第十九章 自己愛性ブラック

 成見が百時間の残業に言及した時には、まだ電通での過労自殺の事案は明るみに出ていなかった。

 新入社員に対して月百時間の時間外労働を強要していた事実に、世間の人々は驚愕した。

 月百時間の時間外労働は、その理由や内容如何にかかわらず、それだけで充分にブラック企業の要件に当てはまる。

 ブラック企業については第十四章で言及した。

 NPO法人POSSE代表の今野晴貴氏は『ブラック企業に定義はない』と述べている。

 しかし、世間一般のブラック企業に対する大まかなイメージは『利益のために、従業員を使い潰す企業』といったところであろう。

 ブラック企業やその経営者は、恫喝、パワハラ、暴行、洗脳、甘言と欺瞞などなど、ありとあらゆる手段を用いて、従業員に長時間過重労働を強要する。

 では成見が、私に対して『月百時間』と言った時はどうであったのか。自分が社員になるために、或いはなった時のために、私にも長時間労働を強要して、自身のために利用すべくそのようなことを言ったのであろうか。

 私の印象、あくまで個人的な『印象』では、否である。

 世間一般の大多数の人々であれば、月百時間の時間外労働と聞けば、恐れ戦き、吐き気を催し、卒倒するに違いない。百時間と聞いただけで鬱病を発症するレベルである。

 しかし成見は、月百時間の残業が、まるで当然のことででもあるかのように、自分も機会があればやってみたいかのように、ピクニックにでも行くかのように、更に、私が彼に同意することを全く疑う様子もなく話していた。

 ここで、極めて常識的で、平凡で、凡庸で、ありふれた、まるでガンダムのジムのような読者の皆さんならこう思うだろう。

 強要されている訳でも洗脳された訳でもなく、果たして自ら好き好んで月百時間の残業に身を捧げるような奇特な人間が、この世に存在するのだろうか。

 電通の事案では、女性新入社員に月百時間の時間外労働を強制していた訳だが、そもそも、彼女の周囲の社員たちが、元々月百時間の残業をしていた可能性がある。そして何故、そのことを誰も疑問に思わなかったのか、という疑問が残る。

 もし本当に仕事が好きで、何時間でも、徹夜してでもその作業を楽しく続けることが出来る、という場合はあるかもしれない。

 しかし、そうした場合でも、その人物が自己愛性PD野郎でもなく普通の人間である限りは、こう考えることが出来る。

『自分は仕事が好きだが、他の人はそうではないかもしれない。仕事をするのは辛いこともあるかもしれない。ましてや、長時間の残業など、皆本当は嫌なのであろう』

 では、自己愛性PD野郎は、何故そのような考え方が出来ないのか。

 DSM-5の要件にはこうある。


(7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない.


 そもそも、自己愛性PD野郎は、他人の気持ちとか感情を顧みることが出来ない。よって、『誰が残業なんかやるかタコ』という、私を含めた一般庶民の気持ちを理解出来ないこと自体は充分に理解出来る。

 しかしそれ以前の問題として、何故そこまでして仕事をしたいのか、何故職場にいたいのか、何故常軌を逸した長時間労働を容認するのか、という疑問は残る。

 これまでに登場した三名は、その特異な言動から自己愛性パーソナリティ障害(疑)であると判断出来る。そして少なくとも、成見と第三の男は、長時間労働肯定派、残業大好きなブラック野郎でもある。

 では何故、彼らは長時間労働を好むのか。

 自身の出世のためなのか、残業代を稼ぎたいだけなのか、或いは他に理由があるのか。

 ブラックネスと自己愛性PDが、どのように関係しているのか。

 それを明らかにするために、まず自己愛性PDのメカニズムからおさらいしてみよう。


自己愛性PDのメカニズム


 自己愛性PDの原因は一様ではなく、複数の要因が複雑に絡み合っているものと思われる。

 取り敢えず、彼らの心の内を理解するためには、彼らの生育環境とその過程を辿ることが重要となる。

 主な原因の一つは、分離―固体化の失敗である。

 生まれたばかりの乳児は、母親と一体化している。それが成長すると共に、母親と自分とは違う人間なのだということを認識出来るようになり、やがては、母親がいなくても恐怖や不安を感じることなく、自立した人間として、一人でも過ごすことが出来るようになる。

 乳幼児の自己愛は、自己顕示的で、全能感や万能感に満たされている。怖いものなど何もなく、何でも自分の思い通りになると思っている。しかし成長と共に、母親の愛情と共感を得ながら、現実と向き合い、自己愛は適度なものに成熟していく。

 しかし、この分離―固体化に失敗すると、他者との分離が出来ないままで、また自己愛は幼児的かつ誇大的なままで、成長して大人になってしまう。

 従来は、自己愛という一言で片づけていたが、分離が出来ていない状態、すなわち、私が名付けたところの分離不全の概念も同時に用いた方が、自己愛性PDの特性をよりわかりやすく理解出来ることは、既に何度も述べた。


 そして原因のもう一つは、部分対象関係と妄想分裂ポジションである。

 乳幼児にとって、母親は『良いオッパイ』と『悪いオッパイ』に分裂している。正常な発達過程を辿れば、これらが両方とも一人の同じ母親であるということを認識出来るようになる。すなわち全体対象関係と抑うつポジションの確立である。

 ところが、全体対象関係を確立出来ないままで成長してしまうと、誰かを過度に理想化する一方で、自分の思い通りにいかない時は、いきなりキレて攻撃的になったりする。

 更に、抑うつポジションにおいては、辛い状況、自分にとって受け入れがたい状況に対する自己防衛として、強がったり、攻撃的になったりすることがある。これは躁的防衛と呼ばれる。

 こうして、分離―固体化に失敗して、全体対象関係を確立出来ないまま、或いは躁的防衛に陥った状態になると、立派な自己愛性PDとなるかもしれない。

 これらの、マーラーやクラインの発達理論を基に、カーンバーグ、コフートそしてマスターソンらが、自己愛性パーソナリティ障害の理論と治療方法を確立した。

 生物学的な要因に関してはまだ研究途上である。

 しかし、彼らの言動からある程度の推測は可能である。

 ノルアドレナリン、ドーパミン、セロトニン、そしてオキシトシンやバソプレシン、更にテストステロンあたりの、ホルモンや神経伝達物質の働きが重要な要因になっているものと思われる。この点に関しては、今後、更に明らかとなってくるに違いない。

 他にも、アタッチメント理論やPTSDなどなど、多くの優れた研究者たちが、様々な要因を挙げているが、それらの解説は専門書に譲ることとする。

 それでは、その自己愛性PD野郎どもが、何故ブラックと化すのか、

 自己愛と分離不全をキーワードにして、考えてみるとしよう。


自己愛と分離不全


 自己愛的(ナル)な奴らをブラック労働に駆り立てる要因の一つは、間違いなく自己愛である。

 彼らは誇大感と全能感に満ち、自信に満ち溢れ、自分が優秀で特別な存在だと思っている。彼らは常に賞賛を求め、周囲の人々より一段高い場所に位置する必要がある。

 よって彼らは、仕事が出来なくてはならない。

 いや、仕事が出来るのである。

 仕事をやる前から、既に彼らは仕事が出来る人間なのである。

 自己愛性PDの者にとって、職場において仕事が出来ないと思われるということは、死刑宣告に等しい。自身の完璧で理想的なイメージに傷が付くことは、自身の存在そのものを否定されていることと同じだ。

 もし、防錆してピンをブチ撒けたら、一つも契約が取れなかったら、新しいフリースが売れなかったら、カルパッチョの注文がなかったら、ワンオペで店が回らなくなったら……。

