第十七章 分離不全とは

 成見に感じた『境界線がないのではないか』という疑問を出発点として、私の自己愛性パーソナリティ障害のメカニズムに関する考察が始まった。まさに『はじめに言葉ありき』だ。

 『境界線がない』とは、どういうことなのか。

 より具体的にいうと、成見が『私(他人)に対して、境界線を感じていないのではないか』という疑問である。

 成見と話している、というより話を聞いていると、妙な気分になった。何だか、脳味噌が捻じ曲げられているような、奇妙な感じである。

 それは、小迫さんが突飛なことを言い出した時とも、松井さんが訳のわからないことを言い出した時とも違う。前田さんや浦田と話す時にも感じない。カフカを読んだり、エッシャーの絵でも見ているような、不安で不条理な、何とも不気味な感覚である。この正体は一体何なのか。

 まずは、話の内容である。

 例えば、信仰告白の時は何と言ったか。

 自分は正社員になるために、仕事を頑張る。『だから』『一緒に』朝木さんも、仕事を頑張りましょう、とか何とか言った。

 しかし私の方は年齢的にも(恐らく能力的にも)、正社員になんぞなれないし、仕事自体、好きでやっている訳ではない。そうした立場の違いとか、私の感情といったものに対して、存在すら気付いていないような言い回しであった。私が常識的で模範的な市民であると言うつもりはないが、この非正規時代にあっては、世間一般の常識とも相容れない内容でもある。

 同様に、彼は様々な理由をつけて『残業はやらなくてはならない』と繰り返している。

 『仕事が終わらない』『いざという時のために、普段からやっておかないといけない』などなどで。

 しかし私の方は、基本的、根源的な認識として、残業など一秒たりともやりたくはない。一秒たりともかどうかはともかくとして、これも私のみならず、世間一般の共通認識でもあることであろう。

 ところが成見の方は、そうした私や世間の常識などお構いなしである。元々自分が残業をやりたいだけなのに、尤もらしい理由をこねくり回して残業をやることを正当化し、我々を付き合わせるべく誘導しようと試みているように思える。

 言っていることはいつも間違ってはいない。正論である。しかし、決して同意も共感も出来ない。

 内容だけではなく、言い回しにも特徴がある。

 『じゃないですか』『ですよね』を多用する。

 これは、相手が同意も共感も出来ない内容を、あたかもそれが常識、正論、絶対的真理であるかの如く表現し、相手に対して服従を強要する意図を込めた言い回しである。

 しかし、成見がそのような言い回しを意図的に使っているとは思えない。

 そもそも彼には、同意を得るという概念すらないのではないだろうか。

 最初は、彼なりのテクニックではないかと、ふと思ったりもした。

 相手を意のままに操ろうという心理テクニックを、自己啓発系ビジネス本か何かで勉強して習得したのではないか、と思った。

 しかし恐らく彼は、そんな本など読んだこともないであろう。

 相手にも、自身の意思や独自の考え、そして心が存在していることを認識しておきながら、自己の利益のためにそれらを踏みにじり利用しようとしているのではない。

 最初から、相手の心が存在していることすら認識できていないのである。

 これは成見だけではなく、第三の男の例でも顕著である。

 例えば彼は、新人や他のセクションの人々に対して指導や説明が出来なかった。私が入社した時に残業はどうすればいいのか尋ねたが、その答えは、『二時間でも三時間でも、好きなだけやってって下さい』という、おぞましいものだった。

 残業の件のみならず、新人は右も左もわからない状態である、という当たり前の事実を、全く理解していないかのようだった。

 成見は、新人指導に関しては問題なくこなしていたと思う。しかし両者ともに、自分が言ってもいないことを、あたかもこちらが聞いているのが当たり前であるかのように振る舞うといった、『ブラックダメ上司あるある』がよくあった。

 セットの総入れ替えの時もそうだったし、突然『あれ、どうなりました』といったことを聞いてくることがしょっちゅうだった。

 これは、他人の立場に立って考えることが出来ないという、自己愛性PDの要件にも当てはまる。

 そうしたことが何となくわかってきたので、自分からはなるべく何も言い出さないようにしていた。下手をすると相手が逆ギレするかもしれないからだ。

 そうした状況から、仮説を立ててみた。というより、何もないところからふと思い付いた。朝、工場の中央通路を歩いている時に、降って湧いたように思い付いた。それは自己愛性パーソナリティ障害のメカニズムに関するものだった。

 人間は誰しも、生まれた時は母親と一体化している。

 それが自己を認識して、初めて自己と他者の区別がつくようになる。

 恐らく自己愛性パーソナリティ障害の場合、その過程で問題が発生し、その分離が上手く出来なかったのではないだろうか。そのため、自己と他者との一体感を保ったままで大人になってしまった。

 彼らの頭の中では、他者も自分の延長線上にあり、自分の一部である。そうなると何が起こるのか。

 自分の考えていることは、他人も同じように考えており、また他人が自分の思い通りに動くのも当然という認識になる。


 一般的に自己愛性パーソナリティ障害は、その名の通り、肥大化した自己愛とか、幼児的誇大感といったことが原因であるとされている。

 しかし、ここで一つ疑問が生じる。

 そもそも、肥大化した自己愛、誇大感といったものが、他人の気持ちを理解出来ないことの原因になり得るのか、という疑問である。

 他人の気持ちを理解した上で、自己の利益のためにそれを踏みにじるのと、最初からそういったことが全く見えていないというのは、次元が違う話ではないだろうか。

 成見や第三の男、そして第二の男の言動を見ていると、明らかに後者と思われる。

 彼らは、自分が正しいと思って行動しており、自分が間違っている、悪いことをしているという認識はない。

 幾ら自己愛が肥大化しているといっても、いや、だからこそ、他人の気持ちや立場を慮ることで、自身にとって有利になるような場面であれば、そういった選択をするはずである。ところが自己愛性PDの場合は、そうした言動が出来ないが故に自己愛性PDと診断されるのであって、強力な自己愛による利己主義と、他人の気持ちが認識出来ないということに因果関係があるとは思えない。

 ここで自己愛性パーソナリティ障害の要件を見てみよう。


(6)対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する).

(7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない.

(9)尊大で傲慢な行動、または態度.


 これらの要件は、誇大感とか、自己愛だけではなく、自身と他者が分離していない状態を想定することで、よりわかりやすく理解出来るのではないだろうか。

 しかし、そうしたことは、初心者向けのテキストでは言及されていない。

 誰も認識していないのであれば、私が認識させるしかないではないか。

 まず名前を付けよう。

 この状態をどう命名すればいいのか。

 分離不安にしよう。

 精神医学会に私が思い付いたワードが残り、私の名前も永遠に残るかもしれない。俺ってもしかして天才じゃね。

 しばらくは、『分離不安』『分離不安』『分離不安』と、心の中でまるで念仏か秘密の合言葉でも唱えるように念じて悦に入っていた。

 しかし、仕事中にググってみると『分離不安』そして『分離不安症』という言葉は、既に存在していた。呆然とスマホの画面を見つめながら、何もかもがもうどうでもよくなった。全て滅んでしまえばいいのに。一人で叫んでみた。『バルス』。何も起きなかった。

 無関係という訳でもないので、ついでにそちらについても少々解説しておこうと思う。

 分離不安とは、乳幼児が、主に母親などの愛着の対象者から離れる時に示す不安のことである。六カ月から二、三歳頃まで続き、泣き叫んだり、後を追いかけたりするが、これらは愛着が形成された証拠であり、この段階では正常な反応である。その程度には個人差がある。

 しかし、乳幼児期を過ぎてもその状態が続くと、立派な診断名が付く。

 DSM-5では、『分離不安症/分離不安障害(Separation Anxiety Disorder)』というカテゴリーが存在する。


『分離不安症/分離不安障害(Separation Anxiety Disorder)』

A.愛着をもっている人物からの分離に関する、発達的に不適切で、過剰な恐怖または不安で、以下のうち少なくとも3つの証拠がある.

(1) 家または愛着をもっている重要な人物からの分離が、予期される、または、経験されるときの、反復的で過剰な苦痛

(2) 愛着をもっている重要な人物を失うかもしれない、または、その人に病気、負傷、災害、または死など、危害が及ぶかもしれない、という持続的で過剰な心配

(3) 愛着をもっている重要な人物から分離される、運の悪い出来事(例:迷子になる、誘拐される、事故に遭う、病気になる)を経験するという持続的で過剰な心配

(4) 分離への恐怖のため、家から離れ、学校、仕事、または、その他の場所へ出かけることについての、持続的な抵抗または拒否

(5) 1人でいること、または、愛着をもっている重要な人物がいないで、家または他の状況で過ごすことへの、持続的で過剰な恐怖または抵抗

(6) 家を離れて寝る、または、愛着をもっている重要な人物の近くにいないで就寝することへの、持続的な抵抗または拒否

(7) 分離を主題とした悪夢の反復

(8) 愛着をもっている重要な人物から分離される、または、予期されるときの、反復する身体症状の訴え(例:頭痛、胃痛、嘔気、嘔吐)

B.その恐怖、不安、または回避は、子どもや青年では少なくとも4週間、成人では典型的には6カ月以上持続する.

C.その障害は、臨床的に意味のある苦痛、または、社会的、学業的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている.

D.その障害は、例えば、自閉スペクトラム症における変化への過剰な抵抗のために家を離れることの拒否;精神病性障害における分離に関する妄想または幻覚;広場恐怖症における信頼する仲間なしで外出することの拒否;全般不安症における不健康または他の害が重要な他者にふりかかる心配;または、病気不安症における疾病に罹患することへの懸念のように、他の精神疾患によってはうまく説明されない.


