第十六章 境界線
年が変わると,ワークネードの社員たちは正式に異動となった。
前田さんはプレスへ、KD梱包セクションには笹井さんが着任した。また、以前に笹井さんがいた中組には太田さんが異動し、黒須君は、その中で一番若いにもかかわらず主任に昇格したらしい。益々浦田との差が開いた。加藤さんは当然の如く、浦田の存在など気にもかけなかったであろう。仕事とは、残酷なものである。更にもう一人、見たことのない社員が、事務所に出入りするようになった。
それまでは、朝礼が終わったらとっとと逃亡していたが、どうもそういう訳にもいかなくなった。
「向こうに行く前に、ちょっとミーティングをしてって」
笹井さんが言った。
まあ当然であろう。笹井さんと成見と私とで、朝礼の後に仲良くお話をすることになった。
段ボール箱や梱包資材の発注は、GLの重要な仕事の一つだった。それも笹井さんがやることになった。
「どうしよう、幾つ頼めばいいのかな」
実験Z棟で、私が説明した。
「パレットのキャパが三枚ずつなんで、これを基準にして調整する感じですね」
ところが次の日には、UCで梱包資材が足りなくなったらしい。
私が資材倉庫に取りに行き、愛嬌を振りまき、昼休みに台車で届けた。
実験Z棟では、トールの段ボール箱が余り、ヤードがパレットで溢れ返った。
小迫さんがキレた。
「ざけんなよ。笹井の野郎よ」
彼は、人間よりも野生生物に近い。恐らくここを自分の縄張りだと思っている。縄張りを荒らされれば怒るのも無理はない。
おかげで、朝一でハンドフォークでガチャガチャとやることが日課になった。
しかし、整理するにしてももう少しやりようがあっただろう。もっと奥にパレットを押し込んおけばいいのに、わざわざデッドスペースを作ってくれた。混乱に拍車がかかったが、本人は満足しているようだった。パレットもうざかったが、それ以上に小迫さんがうざかった。デッドスペースに押し込んで、押し潰してやりたかった。何年も一緒にいるが、どうやら慣れることはないらしかった。
島村君が、リーチフォークでピンを搬入してきた。
「これタイ向けなんで、よろしくお願いしますね」
「え、タイ向け」
「あれ、聞いてないんですか」
タイ向けの新規追加だという。笹井さんにはメールした。私は何も聞いていなかった。笹井さんに電話するとメールが見つかったという。後でハードコピーと、新規発行されたラベルを持ってきてくれた。急いで防錆して入庫した。
ある朝、三好さんがやって来て完成品のパレットを引き揚げ始めた。私が完成品にラップを巻くのを手伝っていると、たまたまヤードにいた笹井さんが言った。
「いいよ、余計なことやらないで。向こうの仕事だから」
この人も小迫さんと同じレベルなのか。軽く絶望した。
成見と笹井さんが、部品を実験Z棟に運び込んできた。Rワイの台車を見て小迫さんが叫んだ。
「何だよ、これ」
四人して段ボール箱の中身を見ると、ガムテープが剥がれて、一端が上に突き出ていた。どうも、防錆袋を織り込むところを、クルクルと丸めて、その上からガムテープを貼り着けていたために、粘着力が足りなくて剥がれていたようだ。
「これはダメですね。これじゃ意味ないですよね。こんなの仕事じゃないですよ」
『仕事じゃない』。なかなかの名言である。しかし、一抹の気色悪さを感じる。いや、ここは素直に感心するべきなのか。
「画選に言っとかないとダメかな」
笹井さんが言った。
「そもそも、正しいやり方を知らないんじゃないですかね」
私が言った。
結局、後で私が適当に直して梱包した。
どうも、画選の担当者によってやり方が違うようで、その後もたまに同様の状態が続いた。見つける度に小迫さんがギャアギャアと騒いだ。
入庫ラベルは、プリントするだけでも大仕事だった。その月のタスクが終わっても、ラベルのプリントと、そいつらを切る作業で、結局月を跨いで残業となったりした。事務所のプリンターと、デスクの上を延々と占拠する羽目になっていた。他の社員どもも迷惑だったであろう。
