いたが、彼は我々の保健体育の教師でもあった。
ある日、体育の授業で、体育館に男女共に集められた。
おもむろに顧問が切り出した。
それは驚くべき内容だった。
体操着の裾を、パンツかブルマの中に入れるように、という指示だった。
顧問は言った。
「まず、運動するのに裾が出てると、邪魔になりますね。動くのにパタパタするし、お腹が見えたりしますね」
その時点からやや無理があった。しかしその後はドン引きだった。
「女子の場合、ブルマがシャツで隠れると、ブルマの部分が三角形になりますね。ちょっとエロティックですね」
早速、新しい規則に従うようにとの指示が出たが、皆最初はためらって、顔を見合わせたりした。
本当にこれをやるつもりなのか。
再度、顧問に促されると、仕方なく皆従った。
特に女子は、見栄えが果てしなく悪くなるので皆嫌がっていた。
しかし今にして思えば、彼の言ったことは全く正しかった。パーフェクトリイにライトであった。我々が三年間で、顧問に聞かされた正論じみた戯言の中で、唯一の絶対的正論だったと思う。
同年代の男子ども(だけではないかもしれないが)にとっては、女子の体操着の裾に隠れて見え隠れするブルマは、確かにエロい。エロエロだ。しかし、わざわざ敢えて問題視するようなことでもない。
恐らく彼自身の主導だったのであろう。職員室で彼が立ち上がって、言い出す。『ブルマがエロティックなので、裾を入れさせましょう』。明らかに常軌を逸している。職員室も凍り付いたことだろう。そもそも当の女子たちでさえ嫌がっていたのだ。
何故、そのような暴挙に出たのか。
理由は一様ではないだろう。
恥ずかしい格好を敢えてさせるのは、囚人服によるアイデンティティの抑圧と同じだ。誇りや尊厳を奪い去り、支配と服従を容易にする効果がある。
ブルマに対しても、ムラムラして何か言わずにはいられなかったのであろう。しかしまさか教師の立場で、『JCのブルマ最高、ヒャッハー』とは言えるはずもない。それで、あのような形で口を出すことになったのではないだろうか。
これはフロイトのいうところの、防衛機制として説明出来るような気がする。抑圧、反動形勢、代償がここではみられる。
つまり、顧問自身が欲情しないための方策だったのではないだろうか。
ゆがんだ過剰性欲と支配欲を満たし、同時にその性欲を抑え込む。かなり倒錯した高度なプレイではないだろうか。しかし生徒はともかく、教師たちの中には、何かおかしいと思った者もいただろう。いや、誰もが『こいつおかしいんじゃねえか』と思っていたと思う。そういったリスクを冒してでも、やらずにはいられなかったのだ。
パーソナリティの偏りと性的倒錯は、何か関連があるのかもしれない。これはもっと後の話だ。
体育館で、バレー部の女子部員と何か話していた。
その女子部員が何かからかうようなことを言ったらしく、顧問がヘッドロックをかました。女子生徒は喚声を上げながらその場にへたりこんだ。
まだ『セクシャルハラスメント』なる言葉も存在しない、長閑な時代の話だ。
胸に触った訳でもないので、当時なら、教師と生徒のスキンシップとして強引に押し切れるレベルではあった。『女子中学生に性的興奮なんて抱く訳ないじゃないですか』
しかし顧問は充分に楽しんだのであろう。その時の彼の表情は、どう見ても、笑いを噛み殺しているものだった。
ゴールデンウィーク過ぎの、五月のとある日曜日。朝から体育館にて部活だった。
ステージ袖で、同じクラスの河合とボールを出そうとしていた。
ボールは、専用の籠に入っていた。籠といっても、金属製のポールは太く、やたらと重かった。籠というより、動物か囚人でも入れておくような檻とでもいうべき代物だった。
ボールを出すべく上蓋を開けると、その蓋が後方に倒れた。その時、左手を檻の後部バーと蓋の間に挟んだらしい。衝撃が走って左手を抜き出した。河合が叫んだ。
左手が血塗れになっていた。よく見ると、薬指から血が噴き出していたようだった。
袖を飛び出し、バスケ部の女子が叫ぶのも構わず、通用口脇の水飲み場に駆け込んだ。水道で血を洗い流すと、左手薬指の先が潰れて裂傷が出来ていた。そこから血が出ていた。爪が根元から飛び出し、指先でくっついている状態だった。
顧問はまだ来ていなかった。
部長さんが家に連絡してくれた。母親が絆創膏を持って徒歩でやってきたが、処置なしだった。先輩に顔が青いと言われた。ショック状態だったのであろう。
何せ周りは中学生で、親は役に立たず、自分は下手に動けなかったのでどうすることも出来なかった。座って誰かが何とかしてくれるのを待つだけだった。
一報を受けた陸上部の顧問の先生が、車を出してくれることになった。近所のかかりつけの医院まで送ってくれた。元同級生の父親である医師は、日曜日の朝にもかかわらず、診療に応じてくれた。レントゲン写真によると骨折はしていないようだった。寝っ転がってナートをされていると、顧問が現れた。後で彼に言われた。
「お前は見えなかったかもしれないけど、俺は縫ってるとこもろに見て気持ち悪くなったぞ」
おかげで、入部早々に部活は見学となった。
その直後、今度は同級生の富樫が左足を骨折した。彼もバレーボール部員だった。
彼の場合は部活ではなく、体育の授業においてだった。
体育の授業で相撲など普通にやるものなのか未だにわからないが、ともかくその時はやった。
取り組中に押し出され、足を捻ったらしい。地面に倒れ込んで左足を押さえたまま悶え始めた。余程痛かったのか泣き始めた。顧問が対応し始めた。
最初は捻挫か何かだと思った。何を大袈裟な、と思っていると、骨折しているのではないかという話になった。
富樫を囲んで、生徒たちがやいのやいのと騒ぎ立てた。顧問が一喝した。
「お前ら、怪我してる人の気持ちがわからないのか。静かにしろ」。
流石に、この時の対応はまともだった。
生徒が担架を持ってきて、保健室まで運んだ。やっぱり骨折していた。
何故バレー部ばかりこうも負傷者が出るのか。呪われているのではないか、と皆で冗談を言い合った。
当然のことながら、私の方が復帰は早かった。富樫の方が、時間がかかった。
部活中に球拾いをしていると、彼がやってきた。
最初は何を言っているのかよくわからなかったが、よく聞いてみると、どうもこういうことだったらしい。
彼が顧問に、病院に行きたいので、帰っても『いいですか』と聞いたらしい。それに対して顧問は『ダメだ』と答えたらしい。富樫は困ってしまった。顧問は、『私に聞いてみろ』と言ったらしい。『いいですか』と許可を求めるのではなく、『帰ります』と宣言しなければダメだったらしい。私の方はといえば、病院に行く時にどう言ったのか、記憶が全くなかった。
『いいですか』というのは寛容的に用いられている表現であり、わざわざそこを問題にする者はいないだろう。顧問以外には。
その年の夏は、ライブエイドが開催されていた。部長さんも音楽が好きだったらしく、他の部員たちとその話で盛り上がっていた。
その夏の大会が、三年生にとっては最後の大会だった。
市の予選で、隣の中学と対戦した。
同じクラスの柳田は、背も高く、運動神経もいい超絶リア充男だった。一年生であるにもかかわらず、その時ベンチ入りしていた。
試合の途中で選手交代をした。柳田がコート入りした。
流石にネットの前でおどおどとしていた。二階から見ていても、それがよくわかった。
「凄えな、柳田。一年なのに試合出てるよ」
隣で河合が言った。
しかし、ボールに触れることはなかった。一瞬で交代となり、再びベンチに引っ込んだ。
後で、顧問が彼に言ったらしい。
『柳田、お前、何で声出さねえんだ』
柳田が言った。
「いきなり試合に出させられて、声なんか出せるかよ」
顧問としては、早くから試合に慣れさせるため、とでも言うつもりだったのであろう。しかし今にして思えば、稚拙なやり方だと思う。無意識的にマウンティングをするためだったとしか思えない。
二試合目が始まった。
ワンセット終えて、コートチェンジが行われた。
我々が二階で応援している下で、相手チームがミーティングをしていた。
二年生の宮田先輩が、言い出した。
相手チームの顧問が、フェイントの指示を出している。
私と富樫が、二階の反対側に連れていかれた。
ベンチの末席の野々宮先輩にそのことを伝えようとしたが、歓声にかき消されて、我々の声は届かなかった。後で野々宮先輩に聞いたが、やはり聞こえていなかったらしい。結局、その試合は落とした。
そのことはともかくとして、我々の顧問が、試合中にそのような戦術を立てているという話は聞いたことがなかった。
大会では、自校以外の試合で、一年生がラインズマンをやることになっている。