米国精神医学会(APA)高橋三郎 大野裕監訳『DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引』医学書院(2014)


 境界性パーソナリティ障害では、他の数ある過激な症状と、この分離不安が併存していることが多い。

 自己愛性パーソナリティ障害においては、分離不安症/分離不安障害がみられることは、あまりないと考えられているようだ。


 分離不安が使えないとなると、他の語を考え出さないといけない。しかしこれは簡単に思い付いた。『分離不全』である。

 早速、仕事中にググってみたが、『分離不全』という語は取り敢えず現時点では存在していない。

 念のため、土曜日の仕事帰りに地元の図書館に寄って、心理学の辞典などを幾つか当たってみたが、そちらにもやはり存在していなかった。ということで、ここでは勝手に『分離不全』と命名することにした。パチパチパチパチ、おめでとう。鳴り響く万雷の拍手、シャンパンのシャワーを全身に浴びて、見上げると天使たちがラッパを吹き鳴らし、大地が、空が、地球上の全ての生きとし生けるものが、私を祝福していた。人々は叫んでいた。『分離不全』『分離不全』『分離不全』『分離不全』……。みんな、どうもありがとう。世界の全てが歓喜に包まれていた。もしかして、自分はやっぱり自己愛性PDなのではないかと、疑問を抱いた。

 それはともかくとして、分離不全と、分離不安症/分離不安障害とは何が違うのか。

 分離不安症/分離不安障害は、自己を正しく認識し、他者との違いも正しく理解、認識したうえで、他者との分離に恐怖を覚える状態である、と解釈してみる。

 対して、分離不全とは、そもそも他者との違いそのものを認識できていない状態であると、定義してみた。

 分離不全―自己愛性PDの者にとっては、分離することに対して、それを理解したうえで恐怖を感じるのではなく、分離することそのものがあり得ないことなのだ。何故なら、元々僕とあなたは一つなのだから。一体どうやって分離するってんだ。

 『君は僕で、僕は君』『お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの』『一心同体少女隊』『俺たちはガンダムだ』。一体化しているのは既成事実であり、ハナから疑うことすらしない。その状態が覆された時には、『自己愛憤怒』に陥るのではないだろうか。

 自己愛性PDの者にとっては、家族、上司、部下、生徒、同僚、友人、恋人、世界中の全人類が、自分の一部、自分の延長、自分自身、自分そのものなのだ。そして彼らは当然の如く、自分と同じ意見を持ち、同じ考え方をして、自分の思い通りに行動してくれる、それが当然のことだと思っている。彼らと引き裂かれることは、自分の手足をもぎ取られることと同じことなのだ。

 そう考えると、自己愛性PDに対する従来のイメージも、やや違ったものとなってくるであろう。

 従来の自己愛性PDのイメージは、元々自己中心的で、自意識過剰で、傲慢で他人の気持ちなど考えていない、或いは、ナルシシスティックで、自分の美しさや能力に酔いしれ思い上がっている、過剰な自己愛によって他人の気持ちを踏みにじり、傷つけても何とも思わないといったところであろう。

 しかし彼らは、最初から自意識過剰で、根拠のない自信に溢れ、尊大な訳ではないのではないか。

 彼らを傲慢な人間にしているのは、自分は他人とは違う、他人より優れているという勘違いの思い上がりなどではなく、他者との一体感から生じた全能感なのではないだろうか。

 すなわち、『俺は強い』『私は美しい』『俺って優秀』『俺はお前らとは違うんだよ』『アイム・トゥー・セクシー』といったものではなく、『ボクたちみんな一緒だよ、みんな仲間なんだよ』『世界は一つ』『ウィ・アー・ザ・ワー、ウィ・アー・ザ・チルドレーン、ウォウウォウイエイイエイイエイ(シンディ・ローパー)、ジャラジャラうるさいよ』、といった、一体感、仲間感、『トッ○ダッチー、トッ○ダッチー』『春夏秋冬、ボクの名前を呼んでよ』といったおトモダチ感が、彼らの誇大感の原因なのではないだろうか。

 一体感を感じている、というといいことのようにも聞こえるが、この場合は全くの逆である。相手に共感したり、苦楽を共にしたりして、一体感を感じるということもあるかもしれないが、自己愛性パーソナリティ障害の場合は、そういった健全な一体感ではなく、あくまで一方的なものだ。

 だからこそ、自分が他人に対して害を与えているとか、苦しめているとか、そういった意識もない訳だ。悪事を悪事と認識してやっている訳ではなく、あくまで自分が正しいことをしていると思って行動しているのだ。

 これはある意味で、従来の自己愛性パーソナリティ障害とは、全く逆のイメージとはならないか。

 しかし、私が名付けたところの分離不全だけで、最初から『人類皆兄弟』とか言って、東南アジア産のハッパでハイになっているような状態になるとも思えない。

 一人の人間が、普段接することの出来る人数には限りがある。

 彼らが誇大感を膨張させるには、その対象が必要なのではないだろうか。

 幾ら私が名付けたところの分離不全によって、『ウィ・アー・ザ・ワー、ウィ・アー・ザ・チルドレーン、ウォウウォウイエイイエイイエイ(シンディ・ローパー)、ジャラジャラうるさいよ』、といった状態であるといっても、そこは現実の人間関係、接することの出来る人間の数や質にも左右されるのではないだろうか。

 そして、同一化の対象によっても、その人の自己愛や誇大感の大きさが変化するのではないだろうか。

 例えば、成見の場合、工場に来た当初は、毎晩飲んだくれて二日酔いの状態で仕事をしていた。

 それが、長田さんや前田さんとの出会いによって覚醒した。酒をやめて、ジムに通い出し、体重を落とし、同時に、小迫さんやら私以下の下っ端の人間も増えた。社員と同化して、徐々に誇大感を膨張させていった。

 自己愛性PDには、傲慢なタイプと過敏なタイプが存在するといわれている。

 成見は当初、過敏なタイプだったのが、様々な人々との出会いと、仕事での経験を通じて、まるでミンミンゼミが孵化するように、傲慢なタイプに変化した。

 例えば企業の経営者であれば、自分とこの従業員全員に対して、こいつらみんな俺のモノ的な感覚を抱くかもしれない。企業の規模と従業員の数によって、自己愛性PD経営者の自己愛、誇大感の大きさも変わるのではないか。

 或いは、一国の指導者なら、自分とこの国民は全員俺のモノ、ということにもなりかねない。

 自己愛が高じて一体感が生まれるのではなく、私が名付けたところの分離不全による一体感が原因で、自己愛が肥大化様の症状を呈し、それが自己愛性PDを悪化させ、更に尊大になってナチュラルハイとなり、その尊大さが更に多くの人間どもを巻き込み、以下リピート、というスパイラルに陥るのではないか。

 これなら辻褄が合うような気がした。

 しかし、そう甘くはなかった。

 初心者向けのイラスト入りテキストやウィキペディアだけで、勝手に理解して新発見をしたような気になっているのは、流石にマズいのではないかと思い始めた。

 仮説を証明するには、従来の説と比較検討しなくてはならない。

 もう少し高度な専門書を読んでみる必要に迫られた。

 ところが碌に休みがない。

 自動車関連なので、連休だけは長かった。

 やっとのことでジュンク堂まで辿り着くと、専門書を揃えた。

 更に、信じがたいほど便利なアマゾンで、仕事中に検索して文献を漁り、近所のブコフで、CDと一緒に文献を買い漁った。そして貴重な週末を利用して読み始めた。

 そして、現実を思い知らされた。

 自己愛性パーソナリティ障害の原因とメカニズムなど、既に高度に理論化されていた。


パーソナリティ障害超概論


 医師でも心理学者でもない人間が、パーソナリティ障害の解説をすることに疑問を呈する向きもあるだろう。

 ここでは、自己愛性ブラックを理解するためということで、ごくごく簡単かつ大雑把に、解説を試みてみたい。

 よりきちんとした形で勉強をしたいという方は、専門家によるテキストが、それこそ山のように出版されているので、そちらを参照することをお勧めする。

 さて、『自己愛性パーソナリティ障害(Narcissistic Personality Disorder)』は、その名の通り、自己愛の障害と言われている。

 よって本来なら、『自己愛(narcissism)』という概念からスタートするべきなのだが、その前に、パーソナリティ障害全般のメカニズムを理解するために、必要な理論を幾つか紹介したい。

 まずは、マーガレット・マーラーの、『分離―固体化理論』である。

 マーラーは、一八九七年にハンガリーで生まれた。小児科医、精神分析医、児童精神医学者として知られる。

 ミュンヘンで精神医学を学び、後にウィーンで、フロイトの娘で精神科医であるアンナ・フロイトらと交流をもった。一九三八年に、ナチズムの迫害を逃れてアメリカに渡った。

 一九五九年から約十年にわたり、ニューヨークのマスターズ児童センターを中心に、大規模な観察研究を行った。乳幼児と母親の行動を継続的に映像に記録、観察して、ゼロ歳児から三歳児までの発達段階を、『分離―固体化過程(separation-individuation process)』として理論化した。

 『分離―固体化』とは、乳児が母親との一体感から、徐々に分離していく過程のことを言う。

 マーラーによる分離―固体化過程のプロセスを以下に示す。ただし、テキストによって、数字などが微妙に異なっている。そういう訳で、独自にまとめてみた。


正常な自閉期(normal autistic phase)〇~二カ月

 自己と外界の区別がない


正常な共生期(normal symbiotic phase)二~四カ月

 内部(空腹感)と外部(おっぱい)の認識

 自己と他者の区別はまだつかない


分離―固体化期(Separation-individuation phase)五~三十カ月

 この辺りから、徐々に母子分離が始まる

 分離―固体化期は、次の四段階に区別される


① 孵化(hatching)ないし分化期(differentiation)三~八カ月

 自他の区別が可能となり、人見知り反応が始まる


② 練習期(practicing)十~十五カ月

 ハイハイ、よちよち歩き、直立歩行

 母親から分離しては戻る


③ 再接近期(rapprochement)十五~二十二カ月

 分離意識と分離不安

 再接近期危機(rapprochement crisis)

 この時期にトラブると、境界性パーソナリティ障害になるかも


④ 個体化期(individuation)二十二~三十カ月

 固体化の安定と情緒的対象恒常性の萌芽

 母親からの分離に耐えられるようになる

 部分対象関係から全体対象関係へ


 母親との一体感を解消し、徐徐に分離していく、という過程は、私が見立てた通りのものであった。

 しかしその中身は、一行で済むほど簡単ではない。

 誕生したばかりの新生児には、自己と外界の区別はない。外部からの刺激には反応せず、内部の生理的な反応が優勢である。すなわち、お腹が空くと泣き、ウンチをすると泣いて母親に要求する。『ママ、おっぱい』『ママ、おむつ換えて』。母親は、それを当然のこととして受け止め、乳児の要求に応える。『自分で何とかしろ』とは言わない。しかし極稀に、そうではない母親も存在する。例えばこのような感じ。


『八月五日

今日初めてトイレでウンチさせた。なるべく早く、そういう習慣を付けよう。』

「少年Aの父母」『「少年A」この子を生んで……父と母 悔恨の手記』文春文庫(2001)