そのためもあってか、笹井さんがどこからかプリンターを調達して、実験Z棟に持ってきた。ダイレクトのラベルがこちらでプリント出来るようになると、UC工場の事務所に籠って、社員どもと作業をする必要がなくなる。
早速接続してプリントしてみた。古いタイプだったがなかなか快調だった。ところが、重大な事実に気付いた。手差しトレイがなかった。おまけにコピーも出来なかった。構成表のコピーも出来なかったので、結局、UC工場まで行く羽目になった。
年が変わると製番が導入されていた。それまでは、仮入庫ナンバーと呼ばれる、年月日を基にしたナンバーが振られていたが、それが十桁の数字になった。入庫カンバンの表記が変わった。
作業進行表は島村君に作成してもらっていたが、製番に変ると、我々の方で管理ソフトから出力するようになった。
それに伴って、副票も廃止された。
製番に変るタイミングで、副票を入れなくてもいい、ということになった。
まだ、昨年の入庫分が一部残っていたので、それらには副票を入れなくてはならなかった。
取り敢えず、製番への移行と、副票の廃止はスムーズに進んだ。
問題は別のところで発生した。しかも、私のせいだった。
私がカラリンの梱包をして、パレットに並べて入庫をすると、長田さんが現れた。
彼が言った。
「これ、朝木君が書いたの」
「ああ、はい」
「これじゃあ、読めないよ」
まさか、そこまで大事になるとは思っていなかったので、従順な態度でやり過ごそうと思た。ああ、はい、はい、すいません。
流石に、箱をバラシて書き直します、とは言わなかった。
長田さんは、一通り話をすると、そのまま帰っていった。何とか凌いだと思ったが、甘かった。
その後で、黒須さん宛にメールを送ったらしい。
それがワークネードでは、元請けからの正式なクレームと判断されたようだ。
その日は笹井さんが、組み立ての夜勤のヘルプに回っていたため、前田さんがKD梱包セクションをみていた。何事もなければ、特に何もせずに済んだはずだった。
ところが加藤さんが、前田さんに対応を振ったらしい。
『お前が問題を放置しておいてこうなったんだから、お前がやれ』
可哀想なことに、今更前田さんが対応策を考えて長田さんに上申して、お怒りを解かなくてはならなくなった。
申し訳ないとは思ったが、既に問題は私の手を離れてしまった。今更私がどうこうすることも出来なかった。心の中で応援するだけだった。頑張ってね。
成見が言った。
「何もそこまでしなくても、って感じですよね」
成見はどうした訳か、長田さんが相手にもかかわらず、私の味方になってくれた、
更に、松井さんが言った。
「これって、他に似たような名前の部品があるんですか」
そんなものはなかった。
午後の休み時間にUC工場に行くと、階段の前で前田さんに会った。明らかにテンパっていた。
その後、長田さんに接触し対策案を提出したらしい。
残業後にUC工場に戻ると、前田さんに話を聞いた。
特にキレるようなことはなかった。妙に優しかった。何だか消耗して弱っていた。
「確かにコレさあ、Gがaに見えるよね」
もう平謝りするしかなかった。普段は不遜な私でも、流石に申し訳ない気持ちで一杯になった。
しかし、海外の工場に送るのに、そこまで気にする必要があるのか。
英語をバカ丁寧に書いているのは、日本人くらいのものだろう。ネイティブの綴りなど読めないレベルだ。
しかし、英語圏ならともかく、アジアなら英語ネイティブもへったくれもない。
それに現地でも、こっちから転勤した日本人の社員が受け取るのか、それとも、現地の社員が処理するのか、よくわからなかった。
そういえば以前、韓国の工場に誰か転勤したとか何とか聞いたことがある。
ここまで言うとなると、以前にもクレームになったことがあるのかもしれなかった。
その数日後。
定時でUCに戻ると、浦田に、新海君が医務室に運ばれたと聞いた。
「倒れたの」
「いや、倒れてはいないですけど。何か、動けなくなって固まってたんですよ。呼びかけても反応がなくて」
低血糖だろうかと思った。その後救急車が来て、近所の病院に搬送されていった。