 普通の人々であれば、まず上司に怒られると怯え、クビにならないか恐れ、生活の心配をする。

 しかし、自己愛性PD野郎は違う。

 彼らはこう考える。

『こんなはずじゃない。俺のせいじゃない』

『マスゴミの連中が、デマを流すからだ。悪いのはマスゴミとネットの連中だ』

 或いは、こう考える。

『どうしよう、ママに怒られちゃう』

 そのような事態に陥らないために、彼らは全身全霊を賭けて仕事に邁進する。彼らはがむしゃらに働いて結果を出す。或いは、結果らしきものを残す。それは並みのモチベーションではない。結果的に長時間労働になるかもしれない。或いは逸脱行為に走るかもしれない。他人を不当な手段で利用し、出し抜いたり、貶めたりするかもしれない。そのような行為をしてでも、彼らは目に見える成果を追い求める。

 彼らの暗い情熱は、コフート風に言えば『蒼古的な』心の叫びである。仕事の成果と周囲からの評価に、自身の生存がかかっているのだ。自己愛性PDの者にとっては、仕事の成果は手段ではなく、それ自体が生きる目的と化すのだ。

 普通の人々が生活のために仕方なく、特に好きでもない仕事に精を出しているのとは訳が違う。或いは、仕事を本当に愛していたとしても、彼らのようなモチベーションを発揮することは出来ない。

 こうして、人並み外れた気合と根性で、仕事においてある程度の成果を出すことに成功する。

 もし、私のようなシゾイド人間であれば、結果を出したところで自己満足するかもしれない。或いは、結果そのものがどうでもいいかもしれない。

 しかし、自己愛性PDの場合は、ここから更に次のステップへと進む。

 彼らの幼児的な誇大自己は、結果を出しただけでは満足しない。本当に重要なのはここからなのだ。今度はその成果を全身全霊でアピールしようとする。

 第三の男は、倉庫でのピッキングにおいて碌な効率化も出来なかったが、単身朝七時に出勤し、一人で入庫の作業を行っていた。

 そして、周囲から顰蹙を買っているのにも気付かずに、自分は仕事が出来ると思い込んでいた。周囲の人々も、当然そう見做していると思っていた。

 成見はそこまで無能ではない。しかし納期が先なのに、残り三十分でもうワンチャージ防錆しろとか、無茶ぶりをしてきた。これは、彼の敬愛する長田氏のやり方を踏襲すると同時に彼に対するアピールでもあった。

 第二の男も、投入のスピードを誇り、数字を自慢した。

 肥大化した自己愛を満足させるためには、周囲の人々に、或いは母親に、その成果を自慢しなくてはならない。

『見て、見て。ボク、こんなに頑張ったんだよ。こんなに上手に出来たよ』

 このアピール力は、本能的なレベルで備わっているものだ。小手先だけのテクニックではない。

 非自己愛性の人間が、幾ら自己啓発系ビジネス本を百冊読んで勉強したところで、到底敵うものではない。

 自己愛性PDにおける、分離―固体化の失敗の時期を、マスターソンは練習期であるとしている。

 しかしこの件に関しては、未だ推測の域を出ていないことは、マスターソン本人も認めている。

 コフートは、自己対象転移の種類と、停滞の時期を対応させている。

 発達の速度と程度には個人差があり、また自己愛性パーソナリティ障害といっても、各人一様という訳ではない。人間はロボットではないので、特徴が似ているといっても、本人の資質や環境によって原因や病態は異なる。

 それに、家庭や母親に問題があるとなると、その時期だけ子供への対応を誤る、ということは考えににくい。最初から最後まで、子供への対応が間違っているかもしれない。

 つまり誇大感は、重層的、複合的に雪だるまのように膨れ上がっているかもしれない。

 すなわち、誇大自己の停滞の時期は、練習期だけではないのかもしれない。『ママ、おっぱい』の時期なのかもしれないし、『ママ、うんち出たよ』の時期なのかもしれない。或いは、もう少し後で『ママ、逆上がり出来たよ』の時期ということも考えられる。

 養育者の存在が無ければ、子供が一人で生きていくことは出来ない。これは物理的のみならず、精神的な意味でも同様だ。

 彼らにとって仕事とは、生活の糧を稼ぐ手段でも、生きがいでもない。自身の根源的な存在そのものを賭けた闘いなのである。

 すなわち、『仕事が出来ない』+『誰にも褒められない』=『死』なのだ。

 こうして、周囲に自身の能力と成果を命がけでアピールする。職場では、何となく彼(彼女)らが仕事が出来るという空気になる。これを自己愛性ブラックは当然のこととして受け入れる。誰もこの空気に逆らうことは出来ない。

 しかし、自己愛性PD野郎がブラック化するのに、自己愛だけでは説明がつかない。


 ブラック企業の構成要素は様々だが、何と言っても代表的なものは、長時間労働であろう。

 仕事の成果を出すために長時間労働をするのは理に適っている。負けず嫌いで、ギブアップするのを嫌がる、という側面もあるかもしれない。しかし、長時間労働の原因は、自己愛と仕事量だけではない。

 そもそも、ただ単に仕事に邁進したいだけであれば、歪んだ自己愛は必要ない。

 本当に仕事が好きで没頭している、或いはそれなりの報酬が得られるということで、長時間労働を容認しているケースもあるかもしれない。

 非自己愛性PDで仕事が好きなだけなら、例えばこのようになるかもしれない。


「後はやっとくから、今日はもう帰っていいよ」

「大丈夫ですか、朝木さん。ちょっと無理し過ぎじゃないですか」

「いいの、いいの。俺は好きでやってるだけだから。これだけはやっておかないと。君たちは、とっとと帰りなさい。残業ばっかだと体壊すよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて失礼します。お疲れ様でした」

「お疲れ」

 キラリと歯が光る。

『この人になら、一生付いていける』

 他者に対する気遣いが出来れば、当然こうなる。


 或いは、強力な自己愛だけが存在した場合は、このようになるかもしれない。


「先輩、このままじゃ終わりません。どうしましょう」

「もう残業が今月四十時間を超えました。これ以上は出来ません」

「なあに、この程度、俺様一人で充分さ。おい、お前らはもう帰れ。オラオラオラオラ、ドドドドドドド」

『全く、よくやるよ。とっとと帰って、YouTubeでカワウソ動画見て寝よう』


 自身の力を誇示したいだけなら、このような振る舞いも当然アリだ。

 しかし、自己愛性PD野郎が、職場においてこうした態度を取ることはあまりない。何故か。

 成見の場合を思い出してみよう。

 彼は事あるごとに、『残業はしなくてはならない』と繰り返し述べている。

 しかも、尤もらしい理由を幾つもこねくり回して、長時間労働を正当化しようとしている。『仕事が終わらない』『残業を振りにくくなる』『みんなの評価のため』、更に『みんなの生活の心配をしてやる』。

 そして自身でも、出勤する必要のない休日にわざわざ顔を出して、前田さんまで呆れさせていた。

 しかし、周囲の関心を買いたいだけなら、残業を強制、または残業をやらせるように誘導してやる必要はない。逆に自分だけ残り、小童どもはとっとと帰らせればいいのだ。

 自身が率先して休日出勤をして、我々にも残業をやらせれば、サブリーダーとしての彼の評価も上がるということはあるかもしれない。自身のために我々を利用しているということ自体が自己愛的(ナル)な振る舞いではある。しかし、ワークネードや加藤さんにしてみれば、タスクをこなすことが重要であって、残業時間は二の次であろう。残業自体が目的ではないのだ。むしろ、自分が頑張って仕事を終わらせましたとアピールすることだって出来るはずだ。