 ちなみに、この少年Aが生まれたのは、七月七日である。

 その結果どうなったかは、皆さんご存知の通り。

 自閉期は、だいたいこのようにして過ぎていく。


 二カ月から四カ月になると、段々と自分の内部と外部の区別がつくようになる。例えば、空腹は内部で起こり、おっぱいは外からやってくる、といった具合に。そして、乳児は、快と不快を二分し、自分の欲求を満たしてくれる存在として、母親をぼんやりと認識するようになる。しかし、この時点でも、母親との関係は未分化で、乳児は一体感と全能感に包まれている。これが『共生』の由来である。

 自閉期と共生期を無傷で乗り切ると、分離―固体化期と呼ばれる時期に入る。五カ月を過ぎる頃である。

 分化期では、母子一体の共生状態から『孵化』し、母親への『特異的微笑』を示すと同時に、母親以外の人を識別出来るようになる。母親の膝の上から逃亡しようとしたり、母親の身体や衣服をしきりにベタベタと触れたりしてくる。母親以外の人間が近づくと、泣き出したりする『人見知り不安(stranger anxiety)』を示す。これには個人差があり、中には好奇心を示す場合もある。自閉期と共生期の過ごし方によって差異があると思われる。『イナイイナイバアー(passive peak-a-boo game)』という遊びは、決して乳児を喜ばすためだけにやっている訳ではない。これも分離―固体化のための重要なトレーニングの一環なのである。


 練習期は、早期練習期と、固有の練習期に分けられる。

 早期練習期には、ハイハイをして母親の元から離れて、玩具や哺乳瓶に触れたり、投げつけたりするようになる。意識高い系の、北欧産エゾマツ製の、幼児にも環境にも優しい高価な積み木だろうと、本人はそんなこと知ったこっちゃない。そして破壊行動に飽きると、母親の元に戻るのを繰り返すようになる。

 固有の練習期になると、よちよち歩きを始め、移動、探索能力が飛躍的に向上する。

 ニトリのバーゲンで購入したテーブルにぶつかろうと、バイキンマンのぬいぐるみを踏んづけて転倒しようと、お構いなしで突き進む。

 気分がハイになり、自分の能力と自分の世界の大きさに酔いしれているように見える。この時、自己愛が最高潮に達するともいわれている。『アイム・キング・オブ・ザ・ワールド』『飛んでる、私飛んでるわ』といった状態である。この時期の幼児を、精神科医のグリーネイカーは『世界との浮気(love affair with the world)』と表現している。

 この時期に幼児が好むかくれんぼ遊びは、分化期に比して、『積極的な』イナイイナイバア遊びともいわれる。これも、対象の喪失と発見を繰り返す、重要な訓練の代わりとなる。

 そして、カインズで購入したカーテンに巻き付いて隠れたり、お父さんの趣味で与えたガラモンのソフビをぶん投げたりするのに飽きると、また母親の元に戻り接触を求める。この時の母親の様子は『基地(home base)』と表現される。この時に母親が上手く対応出来れば、問題を抱えることなくいい子に育つかもしれない。補給が上手く出来なければ、サハラ砂漠で墜落することになるかもしれない。


 ところが、再接近期に入ると、この『キング&クイーン』状態は終わりを迎える。再び分離不安が襲い掛かり、幼児は母親にしがみついてみたり、そうかと思うと逃げ出してみたりする。こうして、ほどよい心理的距離を見出していく。この時に、母親の対応が上手くいかずに、再接近期危機を乗り越えられないと、後に境界性パーソナリティ障害の原因となると言われている。


 どうにかこうにか、分離不安と再接近期危機を乗り越えると、いよいよ分離―固体化の最終段階に突入する。個体化期と呼ばれる。

 時間の概念、言語能力、現実検討能力などの、自我機能が発達する。

 自己表象と対象表象の区別がつくようになり、自我境界が確立する。ややわかりにくいが、早い話が、自分と他人を、心の中でイメージして、区別出来るようになるということである。

 そのようにして、『情緒的対象恒常性(object constancy)』を獲得し、母親がそこにいなくても、別のどこかで存在していることを理解し、イメージすることが出来るようになる。

 そして、部分対象関係から全体対象関係へと移行する。


 ここで、『対象関係論(object relation theory)について説明する必要がある。

 対象関係論とは、自己と他者の内的な表象とそれらの構造が、他者との実際の関係に影響を及ぼしているという概念である。

 元々はフロイトが提唱した説で、後にメラニー・クラインが発展させた。

 クラインは、一八八二年にウィーンで生まれた。

 ブダペストで精神分析医となり、ベルリンを経て、一九二六年にロンドンへ移住、イギリス精神分析学会の会員となった。ナチスの迫害を逃れて亡命したフロイトとも交流を持った。アンナ・フロイトとの論争でも有名である。

 彼女は、ベルリン時代より乳幼児の、また後には統合失調症や躁うつ病の精神分析と研究を行い、対象関係論を独自に発展させた。彼女の対象関係論はその後、クライン派或いは英国学派に受け継がれた。

 対象関係論については、精神科医・医学博士の岡田尊司先生による『パーソナリティ障害がわかる本』法研(2006)が、超わかりやすいので、そちらから引用しながら、話を進めることにする。

 乳児は、知覚能力が限られているため、母親との関係は、その瞬間にその部分だけのものとなる。お乳が出る『よいオッパイ(good object)』と、お乳が出ない『悪いオッパイ(bad object)』でしかない。それらが両方とも一人の母親という認識はなく、分裂した状態になっている。

 『こうした、部分部分で、また、その瞬間瞬間の満足、不満足で対象と結びつく関係』を、『部分対象関係(part object)』と呼ぶ。

 ちなみに、念のため断っておくが、ここでは、Aカップがいいとか、Cカップがいいとか、詰め物は嫌だとか、そういったことは、おっぱいの良し悪しとは関係がない。

 しかし、成長するにつれて、そうした分裂は解消されて、よい母親も悪い母親も、同じ一人の母親であるということを理解出来るようになる。

 『よい部分も悪い部分も含めた対象とのトータルな関わり方』を、クラインは『全体対象関係(whole object)』と呼んだ。

 部分対象関係に特徴的な状態が、『妄想分裂ポジション(paranoid schizoid position)』である。

 これは、『自分にとって思い通りにならない状況に直面したとき、その不快さをすべて相手の非とみなし、怒りや攻撃を爆発させている状態』である。

 自分の思いどおりになれば、『よい存在(理想化)』、思い通りにならなければ『悪い存在(敵)』と見做す。相手との関係が分裂し、連続性と恒常性をもったものになっていない。

 この部分対象関係を克服して、全体対象関係に発展すると、妄想分裂ポジションも『抑うつポジション(depressive position)』へと変化する。

 自他の区別がつき、『相手が怒っているのは、自分が悪いことをしたからだということが理解出来るようになる。抑うつポジションは『罪悪感や自己反省というものの起源』であり、『そこからさらに、相手に対する思いやりや良心といったものも発達』していく。

 そして、そうした『つらい』状態を避けようとして、強がったり、居直ったり、逆に攻撃的になったりする心のメカニズムを『躁的防衛(manic defence)』と呼んだ。

 ちなみに、順番からすると、マーラーの分離―固体化理論より、クラインの対象関係論の方が先となっている。対象関係論は、第二次大戦を挟んで、マーラーの属する自我心理学派や、コフートの自己心理学派にも影響を与えた。


 これらの理論に基づいて、精神医学者のオットー・カーンバーグはパーソナリティ障害の概念を発展させた。

 カーンバーグは、一九二八年にウィーンで生まれた。幼少時にチリに移住し、精神分析医となった。その後アメリカに渡り、メニンガー記念病院の院長となる。数々の有名大学で教鞭を取り、IPA(国際精神分析学会:International Psychoanalytical association) の会長も務めた。

 元々は、フロイト創始の『自我心理学派(Ego Psychology)』の学者であったが、彼らとは犬猿の仲である、クライン派の理論を取り入れて『境界性パーソナリティ構造(borderline personality organization)』を明らかにした。

 『境界性(borderline)』とは、神経症と精神病の境界に位置するという意味で、今日のパーソナリティ障害の多くを含む概念である。


カーンバーグによるパーソナリティ構造の分類

1精神病性パーソナリティ構造

 自己と対象の区別が混乱、自我の境界が曖昧


2境界性パーソナリティ構造

 ストレス、馴れない状況で、自己と対象の区別が混乱しやすい

 大部分のパーソナリティ障害が該当。境界性PD、自己愛性PDもここに入る


3神経症性パーソナリティ構造

 自己と対象の区別はしっかりしている

 抑圧された葛藤のために、対象との間で不安や緊張を生じやすい

 回避性PD、強迫性PDはここに分類


 この境界性パーソナリティ構造の名称が、そのまま流用されて、『境界性パーソナリティ障害(borderline personality disorder)』と呼ばれるようになった。そして、そこから更に、曖昧だった自己愛性PDやシゾイドPDの概念が明確に区別されるようになっていった。


 パーソナリティ障害の中で、最もメジャーなものが、境界性パーソナリティ障害であろう。最近でも、患者は増加傾向にあると言われる。

 境界性PDの特徴は、変動の激しさ、躁鬱、自傷行為、自殺企図、見捨てられ不安としがみつき、セックスと薬物やアルコールへの耽溺、両極端で不安定な人間関係などなどで、本人も周囲の人間も、まるでジェットコースターにでも乗っているようなスリルと恐怖を味わえる。

 DSM-5では、以下のように定義されている。


『境界性パーソナリティ障害(borderline personality disorder)』


 対人関係、自己像、感情などの不安定性および著しい衝動性の広範な様式で、成人期早期までに始まり、様々の状況で明らかになる.以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される.

(1) 現実に、または想像の中で、見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力(注:基準5で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと)

(2) 理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる、不安定で激しい対人関係の様式

(3) 同一性の混乱:著明で持続的に不安定な自己像または自己意識

(4) 自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、過食)(注:基準5で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと)

(5)

(6) 自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し

(7) 顕著な気分反応性による感情の不安定性(例:通常は2~3時間持続し、2~3日以上持続することはまれな、エピソード的に起こる強い不快気分、いらだたしさ、または不安)

(8) 慢性的な空虚感

(9) 不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いの喧嘩を繰り返す).