試合前に、私がコートの後ろでフラッグを持って立っていると、顧問がやってきた。
何故か超ゴキゲンで、後ろから両肩を掴み、指導を始めた。姿勢を落としてボールをよく見て云云かんぬん。明らかに躁状態だったように思える。そもそも、きちんとした指導など、それまで受けたことはなかった。
恐らく、誰か知り合いと話でもして、ハイになっていたのであろう。
試合は一勝一敗で、目出度く地区予選に出場が決まった。
前年まで、市内には男子バレー部が二校しかなかった。
三校目は、その年から新設されたらしく、メンバーは皆一年生だった。
そして、地区予選で敗退した。
三年生の、最後の練習日。
その時は外での練習だった。何故か、時間より早く練習が終わると、校舎の通路付近に集合させられた。三年生の送別会をやるという。
近所のスーパーで、誰かが菓子パンを買い込んできたらしく、みんなでそれを食べた。
三年生がいなくなると、指導も厳しさを増した。
『何で、何でよ』
『お前ら、やる気あんのか』
『返事』
『お前ら、何で声出さねえんだ』
最初から最後まで、怒鳴りっぱなしだった。
ミスをする度に指導が入った。というより、キレた。これも自己愛憤怒と呼べるのであろうか。
そして事あるごとに言った。
「お前らは、努力が足りない」
その日も、どうした経緯か覚えていないが、というより、いつもどうした経緯かよくわからなかったのだが、顧問の説教が終わると最後に言った。
「お前らは、やれば出来るんだぞ」
そして、私を見たような気がした。
「この中に、学年トップの奴もいるんだから」
後で河合が言った。
さっきのは私のことだと。
確かに、入学早々のテストでは、五教科トータルで四百五十点オーバーだったと思う。
しかしこのことは、この顧問の元で部活をやる上ではマイナスに作用したのではないかと思われる。理想化転移を引き起こしかねないからだ。
ある日、朝から気分が悪くて部活を休んだ。顧問の家に電話して、休むと伝えた。
次の日は、クラスの班で文化祭のミーティングがあった。当然の如く部活もあった。
教室の前にいると、校舎の反対側の端に、何をしていたのか顧問がいた。他の教師と話しているようだった。
ミーティングが終わると、体育館へと向かった。練習はちょうど休憩中だった。
顧問に事情を伝えた。文化祭のミーティングで遅れました。
当然のことながら、顧問は言った。
「お前、何で連絡しねえんだ」
「昨日、休んで」
「昨日は関係ないだろ」
流石に、キレて怒鳴った。
そう言われると、もう言うべきことはなかった。
昨日休んでいたので、その延長として扱われるものと思っていた。
甘かった。きちんと連絡するべきであった。
恐怖で震えあがって、硬直した。どうやって事態を収めようかと考えたが、いいアイデアは浮かばなかった。謝罪するというオプションは、思い付かなかった。この点は、私も大概である。
顧問が言った。
「だって、お前さっき、あそこいたじゃねえかよ」
今にして思えばそれは、泣きそうな言い方だった。まるで、子供が必死になって何かを訴えているような、そんな言い方だった。
しかし、プレッシャーに負けて泣き出したのは私の方だった。
確かに、いたことはいた。しかし校舎の端と端だった。おまけに誰かと一緒にいた。その状態で、わざわざ挨拶をする必要性があるとは思わなかった。
これは礼儀云々という問題もあるが、それ以上に、AC的でシゾイディなパーソナリティの問題の方が大きい。
私は今でも、挨拶をするのが苦手である。
自尊感情が低く、自分など、いてもいなくても誰も気にしないと思っている。出来れば、自身の存在をアピールしたくない。自分などが話しかけるのは迷惑な行為であるとさえ思っている。理屈では理解しているが、歪んだ認知と、行動のパターンを変えるのはなかなか難しい。
増してや、この顧問に自分から話しかけるのは、なるべく避けたかった。そこまで自分のことを気にしているとは全く認識出来ていなかった。TVドラマの如く『先生』とか言って抱きついたりすることが出来れば良かったが、私には無理である。
しかしこの点は、上級生も似たり寄ったりだったようだ。
ある朝、体育館に入ると、制服を着た二年生が三名、顧問の前に直立させられていた。
やっぱり文化祭の準備のため、クラスでどこかに見学に行くようだった。そのことを事前に伝えていなかったらしい。しかし、伝えるにしても理不尽にキレるし、普段から普通にキレているので、伝えるタイミングを逃したのかもしれない。
しばらくのやり取りの後、突然、練習が始まった。
その三名が制服のままでコートに入り、レシーブの練習が始まった。
しばらく続けて満足したのか、その三名は解放された。
地区大会で負け、三年生は既に引退していたが、何故か県大会に行くことになった。
試合を見学して、感想をレポートにして提出することになった。
顧問に引率され、電車を乗り継いで県の体育館へと行った。
流石に県体はレベルが違った。サーブからして違った。体格や動きが違った。テンションも違った。丸刈りの学校もまだ多かった。
帰りには、県立博物館に寄った。皆で見学をした。先輩が籠を担ごうとしたが、重くて動かなかった。
「たまには、こういう社会見学もしといた方がいいんでね」
穏やかに言った。
何故か、機嫌が良さそうに見えた。今ならその理由も理解出来る。
部活に明け暮れた夏休みが終わり、新学期が始まった。
練習は相変わらずだった。
校庭で練習していると、顧問が現れる。
「お前ら、何ヘラヘラやってるんだ」
冷たく言い放つ。
しばしの沈黙。
「お前ら、やる気あんのか」
「あります」
部員たちが、必死に叫ぶ。
そうして、また練習が始まる。機嫌が悪いとまた怒鳴り散らす。
ある日、校庭のコートでレシーブの練習をしていると、顧問がやってきた。いきなり言い出した。
「お前らが、どれだけやる気があるのか、見せてもらいたい」
しかし、『見せてみろ』と言われても、何をどう見せればいいのか、さっぱりわからなかった。
しばしの沈黙の後、一人が何か言い出した。
細かい内容は覚えていないが、如何にやる気があって、練習を頑張ります的なものだったと思う。
顧問が言った。
「練習に戻れ」
そうすると一人、また一人と『信仰告白』をして、コートへと戻って行った。
『おいおい、これは一体何なんだ』
とにかく、何か言わなくては、と思った。
実は、頭の中で何を言うべきか考えてはいた。
『僕は怪我をして、しばらく練習を休んでいたので、遅れを取り戻すために頑張ります、うんたらかんたら』
本当に言うことが出来たら、なかなか感動的かもしれなかった。
しかし、思いもよらない方向から突っ込まれるのではないかと怖くて、結局、何も言い出せなかった。
これは俗に言うアダルトチルドレン的症状である。
そして、早く何か言わなくては、と思う反面、頭の別の部分では妙に醒めていた。一体何の茶番だ。まるで安っぽい学園ドラマのようだ。
更に、このまま放っておいたらどうなるんだろうか、という好奇心もあった。
その場を丸く収めなくては、というプレッシャーに加えて、いくばくかの反抗心と反逆精神、そして好奇心、それらの感情がグルグルと頭の中で渦巻いて動きが取れなくなった。やがてタイムオーバーとなった。まあ優柔不断ということは確かだ。
最後に、村井と富樫と私が残されると、キレて帰ってしまった。
「お前ら、やる気がないなら、俺はもうやめる」
部員たちが集まってきた。何やってんだよ、お前ら。どうするどうする。
仕方なく、その日は顧問抜きで練習をこなし、翌日に、部長さんが顧問の元へ行って謝ることになった。
その後、再び練習に出てきた。
しかしまた、練習中にキレて途中で帰った。理由はよくわからなかったが、私のせいではなかったと思う。
部員たちが集まり、緊急のミーティングが始まる。どうするどうする。部長さんが顧問を追いかけたが、車に乗って帰宅してしまった。
次の日に、部長さんが職員室に行って聞いた話を我々に伝える。やる気がないなら、云々かんぬん。
取り敢えず、顧問抜きで練習を続けていると、機嫌を直したのか校庭に顧問が現れる。
お前ら、やる気あんのか。はい。
そうして、練習が始まった。
三年生が引退すると、試合用のユニフォームが一新された。
それは、襟無しのTシャツのようなタイプで、色は黒だった。
どうも、顧問が一人で決めたらしかった。
当時、バレーボールのユニフォームは、襟のあるポロシャツのようなタイプが一般的だった。
部員たちには不評だった。何故、このようなチョイスになったのか理解不能だった。
その新しいユニフォームを着る機会が訪れた。