 第三の男の場合はどうであったか。

 彼は、朝の七時に出勤し、自身が帰宅するのも我々が帰宅した後だった。

 私が入社した当初で、右も左もわからない状態で三時間の残業をする羽目になった時には、手伝いもせず一緒に残っていた。個人的な印象かもしれないが、どことなく嬉しそうに見えた。

 第二の男の場合は、実は人並みに『疲れたね』『早く帰りたいね』と、よくぼやいていた。しかし、上の二人と共通する要素もある。それは何か。

 飲み会である。

 飲み会が、一体ブラック企業と何の関係があるのか。

 第二の男は、飲み会が好きだった。回数からすればそれほど多いという訳ではないのかもしれない。しかし週末に飲むと、必ず朝までになった。私の方が飲み会忌避派であるということを差し引いて考えても、それほど間違った印象とも思えない。何せ、北関東の元ヤン元ホストで元ボクサーなオラオラ的人間である。飲むのが嫌いで、ナンバーツーホストにはなれまい。そして居酒屋に就職して、その休日に自分の店に現れて飲んでいた。アルバイトの学生さんたちも引いていたように思える。

 第三の男は、私の送別会を開いてくれた。和民で。

 そこまでは良かった。問題はその後だ。

 家が反対方向であるにもかかわらず、わざわざ電車に乗って私に付いてきた。そして帰宅せずに、公園で一夜を明かすという謎めいた行動をした。実はあれが初めてではなく、櫻井君とも、同様な行動をしたことがあったらしい。それで櫻井君もドン引きだった訳だ。

 成見は、最初に前田さんと私の三人で飲んだ時に、お開きの号令がかかると、そこから食い下がり、更に宴を継続しようとした。前田さんの送別会兼忘年会のカラオケでも、前田さんが翌日に予定があるために帰宅することになったが、朝までオールをやりたがった。『オーーーーーーーーーーール。ウェエエエエエエエエエイ』。

 成見に関しては、ジム通いも重要である。筋トレ自体に、ナルシシズムを見出すことはそれほど難しいことではない。

 しかし、それだけではない。この場合、体を鍛えることのみならず、毎日ジムに通うということに重要な意味がある。

 毎日二時間の残業をして、その後でジムに通う。

 更に、私まで誘い込もうとする。毎日のようにしつこく、社交辞令などではなく、かなりマジで。もしかして、『オトモダチ入会キャンペーン、二千円キャッシュバック』のためかもしれない可能性もあるが、恐らく違うと思う。

 成見の場合は、気になる点がもう一つある。

 仕事が終わった後のもたもたである。

 他の連中は、終業のチャイムが鳴れば、『お疲れ』と言い残して、とっとと帰宅の途につく。これは私も同様だ。同僚と興が乗って話し込むこともたまにはあるだろう。しかし、成見の場合は理解の範囲を超えている。

 チャイムが鳴っても事務所で話し込む。やっとロッカーの前に来ると、そこから更に五分近くのろのろと準備に時間をかける。ヘルメットを放り込み、上着を引っ張り出して、キーをチャラチャラと鳴らし、スマホを確認し、やっと上着を着て、帰りましょうかと号令をかけて玄関へと向かう。

 毎日このような調子なので、段々と付き合うのが苦痛になってきた。しかし、惰性でやめることが出来なかった。

 この行動にもちゃんと意味があるということに気付いたのは、随分後になってからだった。

 残業を厭わず、他人も巻き込む。飲み会が好きで朝までオール指向。筋トレとしつこい勧誘。終わらない帰宅準備。

 これらの断片的な事実を個別に見れば、大したことではないのかもしれない。

 この場合は、それらの断片が集積した時に、初めて意味を成す。

 これらのやや困った振る舞いは、肥大化した自己愛や誇大感といったワードだけでは、説明しきれない。

 補足出来るとしたらそれは、他者との一体感を感じたままの状態、すなわち、私が命名したところの分離不全だけである。

 分離不全―自己愛性PDの者にとって、一人でいるということはすなわち、一人ではないのである。半分なのだ。彼らが一人でいる時は、自分が半分でしかないのである。

 母親との分離が完遂していない彼らは、常に隣にいるはずの母親を求めているのだ。

 昼下がりの公園で、母親の元から勢いよく駆け出して、色褪せたパンダちゃんに跨る。そして振り返って叫ぶ。『ママ』。しかし、そこにいるはずの母親はいない。

 彼らの時は、そこで止まったままなのだ。そして二階建てのバスが追い越していくのだ。

 彼らが、常軌を逸した長時間労働を指向する理由、いや、もっと正確に言えば、会社に居たがる理由。

 それを難解な精神医学用語ではなく、最も簡潔で、誰でも理解出来るようなわかりやすい一言で表現すると、こうなる。

 すなわち『寂しさ』である。

 自己愛性PD野郎どもは、寂しくて、一人で帰宅出来ないのである。寂しくて、会社に残っていたいのである。そして飲み会で、寂しさを紛らわせていたいのである。自己愛性ブラック企業がブラック化している原因は、寂しさなのだ。

 しかしここで、賢明なる読者の皆さんは言うだろう。

「自己対象だの分離不全だの、散々小難しい理屈をこね回しておいて出した結論が『寂しいから』とは何事だ。お前本当にやる気あんのか。やる気がないなら、窓から飛び降りろ(ワタミ)。君は怠けているから辞めてもらう。怠け者だ、君は。働く意欲を持たない(日本電産)。二十代、三十代は気力も体力もあるんだから死ぬほど働けと(新規開拓)」

 以上、ブラック企業大賞実行委員会編著 佐々木亮法律監修『ブラック語録大全』合同出版(2013)より引用させて頂いた。

 しかし、これはそう驚くには当たらない。


 自己愛性PDには、誇大型と過敏型が存在すると先に述べた。

 表面的には、傲慢で自信に満ち溢れていたとしても、その心の内には、脆く傷つきやすい、ガラスのようなハートが隠されているのだ。

 自己愛性PDのテキストでは、このような表現がなされている。


『自己愛性パーソナリティ障害の人が描く自分の姿は、二極分化しています。ひとつは、人から賞賛を集めるような理想の自分、もうひとつは、無能で全く取り柄のない、ダメな自分です。』

狩野力八郎監修『パーソナリティ障害のことがよくわかる本』講談社健康ライブラリーイラスト版(2007)


『歪曲と錯覚、都合のいい理想化、恥のなげおろしと過小評価による他者のおとしめは、自分が不十分で取るに足りない存在だという、彼ら自身の不全感を避ける試みだ。』

サンディ・ホチキス著 江口泰子訳『結局、自分のことしか考えない人たち 自己愛人間とどうつきあえばいいのか』草思社(2009)


 彼らの表面的な傲慢さ、自信過剰は、その裏にある自信のなさや不安感、消え入りそうな存在の自分を覆い隠すためのものなのである。この点は、マスターソンによる自己愛性PDの精神内界構造とスプリッティングの理論がわかりやすいだろう。みじめで苦痛に満ちた『攻撃的融合部分ユニット』を、誇大で理想化された『防衛的融合部分ユニット』が覆い隠して守っているという構図だ。

 元々、自己愛性PDの研究は、境界性PDの概念からスタートしたことは既に述べた。現在では、境界性パーソナリティ障害と自己愛性パーソナリティ障害は、スペクトラム、つまり連続性があるとする考え方が一般的となっている。