(10) 一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状


米国精神医学会(APA)高橋三郎 大野裕監訳『DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引』医学書院(2014)


 最もわかりやすいのは、所謂メンヘラ女の例であろう。事実、境界性PDの患者は女性が多いのはよく知られるところである。

 出会い系で知り合って付き合い始めた、自称十九歳の女性。

 手首にはリスカ跡。拒食症なのか、手足がやや細いが顔は可愛い。

 一瞬だけ楽しかったが、その内に真夜中に電話がかかってくるようになる。

『ねえ、淋しいの。会いたいの。今すぐ来て』

 しかし来てもへったくれも、彼女の家までは、電車で一時間以上かかる。明日は普通に仕事だし。

『じゃあ、車で来てよ。タクシーでもいいじゃない』

 タクシーなんて幾らかかると思ってるんだ。アホか。

『いいよ、もう。じゃあ死んでやるから』

 後日、大腿部をカミソリで切り裂いて、救急病院に担ぎ込まれたということを知った。

 これはあくまで一例であり、フィクションである。私が体験した実話ではない。


 境界性パーソナリティ障害と言えば、カーンバーグと並んで名前が挙がるのが、ジェームズ・マスターソンである。

 マスターソンは、一九二六年にアメリカで生まれた。

 精神科医として、パーソナリティ障害の概念確立に貢献した一人である。特に境界性PD、自己愛性PD、そしてシゾイドPDの治療における第一人者である。彼の治療メソッドは『マスターソン・アプローチ(The Masterson Approach)』と呼ばれ、彼の死後も、マスターソン・グループと呼ばれる医師たちにより継承されている。

 マスターソンは、先に言及したように、境界性PDの原因を、再接近期における発達停止であるとしている。

 母親が境界例、或いは自己愛性PDの気がある場合、例えば、幼児が分離不安からしがみついてきた時に、うざそうに拒絶し、逆に母親を押しのけたい時に、幼児に対して依存的な態度を取ったりすると、その幼児が成長した時に、境界性パーソナリティ障害を発症するかもしれない。境界性PDのしがみつきは、この時の母親の言動をそのまま再現するようなものなのである。

 そして、カーンバーグも、マスターソン同様に、再接近期における分離―固体化の失敗に、境界性PDの原因を帰している。

 ただしカーンバーグは、マーラーとは別に、発達段階を独自に理論化している。詳細についてはここでは省きます。

 更に、境界性PDの原因としては、母親の行動や環境よりも、本人の元々の資質を重要視している。とはいえ、もし遺伝的な影響があるとして、母親もボーダーであるとするならば、結局はマスターソンが述べているように、環境的な要因も同時に存在することになるような気もする。

 境界性PDの場合は、幼少期の虐待や心的外傷体験も、大きな原因になると考えられている。『身体的または性的な虐待、養育放棄、敵対的な争い、小児期における親の喪失』(DSM-5)などが、患者の小児期にみられることが多い。

 いずれにしても、境界性PDに関しては、マーラーによる分離―固体化期の再接近期において、母親からの分離に失敗して、再接近期危機を乗り越えることが出来ずに、そのままこじらせたような状態であると考えられている。

 このように、パーソナリティ障害の概念は、まず境界性PDの研究から始まったといえる。そこから各種のパーソナリティ障害が分類され、研究されるようになった。

 では、自己愛性パーソナリティ障害の方は、どのようなメカニズムで発症するのであろうか。主だった理論を幾つか紹介したい。


自己愛性パーソナリティ障害超概論


 自己愛性パーソナリティ障害は、その名の通り、自己愛の障害と言われている。

 では、自己愛とは何か、ここで解説せねばなるまい。

 『自己愛(narcissism)』という語は、ギリシア神話のナルキッソスのエピソードに由来する。

 ナルキッソスは、世にも稀な美しい青年であった。ニンフ(精霊)たちは皆、彼に思いを寄せていたが、そんな彼女たちを冷たくあしらって、相手にしようとしなかった。そんなニンフたちの中でもエコーは、とりわけナルキッソスに深く恋をしていた。ある日、森の中でナルキッソスを見かけたエコーは、彼に呼びかけ抱きしめようとした。するとナルキッソスは叫んだ。『離してください。お前なぞに連れそうより死んだほうがましだ』(酷い)。大変なショックを受けたエコーは、森の洞窟にこもり、やがて声だけの存在となった。ニンフたちが訴えると、復讐の神は、ナルキッソスに呪いをかけた。すると彼は、森の泉に映る自分の姿に恋をして、そこから離れることが出来なくなった。やがてナルキッソスの姿は消え、そこには一輪の水仙の花が残った。

 このエピソードをモチーフにして、エリス、ネッケやランクらが、ナルシシズムという表現を使用し始めた。フロイトが一九一四年に『ナルシシズム入門』を発表すると、自己愛という用語が、精神医学において定着するようになった。

 フロイトは、乳児は自己と対象が区別出来ていない状態にあり、その『対象(objection)』のない状態を、『一次的ナルシシズム(primary narcissism)』と呼んだ。

 その後、母親や外界の対象との区別がつくようになり、リビドーが外界へと向かうようになる。自己愛は対象愛へと向かい、一次的ナルシシズムは解消される。しかしそこで、何らかの理由で躓きが起きると、リビドーを自身の内界へと向けるようになる。これをフロイトは『二次的ナルシシズム(secondary narcissism)』と呼んで、病的な状態であるとした。

 フロイトは、ナルシシズムの概念に、私が名付けたところの分離不全の状態を、既に取り込んでいるという訳だ。

 このフロイトによる『自己愛とは病的な状態で、対象愛へと発達するべきものである』というネガティブな自己愛観に異議を唱えたのが、アメリカの精神科医、ハインツ・コフートである。


 コフートは、一九一三年にウィーンに生まれた。一九三八年に、ウィーン大学の医学部を卒業。同年に、ロンドンへ亡命するフロイトをウィーン駅で見送ったエピソードを好んで話したという。一九四〇年にアメリカへ渡り、シカゴ大学に入学。戦後、精神分析医となり、一九六四年からは米国精神分析学会(APSAA: American Psychoanalytic Association)の会長も務めた。

 コフートは、カーンバーグと並んで、自己愛性パーソナリティ障害治療の第一人者であり、そこから独自の研究を発展させ、『自己心理学(self psychology)』を確立した。彼の理論は『自己の分析』『自己の修復』『自己の治癒』(みすず書房)の三部作において知ることが出来る。この分野における、古典的名著となっている。

 自己愛性パーソナリティ障害の精神分析を行う中で、コフートは、自己愛を退行と防衛の産物と見做す従来の見方を否定した。そして自己愛は、対象愛と並行して独自の発達を遂げるものであると考えた。

 自己愛が健全で適切な発達を遂げれば、自立して自分を愛し、自分を大切にすることが出来るようになる。また自分と同じように、他人のことも愛して、尊重出来るようになる。まさに『自分を愛さなきゃ他人も愛せない』のである。また後には、自己愛とは、自分で自分を愛する状態ではなく、自分が愛されたい欲求でもあるとその内容を発展させた。

 コフートは自己愛を、人間が生きていくために必要なものでるとして、よりポジティブに捉え直したのである。

 そしてコフートは、自己愛が成熟するのに二つの発達ラインがあると考えた。それが、『誇大自己(grandiose self)』と『理想化された親のイマーゴ(idealized parent imago)』である。

 誇大自己とは、幼児期の万能感に満ちた自己愛のことである。自分が特別な存在で、何でも思い通りになると思っている。

 『理想化された親のイマーゴ』とは、自分の中で、神の如く理想化された親のイメージである。

 そして、両者が統合されたものを『双極的自己(bipolar self)』と呼んだ。幼少期に、親が褒めたり叱ったりしながら自己愛を適切に扱ってやれば、誇大自己も親のイマーゴもバランスよく発達し、一人の自立した人間として健全に成長していくと考えた。ところが、そこで親のハンドリングが上手くいかないと、幼児的な誇大感や、親に対する理想化が偏ったままで成長し、やがて自己愛性パーソナリティ障害と呼ばれる状態に至るとした。

 そして、コフートの代名詞ともいえる概念が、『自己対象(selfobject)』である。

 自己対象とは、『自己の重要な部分として体験される対象』と、コフートは定義している。

 この自己対象については、現在まで様々な解釈が試みられている。

 当初は、(self-object)とハイフンを入れて表記していたが、後に繋げるようになった。何のことはない、字面をそのまま解釈すれば、要するに自己と対象が繋がっている状態ということになる。

 元々は、自己愛性PDの治療から生まれた概念だったが、自己心理学を確立するようになると、自己愛の概念と同様に、自己対象という概念も、ネガティブなものから、よりポジティブなものへと内容を変化させていった。

 後には、誰もが心の拠り所としての自己対象を必要としており、またその対象とは、人物だけではなく、モノやイメージでも構わないとするまでに至った。この点に関しては、誰もが思い当たる節があるだろう。通常は親や家族ということになるが、それのみならず、アイドルの握手会のためにCDを箱単位で購入したり、引退する列車の撮影のためにプラットホームを占拠したり、そういったことも、その人にとっては、生きる上で必要な自己対象と呼べるのかもしれない。

 そして、自己愛性PDの場合、自分の思い通りにいかなかったり、プライドを傷つけられたりすると、いきなりブッチ切れることがある。これを『自己愛的怒り(narcissistic rage)』または『自己愛憤怒』と呼んだ。第十二章の最後で成見が見せたのが、この自己愛憤怒であろう。また、普段は尊大でにこやかな第三の男の場合は、須藤君にシカトされた時に自己愛憤怒を見せたことがある。


 彼らの、停滞した誇大自己と理想化された親のイマーゴが、治療者に対して反映されることを、『自己対象転移(selfobject transference)』と呼んだ。

 『転移(transference)』とは何か。元々はフロイトによる概念で、患者にとって重要な人物を、治療者に重ね合わせる現象のことである。そして、彼または彼女に対して抱いていた感情や態度を、治療者に対してぶつけるようになる。治療にあたっては、この転移の分析と解釈が重要視される。転移はカウンセリングルーム内だけではなく、一般の人々にも見られる現象であるとされる。

 後に転移の概念は、多くの研究者たちによって、様々な解釈がなされることになった。

 コフートもその中の一人で、転移の概念を独自に発展させた。自己対象転移には幾つかの種類がある。


 『鏡転移(mirror transference)』は、「かがみてんい」と読む。『分析医は、延長として体験され』『小児の顕示的な誇示を鏡のように映し出す母親の目の輝き』や『小児の自己愛的顕示的歓喜に対する母親の反応』(『自己の分析』)を、母親に求める。つまり、医師に対して、自身の優秀さ、美しさ、完全さを、賞賛してもらうことを要求してくる。これは、鏡に向かって『俺は強い』『私は美しい』『アイム・トゥー・セクシー』と言っているイメージである。