十月に入り、二年生の新人戦が始まった。
試合の前日だった。
帰宅時間は夕方の六時だった。
そのため、練習は五時四十五分頃に終了する。そこから教室に戻り、着替えて校門を出なくてはならなかった。
門限を守らないと、一週間の部活動停止処分をくらうことになる。
その日、四十五分に練習を終えると、河合と村井に私を加えた三人が、明日の試合に持って行くボールを体育館に取りに行くことになった。
教室で着替えて、三人で校舎の階段を降りていると、副部長と野々宮先輩に会った。
「大会の準備なら、門限に遅れても大丈夫だよ」
野々宮先輩が言った。
特に疑うべき理由はなかった。
体育館に入ると、バスケ部の連中が翌日の準備に追われていた。
三人して、ボールのケースやら携帯用の籠やらを持ち出すと、玄関を出ようとした。
「俺、先に行くよ」
河合は一人で先に行った。
私も後に続こうとした。
「待ってよ」
村井が言った。
「大丈夫だよ。時間関係ないんだから」
そう言うと、玄関に腰掛け、ゆっくりと靴を履き出した。
チャイムが鳴った。
体育館を出て、悠々とロータリーを歩いていると、担当の上級生が飛んできた。
「大会の準備なんですけど」
「それバスケ部だけだから」
そう言うと、職員室に連行された。校門では、ギャラリーたちが何やら騒いでいた。
職員室で、顧問の前に突き出された。
「ヘラヘラ笑ってんじゃない」
顧問が怒鳴った。職員室が揺れたような気がした。
「何で、遅れたんだ」
理由は明確だった。しかし、言っていいものかどうか迷った。
今だったら気にしないだろうが、当時は、野々宮先輩を売るような気がして躊躇した。
それに幼い頃から、テレビで戦争映画やアクション映画を観るのが好きだった。
尋問されたら黙秘するのが当然のことだと思っていた。仲間の名前を簡単に売ることなど出来なかった。
プレッシャーに耐え切れず、私はまた泣き出してしまった。
「言えるようになるまで、そこで正座してろ」
そう言うと、顧問はどこかへと消えた。
デスクの前で正座していると、村井が言った。
「野々宮先輩に言われたって、言えばいいんじゃないの」
だったら、お前がそう言えばいいだろ。何で俺が言わなくちゃならんのよ。
黙って正座していると、理科の先生がやってきた。
彼は、その年に教師になったばかりの新人で、水泳部の顧問をしていた。
「理由を言えって言われたんだろ。だったら、はっきり言わなきゃ」
顧問が、どこからともなく帰ってきた。
おもむろに顧問の前に立ち、事情を説明した。野々宮先輩のせいで我々に非はない。彼を吊るせ。
「だったら、最初からそう言えばいいじゃねえか」
まるで子供が拗ねているような言い方だった。
「もういい。早く帰れ」
翌日、河合が言った。
「あれ、ヤバイと思ったんだよな。だから、俺早く行ったんだよ。村井なんか置いていっちゃえば良かったのに」
野々宮先輩には謝罪を受けた。
「ゴメンね。俺が間違えたせいで」
どうも、彼の思い込みだったらしい。
後日、理科の授業中に私が後ろを向いていると、理科の先生に注意された。彼が呟いた。
「折角アドバイスしてやったのに、感謝の言葉もない」
確かにその時は、そのような発想は全くなかった。
礼儀云々の問題もあるだろうが、結局それは、他人に関心がないからだ。教師なら、是非覚えておいて欲しい。
ちなみに、この理科教師は隣の中学出身で、顧問のことも、その当時から知っていたらしい。ある日、授業中にその頃の話をした。
「授業を抜け出して、フェンスを乗り越えようとしてたんだよね。そうしたら、目の前に顧問がいて、腕組んでじーっと見てんの」
当時から強面で通っていたらしい。
地区大会に進出することにはなったが、村井と私のせいでボールが使えなかった。
しばらくは、外のコートの整備をして時間を潰した。これではバレー部ではなく土木部だと冗談を言い合った。
試合の数日前になると特別に練習が許可された。顧問が出てきて『普通に』練習をした。
地区大会まではリーグ戦である。
第一試合の最初のセットまでは善戦した。顧問も、どことなく機嫌が良く見えた。
しかし、結局逆転されてそのセットを落とした。
顧問は、試合中にもかかわらず怒鳴った。
「何でよ、何で、そうなるのよ」
ベンチから立ち上がって、レシーブの仕草をした。
「こうだろ、こう」
試合中にレシーブの指導をしているようでは、勝てる訳がない。
次の試合も負けて、県大会へは進めなかった。
地区大会が終わると、謹慎期間の残りを消化しなくてはならなかった。
とある朝練のことだった。
選りに選って私と村井が、二人揃って遅刻した。
最初に、普段はやらないグラウンド五週のランニングをしていた。
当然の如く、他の部員たちが五周走り終えても、我々二人だけは、まだ広い校庭を走っていた。
ここで顧問が来たら、かなりヤバイ事態になる。
我々だけは十週走っていることにしよう。なかなかいいアイデアだ。しかし、どうやって話を合わせる。
結局、部長さんに言い出す勇気もタイミングもなかった。何より、遅刻した当事者がそんなことを言い出すのもどうかと憚られた。部長さんが機転を利かせてくれることを祈ったが無理だった。
運悪く、顧問がやってきた。朝から御苦労なことだった。コートで挨拶をして再び去って行った。
グラウンドの反対側から、彼が帰るのが見えた。そりゃそうだ。
五周を終えてコートに辿り着くと、皆の歓迎を受けた。
何やってんだよ。だいたい何で、お前らが遅刻するんだよ。
自分でも、何故このタイミングで遅刻したのか皆目見当がつかなかった。当然の如く、そんなつもりはなかった。やる気がないのは元々だったが、間が悪いというか、運が悪いとしかいいようがなかった。
またまた部長さんが、後で執り成しに行くことになった。
数日すると、我々の失態は有耶無耶になり、また顧問は復帰した。
とある日曜日。
他校に練習試合に行くことになった。
勝ち負けは覚えていないが、恐らく負けたのだと思う。
その帰りだった。
駅に着くと、私と東原が、電車の時刻を見て来いという指示を受けた。
階段を駆け上り、時刻表を見た。発車時刻の一分前だった。
私が言った。
「もう無理だよね。次でいいよね」
後ろの人々に伝えようと振り向くと、その横を顧問が、猛牛のように突進してきて、改札口を通り抜けた。
部員たちが、後から続いた。
プラットホームの階段を駆け下りた。
目の前で、電車が去って行った。
顧問はベンチに一人腰を降ろすと、説教が始まった。
「俺は七時までに帰って、シャワーを浴びたかったんだよ。早く乗りゃあいいだろ。何、お前ら、ポケーっと突っ立ってんの」
そして私に振ってきた。
「お前が時刻表見た時、何分だった」
一分前だったと言おうと思っていると、そのまま通り過ぎて、またうだうだと話し始めた。
特急が、轟音を立てて通り過ぎた。
結局、次の電車が到着したのは七時を過ぎてからだった。
他の部員たちは不満たらたらだった。何言ってんだ、あいつ。シャワーとか知らねえっつうの。
普通に考えれば間に合わなかったろう。発車一分前だったし、部活の遠征で、引率教師が無理な乗車をさせるのは大いに問題であったろう。
しかし、当事者の私は、文句も言わずにしばらく考え続けた。
私があの時、急いで声を掛けるべきだったのだろうか。
新人戦が終わってしまうと、翌年まで大会は無かった。
練習は相変わらずだった。
また信仰告白を強要され、またまた私は何も言えなかった。
その時は、顧問は帰らずに練習を続けた。私と富樫は、校庭のコートの脇に立たされた。後で、練習に戻ることを許された。
この症状には、しっかりと名前が付いている。
DSM-5の『不安障害/不安症候群』には、『選択的緘黙(せんたくてきかんもく)』という項目が存在する。特定の状況において、話せなくなるという症状である。
詳細は以下の通り。
『選択的緘黙(Selective Mutism)』
A.他の状況で話しているにもかかわらず、話すことが期待されている特定の社会的状況(例:学校)において、話すことが一貫してできない.
B.その障害が、学業上、職業上の成績、または対人的コミュニケーションを妨げている.
C.その障害の持続期間は、少なくとも一カ月(学校の最初の1カ月だけに限定されない)である.
D.話すことができないことは、その社会的状況で要求されている話し言葉の知識、または話すことに関する楽しさが不足していることによるものではない.
E.その障害は、コミュニケーション症(例:小児期発症流暢症)ではうまく説明されず、また自閉スペクトラム症、統合失調症、または他の精神病性障害の経過中にのみ起こるものではない.