 境界性PDの特徴の一つは、見捨てられ不安である。真夜中に、付き合っている彼氏にエンドレスでライン攻撃をするアレである。『会いたいの。来れないなら死んでやるから』。

 また演技性PDや依存性PDでも、やや形は違えど似たような行動をとる。これは自己愛性PDでも同様だ。それらは境界性PDのしがみつきが形を変えただけのものなのである。

 ここでまた引用しよう。


『それらの論文に記述されている、NPDとBPDを区別するための重要な要素―例えば、ボーダーラインにおいて、長期に渡って持続する悪感情(Gunderson, 1984; Robbins, 1983)、そしてナルシシストは他人を必要としないとする説(ナルシシストが抱く、”グラス―バブル・ファンタジー”に対して、ボーダーラインにおける強い依存と必要本位の人間関係)(Gunderson, 1984; Modell, 1976; Volkan, 1979)―によって、それらの二群を区別可能であると証明することは出来なかった。事実、ほとんどのナルシシストは、他人を必要としているが、そのことを知られたくないし、またそのことを悟られないように振る舞っていると、認めている。』(筆者訳)

Elsa Ronningstam, PhD, and John Gunderson, MD『Differentiating Borderline Personality Disorder from Narcissistic Personality Disorder』Journal of Personality Disorders, 5(3), 225-232,1991©1991 The Guilford Press


 つまり、自己愛性PDも、境界性PD並みに人恋しいのに、そうしたことは知られたくない。そのために巧妙な手段を用いるということである。

 境界性PDの場合は、ストレートにこう言う。

「来てよ。寂しいじゃん。お願い、来て。いいよ。来てくれないんだったら、死んでやるから。死んだら化けて出るから、それでもいいの」

 そうしてリスカしたり、或いは大腿部をカットしたり、眠剤を一瓶イッキ飲みしたりする。

 それが自己愛性PDの場合は、こうなる。

「今夜来るよね。来ないの。ナポリタン作ったから。じゃあ、待ってるから。何時頃来れる。来ないの。『進撃の巨人 Attack of titan』借りてきたし。明日返さないといけないから、今夜観ないと。明日は仕事だから会えないし、今日しかないじゃん。何で来ないの。来るんだよね。じゃあ、待ってるね」

 あくまで、私が行くことを前提として話を進めて退路を断つ。これも優秀な営業マンが使う、よくあるうざいテクニックだ。自己愛性PDの場合、こうしたテクニックが特に学んだ訳でもなく最初から身に付いている。成見が皆に残業をやらせようと必死になっているのも、これと同じである。これは自己愛性PDにおいて特徴的なテクニックなので、ここでは『既成事実化テクニック』と呼ぶことにする。自己愛性PDと恋愛については、本題から外れるので、また後日触れることとしよう。

 自己愛性PD野郎は、不健全な自己愛を満たすために、常軌を逸した集中力で仕事に没頭する。その情熱はハンパない。どんな困難も跳ね除けて前へと進もうとする。それはまるで練習期の子供が、ぶつかっても転んでもお構いなしで突き進む名残かもしれない。

 成果を出すべく、膨大な仕事量をこなすために彼らは長時間労働に走る。残業時間が法定分を超えてもお構いなしだ。

 そして彼らは、自分が残業したければ他人を巻き込む。

 長時間の残業は、彼らにとっては一石二鳥だ。仕事を進めることが出来るし、何より、私が名付けたところの分離不全の寂しさを紛らわすことが出来る。一人で家に帰らなくても済む。

 彼らは、他の人たちが残業をしたくないとは思っていない。自分が残業をしたいのだから、他人も残業をしたいと思っている。他者の気持ちなど理解出来ないし、自分が神の如く正しいと思っている。勿論、無意識の領域では薄々感づいているのかもしれない。しかし、そうした事実からは都合よく目を背ける。私が名付けたところの分離不全によって、自己愛性ブラックは、母親代わりのパートナーを常に求めている。同時に一体感と境界性不全によって、他人にも、それぞれの感情や考えが存在しているということなど理解出来ない。彼らは、自身の欲望のために他人を利用しようとしていることにすら気付いていない。

 そうして彼らは必ず結果を残す。或いは、結果らしきものを。例え一番にはなれなくても、自分の成果をアピールする。『何とかさんには敵わないな。でもよく頑張ったよ』。

 彼らの口から出る自画自賛の言葉は、カラオケ店のドリンクバーのように、水増しされたものかもしれない。

 ここでやっと、パズルのピースを埋めることが出来る。

 第十四章で保留にしておいた、自己愛性ブラック型を定義するとしよう。

 自己愛性ブラックとは、『自己愛性パーソナリティ障害を原因として、長時間過重労働を指向するブラック野郎』といったところになるだろう。

 自己愛を満たすため、仕事の成果を求め、分離不全による寂しさを埋めるため、長時間労働を指向する。肥大化した自己愛と分離不全は、密接に絡み合っており、厳密には明確に区別することは出来ないのかもしれない。しかし取り敢えず、極わかりやすく表現するとこのようになる。

 以上のように、自己愛性ブラックの考え方は、常人とはかけ離れたものだ。

 ここにブラック企業問題の理解と解決の難しさがある。


 厚生労働省が作成したパンフレット『脳・心臓疾患の労災認定―「過労死」と労災保険』によると、月四十五時間以上の時間外労働が続くと、関連疾患の発症リスクが高まり、月八十時間を超えると、発症との関連性が高いと判断される。つまり、『亡くなったのは仕事のせいですよ』という訳だ。現在、『過労死の八十時間ライン』と呼ばれるものだ。

 普通の人間であれば、常軌を逸した長時間労働が続けば、最悪の場合、死に至るか、或いは自ら命を絶ってしまうかもしれない。運良く死にまで至らなくても、鬱病を発症するかもしれない。そもそも、月四十五時間だの八十時間だのの残業を自ら好き好んでやる人間はいないし、そんな人間が存在しているとも思わない。誰もが生活のため、或いは命令されるか仕事が終わらないかで仕方なく残業をしているのだ。

 ところが、自己愛性ブラックは違う。

 自己愛性ブラックの場合は、残業をすればするほど生き生きとしてくる。

 真夜中だろうと、職場で徹夜だろうと関係ない。

 彼らの仕事に対するモチベーションは、消え入りそうな不安や見捨てられる恐怖なのだ。よって、彼らは仕事に没頭している方が安心出来るのである。

 仕事が進んでいるという安心感、仕事をやり遂げた達成感、辛い状況に負けずに頑張っている自分に対する陶酔感、そして苦しみを共に乗り越える仲間たち(っぽい人々)。今日こんなに仕事したよ、俺って頑張ってるなあ、俺って凄いなあ、みんないる、仲間(らしき人々)がいる、『トッ○ダチー、トッ○ダチー』『春夏秋冬、いつでもボクの名前を呼んでよ』。

 この時の自己愛性ブラックの脳内では、神経伝達物質の大花火大会が開催されているのだ。

『花火って、丸いんだっけ、平べったいんだっけ』

『典道君と二人でいられるのなら、そんなのどっちでもいい』

 ノルアドレナリンの受容体がスパークし、ドーパミンのトランスポーターが悲鳴を上げる。幸せホルモンのセロトニンが、津波のようにシナプス間隙内に押し寄せれば、もう真夜中だというのに、モチベーションは衰えず、ハイでハッピーで最高に幸せな気分だ。