 『理想化転移(idealizing transference)』は、理想化された親のイマーゴを、治療者に対して映し出す転移である。

 理想化された親のイマーゴは、幼児が成長するにしたがって、段々と現実的な存在に変化してくる。最初は神か巨人の如く見えた両親も、普通の人間であるということを理解する訳だ。これを『変容性内在化(transmuting idealization)』と呼んだ。

 これは健全な成長プロセスの一環であるが、その失望と幻滅の仕方があまりにもショッキングかつドラスティックで、ソフトランディング出来なかった場合、つまり変容性内在化に失敗した時には、親のイマーゴが極度に理想化された、不自然で不健全な状態のままで、幼児の心に固着することになる。治療に際して、患者は治療者に、その理想化されたイメージを投影し、同一化を希求するようになる。


『転移が障害されていないときは、自己愛の患者は彼の自己(セルフ)の体験が理想化された分析者を内に含んでいるかぎり、自分を完全で、安全で、力強く、善良で、魅力的、活動的だと感じる。患者は、大人が自分の身体や精神を制御(コントロール)していると体験するのと同じくらい確実に、理想化した分析者を制御し所有していると感じるからである』。

ハインツ・コフート著 水野信義 笠原嘉監訳『自己の分析』みすず書房(1994)


 『双子転移(twinship transference)』は、当初、鏡転移の一部であったが、後に独立して扱うようになった。

 これは、双子のように、自分と似たような人物を求める転移である。『自分自身の(抑圧された)完全性をになう独立の存在として分析者を体験』(自己の分析)する。


 『融合転移(merger transference)』は、自己対象転移の中で、最も太古的なタイプである。クライエントは、誇大自己を通して、治療者に同一化する。治療者を自身の一部のように扱い、コントロールしようとする。


 コフートの治療法で最も重要なのは『共感(empathy)』である。クライエントに共感することで、上記のような自己対象転移を促すと、『治療同盟(therapeutic alliance)』を結ぶことが出来るようになる。そして、クライエントの自己愛ニーズを満たしてあげることで、子供時代に生じた心の穴を埋めてあげれば、彼らの心を回復させることが出来ると考えた。

 以上のように、コフートは自己愛性PDの治療からスタートして、自己対象と自己対象転移の概念を編み出し、やがて自己心理学を確立するに至った。現在、自己心理学は、アメリカの精神医学界において、フロイト由来の自我心理学派に匹敵する一大勢力となっている。


 一方、境界例の概念を確立したカーンバーグも、自己愛性PDの治療において、独自の理論を打ち立てた。

 自己愛に関しては、コフート同様に、健全な自己愛の発達を想定して、フロイトの自己愛観とは異なる立場をとった。

 しかし、自己愛性PDの自己愛に関しては、コフートが、幼い自己愛が健全に成長する過程での発達停止であるとしたのに対し、カーンバーグは、正常な成長過程を逸脱して、病的な自己愛が構造化したものとした。その病的誇大自己と呼ばれる構造物は、現実と理想の境界や、自己と他者の境界が曖昧な状態となっており、その誇大性を維持するために、自分や対象の好ましくない面は、全て他者に投影されてしまう。こうした防衛構造は、境界性PDに類似している。カーンバーグは、自己愛性PDを、境界性PDのより軽い状態であるとして捉えており、この点でも、境界性PDと自己愛性PDとは、全く別のメカニズムを辿って発症すると考えたコフートとは、見解が食い違っている。

 精神分析にあたってフロイトは、治療者はあくまで客観的な立場で、クライエントの解釈、治療を行うべきだとしたが、カーンバーグも、そのフロイトの立場を継承した。自己愛性PDの治療においては、転移を促し、解釈と直面化によって、時には自己愛憤怒を誘発させてでも、クライエントに自身の病理に向き合わせる方法をとった。

 つまりコフートが、クライエントに優しく共感している最中に、カーンバーグは、『貴様はファッ〇ンな自己愛性PD野郎だぜ、このマザー〇ァッカーが』と言ってやる訳である。

 こうした二人の相違点は、彼らが診た患者の違いによって生じているらしい。

 カーンバーグは、メニンガー記念病院において、外来と入院の患者の治療にあたった。彼らの多くは、尊大で、傲慢で、攻撃的なタイプであった。

 対してコフートの方は、より過敏で、内向的で、臆病なタイプが多かったらしい。

 カーンバーグの方は恐らく、相当に治療に手こずり、ムカついていたのではないだろうか。DSMに記載された、自己愛性PDの特徴は、このカーンバーグが治療にあたっていた、尊大で、傲慢なタイプのものである。

 この点に関しては一方的だとして、DSMに批判もある。DSM-5の編集中に、この点が問題となったが、結局、DSM-Ⅳ-TRから継続して掲載された。今後、変更される可能性も大いにある。


 この上記二タイプは、先にも少々触れたように、一般的には『誇大型』と『過敏型』などと分類されることが多いが、その他にも多くの研究者たちが、それぞれ独自の分類を行っている。『無関心型(The Oblivious Narcissist)』と『過敏型(hypervigilant)』(ギャバード)、『鈍感型(thick skinned)』と『敏感型(thin Skinned)』(ローゼンフェルド)、『自己愛性パーソナリティ障害Ⅰ型:明らかに誇大的』『自己愛性パーソナリティ障害Ⅱ型:明らかに脆弱』(ガーストン)、『自己顕示型(exhibitionistic)』と『内密型(closet)』(マスターソン)などなどで、研究者とテキストによって表現が異なっている。要するにアッパーかダウナーか、ハイかローか、陰と陽、外交的か内向的か、リア充か引きこもりか、ネアカかネクラか、といったところであろう。

 統一出来ないものかとも思うが、この辺は精神医学会の派閥と政治力によるのであろう。格闘技のようなもので、誰かが新団体を立ち上げて、抗争を繰り返していくうちに、不人気の団体が淘汰されていくのかもしれない。

 カーンバーグとコフートは、この命名抗争には参戦していないが、上記の相違点に関しては激しい論争を繰り広げた。

 地位としては、国際精神分析学会の会長を務めたカーンバーグの方が上といえる。しかし、自己愛性PDの治療法においては、コフートの共感型の方が主流派となっている。個人的にはカーンバーグの方が楽しそうだし、自己愛性PDのクライエントに共感していて、誇大感が悪化しないのか、というカーンバーグの意見も尤もだと思うのだが、恐らく、過敏型のクライエントに対しては共感の方が有効なのであろう。


 境界性PD治療の権威であったマスターソンも、その境界例の研究から、自己愛性PDの治療理論を独自に発展させた。

 自己愛に関しては、自己に対するリビドーの供給であると捉えた。そしてやはり、健全な自己愛が人間にとって必要不可欠なものであるとした。この点は、コフートやカーンバーグとも一致する。

 自己愛性PDでは、自己へのリビドー供給が過剰であり、そして、境界性PDに関しては、自己へのリビドー供給が不足していると考えた。

 境界性PDにおいては、マーラーの言うところの、再接近期における発達停止が原因だとしたが、自己愛性PDにおいては、その前の、練習期における固着であると考えた。

 男児の場合は、練習期の初期に、母親から父親に乗り換えて、同一化を果たすという経路をたどる。この時の父親の態度によっても、幼児的な誇大感を成熟させることに失敗して、後に自己愛性PDを発症するかもしれない。確かに誇大感とか自信過剰といった要素は、父親からの影響の方が大きいのであろう。第二十五章でも触れるが、父親に対する同一化をしたままで、エディプス・コンプレックスを乗り越えられない場合も考えられる。

 一方で女児の場合は、父親と仲良くなるのはもう少し後になり、母親に対して同一視するようになる。自己愛性PDは男性に多く、境界性PDが女性に多いのは、この違いによるものと思われる。

 こうして、練習期に『世界と恋』をしたまま、自己表象と対象表象が分離せずに、また全体対象関係の構築も出来ないままで、幼児的な誇大性も保持される。すると、現実自我と病的自我がスプリットした精神内界構造が形成されるとした。

 マスターソンが提唱した、自己愛性PDにおける精神内界構造では、防衛的融合部分ユニットと、攻撃的融合部分ユニットとにスプリッティングが起きている。

 防衛的融合部分ユニットは、誇大自己に万能対象、つまり理想化された親のイメージが結び付いている。

 攻撃的融合部分ユニットは、本来の、屈辱的で恥ずかしい空虚な自己表象と、辛辣で懲罰的な攻撃的対象とからなり、見捨てられ抑うつで結び付いている。

 そして、防衛的融合部分ユニットが、本来の惨めでミザリーで傷つきやすい自己/対象表象である、攻撃的融合部分ユニットを防衛し、そのために、自己愛性PDの特徴である、尊大さ、傲慢さ、自己中心性が表現型として現れるというものである。

 治療においてはまず、中立性を保ち、治療的枠組みをしっかりと守ることが重要であるとする。すなわち、『時間を守れ、料金を払え』ということをはっきりとさせる。

 そして、直面化は慎重に行うべしとする。いきなりこいつに手を出すと、誇大自己と万能対象による防衛が活発化し、クライエントは反発を強め、カウンセリング中にキレたり、駄々をこねたりして、治療にてこずることになる。

 つまり、カーンバーグ風に『このファッ〇ンなNPD野郎が』と言ってやると、『貴様に俺様の何がわかる。このファ〇ンなヤブ医者野郎が』となってしまうので、なるべく避けた方がいいということだ。境界性PDの治療においては、この直面化が有効であるとしているが、自己愛性PDの治療においては、直面化を避けつつ、中立的な立場で解釈を行うべしとしている。

 マスターソンは、治療を三段階に分けている。

 『試験期(testing)』の課題は、クライエントの『転移性行動化(transference acting-out)』に対処することである。

 転移性行動化とは、全体対象関係を持たないクライエントが、スプリットした防衛的融合部分ユニットか、或いは攻撃的融合部分ユニットのいずれかを、治療者に対して投影する行為である。つまり、よいオッパイに甘えたり、悪いオッパイにキレたりといった、幼少期の行動を再現する訳である。

 そして週二回のセッションを繰り返していくうちに、転移性行動化の頻度が減ると共に、クライエントは、『見捨てられ抑うつ(abandonment depression))を経験するようになる。これが『徹底操作期(work through)』である。

 見捨てられ抑うつとは、混合的な感情反応で、恥、恥辱、自己愛的傷つき、冷たい怒りの感覚、関係性の欠如などとして体験される。こうした体験を解釈してやることで、クライエント自身が、自己に対する洞察を深め、次第に全体対象関係が確立していく。転移性行動化は転移へと変換し、治療同盟を結ぶことが出来るようになる。こうして治療者は、徹底操作をすることが可能となる。