米国精神医学会(APA)高橋三郎 大野裕監訳『DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引』医学書院(2014)
そして、何かのきっかけで、また練習を放棄して帰った。
その度に、どうするどうすると臨時ミーティングになった。部長さんが追いかけるも、赤いサニーを運転してとっとと帰宅してしまった。後で彼が職員室を尋ね、お怒りを解いて、練習に来てもらった。
しかし、キレる理由がよくわからなかった。声が出ていない、やる気が感じられない、態度が気に食わないといったところらしいが、具体的に何を要求しているのか、見当がつかなかった。とにかく『やる気』らしきものをアピールするしか考えつかなかった。ところがそれは、私の最も不得意とするところだった。
その内に、ボールを触っているより、ミーティングという名の雑談をしている時間の方が長くなってきた。
とある休日。
その日は、体育館での練習だった。
一年生が、順番にサーブを打つことになった。
誰かが顧問の前でサーブを打つと、彼が言った。
「はい、うさぎ跳び一周」
また一人、また一人と、サーブを打ち、うさぎ跳びを始めた。
最後に私がサーブを打った。
何故か私だけは、うさぎ跳びの指示を受けなかった。後で河合に言われた。すげえな。
ところが、他の連中は何故ダメで、私だけは何が良かったのか、よくわからなかった。
この時期、何か気に食わないことがあると、うさぎ跳びをさせられた。言うまでもなく、当時既に足に悪いということで、全国的に禁止されていた。
更に、こんなこともあった。
やはり、日曜日のことだった。
理由は忘れたが、練習の最後に準備室で正座させられた。
何やら『努力』がどうのと、説教を始めた。
最後に言った。
「お前ら、正座に慣れておけよ。おやじの葬式の時に、困ったぞ」
ブラックなジョークだと思って、私は微笑んだ。顧問と目が合った。
他の部員は、誰一人笑っていなかった。
笑っていたのは、私だけだったようだ。
多少機嫌がいい時は、部活とは関係のない話もした。
スーパーで買い物をする時は、電卓を持参するらしい。
「それで値段が違うとレジで言うのよ。『違いますよ』って」
当時はバーコードリーダーもPOSシステムもなく、レジでは、値段を手で打ち込んでいた。
また家の電球を変えた話も聞いた。
玄関は蛍光灯にして、トイレなどは白熱電球にした。
例によって、得意気に自慢するような口調だった。
電気代を節約して、環境に優しいのは結構なことだった。
当時は、パーソナリティ障害なる言葉は知らなかった。私が彼を形容するのに使っていたワードは『偏執狂』だった。
この当時は既に、日教組の組織率は低下の一途をたどっていた。
顧問が言った。
「前にいた学校で言われたんだよ。みんな入っているから、入らないかって。でも俺は言ってやったね。入らないって」
どうも、他の人に流されずに、自分で考えて行動しろ、と言いたいらしかった。
しかし、流石に中学生だったので、日教組が何なのかよくわからなかった。
今なら、日教組がどうなろうと知ったことではないが、中学生相手に得意気に話す内容とも思えない。余程こだわりがあったのであろう。
前の学校では、女子バレー部の顧問をしていたらしい。
「ある部員がやめるって言い出したんだよ。理由を聞いたら、『本を読みたい』って言うんだよ」
この話のオチは、覚えていない。
しかし、二回聞いたことは覚えている。
余程、辞められたことが悔しかったのであろう。
下ネタも好きだった。
一年生の染谷は、ややヤンキーっぽい生徒だったが、背も高く、運動神経も良かった。顧問にも、あまり憶することなく話しかけていたようだ。
外で練習が終わると、顧問が楽しそうに言った。
「染谷が、チ〇コの先、赤く塗るんだとよ」
まだ我々は、中学一年生だった。
スライディングの指導が始まった。
「女は胸が出てるから、これは出来ないけどな」
そう言うと、楽しそうににやついた。
顧問には、まだ小学生の息子と娘がいた。
息子さんは、サッカーのチームに入っていたらしかった。
顧問が話し始めた。
ある冬の寒い日、息子のチームが、どこかの女子チームと練習試合をすることになった。
息子のチームは、ウォーミングアップをして準備していた。女子チームの方は、コートを着込んで、風に吹かれて寒い寒いと言っていた。
「それを見て俺は思ったね。あ、これは勝ったなって」
彼の予言通り、試合には勝ったらしい。
奥さんも、バレーボールをやっていたらしい。馴れ初めは聞いていないのか、忘れたのか覚えていない。かつては銀行に勤めていたそうだ。
「だから俺は言ったのよ。お前よく、一日中あんな制服着て我慢出来るなって」
顧問は体育教師なので、常にジャージ姿だった。おまけにガタイが良かった。腹は出ていいたが、ガッチリした体格で、ステップを踏むと機械の如く精確だった。
その家族を、日曜日に何度か連れてきた。
ところが、わざわざ家族を連れてきて、またまたへそを曲げて帰りそうになった。
部員たちが追いかけようとした。奥さんが言った。
「早く行きなさい。あなたたちの顧問でしょ」
奥さんは、状況を理解していたらしい。出来た人のようだった。
後に三年生になった時にクラスメートから聞いた。
親戚が顧問の家の近所に住んでいる。毎晩、怒鳴り合って喧嘩しているらしい。
そのことを聞いても、特に驚きはしなかった。家族には同情した。
年が変わった。
顧問から、我々部員を通じて、保護者宛に一枚の通知が配られた。
そして、二月のとある土曜日。
我々の保護者が来校し、練習を見学して帰った。私の母親も、彼らの群れに加わっていた。
その日は、外のコートでの練習だった。
流石にその日は、他の部活と変わりないテンションで、比較的穏やかに練習を終えた。
母親たちが帰り、練習が終わると、顧問が言った。
「本当は、保護者からお金を集めるのは禁止されているんだけど、まあ怪我もあったんでね」
私を見て言った。
どうも、この見学会は寄付金集めのためだったようだ。
彼が言うように、保護者からの集金は禁止されていたらしい。
どうやら私の怪我を利用したようだった。
普段は偉そうなことを言っているわりには、平気でルールを破るようだった。しかし職員室で、彼に意見する者などいなかったであろう。我々の学年主任で担任を統括する立場だったし、言うまでもなく、生徒だけではなく教師たちも関わり合いになりたくはなかったであろう。
その後、ボール用の籠が新調され、新しいボールが増えた。
その日は、体育館での練習だった。
夕方の練習も終盤だった。
最後に、レフトからのアタックの練習をしていた。
因みに、私はそれほど背が高くない。ギリギリでアタッカーに加えられていた。しかし、ジャンプ力があった訳でもなく、ネットを越えているのか自分でも定かではなかった。ジャンプ力を高めるようなトレーニングも特にやっていなかった。指導もされなかった。
顧問がセンタリングして、私がアタックを打とうとした。前に入り過ぎたらしく、頭上で打つ羽目になった。本来は、顔の前方で打たなくてはならなかった。
コートの前から退去しようとすると、ボールが飛んできて顔面を直撃した。顧問だった。
痛かったが、出血はしていないようだった。
周囲の同情を余所に、再び列に加わった。
今度は上手くヒットした。
「そうだよ。やれば出来るじゃねえかよ」
顧問が言った。
どうも、一時的に集中力が高まったかのかもしれない。
しかし、アタックが決まったことは嬉しかったが、やや釈然としなかった。
教室に戻って着替えていると、河合が言った。
「すげえな。ちゃんと出来たもんな」
純粋に感心していたようだった。
直接手を出されたのは、この時だけだった。
練習においては、体罰はほとんどなかった。
しかし現在であれば、充分モラハラ認定出来るレベルだ。ヒステリックに怒鳴り散らす。とにかく声がでかいので、威圧感はハンパない。どこでキレるのか、見当がつかない。地雷原をスキップしているようなものだった。うっかりミスをすると、市場に引かれていくウシにでもなったような心境になった。練習中は、いつも恐怖感と緊張感で委縮し、思考停止に陥った。とにかく、余計なことをせずに時間まで無事に練習を終えることしか考えていなかった。
しかしそれも、顧問がいる時の話だ。
冬から春になり、新年度を迎える頃には、顧問の部活放棄が慢性化していた。
新入生勧誘の最中も、部活は機能不全に陥っていた。
またまた顧問が逃亡して、校舎の玄関の近くで皆が集まっていた。何故そこに集まっていたのか、今では覚えていない。
対応策を協議していると染谷が言い出した。
「顧問がさあ、『お前が新入生を脅してるんだろ。新入生が入ってこねえぞ』とか言うんだよ。俺、そんなこと言ってないのによ」
すると、意外なことに彼が泣き出した。
「何で、そんなこと言うんだろう。俺、先生のこと好きなのによ」
またまた学園ドラマじみた展開になってきたなと思った。
「ちょっと俺が言っておくよ」
部長さんが言った。彼は本当に人格者だった。