 オキシトシンとバソプレシンが、神経線維内で求愛ダンスを踊れば、辛い状況を共に乗り越えようとしている仲間(みたいな人々)との絆が、より強くなったように感じる。

 そして、夜が明ける頃、メラトニンが線香花火のようにシナプス間隙内で弾けるようになると、彼らは短い眠りに落ちていく。数時間後にはまた仕事が始まる。彼らはこうした状況を辛いとも思わない。

 普通の人間に太刀打ち出来る訳がない。


 しかし、長時間労働のリスクは、自ら好き好んでやっていたとしても大して変わらないと言われる。人間の肉体には生理的な限界というものがある。脳がその限界を超えると、鬱病となるかもしれない。

 先に紹介した『ブラック企業経営者の本音』には、元ワタミ社員の例が登場する。


『A氏が社員として在籍した当時、1日15時間労働は当たり前、仕事でミスをすれば上司から「窓から飛び降りろ」「お前なんか生きてる価値がねえ」など叱責もごく普通にあったという。』


 仕事は厳しかったが、同時に体育会系ノリの会社に馴染み、経営者や上司に心酔するようになる。


『店長「いい?何でも1人で背負うことないから。ワタミでは皆が寄り添って、助け合うんだよ。それがワタミだから。でも、今日は俺が気づかなかった。君に寄り添っていなかった。すまんな」』


 こうしてA氏は、自ら進んでブラック労働に邁進するようになっていく。

 ところが結局、鬱病となり、退職を余儀なくされる。それでも彼は言う。


『無理したこともない人間に、生まれ変わる機会を与えてくれる。今でもワタミという会社を、私は愛している』

秋山謙一郎『ブラック企業経営者の本音』扶桑社(2014)


 こういった社員でも、生理的限界を超えると鬱病になってしまう訳だ。そう考えると、ブラック街道まっしぐら、ブラック企業界の殿堂入り、ブラックに生まれたブラックの男のあのお方の脳神経系は、ブラーミニメクラヘビ並みに強靭なのかもしれない。

 幸いなことに、彼は生きたままで退職出来た。しかし、彼のように『運のいい』社員ばかりではない。

 悲しい事件が起きる度に企業は謝罪し、そして一部の企業は居直り、また批判される。

 その度に、我々は思う。

『こいつらの頭の中は、一体どうなっているんだ』

 例えば、このような発言をする。


『当社の認識と異なっており、今回の決定は遺憾』(ワタミ)


『1年半前に恋人と別れたこと』が原因。

『息子さんは出勤途中、知らない人に刺されて死んだ』

『自殺に偽装した他殺の可能性を否定できない』

 (暴力は)『愛があればいいと思う』(ステーキのくいしんぼ)


『アルバイトとは業務委託契約を結んでいる』(センショー)


『過労死は労働者の自己責任に帰するものであり、時間外規制や深夜労働規制等で労働者を甘やかすべきではない』(ザ・アール)


 このようなおぞましいことを、平気で言ったりする。

 彼らが自己愛性PDかどうかはともかくとして、自己愛性ブラックが自身の非を認めることが出来ないのは致し方のないことなのだ。これは別に利益のためにやっている訳でも、妥協点を探り出そうとする法廷戦術でやっている訳でもない。

 そもそも彼らにとっては、ブラック労働が快感なのだ。

『こんなに仕事をしていて、しかもこんなに楽しいのに、何でみんなボクたちを責めるの』

 彼らは、歪んだ自己愛を満足させ、また孤独感を忘れるため、蒼古的な暗い情熱に突き動かされてブラック労働に突き進む。

 そして、自身がそうして成功を収めたため、自身のやり方が絶対的に正しいと信じている。そのため、誰もが自分と同じようにするべきだと思っている。自分だけが正しくて、自身と違う意見や考えは全て間違っているのだ。自己愛性ブラックは、自分とは違う意見や感じ方が存在するということすら認識出来ないかもしれない。

 彼らの反論が本気(マジ)になるのはそのためだ。会社のイメージダウンとか、そういったことは一切考えない。元々自己愛性ブラックは、私が名付けたところの分離不全のため、他者の身になって考えるということが出来ない。自分達の言動に対して、世間一般の人々がどのような反応を示すのか、ということが予測出来ない。そもそも、反応があるということすら考えていないのかもしれない。

 より強いもの、大きなものに惹かれるのも、自己愛性PDの特徴の一つだ。彼らは、そういった人物やモノに、街灯に群がる蛾のように惹きつけられ、一体化しようとする。コフートはその状態を、理想化転移と呼んだ。自身の、或いは自身の属する企業は、自己対象としては理想的だ。それが一部上場で、誰もがその名を知っているような大企業なら尚更だ。その企業の規模や、社員の数に、誇大感がリンクしていることも考えられる。私が命名したところの分離不全で、従業員や部下を自身の一部と感じるのであれば、そういった仲間(かもしれない人々)が多ければ多いほど、誇大感にも影響を与えるかもしれない。

 更に、その経営者がカリスマ的な魅力を持っているとしたら、彼を敬愛する自己愛性ブラックの従業員は、既にその経営者自身になっているかもしれない。経営者までいかなくとも、直属の上司がパワハラ野郎なら、そのことが逆に彼らを惹きつける要因となるかもしれない。自己愛性ブラック本人も、強い人間に対して従順となる傾向がある。腹を見せて、絶対服従を示すことなど訳ないことなのだ。

 それゆえ彼らは、死んでいった『弱い』人間に対して、共感したり同情したりすることはない。自ら去り行く者はもう仲間ではないのである。

 彼らが感じる強力な仲間意識は、『敵』に対する憎悪や敵愾心と引き換えのものだ。外部から責められれば責められるほど、逆に内部の結束は固くなるかもしれない。

 自分たちに反発してくる者に対しては、自己愛憤怒を引き起こすだろう。会社に対する批判は、自身に対する攻撃と見做される。

『一体、奴らに何がわかるってんだ。何にもわかってないんだよ』

 確かに、我々には理解出来ない。


ヤクザ型と自己愛性ブラック型


 それではここで、利益追求系のヤクザ型ブラックと、自己愛性ブラックを比較してみよう。

 例えば、従業員がこのようなことを言い出したら、どのように対応するか。


『ただいま帰宅しましたよ。

ついさっきまで仕事してましたよ。

あと三時間半後には出社ですよ。

どうでも良くなったよ。

考えても考えても、今の状況を打開することが厳しい。

労基うんぬん言ってもどうしようもないし。

駄目だな。自分自身。

会社に迷惑かける前に、早いとこ星にならないと。』

川人博『過労自殺第二版』岩波新書(2014)


『10月21日 眠りたい以外の感情を失いました』

『10月24日 もう四時だ 体が震えるよ!… しぬ もう無理そう。疲れた』

高橋幸美 川人博『過労死ゼロの社会を 高橋まつりさんはなぜ亡くなったのか』連合出版(2017)


 最初のケースは、大手化学プラントメンテナンスの新興プランテック株式会社における過労自殺のものである。入社二年目のシステムエンジニアが、月二百時間超の時間外労働などを苦に自殺した。彼はミクシィにブログを残していた。

 二番目は、過労により自殺した電通の女性新入社員、高橋まつりさんのラインである。

 電通のケースでは、週四十時間を超える過酷な時間外労働に加えて、卑劣なパワハラやセクハラなども原因として挙げられている。

 こういった場合に、どう思うのか。


 ヤクザ型ブラックの場合はこうだ。


『ちょっと追い込み過ぎたか。これで自殺でもされたらマズイな。この辺で飴をあげて、御機嫌を取っておいた方がいいな。少しは休ませるか。それともいっそのことクビを切った方がいいのか。とにかくこれ以上はマズいぞ。何とかしよう』