糖尿病で、アルコール依存症で、あれだけの重労働をして、周囲の無理解でプレッシャーをかけられていれば、倒れるのも当然であろう。その週は休むことになった。
ところが、新海君が休んでいる間に、今度は成見が休むかもしれないと言い出した。
後で、誰からともなく理由を聞いた。
昨年に、祖母か誰かが危篤となり、一時帰郷していた。どうも、今度は本当にヤバイようだった。成見の様子も元気がないように見えた。
流石に気の毒だとは思ったが、そういう時に限ってまたミスをした。
土曜日のことだった。
朝、実験Z棟の鍵が開いていなかったので、朝礼後に、私が正門の守衛詰め所まで鍵を取りに行った。笹井さんは休みだった。しかし、ミスとはそのことではない。
月半ばにして、やっと06Fの部品が揃い、今月分のセットをやろうとすると、カンバンの製番が、従来通りの日付を基にした仮入庫ナンバーとなっていることに気付いた。
入庫カンバンに仮入庫ナンバーが記載されている場合は、梱包時に副票を入れると聞いていた。セットのことは何も聞いていなかった。
そういう訳で松井さんには、そのまま副票を入れて梱包するように指示した。私も防錆の作業をした。
仕事に興味はないが、こんな私でもヤードにセットを並べると、一仕事終えたという達成感を感じる。この時だけは何故かカタルシスもひとしおだった。
しかし、週が明けると衝撃の事実が判明した。
今月分からは、セットで仮入庫ナンバーが振ってあっても副票はいらない。
それ、早く言ってよ。
作業の前に確認をするべきだった。
セットの四パレットが、実験Z棟に並んでいた。まるで、腐ったキャベツ畑のように見えた。ラベルを貼らなくて良かった。
しかし、こいつらをどうするのか、朝の時点では何も聞けなかった。そのままラベルを貼って入庫してしまうのか、まさか、全て箱をバラシて梱包し直すのか。自分から何か言い出すのは躊躇われた。
『そのまま入庫しちまっていいんですよね。まさか、副票抜くとか言わないっすよね、へへへへ』
言わなくて良かった。
やばそうなので、午前中はそのまま放置し、午後になった。昼礼でも何の言及もなかった。
実験Z棟に、成見が現れた。
「じゃあ、やりますか」
え、何を。
どうやら、箱を全部バラシて入れ替えるらしい。
正式に、そのようなことは聞いてはいない。一言も聞いていない。しかし空気でわかる。
改めて聞くのも躊躇われた。下手に聞いてキレても困る。どうも、バラスのが当然であるという空気を感じる。そして私が理解しているのが当然だと思っているようだ。しかし、もう驚くには当たらない。こいつは自己愛性PDだからだ。
これは私のミスだ。一言確認するべきだったのだ。
しかし、これを全部バラすのか。
箱は全部で幾つあるのだ。Eワイに06FピンにELMS。パレット四枚分で、合計で八十四個ある。
自分が悪いのは重々承知だが、ここまでやる必要があるのか。
あまりにもアホらしい。
一体何時間かかるのだ。
いや、これは私のミスだ。私のミスだということはわかっている。
しかし、どう客観的にみてもバカじゃないかと思う。
こんなもんメールで一言送れば済むことではないのか。
『副票入ってるけど、気にしないで。捨てといて』
相手は海外とはいえ一応自社工場である。自動車メーカーではない。形式上は別会社となっており、社外クレーム扱いとなるが、そこは大人の対応をすればいいだけの話ではないのか。自己愛性PDでもなければ話が通じるはずだ。
いや、悪いのは私である。私が悪いのだ。『バッドバッドバッドバッド』。御免さない。許して下さい。
しかし副票一枚入っていたから何だって言うのよ。従来通り適当に処分しておけば済むことではないのか。
そんな私の葛藤には関係なく、成見が箱をバラし始めた。仕方なく私も加わった。
凄い量だった。
バラした段ボール箱が山になった。こいつらの処分だけでも大した作業量になるだろう。
祖母が大変だろう時に、私のミスで余計な作業に付き合わせてしまって、本当に申し訳なく思った。