 最終段階は、『分離期』と呼ばれる。

 クライエントは自分自身と他者を分離し、独自性をもった、分離した個人としての成長を再開させる。分離不安を乗り越えると、本来の自己を体感し表現出来るようになる。

 こうして、長期間にわたる治療は終結する。

 マスターソン・アプローチに関しては、現在、ニューヨークの『マスターソン研究所(International Masterson Institute)』において、後進の研究者の教育と育成が行われている。


 取り急ぎ、コフート、カーンバーグそしてマスターソンの理論を紹介した。

 しかし、自己愛性PDの研究と治療法は多岐に渡り、現在も、多くの研究者たちが、患者の治療と研究に、精力的に取り組んでいる。その全てを紹介することは、例えどんなに優れた医師であっても不可能であろう。

 カーンバーグは、パーソナリティ障害において、本人の元々の気質を重要視している。

 しかし、自己愛性パーソナリティ障害における遺伝的要因、そして生物学的要因に関しては、まだあまり研究が進んでいないのが現状らしい。

 自己愛性パーソナリティ障害に付随する症状としては、抑うつや不安障害、睡眠障害などなどが挙げられる。実際にそうした症状を訴えて、クリニックや病院にやってくると、『ユーは自己愛性PDですよ』と診断される訳だ。最初から、『自己愛性PDで困ってまんねん』と言って受診する患者はまずいない。

 そうした症状に関しては、脳科学的研究も進んでおり、神経伝達物質のセロトニン、ドーパミン、およびノルアドレナリンなどの過不足が原因となることが知られている。そして、その線に沿った治療、つまり投薬が行われる。

 では、自己愛性PD自体と、そうした神経伝達物質とは、どう関係しているのであろうか。


 パーソナリティと神経伝達物質の関連については、アメリカの精神科医、クロニンジャーによる七因子モデルが知られている。

 クロニンジャーは、パーソナリティを、七つの因子から成ると考えた。

 その内、遺伝的要因が強い気質を『報酬依存性(reward dependence)』、『固執性(persistence)』、『損害回避性(harm avoidance)』、『新奇追求性(novelty seeking)』の四つであるとしている。

 そして残りの三つは、後天的に獲得される性格で、『協調性(cooperativeness)』、『自己指向性(self-directedness)』、『自己超越性(self-transcend-ence)』である。

 そしてこれらの因子の背後に、三種の神経伝達物質の存在があるとした。

 報酬依存性はノルアドレナリンが、損害回避性はセロトニンが、また新奇追求性はドーパミンが、それぞれ関係が深いとされている。


 ノルアドレナリンは、アドレナリン、ドーパミンと合わせて、カテコールアミンと総称されるホルモンの一つで、交感神経から放出され、神経伝達物質として作用する。

 目覚めている時に分泌され、記憶力、集中力などを高める。また不安や恐怖の感情とも関わっており、強いストレスが加わると、過剰に分泌されることがある。

 報酬依存性とは、社会性に近い意味合いがある。ここから連想されるワードは、共感的、情緒的、感傷的で、その逆は、孤立、冷静、感傷的ではない、といったところになる。

 つまり、報酬依存性が高いと、常に友達と一緒にわいわいやるのが好きということになる。

 毎週のように飲み会をして、朝までオールして、『オーーーーーーーール、ウェーイ』と雄叫びを上げたり、クソ暑い真夏の河原でバーベキューをして、クソ不味いソーセージをがっつくのが好きな人間は、ノルアドレナリンがドバドバ出て、報酬依存性がハイな状態であると考えられる。


 セロトニンも、腸や脳より放出される神経伝達物質である。幸せホルモンとも呼ばれ、ドーパミンやノルアドレナリンの働きを抑制し、精神を安定させる作用を持つ。覚醒時にはノルアドレナリンが、睡眠時にはセロトニンから合成されるメラトニンが分泌される。セロトニンが不足すると、衝動に対する抑制が低下し、不安感、いらいら、強迫観念、自殺企図、衝動的な自傷行動などが起こるかもしれない。夜にメラトニンの分泌量が減り、睡眠にも影響する。また鬱病との関連が深いことでも知られている。SSRI(Selective Serotonin Re-uptake Inhibitor;選択的セロトニン再取り込み阻害薬)は、セロトニンのトランスポーターを塞いで、その名の通りセロトニンの再取り込みを阻害し、受動体へのセロトニンの伝達量を増やすことで、気分を安定させる作用を持つ。

 損害回避性は、車のブレーキに例えられる。こいつが高いと、心配性、内気、悲観的になる。逆に低いと、外交的で楽観的になり、リスクを好むとされている。つまり、セロトニンの値が低く、損害回避性が低いと、危ないことを平気でやってしまうが、逆に高すぎると、鬱や不安を抱えやすくなるということになる。


 ドーパミンは、またの名を快楽物質とも言う。視床下部より放出され、中枢神経における神経伝達物質として重要な働きをしている。覚醒、陶酔感、快楽をもたらし、その分子構造は覚醒剤と似ている。またコカインは、神経終末におけるドーパミンの再取り込みを阻害することで、快感を増幅させる。以前より、ドーパミン・レセプター4(DRD4)と注意欠陥多動性障害(ADHD)との関連が研究されている。

 新奇性探求は、車のアクセルに例えられる。新しいものが好きで、すぐに行動を起こし、その行動が不規則で、止められないという傾向がある。元々は、マウスの実験から導き出された特徴であるため、このような表現になっている。人間様に対しては、おしゃべりというワードが追加されている。その逆は、頑固、禁欲的、規則正しい、といったところになる。

 つまり、ドーパミンの分泌量が多く、新奇性探求が高いと、『ウェーイ』と雄叫びを上げながら、川に飛び込んで流されたり、某IT企業の株が十日連続ストップ安することによって大損したり、首都高をぶっ飛ばして、不運(ハードラック)と踊(ダンス)っちまったりする訳だ。


 クロニンジャー理論では、この七因子モデルを使って、パーソナリティ障害を分類している。その中で、自己愛性パーソナリティ障害は、上記三つの因子、つまり報酬依存性、損害回避性、新奇性探求が、全て高いとされている。

 報酬依存性と新奇性探求が高いのは、何となく理解出来る。みんなで『ウェーイ』とやるのが好きで、ファストレーンで自殺マシーンを飛ばして、ハイウェイスターとなる訳だ。

 では、新奇性探求と損害回避性、つまりアクセルとブレーキも、両方とも高いとなると、どういうことになるのであろうか。衝動的な行動に走ると同時に、実は心配性でビクビクしている。急アクセルと急ブレーキを繰り返して、過度なストレスがかかっているような状態である。今流行りのロードレイジも、これらのホルモンが関係しているのかもしれない。そのようなストレスフルな状態を報酬依存性で、『僕たちトモダチだよね』とか言って、誰かといることで紛らわせている。なるほど、こうしてみると、確かに自己愛性PDの特徴をよく表しているように思える。


 実は、成見はそうでもないのだが、第三の男と第二の男に関して、気になっていることがある。

 それは、やたらとハイテンションな時があったことである。

 第三の男の場合は、常にハイになっている印象を受けた。第二の男の場合は、仕事をしながら、誰かとバカ話で盛り上がって、爆発的に笑い出すということがしょっちゅうあった。二人とも、明らかな躁状態に見えた。

 躁状態だったとすると、ノルアドレナリンやドーパミンが過剰にドバドバ出ている状態だったのかもしれない。セロトニンに関しては、どっちだかよくわからない。

 自己愛性PDにおける、尊大さ、傲慢さ、攻撃的な態度は、ある種の躁状態と言える。元々軽躁状態も、自己愛性PDに関連した症状として名前が挙がっている。純粋な双極性障害の躁状態でも誇大感、攻撃性などがみられ、区別するのに苦労したりするようだ。


 成見に関しては、筋トレとの関連が興味深い。

 三島由紀夫も自己愛性PDであったといわれているが、彼もご存知の通り、筋トレにご執心だった。

 筋トレで重要なのは、テストステロンである。男性の睾丸から分泌され、骨や筋肉を大きくする作用がある。また支配欲や攻撃性を強め、冒険心や挑戦欲を駆り立てることでも知られる。

 これも、自己愛性PDの誇大感とか攻撃性と関連があるような気がするが、パーソナリティ障害に関連した研究などは、特に行われていないようだ。


 その他に、愛着障害との関連で、オキシトシンとバソプレシンも要注目である。

 オキシトシンは愛情ホルモンとも呼ばれ、下垂体後葉から分泌される。女性の出産時や授乳時に大量に分泌されることで知られる。また子供や恋人とのスキンシップ時にも分泌され、安らかな幸福感をもたらす。ストレスや不安を抑える働きがあり、コミュニケーション能力にも影響を与える。他者に対する共感性、積極性が増すことが知られている。


『愛する人、仲間と一緒にいることで大きな幸福感を感じたり、誰かと握手をしたり、肩を組んだり、目を見て話したりすることで仲間意識を感じるのは、オキシトシンによる効果です。』


『誰かと同じ空間に長くいるというだけでも、オキシトシンの濃度が高まることが分かっています。』

中野信子『ヒトは「いじめ」をやめられない』文春新書(2017)


 人間は生存していく上で、共同体を作り、維持し、結束していくことが必要であった。そのために、その状態が快感となるように進化したのかもしれない。

 バソプレシンは、オキシトシンと分子構造が似ており、同様の働きをする。こちらは男性に多い。

 逆にオキシトシンの働きが弱いと、子育手に無関心になったり、他人に愛着を感じられずに、ストレス耐性も低下するとされている。


 愛着障害の正式名称は、『反応性アタッチメント障害/反応性愛着障害(Reactive attachment disorder)』で、DSM-5では、『心的外傷およびストレス因関連障害群』にカテゴライズされている。


『反応性アタッチメント障害/反応性愛着障害(Reactive attachment disorder)』

A.以下の両方によって明らかにされる、大人の養育者に対する抑制され情動的に引きこもった行動の一貫した様式:

(1) 苦痛なときでも、その子どもはめったにまたは最小限にしか安楽を求めない.

(2) 苦痛なときでも、その子どもはめったにまたは最小限にしか安楽に反応しない.

B.以下のうち少なくとも2つによって特徴づけられる持続的な対人交流と情動の障害

(1) 他者に対する最小限の対人交流と情動の反応

(2) 制限された陽性の感情

(3) 大人の養育者との威嚇的でない交流の間でも、説明出来ない明らかないらだたしさ、悲しみ、または恐怖のエピソードがある.

C.その子どもは以下のうち少なくとも1つによって示される不充分な養育の極端な様式を経験している.