 本当のワルなら、人格者を演じることなど訳ない。客観的に自分を見つめ、捜査当局や世間の反応を予測することも可能だ。

 そしてその悪さ故に、自身の行動をセーブすることも出来る。利益のために、或いは自分のためにヤバいことをやって他人を喰い物にしているという自覚があるからだ。


 これが自己愛性ブラック型になると、こうなる。


『月百時間くらいで何を言っているんだ、この子は。私が若い頃は社内飲食してたぞ。みんなやっていることじゃないか。でも確かに新人だから、まだキツイのかもしれないな。でもきっと、その内にわかってくれるに違いない。今はまだキツイだろうが、今ここで甘やかしてしまうと本人のためにもならない。ここはビシッと言っておいて、もう少し頑張ってもらおう。それが本人のためにもなるんだ。社会人として、社員として、まともな人間になれるように私が指導してやらなくてはならない。私には部下に対する責任があるのだ』


 こうして、非自己愛性PDの社員は追い込まれていく。

『間違っているのは自分で、会社ではない。仕事が出来ない私が悪いのだ。もっともっと頑張らなくては』。

 自分が正しいと思っている人間ほど恐ろしいものはない、という好例であろう。

 自己愛性ブラックは、自分たちがヤバいことをしているという自覚はない。彼らに悪気は一切ないのだ。長時間労働は絶対的に正しいことだし、パワハラは、仕事が出来ない人間に対しては許されると思っている。仲間(と思い込んでいる人々)の足を引っ張るからだ。本人のためにやっているとすら思っている。彼らは自分たちが正しいことをしていると信じているのだ。そして集団心理と過剰な仲間意識によってブレーキが利かなくなる。おぞましいパワハラやセクハラはエスカレートする。


 もし、自己愛性ブラック経営者や上司が、従業員や部下を過労死や自殺に追い込んだとしたらどうなるか。

 彼らはこう考える。

『何で、何で逝っちゃうんだよ。何でボクを一人にするの。百時間くらいで死ぬとか訳わかんないよ。幾ら何でも弱すぎだろ。そうだ、弱いのが悪いんだ。自己管理が出来てなかったからだ。だいたい、社会人としての自覚がなさすぎだろ』

 これはストーカーとも通じる心理である。悪いのは相手であり自分ではない。『あいつが悪いんだ』。

 元々自己愛性PDは、自分が神の如くに正しいと思っている。自分の間違いを認めることは、彼らにとっては『死ね』と言われているに等しい。


 その『正しさ』は、新人研修においても如何なく発揮される。

 ブラック企業の中には、意図的に宗教団体の手法を取り入れて、洗脳研修を行うところもあるようだ。孫引きになるが引用させて頂こう。


『なおこうしたブラック企業によるスパルタ研修は、程度の差こそあれ、必ず次の3つの要素から成り立っている。すなわち、①衣食住を他人に依存した「拘禁状況」で、②長時間の運動や肉体労働を強制し「身体的に衰弱」させる。さらに③今の自分を否定させ精神的な「退行」をうながす、という3要素である。これは精神医学者の故・大熊輝雄氏(国立精神・神経医療研究センター名誉総長、東北大名誉教授)によれば人間を洗脳するための3つの条件であり、1980年代に洗脳の問題を取材したジャーナリストの宇治芳雄氏の著作(『禁断の教育』『洗脳の時代』など)には、一部のカルト的な団体がこの手法を用い、多くの常識人を本人の意思とは関係なく洗脳する実例が紹介されている。』

古川琢也『ブラック企業完全対策マニュアル』晋遊舎新書(2013)


 では、次のケースはどうであろうか。

 こちらは某中堅不動産会社における、新入社員研修の様子である。


『睡眠時間は1週間の研修で合計7時間ほどしかなかった。深夜は「己を知る」や「グループディスカッション」が真夜中まで行われた。そのあとも次の日の「5分間スピーチ」の原稿を考えるために時間をとらなければならなかったし、一般的な社会人マナーに関する「豆テスト」という試験があるのだが、そのための自習時間は、公正なプログラム上、どこにもない。深夜に全部のメニューが終わってから、みんなで集まって勉強することになり、ほとんど寝ることはできなかった。連日研修が深夜4時頃まで続き、眠くなるなかで、同期どうしが「何寝てるんだ!」と強い調子で指摘しあった。Aさんも「適当」「無神経」「危機感がない」等の言葉を投げかけられ、「夜あまり見かけないぞ」とまで言われた。Aさんが睡眠時間を1日1~2時間とってしまい、空いた時間をテスト勉強に費やしていないことに対する糾弾だった。』


 この社員は入社後に、月二百時間の残業をこなすようになった。月給は月二十万程度であった。

 そのうちに休みもなくなった。

 引用は続く。


『実際、上司はずっと休みなしで出勤しており、1週間休みなく働く人は珍しくなかった。』

『週1回の全社的な合同朝礼で社長が毎回繰り返したのは「人間は寝なくても死なない」という持論だった。』


『先輩社員が別の社員を指して、「こいつむかし残業代でないんですかとか聞いてたんだぜ?」と笑ったり、「うちの会社はワークワークバランスだ」と公言することもあった。』


『上司自身、若い頃に胃に穴が開いて倒れたことがあったと聞かされた。だが彼はそれを当然と考えており、新人研修が終わった後、Aさんが頭痛を訴えたとき、「俺は胃に穴が開くほど頑張ったのに、新人のとき頭痛いぐらいで何言っとんねん」と叱責を受けたという。』

今野晴貴『ブラック企業2「虐待型管理」の真相』文春新書(2015)


 このケースの場合、どのような意図でこうした研修を行っているのか定かではない。

 しかし、この上司や社長の言動を考えると、自己愛性ブラックかもしれない。

 自己愛性ブラックだとすると、こうした過酷な研修も、自発的かつ自力で編み出した可能性がある。

 彼らには、新入社員を洗脳してやろうなどという意図はない。

 自己愛性ブラックの場合は、やっぱり本気(マジ)なのだ。

 彼らの思いは、『これが新入社員のためなんだ』という純粋な思いである。

『ビジネスの世界は厳しい。まだ学生気分の抜けてない新人たちが後で困らないように、俺たちが鍛え直してやるんだ。休みたいとか残業代が欲しいとか、甘ったれたこと言う奴は俺がぶん殴ってやる』。

 或いは、社長がヤクザ型で、意図的に洗脳研修を取り入れており、上司がいい年して洗脳されたままの状態なのかもしれない。

 いずれにしても、初心な新入社員を会社に都合のいい『社畜』に仕立て上げるという点では、大した違いはない。

 戦略的な宗教研修であったとしても、自己愛性ブラック、或いはその傾向がある若者の方が、洗脳するのは容易であろう。彼らは、表面的な傲慢さ、尊大さとは裏腹に、内面は依存的で、正論じみた自己啓発的な言辞に弱く、精神的に追い詰められることで、仲間意識も高揚させやすい。強い者に惹かれ、取り入るのも得意だ。恐らくそうした場では、何の疑問も抱かずにいち早く転向して、率先して同僚を煽ったり、非難したりする側に回るだろう。


 そうした異常な状況に気付いて、逃げ出すことが出来れば、まだマシだろう。

 ところがブラック企業の中には、辞めさせない、というケースも存在する。これも、常人の理解を超える現象だ。


『なぜなら、採用したばかりの新人から退職者を出せば、それは退職を申し出た者を指導している者や上司らの責任にもなる。そのため上司らは必死になって引き止め工作に励むのだ。