しかし、成見は文句一つ言わない。
それどころか、箱のバラシ方を優しく教えてくれた。空き箱の底をグーパンチすれば、ガムテープを破って簡単に蓋を開けることが出来る。どうも、リサイクル業で培ったノウハウらしかった。
ああ、何ていい奴なんだろう。
彼に比べて私ときたら、自分のせいで大変なことになっているというのに、自責の念とか罪悪感もあるようなないような、わからないような状態だ。本当はサイコパスなのではないだろうか。
こいつが社員になるのも当然だ。
こんなに無駄な時間を使わせてしまって、本当に申し訳ない。本当にこいつは文句一つ言わない。悪態の一つでも吐かれた方が、まだマシだった。
しかしここで思った。ちょっと待てよ。
これだけ大変な手間のかかる作業なのに、何故怒っている様子が全くないのか。
よくよく考えたらこいつは、仕事が増えることに対しては何も感じていないのではないだろうか。感じていないどころか、むしろ残業が出来て喜んでいるのかもしれない。
いや、これは防衛機制だ。自分のミスをなかったことにしたいだけだ。彼も、大変な時なので私を責めるような元気もないだけなのだ。
だいたい、セットは仮入庫ナンバーを継続して使用するとか、一言言ってくれればいいのに。
幸いなことに、この日,長田さんは現れなかった。
結局、箱を全てバラシて、中身を入れ替えて、ラベルを貼って入庫するのに三時間かかった。
その日の夕方に、外製出荷の入庫方法を教わった。外製出荷は、ダイレクトにはない作業だったので、入庫はやったことがなかった。どうも、入庫方法が他と違うらしく、登録端末で管理表を読み込むらしかった。
その数日後に、成見は早退した。どうも、その祖母が亡くなったらしかった。
笹井さんが言った。
「今、一人いない状況だから、ちょっと待ってもらってたんだよね」
おいおいおいおい、ちょっと待て。それで、死に目に会えなかったんじゃないのか。サブリーダーとはいえ、非正規にそこまで要求するのか。それとも、本人も納得の上なのか。
しかも、喪主を務めなくてはいけないとか言っていたらしい。
昨年、一時帰郷した時は、祖母が一命を取り留めたが入院していたと聞いていた。
その時とは別件なのか、今回は両親のどちらかなのか、よくわからなくなった。笹井さんにあまり突っ込んで聞いても仕方なかっただろう。
次の日の朝礼では、笹井さんが作業指示をした。こちらに振ってくると思って演説の一つでもしてやろうかと思って用意していたが、その必要はなかった。笹井さんも、セクションの状況がわかってきたようだった。私はいつもの如くダイレクトに引き籠り、UCは、浦田が指示を出した。後で、松井さんが指示を聞かないと愚痴を聞いた。どっちもどっちだった。
土曜日には、いつもの如く笹井さんが休みだった。用があるとか言っていたような気もするが覚えていない。前田さんがヘルプに入ってくれた。どうも、KD梱包セクションとの腐れ縁は切れそうになかった。
前田さんは、当初三時までと言っていたが、ブツがなかった。浦田が、昼でいいのではと言い出した。私も同感だった。別にサボりたい訳ではなく、ガチで部品がなかったのだ。わざわざ実験Z棟からUC工場に戻り、前田さんに掛け合った。前田さんは、長田さんたちに何か言われるのを気にして三時にしたいらしかったが、本当に昼前に作業が終わってしまった。他の連中は昼までで、私と前田さんは二時まで運搬をすることになった。
「何か、小さい頃に、両親が出てっちゃったらしくて、お祖母さんに育てられたんだって」
なるほど。やっぱりお祖母様の葬儀なのか。それで喪主なのだろうか。
「親戚が、『遺産から葬儀代出してよ』とか言ってきて、すげえムカつくとか言ってたよ」
なるほど。遺産もあるのか。岩手の田舎で地主とかだったりするとかなりの額になるのかもしれない。私とは大違いだ。祖母の死は気の毒だとは思ったが、同情心はやや失せた。いや、九割以上失せた。