私もいろいろと迷惑をかけたが、謝罪も礼もしていない。今では、本当に申し訳ない気持ちで一杯である。
後で部長さんが、染谷に言った。
「悪かったって言ってたよ」
結局、入部した新入生はまた十人前後だった。
アタッカーとして使えそうな長身の生徒は三名程だった。
スポーツが得意そうな生徒はあまりいなかった。
勧誘が成功したとは言い難い。
体罰やパワハラは論外としても、本来は、真面目に部活に取り組んでいることをアピールして、モチベーションの高い生徒を入部させるのが、正しい道であったろう。しかし、自己愛性ブラックが、そのような常道を進むことは出来ないらしい。
顧問も、練習に復帰した。
そして、染谷との一件があったにもかかわらず、練習中にまたキレた。
新入部員に言った。
「お前ら、これが実態だよ」
新入生だけではなく、顧問の方も一人増えた。
その年に赴任してきた国語の先生が、サブとして男子バレー部に加わることになった。
しかし、バレーボール自体があまり上手くないうえ、そもそも、二人も必要ではなかったと思う。顧問の方も、見るからに副顧問のことを見下していた。何度か、顧問の代わりに練習を見に来ることがあったが、生徒の方も舐め切っていた。
新入部員が入っても、副顧問が入っても、顧問の方は、やはりキレて帰ってしまうことに変わりはなかった。
最早、練習らしい練習をあまりやっていない状態だった。
その日は土曜日で、やはり顧問は部活拒否の状態だった。皆、苛立ちが募っていたのであろう。
前半は外での練習だった。後半で体育館にやって来ると、柳田が部長に何か言ったらしい。内容はよくわからない。
すると、井原が部長さんに掴みかかったらしい。私が気付いた時には、コートの真ん中で、馬乗りになって揉み合っていた。
井原は私と同学年で、途中から入部した。どうも染谷の一派で、彼を慕って追いかけてきたらしい。当時の私から見ても、強がってはいたが繊細で不安定なところがあった。
皆で彼を引き剥がして宥めた。
振り返ると、今度は柳田がステージの上に座り込んで泣いていた。
その後はよく覚えていない。恐らく、何とか立ち直って練習を続けたのだと思う。
バレー部自体は崩壊寸前に見えたが、辞めたいとか、顧問を外せとか、そうしたことを言い出す者はいなかった。
これだけグダグダになっていても、部員たちは、顧問の復帰を望んだ。
普段から文句をたらたら言ってはいたが、顧問でなくては勝てないというのが、彼らの概ね一致した見解だった。
確かに、バレーボールの技術は、凄まじく高いように見えた。動きは俊敏で、正確無比だった。悪く言えば、やはり偏執狂的だった。
しかし、顧問がいないと、実戦形式の練習も出来なかった。そのような指導を受けていなかった。
おまけに部員の方も、勝ちたい、顧問を戻したいと言っている割には、放課後にコートに集まると、ワラワラとおしゃべりを始めるのが常だった。恐ろしく緊張感に欠けていた。どうも、そういう人たちの集まりだったようだ。そしてそのことが、また顧問の怒りに火を点けた。外のコートに現れると『お前ら、何ぺちゃくちゃ喋ってるんだ』というのが第一声だった。
尤も、顧問を自分たちで選べる立場でもなかった。そのまま、何とかごまかしごまかし、彼の指導を受ける、或いはそのポーズを示すだけの気力は保っていた。
本当に崩壊していたのは、顧問のメンタルの方だったのであろう。明らかにコントロールを失っていた。
我々には、彼が何故キレているのか、理由がよくわからなかった。
『お前ら、何ペチャクチャペチャクチャ喋ってるんだ』『何で声出さねえんだ』というのはまだしも、やる気とか努力とか言われても、漠然として対処しようがなかった。
そのため、具体的な対策も立てようがなかった。
今にして思えば、あれも自己愛憤怒だったのであろう。
生徒が自分の思い通りに動かないとキレてしまうのだ。これも、分離不全―自己愛性PDが原因だ。自分なら拾えるボールを落とす、声を出さない、サーブが入らない、こんなはずじゃない、『何でよ、何でそうなるのよ』、何で何で何で何で何で何で……。
そのような状態が続いたために、彼の方が耐えられなくなったのだ。
二年生の夏の大会までは、細い糸で、何とか彼を繋ぎ止めておくことが出来た。
しかし、副顧問がいたこともあってか、三年生が引退し、寄りによって我々の新人戦の前になって、顧問は正式に女子バレー部へと移った。女子の元の顧問がサブに回った。
校庭の隣のコートで、女子中学生の指導に興じる姿は、実に楽しそうだった。明らかに、笑いを噛み殺している顔だった。これは私だけの印象ではない。ニヤニヤして楽しそうだと、部員たちも話していた。
恐らく、最初から女子の方を担当したかったのではないかと思う。苛ついていたのは、自己愛憤怒によるものだけではなかったのであろう。
見捨てられた我々は落胆した。
いや、個人的には壮絶にどうでも良かったのだが、他の部員たちは皆苛立っていた。
私の方が正常なのか、それとも部分対象関係で妄想分裂ポジションのままだったのか、未だにわからない。
練習では、多少は気合が入ったが、明らかに空回りしていた。
そもそも、練習をあまりしていなかったのだ。自己愛性ブラック顧問への対応に追われて、臨時ミーティングという名の雑談に多大な時間を取られていた。レシーブ、トス、アタックというシークエンスさえ、スムーズに出来るかどうか、といった状態だった。
副顧問も嫌な役回りであったろう。本当に心から同情した。
新人戦では、結局二敗して敗退した。
最後のサーブレシーブで、私の前にいた染谷がオーバーハンドでボールを取ろうとした。
通常サーブは、アンダーハンドでレシーブすることになっている。
『おいおい、上から捕るのか』と思った。
試合中だったし、今なら別にオーバーハンドだろうとアンダーハンドだろうとどっちでも構わないだろうが、当時は大いに気になった。
ラインはギリギリだった。彼が拾うだろうと思った。思わず、アウトと言ってしまった。染谷は手を引っ込めた。そりゃそうだ。
目の前にボールが落ちた。しっかりラインの内側に入っていた。
挨拶が済むと、染谷が私と東原に言った。お前ら、後で裏に来い。
マズイ事態だった。敗けたのは別に我々のせいではない。しかし、そんな理屈は通用しない。パンチの一二発は覚悟しなくてはならないと思った。
相手チームに挨拶に行った。染谷が遅れた一年生を引っ叩いた。それを見た相手チームの若い顧問がキレた。
幾ら負けて苛ついているからと言って、後輩を引っ叩くとは何だ。我々の顧問も謹んで拝聴していた。
全てが済むと、染谷はまた泣き出した。相手チームの顧問には感謝の言葉もない。
帰りは何故か東原と一緒になり、何も言わず自転車で帰り、別れた。
その後も顧問は、女子の練習を投げ出すことなく続けた。
女子では、以前も言っていた通り、スライディングではなく回転レシーブを取り入れていた。
しかも外のコートで、ゴロゴロと回転させていた。皆全身泥だらけになっていた。髪まで泥だらけだった。中学生の女の子にとっては嫌だったろうと思う。
これも趣味の一環だったに違いない。
三年生になると、更に顧問が変わった。
今度の先生は、極めて普通の人だった。
練習も、極めて普通にやった。
女子バレー部の前顧問は、昔の古巣である写真部の顧問となった。以前、不祥事があったとかで廃部していたところ、この年に復活したのであった。当時は何とも思わなかったが、今にして思えば、これも自己愛性ブラック顧問のためかもしれなかった。職員室でも彼の扱いが面倒だったのではないだろうか。
我々の現顧問は、男女兼任の副顧問に収まった。
春の大会は、市予選で敗退。
夏が近づくと、染谷は部活に来なくなった。
前日に顧問が言った。
「あいつは、もう出さない」
結局、大会にも顔を出さなかった。
最後の試合では、途中で私が河合と交代し、更に富樫と交代した。彼らにとってはいい記念になったであろう。
試合に負けると、柳田はしんみりとしていた。
彼は元々スポーツ万能で、スポーツで負けたことがあまりなかったのであろう。
バレーシューズは、最初に一括で購入したものを使い続けた。流石にきつかった。他の連中は、途中で買い替えていた。家計のことを考えると、わざわざ部活のために余計な金を使いたくなかった。
部活もなくなった、三年生の夏休み。
私は、柳田の家にいた。
二年生の頃に、彼がバンドをやろうと言い出した。
文化祭の後夜祭に出場するためである。
最初は、私がドラムをやるということになっていた。
しかし、自分の部屋もないのに、家にドラムを置くことなど不可能だった。
そのうち、キーボードがギターをやると言い出し、そもそも、本当にバンドなどやるのか、と皆が言い出し、どうも本気らしい、どうするどうすると言い出して、結局、柳田に付き合う羽目になった。私はキーボードを選んだ。
他の連中は、親にねだって、やっすいギターセットを適当に買ってもらっていたが、私は自力で、高いキーボードを買う羽目になった。高いというのは、初心者向けのギターと比べてという意味で、シンセとしては安物であった。小遣い稼ぎのため、中学二年の頃から週一で新聞配達のバイトをしており、その稼ぎを全て突っ込んだ。ドラムはおらず、ギターが柳田も含めて三名いた。