「今、辞めても、どこにも行くところはないよ」

「ここで勤まらなかった者は、どこの業界でも勤まらない」

「落伍者を雇う会社などないよ」

 高圧的なものもあれば、

「誰もが通ってきた道だ。今頑張ればそのうち花開く」

 本人を慮っているような言葉も時折用いられる。

 とはいえこうした退職の引き止め工作は、その説得を行う誰もが退職を申し出ている本人を慮ってのものではない。自らの指導、管理責任が問われることを恐れてのもの、それに尽きる。いわば責任転嫁の賜物というわけだ。

秋山謙一郎『ブラック企業経営者の本音』扶桑社(2014)


 評価が下がるから辞めさせたくない、という理由ならまだ理解出来る。

 現実的問題として代わりがいない、優秀で従順なスレーブなため、本当に辞めて欲しくない、というケースも多々あるだろう。

 しかし、仕事でミスをしたと難癖をつけて損害賠償を請求したり、違約金や求人広告の費用を請求するのは、明らかに常軌を逸している。

 実際に損害賠償請求の訴訟を起こした事例としては、IT企業のエーディーディー事件が代表的なものとして挙げられる。

 システムエンジニアの社員が、月百五十時間オーバーの時間外労働を苦に、鬱病を発症し退職した。すると会社は、業務の不適切実施、業務未達など、労働契約上の義務違反を理由として、二千万円オーバーの損害賠償請求訴訟を提起した。それに対して元社員も、時間外手当の支払いを求めて反訴した。当然の如く、元社員の主張がほぼ認められた。


 では、次の例はどうであろうか。今度は学生のブラックバイトのケースである。


『損害賠償を請求すると脅す場合は、辞めることで会社に損害が発生するという理屈のときもあれば、かつてのミスにつけ込んで請求するケースもある。ある予備校では、一度学生が予定を忘れてしまったところ、「迷惑料」を請求された。最初は一万二千円を請求されていたのだが、この予備校を辞めると伝えた瞬間、請求額はなんと五十万円に跳ね上がった。実家に何回もきたり、電話やはがきが執拗に届き、大学にまで嫌がらせの連絡をされた。ただし、辞めなかった場合は五万円で許すという。実家に送られてきた督促状には、期日と指定口座を明示したうえで、振込のない場合には法的措置を取らざるをえないと書かれていた。

今野晴貴 大内裕和『ブラックバイト』堀之内出版(2015)


 ここまでくると、立派なストーカーである。実家(自宅ではないということは、一人暮らしなのか)に押し掛ける、大学に電話をするなど、やっていることはほぼ一緒だ。

 こうした行動原理の裏には、一体何があるのか。

 人手が足りないから辞めさせたくない、という背景も恐らくあるのであろうが、どうも、そういったビジネス上の動機だけとも思えない。心理的に強く執着しているように見える。

 自己愛性ブラックの場合は、転移、同一化、依存などなど表現は様々だが、理想化だけではなく、自分の部下や従業員に対しても一体感を抱いているだろう。『自分のモノ』という感覚だ。

 自身の延長、一部として執着していたところに、思いがけず辞めると言われれば、自己愛憤怒を起こすのも無理はない。その時の自己愛性ブラックの心の声はこうだ。

『この俺に盾突きやがって。こいつ、ゼッテー許さねえ』

 或いは、こうかもしれない。

『何で、辞めるの。何でボクを置いていっちゃうの。ボクを一人にしないで』

 求人広告の費用を払え、損害賠償請求を起こす、などと強面で宣わっていても、彼らの本音は、母親代わりである自身の一部を失いたくないだけなのかもしれない。


 ブラックとの批判を受ける企業は、崇高な理念を掲げているところも多い。

 経営者や企業の理念は、その企業のウェブサイトで簡単に見ることが出来る。

 そうした理念と自己愛性PDには、何か関係があるのであろうか。

 例えば、牛丼チェーンのすき家の場合は、社長さんがこのような理念を掲げていることで知られる。


『世界から飢餓と貧困を撲滅する』

ゼンショーホールディングスHPより


 しかし、この崇高な理念と企業の行動には、大きな矛盾がある。

 自社の社員たちを、超低賃金で貧困状態に置きながらコキ使っていることだけではない。尤も、アルバイトとは業務委託契約をしているらしいので、自社とは関係ないらしい。

 それはともかくとして、やや古いが引用してみよう。


『そして、本来人間が食べるべき穀物を、「濃厚飼料」という名の家畜のエサにするのが、第二の解決策であった。一カロリー分の牛肉をつくるためには八カロリーの穀物が必要である。同様に鶏肉一カロリーは三カロリー、豚肉一カロリーは四カロリーの穀物がそれぞれ使われる。肉にすることによって穀物のエネルギー効率を下げるのは、願ってもない穀物の処分方法であった。動物性蛋白質の消費拡大を上回る速度で、余剰穀物は飼料に回されていった。』

石弘之『地球環境報告』岩波新書(1988)


 同様の指摘は、農林水産省のウェブサイトでも、見ることが出来る。

 『食料・農業・農村基本問題調査会 食料部会(第1回)食料をめぐる情勢について』と題された資料の中に、『畜産物1kgの生産に要する飼料穀物の量(トウモロコシ換算)』という項目がある。まとめると、以下のようになる。


鶏卵/3kg

鶏肉/4kg

豚肉/7kg

牛肉/11kg


 これらの資料を読めば、誰もがこう思うだろう。

『飢餓や貧困をなくしたければ、牛肉喰わなきゃいいんじゃね』

 牛ちゃんの飼育に関しては、農場にするための熱帯雨林の伐採も問題となっている。

 牛肉をみんなでガツガツ喰い散らかして飢餓や貧困を解決するのは、恐らく不可能であろう。牛肉を扱い、飢餓や貧困に関心を寄せる元全共闘闘士の社長さんが、こうした事実を知らないとは思えない。本当はそういった問題に関心がないのか、何か秘策でもあるのか、或いは何も考えていないのか、どうした意図でこうした理念を掲げているのか、正直言って私にはよく理解出来ない。


 ゼンショー・グループがブラックかどうかはともかくとして、その理念の内容から、ブラックか非ブラックか、或いはヤクザ型か自己愛性ブラックかを見分けることは出来るのだろうか。

 あくまで個人的な印象だが、完全にドメスティックな企業のクセに、『地球』『世界』『人類』『世界平和』といったワードが並んでいるのは危険な匂いがする。経営者の自己愛的で誇大妄想的な野望が反映されているかもしれない。

 それから、『成長』『努力』『夢』といったワードにも要注意である。社員に対して、常軌を逸したブラック労働を強要し、正当化したい欲求が反映されている可能性がある。

 とは言え、理念のワードだけから自己愛性ブラックを見分けるのは難しいかもしれない。

 自己愛性ブラックの場合は、むせ返る宗教臭は意図的なものではなく、本物の信仰に近いものと考えた方がいいだろう。そして多くの場合、信仰の対象とは経営者自身である。


 こうした理念を、洗脳のツールとして利用していると思われる事例は、ブラック企業ではよく聞く話である。

 ブラックと呼ばれる企業においては、こうした理念を掲げるだけではなく、従業員に暗記させたり、感想をレポートに書かせたりといった研修がよく行われている。


『こうした行動の徹底的な管理の他に、企業理念や社の基本方針などを、とにかく暗記させられたという。「研修までにそれら(企業理念など)を覚えてこいって宿題があって、入社式の前にテストもありました。丸暗記してグループ全員で順番に唱えるというのもありましたね。連帯責任で」。』