遺産はともかくとして、不幸な生い立ちにパーソナリティ障害の原因がありそうだった。しかし、両親に対してはどうか知らないが、祖母に対しては深い愛着を抱いているようだった。表面的には謙虚そうに見えるのも、そのためかもしれない。何だか複雑な人格が形成されているようだった。
結局、成見は翌週末まで、休むことになった。
月曜日からは新海君が復帰した。
朝から笹井さんと運搬をした。大量の部品が放出されていた。
しかしそれも、二日と続かなかった。
翌日には定時にしようとしたが、笹井さんが反対した。長田さんが煽ってくるらしかった。しかし、残業もへったくれも部品がほぼゼロだった。
数日後の午後には、新海君がダイレクトに回されてきた。
浦田が厄介払いしたらしかった。
定時でUCに戻ると、浦田が言った。
「人間じゃないですよ」
「人間じゃない」
「三セットが限界です。本当は四セットやって欲しいんですけど」
どうも、仕事が人並みのレベルで出来ないということを意味しているらしかった。そこまで言うか、と思った。病人に対して随分と厳しい態度だ。こいつはブラック野郎ではないはずだが、何がこいつをそうさせるのかわからなかった。
案の定、次の日の午後には、部品がなくなった。みんな仲良く選別に回った。
その月の最終日は、土曜日だった。
朝、ダイレクト工場に行くと、バレルのサブに会った。ジャバ・ザ・ハット並みの、凄いデブの巨漢だった。しかし、声は可愛かった。ガイドのコンテナをこちらに持って来られないかと聞かれた。どうも、コンテナが切れているらしかった。実験Z棟に二パレ分あった。朝礼後に笹井さんに伝えた。ダイレクトの社員連中も休みらしく、運搬してくれる人間はいなかった。笹井さんは、結局何もせずに午前中で帰った。
その日は、あるものを全て入庫して、月曜日の朝に、物流がパレットを引き揚げる手筈になっていた。担当者の佐野さんが、朝五時に来ることになっていたらしい。
ところが、ブツが少ない上に、サーバーのメンテのために入庫が出来なかった。最初に聞いた話では、午後一時に復旧するということだったが、その時間になっても管理ソフトにアクセス出来なかった。社員もいなかったので確認することも出来なかった。仕方なく、入庫はせずに放置した。二時に仕事を終了した。
月曜日の朝に、物流から何か言われるかと思ったが、特にクレームは聞かなかった。
その週から、成見は仕事に復帰した。
私の方がダウンした。
朝、起きると息苦しく、呼吸がゼエゼエとした。
この年の冬は寒かった。特に最近、実験Z棟ではあまりの寒さに、エアコンが止まっていた。アホの小迫クンが、設定温度を上げ過ぎたせいではないかと疑った。
結局、二日休んだ。
出勤すると、実験Z棟にアウトリンクが並んでいた。どうも、ややこしいことになっていた。
イギリス向けのアウトリンク五枚のうち、二枚を入庫した。ところが、その次の製番の方が、納期が先になっていた。そのため長田さんから、その次の製番の方を先に入庫しろ、との指令が下ったらしい。
ところが、笹井さんがメールをチェックしていなかったらしく、その指示をすっ飛ばして、前の製番三枚を先に入庫してしまったようだ。
結局、私がその日の朝に、ラベルを貼り替えて三枚を入庫し直す羽目になった。
私がいなかったせいにされているのではないかと疑心暗鬼に陥った。
翌週には笹井さんが休んだ。
熱があるとか聞いた。
月が変わっても、部品の上りは悪かった。
土曜日には、二時で梱包は終了になった。成見と私だけ、二時から運搬になった。笹井さんは休みだった。
UCに戻ると、事務所では成見と浦田が話していた。そのままUターンしたかったが、そういう訳にもいかず、事務所のドアを開けた。
「俺が移るしかないから」
成見が言っていた。
私の後ろから、伴野さんと名前を知らない社員が、何やらバタバタと入ってきて、話を始めた。成見と浦田との密談は、それで終わりになった。
「別に社員になりたい訳じゃないし」
浦田が言った。
「成見さん、狂ってますよ」
ほう、やっとそこに気付いたか。
しかし成見はもう、上の二人に乗り換えて聞いちゃいなかった。