柳田の家は、白い新築の家だった。私が漫画でしか見たことのないような生活をしていた。
ボーカルが二人必要だったため、私がやる羽目になった。一人は勿論、柳田である。
私の歌は明らかに下手で、全員がそれを認識していたが、他にやりたいという者はいなかった。キーボードでストロークをしながら歌えたのは私だけだった。
元々、AC的にそういう立場だと思っていたので、何を言われようと気にしなかった。結果がどうなろうと知ったことではなかった。
夏休みも終わろうという頃、学校の体育館で文化祭の予選が行われた。
後夜祭では、校庭でキャンブファイヤーをやることになっていた。
流石にまだ中学生なので、教師の主導で、キャンプファイヤーに合う静かな曲という注文が付いていた。
時間ギリギリに体育館に着くと、理科の教師が言った。
「時間ギリギリに来やがって」
どうも、予選のリハを行っているらしかった。元々そんなことは聞いていなかった。
急いでステージに上がると、テーブルを引っ張り出してスタンド替わりにした。ケーブルが届かなかった。理科の教師が新しいものを貸してくれた。
ドラムレスで演奏すると、後夜祭を主導していた英語ティーチャーが言った。
「お前は、演奏に専念した方がいい」
本番でもその通りにした。ボーカルは柳田一人が歌った。
結局、予選を通過したのは、陰キャ女子の憩いの場であった合唱部のアカペラと、染谷のバンドだった。
後夜祭は、英語教師の主導で恙なく執り行われた。
元々音楽は好きだったが、今思えば、無理してまでやるべきではなかったと思う。
アダルトチルドレン的に、誘われると断れないというだけのことだった。
選考には、多数の教師が参加していた。ベテランの英語ティーチャーが主導し、女性の音楽教師、理科教師、男子バレー部の現顧問と副顧問、そして女子バレー部前顧問の三名、その他、学年教科を問わず、二十名以上が我々の演奏を聞いていた。皆、和気藹々として、楽しそうだった。その中に、現女子バレー部顧問である、自己愛性ブラック教師の姿はなかった。
恐らく、元々音楽など好きではなかったのであろう。しかしそれだけではなく、他の教師たちと、やはり温度差があったようである。強面で恐れられていたが、職員室では孤独だったのであろう。
一年生の時の担任は女性だった。恐らく三十代で、既に結婚していた。子供もいたらしい。
明るくリーダーシップもあり、生徒には慕われていた。私から見ても、優秀で優しい、いい先生だった。
三月の修了式が終わって教室でHRをしていると、言葉に詰まって後ろを向いた。
その年を最後に、教壇を去った。
当時は誰もが、家庭と子育てに専念するためだろうと思っていた。
しかし今思うと、顧問のせいなのではないかという気がする。
教師というのも、大変な仕事だと思う。
夏休みも終わろうとする八月三十日の夜に、電話がかかってきた。相手は河合だった。
翌日に、OBとして練習に参加するという。一緒に行こうぜ。
流石にこれには唖然とした。
やっと部活から解放されてせいせいしていたところで、何を好き好んでまた顔を出さなくてはならないのか。しかも宿題もあった。行ける訳がない。
他の連中にとっては、案外いい思い出だったのかもしれない。実質、自己愛性ブラック顧問がいたのは一年半程だった。それ以外は、皆で和気藹々として楽しかったのであろう。
しかし私にとっては、顧問がいなくなっても、プレッシャーの日々だった。意外と他人には理解されていないということに驚いた。運動神経がどうのというよりも、団体行動が苦手なシゾイド野郎だったのだ。
現在、スポーツの世界でスキャンダルが相次いでいる。
日大アメフト部の悪質タックル問題、志學館大学レスリング部のパワハラ問題、大相撲での暴行、日本ボクシング連盟の『歴史に生まれた歴史の男』問題、日本体操協会でのパワハラ疑惑などなど、例を挙げれば枚挙に暇がない。ドーピングやら八百長の噂も絶えない。
最近では、ブラック部活なるワードも定着しつつある。
日本の企業が、体育会系の若者たちを好んで採用してきたのは周知の事実である。
では、企業のブラック化とブラック部活には、何か関係があるのであろうか。
顧問の行動には、ブラック企業との共通点が多数ある。
まず、勧誘段階でニコニコとして、新入生をおびき寄せ、ハエトリグサの如くに獲物を捕らえる。これは求人広告に楽しそうな集合写真を掲載したり、偽りの高給好待遇を謳ったりしているのと大して変わりはない。そうして集まるのは、私のように怠惰な人間か、余程騙されやすい、お目出度い奴だけである。
先にも述べたように、他の部においては、厳しい練習の実態をきちんと開示したうえで、勧誘を行っていた。そうして、優秀でモチベーションの高い新人を集めることに成功していた。
ブラック企業であっても、例えば『休みはないけど、仕事サイコー、ウェーイ』型の求人であれば、最初からブラック野郎を釣ることが出来るかもしれない。こちらは意図的に新人を使い潰す気まんまんのヤクザ型かもしれない。では、顧問の行動にはどういった意図があったのであろうか。
これも自己愛性ブラックとして解釈することが可能である。
要するに、根本的なところで自信がないのである。
厳しい練習と、自己愛憤怒でキレまくりの実態を見せると、部員が来ないのではないか、と不安なのだ。そのために、『みんな、おいでよ。バレーボール楽しいよ。ボクと一緒にやろうよ』と楽しい楽しいおトモダチ感をアピールしなくてはならないのである。
指導にも、自己愛性ブラックの特徴が表れている。部員がミスをしたり、出来なかったりすると、彼は上ずった声でヒステリックに叫んだ。『何でよ、何でそうなるのよ』。
これも分離不全が原因である。自分が出来ることを、自身の一部、或いは延長であるはずの部員たちが、出来ないはずはないのである。
この状態をわかりやすく例えると、このようになる。
あなたは朝、満員電車に乗っている。すると浜辺見波(竹内涼真)似のJK(DK)が目の前にいることに気付く。
そして、あなたの右手が、あなたの意思に反して、彼女(彼)の臀部(股間)に伸びてしまったとしよう。
彼女(彼)は、あなたの腕を掴んで叫ぶ。「この人痴漢です」。
あなたはパニックに陥って叫ぶだろう。「私はやってない」。
あなたは鉄道警察官に連行され、人生終了のベルを聞く。
自己愛性PDの人々が、他人が自分の思い通りに動いてくれない時に陥る自己愛憤怒はこれと同じだ。自分の意思に反して、自身の体が勝手に動いてしまうのである。あなたは思うだろう。何で何で何で何で、こんなはずじゃないこんなはずじゃないこんなはずじゃない……。
顧問の怒りの理由が、抽象的でよくわからなかったのも、原因は同じだ。
彼にしてみれば、我々はそのことを理解していなくてはならないのだ。
しかし、我々は顧問ではないので、彼の考えていることを同じように理解するのは不可能である。そのため、気合を入れる、声を出すなど、対策も抽象的なものにならざるを得なかった。
この傾向は、成見や第三の男でも特徴的であった。
会社における、腐れ上司アルアルも同様のパターンである。
「おい、朝木。あれ、どうした」
「あれって何ですか」
「あれだよ。やってないの」
「やってませんけど」
「何で、やってないのよ」
『だから、そんなこと一言も聞いてねえっつうの。この低能上司が』
そして、その訳のわからなさは、『信仰告白』の後に、更に深まった。
顧問にしてみれば、とにかく不安だったのであろう。あれだけ苛烈な指導をしていたにもかかわらず、辞めようという者は一人もいなかった。その事実だけでは満足出来ず、我々の忠誠心とモチベーションを確認しなければ、耐えられなかったのではないだろうか。
指導方法においては、肥大化した自己愛という要因も重要である。
自己愛性ブラックは、自身の不安感や無力感を紛らわせるために、成果を求める。当然、指導は厳しくなる。『早く逆上がりを出来るようになって、ママに見せるんだ』。
その成果とは言うまでもなく、自身のためのものである。
本来、学校の部活とは、生徒が『自発的、自主的に活動するもの』(学習指導要領)とされているが、自己愛性ブラック指導者にとって、部活とは自分のためのものであり、部員たちは、自身の力を誇示するための道具に過ぎない。『対人関係で相手を不当に利用する。つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する』。
顧問の場合は、ランニングや筋トレはあまりやらず、入部早々ボールを使わせ、実践的な練習を好んだ。尤もバレーボールにおいて、ランニングはあまり必要ないのか、その点は未だによくわからない。ともかく、地道な基礎練習をすっ飛ばすのも、早く成果を出したい、大会で勝ちたい、という焦りによるものとも解釈出来る。
県体に、わざわざ見学に連れていかれたことも印象的だ。
当時は、熱心な指導者ゆえの行動だと思っていたが、今考えると、違った意味を見出さざるを得ない。