(1) 安楽、刺激、および愛情に対する基本的な情動欲求が養育する大人によって満たされることが持続的に欠落するという形の社会的ネグレクトまたは剥奪

(2) 安定したアタッチメント形成の機会を制限することになる、主たる養育者の頻回な変更(例:里親による養育の頻繁な交代)

(3) 選択的アタッチメントを形成する機会を極端に制限することになる、普通でない状況における養育(例:養育者に対して子どもの比率が高い施設)

D.基準Cにあげた養育が基準Aにあげた行動障害の原因であるとみなされる(例:基準Aにあげた障害が基準Cにあげた適切な養育の欠落に続いて始まった).

E.自閉スペクトラム症の診断基準を満たさない.

F.その障害は5歳以前に明らかである.

G.その子どもは少なくとも9カ月の発達年齢である.


米国精神医学会(APA)高橋三郎 大野裕監訳『DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引』医学書院(2014)


 反応性愛着障害では、生後から一歳半までの期間が最も重要である。その時期に母親との間で安定した愛着が形成されないと、鬱病、不安障害、各種の依存症、そして境界性パーソナリティ障害など、後に様々な精神的トラブルを抱え込むことになるとされている。

 しかし、例えそこまでは順調であっても、その後の時期にこうなると、ああなる。


『ことに二、三歳の時期は母子分離不安(子どもが母親から離れる際に感じる不安)が高まる時期であり、この時期に無理やり母親から離されるという体験をすると、愛着に傷が残り、分離不安が強く尾を引きやすい。結局、五歳ごろまでは、敏感な時期だと言える。』

岡田尊司『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』光文社新書(2011)


 パーソナリティ障害の原因とされる、分離―固体化の失敗とも、当然の如く関連しているであろう。境界性PDとの関連は、既に俎上に上がっている。自己愛性PDでは、愛着の安定度によって、誇大型と過敏型に分かれるのかもしれない。自己愛性PDの場合は、反応性愛着障害を併発していた方が、本人はともかく、周囲にとってはまだマシということにもなりかねない。

 仲間意識を高めるとされるオキシトシンについては、以下のように、負の側面もあるからだ。


『しかし、共同体社会作りに欠かせない側面がある一方で、オキシトシンが仲間意識を高めすぎてしまうと、「妬み」や「排外感情」も同時に高めてしまうという、負の側面をも持った物質であることもわかっています。』

中野信子『ヒトは「いじめ」をやめられない』文春新書(2017)


 強固な仲間意識とは、共同体の外に対する敵対感情や憎悪の裏付けがあってのものなのかもしれない。外部への敵対感情を煽り立てて、内部の結束を高めるのは、政治においてもよくある手法である。美しい友情ごっこにも、ダークサイドがあるということか。


 人間の脳は、乳幼児期に爆発的な急成長を遂げる。

 この時期に、愛情に溢れた、安心安全な環境で養育されるのと、過剰なストレスに晒され、孤独と不安の中で成長するのとでは、ニューラル・システムの発達に大きな違いが出ることは、容易に想像出来る。

 ホルモンや神経伝達物質の生成、分泌、ニューロンの数、受容体やトランスポーターの働きなどにも重大な影響を与える。

 実は私自身もシゾイドPDにして愛着障害ではないかと思うのだが、その点はまた次の機会に検討したい。

 現在、クロニンジャーのパーソナリティ理論を応用した投薬治療も提案されている。

 抑うつや睡眠障害などの、付随する症状に対処するだけでなく、パーソナリティそのものを『カイゼン』させるような投薬治療が、近い将来に、実用化される日がくるのかもしれない。


分離不全再考


 これまでみてきたように、自己愛性PDの理論では、誇大感とか、肥大化した自己意識といった概念がクローズアップされており、他者との一体感とか、私が名付けたところの分離不全といった概念は、脇に追いやられている印象を受ける。

 しかし、あくまで主役ではないだけで、自己愛性PDの背後には、私が名付けたところの分離不全的な状態が存在していることは、研究者たちの一致した見解である。決して私一人が戯言を言っているという訳でもない。

 一体感(sense of unity)というワードは、一般的な意味で我々もよく使用しているが、精神医学においては様々な定義が存在している。

 フロイトは、一次的ナルシシズムの段階では、原初的一体感の状態にあるとして、一体感を、その段階への退行と捉えている。つまり、『自己愛』というワードには既に、他者との未分化な状態といった概念が含まれているという訳だ。

 分離―固体化の失敗が、パーソナリティ障害の大きな原因の一つであることは、既に述べた。

 マーラーも、一体感を、共生期に至る以前の自閉期への退行である捉えている。

 カーンバーグは、病的な誇大自己においては、自己と他者の境界が曖昧な状態にあるとしている。

 しかし、自己愛性PDのテキストには、一体感といったワードはほとんど登場しない。


 コフートは、独自に自己対象と自己対象転移という概念を提唱している。

 自己対象とは、ごく簡単に表現すると、自分と相手が一体化している状態である。コフートは自己対象を、人間が生きていくうえで必要不可欠なものであると述べている。それは心の拠り所のようなもので、身近な人間かもしれないし、アイドルやアーティストかもしれないし、一枚の絵とか甲子園の土とか飛行石とかあの子との思い出が詰まったドングリかもしれない。

 その自己対象に転移するのが、自己対象転移である。

 コフートは、自己対象転移を、誇大自己の発達段階に対応して分けている。融合転移は、マーラーの理論でいうところの、分離―固体化が始まる前の、自閉期と共生期あたりに、分身転移は、『対象との一次的同一化ではなく対象との類似性(相似性)が確立される』あたりに、またその次の段階として、『対象の独立性が認知的に最もはっきりと確立されている』(いずれも『自己の分析』より)段階に、鏡転移を対応させている。

 しかし彼は、自己愛性PDの原因と時期を、自己対象転移の状態で対応させている訳でもないらしい。

 一人のクライエントで、複数の自己対象転移がみられることもある。

 フロイトは、転移はカウンセリングルームの外でも起こり得るとしている。つまり会社でも家庭でも、どこでも転移は起こりうるのだ。

 成見の場合をコフート風に考えてみると、長田さんや前田さんに対しては、理想化転移していると言える。普通は、非正規社員と正社員には越えがたい壁が存在するものだが、彼は事も無げに社員どもと一体化し、既に自分が社員になったつもりでいる。恐らく、加藤さんや他の正社員ども(笹井さんを除く)に対しても、理想化転移しているのではないだろうか。

 私に対しては、実はよくわからない。歳は彼より上で、見た目も悪くなく、お仕事も最低限はこなしているが、社内の立場では彼の後輩で、格下のサブリーダーである。しかし、やはり私の意思や感情を顧みず、自身の延長として捉えているような言動がみられる。鏡転移なのか双子転移なのか判断しかねる。

 問題は、小迫さんと松井さんである。彼らの歳は、私同様に、成見よりかなり上であるが、明らかに格下扱いにしている。部活やヤンキーで、後輩をパシリにしているのとも違う。『メロンパン買ってこい。誰がヤマザキの買ってこいって言ったんだよ。フジパンの方に決まってんだろうが、オラ』。『小迫さんを、サブにしてやる』と言ったり、『出来ない人を出来るようにしてやる』とか言ったりしている。明らかに通常の境界線を越えている。しかし、自己対象転移で、格下に対する転移は想定されていない。特徴から判断すると、融合転移にカテゴライズ出来ないこともない。成見は、彼らを自分の思いのままにコンロトール出来ると思っているかのようだ。やはり、彼らを自分の延長として認識していると考えた方がしっくりくる。


 医師たちが、プライベートで患者を診ることはない。自己愛性PDの患者は、治療者のみならず、いつでもどこでも誰に対しても転移、或いは自己対象転移を起こしているのではないだろうか。会議室だろうと現場だろうと、いつでもどこでも事件は起きるのだ。

 しかし、コフートの述べるところの、自己対象における『対象』とは、親などの理想化されたイメージに限定されたもののように思える。全人類に対して一体感を抱いているというようなニュアンスではないように思えるが、私の理解力では、それ以上のことは正直わからない。


 マスターソンの転移の概念は、フロイトのそれに基づいたものであるが、対象関係論にも影響を受けている。


『転移は、全体的対象関係に基づいている。全体的対象関係とは、自己と他者を分離したものとして、そして望ましい特性と望ましくない特性の両方をあわせもつ、統合された人として全体的にみられる能力と定義される。』

ジェームス・F・マスターソン アン・R・リーバーマン編 神谷栄治 市田勝監訳/成田善弘 序文『パーソナリティ障害治療ガイド 「自己」の成長を支えるアプローチ』金剛出版(2007)


 全体対象関係論も、『分離』という概念にかすってはいるが、飽くまでメインは『よいオッパイ』と『悪いオッパイ』の方である。ごく大雑把に考えると、『良いオッパイ』は理想化転移その他の自己対象転移に、『悪いオッパイ』は自己愛憤怒に、それぞれ対応させることも可能なように思える。

 そして、部分対象関係における治療者に対する投影を、マスターソンは転移性行動化と呼び、転移とは区別している。全体対象関係がもてれば、転移も可能になるとしている。

 マスターソンは、分離―固体化期における、固有の練習期での発達の固着が、自己愛性PDの原因であるとしている。著書の中ではこのように言及している。


『そして練習期の終わりごろ、習熟が頂点に達すると、自己表象と対象表象との分化は次第に明確になってくる。よちよち歩きの赤ん坊はそれまで抱いていた誇大感と万能感を失い始め、また世界は自分が自由に利用出来るものではなく、自力で対処しなければならないものであるということが、だんだんわかり始める。そのため再接近期には分離不安が増大する。

 ~中略~

 なぜなら臨床的には、患者は対象表象があたかも自己表象の構成部分(万能な一対の単位an omnipotent dual unity)であるかのように行動するからである。自己愛性パーソナリティ障害患者には再接近危機が訪れないようである。そのため世界は自分が自由に利用出来るものであり、自分を中心に回っているという幻想が維持される。』

ジェームスF・マスターソン著 富山幸佑 尾崎新訳『自己愛と境界例―発達理論に基づく統合的アプローチ―』星和書店(1990)


『つまるところ、「自己の障害」をもつ人々は、自分自身や他者を実際的に多角的、全体的に見たり、他者を自分とは分離した人として見たりすることができない。そのため他者の動機と感情を読み損なってしまう。』

ジェームス・F・マスターソン アン・R・リーバーマン編 神谷栄治 市田勝監訳/成田善弘 序文『パーソナリティ障害治療ガイド 「自己」の成長を支えるアプローチ』金剛出版(2007)