 これは、『衣料品販売大手の某X社』のケースということである。どこだろう。

 このような研修を、著者はこう評している。


『第三者の目から見ると、技術の向上や、基本的な社会人としてのマナーを教えることを企図してはいないようだ。本当の目的は、従順さを要求したり、それを受け入れる者を選抜することにあるのではないか、と疑われる』


 確かに、選別という意図もあるのであろう。しかし、決してそれだけではあるまい。

 これもやっぱり、やっている方は本気(マジ)なのだ。

 こうした研修を、経営者本人が考案してやらせているとは考えにくい。恐らく、取り巻きの下っ端どもが主導して、行っているのではないだろうか。

 先にも述べたように、自己愛性ブラックは、強い者、優れた者に対して、理想化転移したり同一化したりする傾向にある。尊敬、というより崇拝する経営者の理念集であれば、社員なら暗記していて当たり前なのだ。それが出来ない『信仰』の足りない社員など、一緒に働きたいとは思わない。脱落者に用はないのだ。

 更に、続けて引用させて頂く。


『それを裏付けるように研修では、怒鳴るなど、威圧する場面も多々あったというが、新卒が一番困惑し、精神を圧迫されるのは、言葉のきつさではなく、怒られる理由がわからないところにあった。Bさんがいうには、「言葉がひどいっていうよりも沸点がよくわからなかったですね」。また、Aさんも「些細なことで、『いや、ありえないんだけど』みたいな感じで怒りますね。どういう方針でこの人はキレてるんだろうって疑問でした」という。さらに、Bさんは「同期の人とか、この会社に入るとこういう感じで人が変わっていくんだって思いました」と話してくれた。』(同上)

今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』文春新書(2012)


 やや長くなったが、この部分はもろに『分離不全―自己愛性PDあるある』のように思われる。恐らく、意図的にやっている訳ではないだろう。

 彼らは、他人のことを自身の一部だと感じており、境界線がない。よって、他人が自分と同じように考え、自分の思い通りの行動が出来るのが当然だと思っている。そこで、自分の意図とは違った予期せぬ言動をされると、混乱し、逆上してキレるのである。『こんなはずはない』『一体、こいつは何を言っているのだ』。これは自己愛憤怒であろう。こちらがわかっていないのに、向こうは『わかっていて当然』という認識で接してくる。そして、その状況を疑問にも思わない。相手の立場に立って考えるということが出来ないのである。話がまともに通じないのも当然である。こういうケースは自己愛性PDを疑うべきである。

 自己愛性ブラックの場合、意図的に洗脳の手法を取りいれなくとも、自然と、自発的にそのような状況になってしまうことがあるのであろう。

 ヤクザ型の場合は、元から理念もへったくれもあったものではない。適当にそれらしい言葉を並べておけばいいと考えるだろう。そして、戦略的に宗教や軍隊などの洗脳法を取り入れた研修を行い、社員を社畜化する。

 ところが、自己愛性ブラックの場合は、やっぱり本気(マジ)なのだ。自己愛を満足させるために、崇高でスケールの大きな理念を掲げる。そしてやっぱり本気(マジ)で、それらの非現実的な理念を実現しようと試みる。そのために、従業員にブラック労働を強制することなど訳ない。自身の理念は社員の理念であり、日本中いや世界中が、自身に共鳴し、実現のために全力で邁進しなければならないのだ。崇高な理念のためなら、従業員が過労死することなど気にしない。大きな目的のためなら、『小さな』犠牲は仕方のないことなのだ。そして言うまでもなく、求めているのは、理念を実現することよりも本人に対する賞賛である。そのため、自分達の言動に矛盾が生じてもそんなことは気にしないし、そもそも気付いてもいないだろう。


 経営者が非自己愛性で、適当にツギハギして作った理念だったとしても、下の人間が自己愛性だった場合は、自ら進んでそういった理念を実行し、周囲にも強制しようとするかもしれない。どういったパターンであったとしても、社員のみならず、社会にとっては脅威でしかない。

 出来ればブラック研修に参加する前に、その企業のブラックネスに気付きたいものである。


 では求人の段階で、ブラック企業を見分ける方法はあるのだろうか。

 作家の福澤徹三氏による『もうブラック企業しか入れない 会社に殺されないための発想』幻冬舎新書(2013)には、そうした例が紹介されている。


『訪問販売で有名なある会社は、わたしが高校を卒業した三十三年前から、いまだに求人を続けていますが、そのあいだに何人の社員が辞めていったのかを考えると、空恐ろしいものがあります。』


『学歴経験不問や未経験者歓迎など応募資格のハードルが低かったりフレックスタイム制やノルマがないという勤務の自由さを強調していたり、勤続何年で年収が幾らといった給料の具体例を書いていたりするのは、昔から危険な企業の定番です。

 社員の平均年齢が若いわりに給料が高かったり、社員旅行で海外へいったのをいちいち書いていたり、わざとらしい集合写真や有名人のイメージキャラクターも要注意です。

 簡単にいえば、自社の魅力をあれこれアピールしている会社ほど怪しいのです。』

福澤徹三『もうブラック企業しか入れない 会社に殺されないための発想』幻冬舎新書(2013)


 求人広告の集合写真については、ネットなどでもよくネタにされている。

 あの歪んだ仲間感、おトモダチ感に惹かれる求職者がどの程度いるのか、統計がないので不明である。

 これも、自己愛性ブラックの場合は、オープンでフレンドリーな職場の雰囲気を見せることによって求人を引き寄せようという意図ではなく、本当に自分たちの仲間になって欲しいという純粋な思いからやっている可能性がある。そもそも、不特定多数の求職者たちの前に、自分たちの顔を晒そうという発想自体が自己愛的(ナル)と言える。

 有名人のキャラクターにしても同様で、会社のPRよりも、経営者自身の虚栄心を満足させることが目的であろう。


 ブラック企業と宗教に関しては、類似点がよく指摘されている。

 洗脳研修、スケールの大きな理念、脱会者を許さない、魅惑的な勧誘、そして集合写真やら有名人を使ったPRなどなど、具体的な共通点のみならず、壮大で、派手で、華やかで、どことなく安っぽいといった感覚的な部分で、同じ臭いを感じることも多いであろう。

 意図的に、理念や研修などに洗脳の手法を取り入れている場合もある。しかし、自己愛性ブラックの場合は、どうも自然とそうなってしまうようである。

 それも彼らの『正しさ』が、為せる技なのではないだろうか。

 経営者自身の自己愛性ブラック的な全能感と誇大感に加えて、彼らを崇拝する方も、やはり自己愛性ブラックなのである。彼らは経営者と会社にその身を捧げるソルジャーなのだ。そして、例え経営者自身がホワイトであったとしても、下の人間が自己愛性ブラックなら、経営者の意図に反して、会社が黒く染まってしまうということも充分あり得る。外から見ても、そうした細かい人間関係まではわからない。


 近年、自己愛性パーソナリティ障害は、増加傾向にあると言われている。となると、自己愛性ブラックも増えていると考えるべきであろう。皆さんがよくご存じのブラック企業、或いは経営者たちの中にも、自己愛性PDを疑わせる人物が多数いるように思われる。では、昔はどうだったのか。自己愛性ブラックなど存在しなかったのであろうか。

 ここで再び、過去を振り返ってみたいと思う。

 次の舞台は、企業ではなく学校である。最近は企業のみならず、学校や部活、そしてスポーツの世界におけるブラック化が問題となっている。もしかしたら、企業のブラック化の源流は、学校での部活にあるのかもしれない。

 もう大昔のことだが、休日返上で、死ぬ気で思い出してみたいと思う。

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