その時の顧問は、珍しく御機嫌だった。
余程、県体に出たかったのであろう。そして、せめて会場にいて、同じ空気を吸っていたかったのだ。自身の自己愛を満足させるために。本当は自分がそこにいるべきだと信じていたのだ。そして知り合いの教師に吹かす。次は来ますよ。しかし、その願いが叶うことはなかった。
結局、彼は途中で担当を放り出して、女子バレー部の方へと異動してしまった。
幾ら我々のモチベーションが足りないと言っても、年度の途中で異動するなど、常軌を逸している。
元々、趣味的に女子の方を希望しており、そのイライラもあったに違いない。それに加えて我々では、県体にすら進出出来ないという現実に、彼の自己愛は耐えることが出来なかったのであろう。
現在、ブラック部活において問題となっているのは、長時間の練習、暴行、暴言、勝利至上主義などであろう。
自己愛性ブラックにおいては、肥大化した自己愛が、能力以上の成果を求め、分離不全の寂しさが、長時間労働を指向する。ブラック部活においても、これと同様のことが起こっている。
手っ取り早く成果を出すためには、長時間の練習を行い、暴行とパワハラによって、モチベーションを高めるしかない。生徒にとって来年はないかもしれないが、自己愛性ブラック顧問にとっても、それは同様である。敗けることには一時でも耐えられない。自己愛性ブラックは、短期間での目先の成果を求める。
そうした指導方法を、『一発学習』、またの名を『恐怖学習』というらしい。少々長いが引用しよう。
『ところが、一発学習は、そのような強い刺激によって奮起したことが選手の記憶に強く残るため、一次的にパフォーマンスが上がる。つまり、即効性が高い。まさに「一発」で効果が出る。だが永続性はない。即効性を教育効果ととらえるなら、それは強化学習の3~4倍近いスピードで結果が出る。「〇年間で結果を出したい」とか「〇年後までに全国大会出場を」と目論む勝利至上主義の大人にとって、一発学習は最も手っ取り早い方法だ。
ただし、これにはマイナスの副作用が伴う。繰り返されるとトラウマになりバーンアウトしやすいのである。強く指示命令されたり、怒鳴られたり、たたかれるような強い刺激を受けなければ、物事に取り組めなくなる。
運悪く一発学習を採用する部活に出会ってしまうと、指示を強く出されることでしか動けない人間になるリスクが高まるのではないか。』
島沢優子『部活があぶない』講談社現代新書(2017)
これは、ブラック企業で行われていることと同じである。
元々、私の名付けたところの分離不全では、生徒の気持ちなど知ったことではない。練習がどれだけ負担になろうと、怪我しようとお構いなしだ。長時間の拘束も、私の命名したところの分離不全が一因となる。自身の一部である部員たちに四六時中囲まれていれば、寂しさも紛れるというものである。まさに一石二鳥だ。
練習中に上手く出来ないと、自己愛憤怒を引き起こし、キレる。指導ではなく、キレるのだ。『指導』のための暴力は必要悪である。それはあくまで生徒のためなのである。『自己欺瞞と都合のいい歪曲化』。生徒は恐怖で委縮して、とにかく顧問に従おうとする。
精神主義と、パワハラまがいの厳しい指導により、部員たちにプレッシャーをかければ、顧問がいる間だけは、ある程度の結果を残せるかもしれない。
しかし、公立校の教師なら必ず異動がある。その顧問がいなくなった後は、果たしてどうなるか。自己愛性ブラック顧問が去った後には、まさに、ペンペン草も生えないという事態になりかねない。
有効な指導方法やトレーニングを伝統として残せないため、顧問が辞めてしまえば、その場限りで何も残らない。下手をすると全く無意味な、ただしごくだけで効果の薄い、或いは逆効果さえあるかもしれない、トレーニングのようなものを伝統として続けることになるかもしれない。先輩たちは、その方法で立派な成績を残した。有害な訳がない。後任の教師には更なるプレッシャーがかかる。余程、優秀でコーチングのスキルを習得した指導者でなければ,そうした悪習を打ち破るのは難しい。平凡な指導者にはまず不可能であろう。
本人は県体にでも行ってご満悦だったかもしれないが、その後、その学校がそれ以上の実力を維持出来る保証はない。
下手をすると次の顧問も、長時間の練習と、精神主義と暴力に頼り、無理矢理にでも成果を出そうとするかもしれない。以後、無限ループ。
そして、その学校を辞めた後で顧問はこう言うだろう。
「私がいた頃は良かった。今はダメになった」
ダメだったのはお前だよ、この無能が。
そもそも、自己愛性ブラック自身の仕事や競技に対するモチベーションが、見捨てられる不安や恐怖なのである。長時間のキツイ練習に没頭するのは、それが安心感をもたらすからだ。彼らは、そうしたやり方しか知らない。競技の純粋な楽しさとか、喜び、或いは達成感といったものを、彼らは恐らく知らないのであろう。自分が知らないことを他人に教えるのは不可能である。生徒のモチベーションをアップさせようと思ったら、当然そういった恐怖や不安をツールとして利用する。自身がそうして結果を出してきたため、そのやり方が正しいと思い込むのも無理はない。しかし、そのような状態では、『ある程度』以上の結果は残せない。
笑顔とかありがとうとか、歯の浮くようなセリフを宣わっていても、仕事やスポーツにおいて得られるはずの、本当の喜びや楽しみを彼らが味わうことはないのであろう。そう考えると、少々哀れではある。
しかし、実際に我らの顧問様が、どの程度の実績を残しているのか私は知らない。
当時、隣の中学で女子バレー部を教えており、県体に行ったようなことをちょっと聞いたような気はする。
そこで、正確なところを確かめてみることにした。
まずは、顧問の異動と赴任した中学校である。
彼は、市内の中学二校を経て、我々の中学へとやってきた。
そしてその後、浪人期間を経て、二校で教頭を、四校で校長を勤めた。どうやらそこで引退したようである。生死は不明。どうやら、セクハラなどの不祥事もなく、教師人生を全うしたようである。この辺は、流石に自己愛性PDというべきか。
彼の立派な経歴を前にすると、不思議と懐かしく、温かい感情が湧いてくるのを感じた。
当時の私は、常に感情をフラットに保つように努めていた。
幼少時からの怒りが、歩道の脇で黒く凍り付いた雪のように心の中で固まっており、最早ちょっとやそっとのことでは、怒りの感情すら感じなくなっていた。
当時、部員たちは、愚痴を言いながらも顧問に付いていこうとしていた。
私の方はと言えば、自業自得とは言え、一番被害を受けていたかもしれないが、他人に対して彼の悪口を言ったことはない。
解放された時は正直言ってほっとしたが、そこまで怒りとか憎悪の感情を抱いていた訳でもなかった。
自己愛性PDは、年齢と共に発症する場合と、良くなる場合とがあるらしい。
何の不祥事も起こさず、校長まで勤め上げて退職したのは立派と言うべきであろう。
それとも校長になっても、自己愛性ブラックぶりを発揮して、職員室を凍り付かせていたのであろうか。
ここで、疑問が沸き上がった。
果たして、こんなことをしていてもいいものか。
公開されている経歴とは言え、他人の過去をこそこそと嗅ぎ回るのは、倫理的に許される行為なのか。
取り敢えず調べを進めていると、教頭時代の写真を発見した。
九十年代風の、肩幅の広いスーツが何だか窮屈そうだった。
その分厚い眼鏡と、冷酷そうな目付きを見ていると、何だかムカついてきた。
やっぱり調査を継続することにした。
経歴は概ねわかった。
では、部活の戦績の方はどうだったのであろうか。
現在はどうか知らないが、我々の頃は、春、夏、新人戦と、大きな大会は年に三回あった。
何せ、中学生の大会なので、完全な記録は残っていない。
しかし、断片的な情報を拾っただけでも、県体には五回出場している。記録に残っていないだけで、もっと多いのかもしれない。
最初に赴任したのは山間の小さな中学校で、生徒数もそれほど多くはない。そこでいきなり県体に出場している。
そして残り四回が隣の中学校で、驚くべきことに、その内の二回は準々決勝まで進出している。県体の常連と言っても過言ではないレベルだ。
全国大会云々も、全くの戯言という訳ではなかったようである。
その後、私の母校では記録なし。
母校だけでなく、輝かしい戦績を誇った隣の中学校も、やはり記録がない。
顧問が抜けた後は、先に私が述べたような状態に陥っているのかもしれない。
顧問としては県体止まりだったが、その後、更なる幸運が顧問に訪れる。
校長時代に、男子バレーボール部が県体で準優勝し、関東大会へ出場した。
校長自身も、コーチとして練習に参加したらしい。
恐らく、自身のことのように、というより、『自身のこととして』喜んだことであろう。
彼の自己愛は、大いに満足したに違いない。
自己愛性PDの人間の中には、社会的に成功している者も多いと言われる。嫌な奴ほど成功する、ともよく言われることだ。