 マスターソンによる精神内界構造では、自己と他者の内的表象が融合して、それがスプリットしている。極乱暴に例えてみると、自己と他者という二枚のパンケーキを、バターを挟んで重ね合わせて、それをナイフで半分にぶった切っているようなものであろう。ここでも、自己と他者との融合という状態は前提としてすっ飛ばされ、スプリットと部分対象という概念に、彼の関心は向かっている。

 しかし、この他者との一体感、境界線のなさ、という印象を受けているのは、どうも精神科医だけではないようだ。


 NPO法人『ヒューマニティ』の理事で、五百人以上のストーキング加害者と向き合い、カウンセリングを行ってきた小早川明子氏は、著書『ストーカー「普通の人」がなぜ豹変するのか』において、このように述べている。


『私がストーカー対策を始めたときに気がついたのは、ストーキングとは相手の自由領域である内面の防御壁までも乗り越え、思考や感情を操作しコントロールしようとする「越境行為」であるということでした。~中略~相手側に越境することに何の疑問も持たない人が少なくありませんでした』

小早川明子『ストーカー「普通の人」がなぜ豹変するのか』中公新書ラクレ(2017)


 ストーカーの原因は多岐に渡り一様ではないが、その中の一つとして、自己愛性パーソナリティ障害が大きなウェイトを占めているのは想像に難くない。

 精神科医の福井裕輝氏は、著書『ストーカー病 歪んだ妄想の暴走は止まらない』の中で、この点を指摘している。

 まず福井氏は、ストーカーのタイプを、四つのパターンに分類している。“執着型”、“一方型”、“求愛型”、“破壊型”である。

 その中でも、執着型の因子となりやすいのが、自己愛性パーソナリティ障害であるとしている。ドクター福井は、コフートの自己愛憤怒に関する論文を引用した上で、こう述べている。


『恨みを募らせながらも、相手にすがる。写し鏡である相手を失うことは、自分のすべてを失うに等しいからだ。だが、追えば追うほど求めるものは遠のいていく。そんな相手に苛立ち、怒りを募らせ、それが臨界点に達した時、事件は起こるのだ。』

福井裕輝『ストーカー病―歪んだ妄想の暴走は止まらない―』光文社(2014)


 写し鏡という単語は、コフートの鏡転移を連想させる。

 自分の延長で、自分の思い通りに自分を愛してくれるはずの相手に拒絶されると、こうした状況に逆上して、最悪の場合には相手を殺害するまでに至る。

 原因は様々だとしても、ストーカーによる、相手の気持ちを一切考えずに自分の感情をごり押しし、相手を自分の意のままに操り従わせようとする言動は、まさに、私が名付けたところの分離不全の病理が背景にあると言えるのではないだろうか。


 このように、自己愛的(ナル)な野郎どもの奇妙な一体感、境界線のなさ、というのは、彼らと対峙して注意深く観察していれば、多くの人々が気付く類のもののようだ。

 別に私の大発見でも何でもない。

 『分離不全、フゥーっ』とか言って浮かれている場合でもない。

 しかし、コフートにしてもマスターソンにしても、私が名付けたところの分離不全状態に言及しておきながら、皆その部分を華麗にスルーして、スプリットや誇大自己といった概念で、自己愛性PDの説明を試みている。

 これも考えてみると、当然といえば当然のことなのだ。

 フロイト以来、自己愛の概念には、他者との未分化な一体感、すなわち、私が名付けたところの分離不全の状態が、既に内包されているのである。プロの精神科医であれば、そんなことは誰でも知っているのだ。改めて説明するまでもない事項なのであろう。


 しかし、心理学の専門家の中にも、『自己愛人間』の特徴として、他者との境界線のなさ、すなわち、私が名付けたところの分離不全の概念を、強調して取り上げている者もいる。

 サンディ・ホチキスは、アメリカ人の公認臨床ソーシャルワーカーにしてセラピストである。

 彼女の著作『結局、自分のことしか考えない人たち 自己愛人間とどうつきあえばいいのか』草思社(2009)の中で、自己愛人間の悪しき特徴を、『七つの大罪』として、以下のように紹介している。

 『恥を知らない』『つねに歪曲し、幻想を作り出す』『傲慢な態度で見下す』『ねたみの対象をこき下ろす』『つねに特別扱いを求める』『他人を平気で利用する』、そして最後が『相手を自分の一部とみなす』である。彼女は、その特徴をこのように述べている。


『自己愛人間は、自己感の発達に重大な欠点をもつ。その欠点のために彼らは、自己と他者とのあいだに境界があり、他者が別個の存在であって自己の延長でないことが理解できない。他者は彼らの要求を満たすために存在し、要求を満たさないなら存在しなくてもよい。何かしらの満足を与えてくれそうな相手は、彼らの一部として扱われ、自動的に彼らの期待に応えて当然とみなされる。彼らには自分と他者の区別がつかない。』

サンディ・ホチキス著 江口泰子訳『結局、自分のことしか考えない人たち 自己愛人間とどうつきあえばいいのか』草思社 (2009)


 岐路に立たされた。

 果たして、ズブの素人である私が名付けたところの分離不全というワードは今更必要なのか。

 自己愛性PDにおける一部の特徴を理解するのに、肥大化した自己愛、幼児的な誇大感といった表現のみならず、他者との境界線がなく、一体化しているような状態、すなわち私が名付けたところの分離不全の概念でイメージした方がよりわかりやすい、ということは、既に何度も述べた。

 恐らく、私が命名したところの分離不全の状態が先に存在して、それをベースとして、幼児的な誇大自己が保持され、自己愛が肥大化し、自己対象転移が起き、世界が自分を中心に回転し始め、『ウィ・アー・ザ・ワールド』の大合唱が始まり、シンディ・ローパーがネックレスをジャラジャラさせ、エンジニアが『ジャラジャラうるさいよ』と言うと、タイタニックの舳先で、『アイム・キング・オブ・ザ・ワールド』と雄叫びを上げ、タイタニックが海の底に沈むと、抑うつと睡眠障害が始まり、自我心理学派のドクターが『貴様はファッ〇ンな自己愛性PD野郎だ』と言うと、クライエントが『貴様こそファッ〇ンなヤブ医者野郎だ』叫んで、自己愛憤怒に陥るという訳であろう。

 一体感というワードは既に存在しているが、どうも自己愛性PDのテキストには登場しないし、ワードのみならず、そうした概念にもスポットライトがあまり当たっていないような印象を受ける。

 しかし今更、数多くの偉大な研究者たちや研究の歴史に盾突こうという意図など毛頭ない。

 改めて言うまでもないが、私は自己愛性PDではない。謙虚で人畜無害なシゾイドPDである。

 結局のところ、これは視点の問題なのだ。

 すなわち、女性(男性)を見る時に、整った顔から見るのか、おっぱいから見るのか、お尻から見るのか、股間から見るのかといった違いに過ぎないのである。自己愛だろうと、私が命名したところの分離不全だろうと、視点と好みが違うだけで、同じ女性(男性)を見ていることに変わりはないのだ。ちなみに私は、スリムで引き締まったケ、いや、それはともかくとして、何がお尻で何がおっぱいに当たるのかは、皆さん自身で考えてみて下さいね。

 医師たちは、自身のカウンセリングルームで患者を診る。私は素人だが、職場で何年にもわたって、成見のような自己愛的(ナル)な人々と毎日のように顔を突き合わせて、共に仕事をしてきた。その立場の違いによって、多少見方が違っているだけなのである。

 コフートにしてもマスターソンにしても、自己愛や誇大感、或いは自己対象といった概念に、他者との一体感や、私が命名したところの分離不全のイメージが既に取り込まれているので、敢えてそこだけ取り出して強調する必要性を感じなかったのであろう。

 そもそも、人間の心の中は目には見えない。

 全てはイメージでしかない。イメージイメージイメージ。

 膨れ上がった自己愛が、他人との境界線を乗り越えて侵害していくのか、或いは最初から境界線がなく一体化しているのか、いずれにしても、それらは我々の主観的なイメージでしかない。好きな方を選べばいいのではないだろうか。

 そもそも本書は、専門的な論文でもなければ、医学生向けのテキストでもない。

 一般の方々が、自己愛性ブラックとは何たるかを理解するための、ライトで浮ついた読み物である。

 医師たちは、クライエントに自己対象転移を促し、治療のために利用しさえする。

 しかし、自己愛性ブラックでは、本人よりも、周囲の人々に対する自己対象転移、或いは分離不全の方が深刻な問題となってしまうであろう。

 そうなると、医学を学んでいない、平凡で怠惰な一般の労働者にとって、自己愛性PDや自己愛性ブラックを理解するために、私が名付けたところの分離不全は、ツールとして必要不可欠なのではないかと思う。

 一体感というワードは、一般的に使用されてはいるが、どちらかと言えば、健全な意味として捉えられているであろう。

 コフートの自己対象という概念は、自己愛性PDの病的な他者との一体感という段階を通り越して、自己心理学においては、人間にとって必要なものであるという領域に達してしまった。

 ここはやはり、自己愛性PDにおける不健全な一体感を表現する特定の単語があった方が、わかりやすいと思う。

 それにこれは私の本なので、後々どうなるかは知らないが、ここでは私が名付けたところの分離不全というワードを使用させてもらうことにしたい。

 また、『自己愛』という語句に関しても、一般的なイメージでは、『俺は特別』『俺はお前らとは違うんだよ』といった独善的なものとなるであろうが、そこに『僕たち一緒だね』『僕たちおトモダチだよね』といった、未分化な一体感、私が名付けたところの分離不全の概念が同居しているとなると、大変に紛らわしい。キムチ鍋にマシュマロをぶち込んでいるようなものであろう。そういう訳で今後は、一般的なイメージの『自己愛』と、『分離不全』という語句を分けて使用したいと思う。

 そして、転移、同一化、一体化といった語句に関しても、それぞれの分野で専門的な定義がなされているが、ここでは、一般的な用法とごっちゃにして使用しているかもしれない。その点はあまり気にしないで頂きたい。

 最後に、分離不全について、改めて定義しておきたい。

 分離不全とは、『分離―固体化の失敗によって、養育者との分離が完遂しないまま成長したために、他者との一体感を保ったままで、他者との境界線がなく、他者を自身の一部、または自身の延長のように感じており、他者が自身と同じように考え、自身の思い通りに動くのが当然だと認識している状態』とでもしておこう。

 それでは自動車部品工場に戻ろう。

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