前田さんだけならともかく、こいつまでこういったことを言い出したとなると、やはり私は間違ってはいなかったのだと、妙に感慨深い気分になった。しかし、そこまではっきりと『狂ってる』と言えるのは、羨ましいというか、怖いもの知らずというか、いずれにしても、こいつの前で自己愛性PDとか口には出さない方が良さそうだった。
誰もいない工場の構内で、トラックを運転しながら、成見が言った。
「四月から、浦田がサブリーダーになるんで、ちょっと説教してたんですよ」
え、そうなの。初耳なんだけど。
「松井さんに対して、仕事をしてもらうって意識でやらなきゃダメだって言ってたんですよ。あいつ、同じレベルで張り合ってじゃないですか。あれじゃあダメですよね」
松井さんだけではなく、最近では新海君のこともチクチク言っている。しかし、小迫さんとは気が合うようだ。
「もし、自分が社員になって他に異動になったら、朝木さんか浦田がGLになるかもしれないじゃないですか。そうなった時のために、一言言っておこうと思って。仕事をさせるっていう意識じゃ、みんな付いてこないですよね」
どうも、正社員を餌にしてモチベーションを上げようという意図で宣わっている訳ではないようだ。自分はともかくとして、私まで正社員になれるとでも思っているのか。綾瀬はるかと結婚する方が、まだ可能性が高い。しかし、小迫さんをサブにしてやるとか以前も言っていたので、半分くらいは本気なのかもしれない。もう何が何だか、よくわからなくなってきた。いずれにしても、今年に入って異動があったばかりなので、何か動きがあるにしてもしばらく先になりそうだった。
その月は、元々タスクが少なく、部品の上りも遅かった。定時で部品が切れると、残業時間は選別に回された。
KD梱包セクションの面子は六名だった。全員で仲良く休憩室に陣取り、ピンの剥離選別に精を出した。
浦田は、小迫さんと成見を相手に、ボーイズトークで盛り上がっていた。少年ジャンプとゴキブリと巨人の話だった。
少年ジャンプが、我が国の男たちと経済に与えた影響は計り知れないものがあると思っている。子供の頃に、『友情』『努力』『勝利』のキーワードを刷り込まれた子供たちは、大人になると、ビジネスの現場でもそれらを実践している。どれだけ上司に無理なノルマを強いられようとも、どれだけ取引先に無茶振りされようとも、『友情』『努力』『勝利』で乗り切れる。彼らは見返りを求めず、勝利自体を目的として仕事に邁進しているように思える。それこそ、死ぬまで。
浦田の仕事に対するモチベーションは、少年ジャンプがベースにあるのかもしれない。
しかし、新海君に対する物言いは気になる。
弱い仲間を切り捨てる態度は、ジャンプマインドに反するのではないだろうか。
それがお前のジャンプマインドなのか、浦田。
ピンをジャラジャラとやりながら、一人心の中で叫んでみた。
ちなみに私は今まで、少年ジャンプなど買ったことがない。スラムダンクも、ドラゴンボールも、ワンピースも、未だにまともに読んでいない。ベジータとか、花道とか言われても、未だに何が何だかわからない。他の掲載作は、多少読んだり観たりしたことはある。
私の方はと言えば、気が滅入って話に加わる気にもなれなかった。
超絶コミュ障野郎だし、趣味がハイソなせいか、それこそ子供の頃からボーイズトークが苦手だった。
そもそも何故、自分のセクションに仕事がないのに、他のヘルプで毎日残業をしなくてはならないのか。疲労感と怒りとで一人で苛ついていた。
話はラーメンに移った。
成見が、小迫さんに言った。
「背油ダメなんですか」
「うん。お腹壊すんだよね」
「味とかじゃなくてですか」
「いや。味はいいんだけどね」
「そういう人結構いるんだよね」
小迫さんでも、お腹を壊すのだろうかと思った。こいつなら、ピンを喰っても消化出来そうだった。
新海君の前で、ラーメンの話題もどうかと思ったが、これは私の気にしすぎだったろう。
部品の品薄はしばらく続いた。つまり、KD梱包セクションでは定時が続くということを意味していた。残業をするには選別のヘルプをするしかなかった。