『学校の先生が全国に100万人ほどいる中で、校長は約3万3000人程度。そう考えても、ごく一握りといえます。』
佐藤明彦『職業としての教師―目指す人が知っておくこと。』時事通信社(2018)
教員から校長になれるのは、率にして三.三%前後ということになる。校長は、最高のエリートなのである。引退後は悠々自適の年金暮らしであろう。グヌヌヌヌヌ。
まあ何の不祥事も起こさずに、任期を全うしたのだからヨシとするべきなのであろう。或いは、ただ単に発覚していないだけかもしれないが。
結局、彼の方が正しくて、彼の練習に付いていけない我々の方が間違っていたのであろうか。いや、最早付いてこうという気さえなかった、私だけが間違っていたのかもしれない。他の部員たちの動向も今や全くわからないが、恐らく、普通に仕事をして、結婚して家庭を築いて、まともな人生を送っていることであろう。現在の私の体たらくを考えても、問題があったのは私の方だったろう。その点は否定しない。
高校では、当然の如く帰宅部になった。
最初はバイトに明け暮れた。しかし、やがて燃え尽きて、後半はほぼ何もせずに過ごした。
元々AC的な嗜好があったこともあり、彼がよく宣わっていた『努力』というワードは、卒業後も私の脳裏に纏わり付いて離れなかった。
しかし、当時の私に必要なのは努力ではなく休息だった。
幼少期から、多幸感など微塵もなく、人生は耐えることだと思っていた。
自分のやりたいことをやりたいようにやって楽しんでもいいという発想は、私にはなかった。
そのため、自己愛性ブラックの暴走も、当然のこととして、従順に、成すがままに受け入れた。事態を自身で打開しようという発想も意志も持たなかった。
顧問の逸脱は学校中が知っていた。そして教師たちは、主な戦犯の一人が私だと認識していたことだろう。当時は、しょうがない奴だと思われているだろうと思っていた。テストの成績だけは良かったので、それに反して、私のシゾイディな傾向に、皆苛立ち、呆れているものと思っていた。
私はずっと恥じていた。
何故、他の部員たちと同じように、『信仰告白』が出来なかったのか。そもそも、信仰など微塵も無かったのだが、何故、嘘でも出まかせでもいいから、適当にそれらしいことを宣わっておけなかったのか。何故、その程度の勇気もなかったのか。
あの時、他の部員たちはどういう気持ちで、コートへと戻っていったのか。自身の行為に、カタルシスを感じただろうか。顧問の背後に光を見ただろうか。私だけが、奇跡も知らず、バレーボールの神様の慈悲深い愛を感じることが出来なかったのかもしれない。
しかし、今になって考えてみると、例えそれがシゾイド的な逃避だったとしても、結果的に、私は何も言わずに彼の前に立ち塞がった、と言えなくもない。分離不全―自己愛性PDの者にとって、シカト完黙は相当傷ついたことであろう。彼の逃走劇の得点王は、案外私かもしれない。
先に紹介したサンディ・ホチキスは、『自己愛人間』の特徴として『恥の意識』を挙げている。
『自己愛人間にとって、恥はあまりにも耐えがたい感情であるために、いっさい恥を感じずにすむ方法が生み出されてきた。心理学者のいう「回避された恥」だ。これによって、見た目には羞恥心がないか良心が欠けているように装われ、恥は回避されて否認や冷淡さ、非難、怒りの防壁の奥に隠れてしまう。彼らの内部には恥を処理する健全なメカニズムがないので、この不快な感情は自己を離れて外部に向けられる。「自分の責任」ではありえないのだ。』
サンディ・ホチキス著 江口泰子訳『結局、自分のことしか考えない人たち 自己愛人間とどうつきあえばいいのか』草思社(2009)
恥の意識に苛まれていたのは、私だけではなく顧問の方も同様だったのであろう。
私はもっと後になってから、そうした呪縛から逃れられた、と思う。
大人になってみると、職員室での人間関係も想像出来るようになった。一年時の担任が辞めた理由も、恐らく私の推測通りであろう。
一時でも、私は学年でトップの成績を取った。
顧問も、多少は期待していたのかもしれない。理想化転移を起こしていた可能性もある。
ところが、私は彼をシカトし、冷たくあしらってしまった。
彼の傷口に塩を塗り込み、脆く壊れやすい自尊心を弄んでしまった。
しかし、私が言うのも何だが、それも仕方のないことなのだ。
こちとら超絶機能不全家庭で育った、シゾイディなAC野郎なのだ。
腐れ学園ドラマのように、ハイテンションで爽やかに挨拶したり、『先生』とか言って抱きついたり、そんな芸当が出来る訳がない。現実はそんなに甘くはないのだ。
そして何と言っても彼は教師で、私はまだ中学生だった。
生徒に対して自己対象転移を起こし、挙句の果てに自己愛憤怒に陥って部活放棄するなど、まともな教師のやることとは思えない。完全に常軌を逸している。
顧問が定年を迎えて、既に久しい。
現在、生存しているのかどうかも不明だ。
生きているとすれば、果たしてどのような老後を送っているのであろうか。
退職後の教師の生活というものが、どういったものなのか、私にはわからない。
仲のいい教師仲間や、生徒など、恐らくいないであろう。
家族とは上手くいっているのであろうか。既に離婚でもしているかもしれない。
当時から職員室でも浮いていたとなると、立派な経歴を自慢する相手も、最早いないのではないだろうか。
シゾイディな私とは違って、自己愛性ブラックにとって孤独は辛かろう。
以上のエピソードは、もう三十年以上前の話だ。
大人になり、スポーツなどと無縁の生活を送っていたため、そうした状況は改善されているものと思っていた。コーチングや心理学に根差した、論理的かつ効果的な指導方法が、学生においても取り入れられているものと信じていた。
しかし最近になって、ブラック企業のみならず、ブラック部活なる言葉も登場し、スポーツの世界でも不祥事が多発している。スポーツのブラック化は今に始まったことではなく、私の学生時代から事態は更に悪化しているようだ。とはいえ、顧問が自己愛憤怒に陥った挙句に部活放棄するような例は、恐らくそうはあるまい。
顧問の経歴を調べる過程で、こんな記事を発見した。最後に紹介したいと思う。
昭和四十七年八月の、埼玉新聞の記事である。
タイトルは、『あまりに野蛮 日本バレーに非難集中』。
『【ミュンヘン二十八日共同】日本女子バレーチームのすさまじい練習ぶりがミュンヘンにセンセーションを巻き起こし、小島孝治監督に非難が集中している。「血と涙の金メダル」といった根性物語は日本のテレビでは人気番組だが、女性尊重のヨーロッパ人の目には、“野蛮”と映っているようだ。
地元の有力大衆紙「アーベント・ツァイツンク」は、二十七日付け紙面の一面で、上半分をつぶし「彼のやり方はあまりに野蛮」という大見出しで、練習ぶりを紹介している。「岩原豊子選手は疲れ果てて床に倒れたが、頭を目がけてものすごい勢いでボールが投げつけられる。彼女は避ける力もなくただすすり泣くだけ。涙にぬれた顔に四回、五回とボールが飛ぶ」といった調子。
さらに「彼女らは金メダルを取るためにミュンヘンに来たのだが、169㌘の銀と6㌘の金で出来た小さなメダルのために、なんと大変な代価を払っていることか」と皮肉った後、小島監督に対し「練習が終わると、選手たちの欠点を指摘してどなりつけるが、その日本語は昔のプロイセンの将校のしゃべり方によく似ている。また、女子チームは一日五時間練習するが、男子バレーチームの練習はわずか二時間だけ。小島監督は“男は脳ミソがいいからそれでいい”と考えている」と“男女差別”に腹を立てている。
西ドイツでトップクラスの高級紙「フランクフルター・アルゲマイネ」も、同じ日の紙面に「氷の笑いの国」という記事を大きく載せ、小島監督をやり玉に上げた。やはり練習風景を細かく書いたあと「小島監督に“あなたのどれいの中で反抗するものはいないのか”と聞くと、彼は歯を出して笑い“これが一番の方法ですよ。彼女たちはほかの方法をしらないからね”と答えた。娘たちは氷のように冷たい小島の国に住んでいる。仮に金メダルを取っても、それは“支配者”小島一人のためのものだ」と激しく非難している。』
どうやら、当時からこのような指導が普通だったらしい。
しかし、それも日本だけで、この時既に欧州の人々からは非難轟轟で、冷たい目で見られていた。
どうも、我が国が遅れているといった次元ではなく、より根本的な問題のようだ。
ブラック部活での経験が、ブラック企業でのブラックネスを受け入れる土壌となっていることは想像に難くない。
そして、仕事にしてもスポーツにしても、自己愛が大きな原動力となることに変わりはない。問題は、それが幼稚で誇大化した自己愛のままだと、ブラック化する危険性があることである。
膨れ上がった自己愛と、私が名付けたところの分離不全は、勝利に対する大きな原動力となると同時に、足枷にもなりかねない。
その辺の解説は、また後程にするとしよう。
それでは再び、自動車部品工場へと戻ろうと思う。
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