成見は、その状況を肯定的に捉えていた。
その日は、笹井さんが中組のヘルプに回されていた。
そのため、成見と運搬をすることになった。
車内で、選別で残業をするべきかどうかという話題になった。
成見が言った。
「残業してないと、残業って言いにくくなるじゃないですか」
定時が続くと、下っ端の怠け者どもがその状況に慣れてしまって、残業を振りにくくなるという意味らしかった。
しかし、これは逆だろう。帰れる時には帰っておかないと。モノがなくても帰らない、モノがあっても帰れない。今日帰らないで一体いつ帰るんだ。
自分が残業をしたいだけなのに、よく体のいい理由をいろいろ考えつくものだ。自身の欲求を満足させるためには、自分さえ騙すのだ。浦田の言う通りだった。こいつは狂ってる。
我々は請負なので、業務外の仕事をした場合には、その分の料金が元請けから支払われることになっているらしかった。
成見が言った。
「梱包でやるものがなくても、選別に人を出しておけば、何とか売り上げ立つんですよ」
梱包は入庫数で換算されるらしいが、選別は時給換算らしかった。
売り上げのことまで考えているとは恐れ入った。搾取される側から搾取する側に回る準備は万端のようだった。
結局、私は定時になった。他の誰かが残業で選別していくようだった。
成見にしてみれば、別に全員でなくても、誰かが付き合ってくれさえすればいい訳だ。
これは覚えておくべき事実だった。
以前に、松井さんが防錆をしたことがあった。しかし数回やっただけで、それ以来、仕事を振る機会はなかった。
ところが暇だったせいか、成見が、彼に防錆をやらせろと言い出した。
久し振りだったせいか、あまり覚えていなかった。また一から説明した。
一度目は、私が茶々を入れながら何とかこなした。
土曜日に二回目をやらせた。
「どうすればいいんですか」
一人でやらせようとすると言い出した。
どうするもこうするも、何回もやっているだろうが。爪を引っ掛けて、上昇させる。それだけだった。
「指差し呼称した方がいいですかね」
ホイストの爪を引っ掛けた時に、指差し呼称するとか、幾ら何でも、そんなクソ面倒くさいことはやっていられない。作業の流れをストップしてしまう。却下した。
しばらくは大人しく作業を続けていた。私がワイリンクの投入をしていると、何やら鈍い音がした。松井さんが声を上げた。
「朝木さん、どうしよう」
何事かと思い、見に行った。
ピン用のコンテナが床で引っ繰り返っていた。綺麗に裏返っていたため、ほとんどピンをブチ撒けることなく済んでいた。まるで、裏返しになった亀のようだ。なかなかシュールな光景だった。笑いを堪えるのに苦労した。何故、このような形で落下させることが出来るのか状況を考えてみたが、見当がつかなかった。
幸いなことに、ヤードには他に誰もいなかった。丈選の連中は部屋に籠っていて見ていない。十三秒くらい熟考した末に隠蔽することにした。
仮組表のクリップボードを、床とコンテナの間に差し込んで、コンテナを裏返した。クソ重かった。クリップボードが折れるかと思った。かなりの量のピンが漏れたが、作業するのに問題はなかった。汚れたピンを除外した。トータルで十キロ以上は超過しているはずだ。現実的には何の問題もないはずだった。マグネットで、床に転がったピンをザクザクと採取して廃棄した。他言無用を言い聞かせて、防錆を続けさせた。
午後になると、UCでの作業にケリをつけた成見と小迫さんが、実験Z棟にやってきた。
三時で作業を終えて養生していると、小迫さんが聞いてきた。
「ピン落とした」
防錆スペースの横に、段ボール箱のパレットが並んでいた。そのパレットの隙間に、ブチ撒けたピンの一部が入り込んでいたようだった。
言い訳を考えた。完全に落とした訳ではなく、コンテナをちょっと傾けて、極少量のピンが流出しただけだ。決して落下させた訳ではない。問題は何もない。隠蔽もしていない。
成見も、小迫さんの言ったことを聞いていたようだったが、スルーした。しらばっくれていると、それ以上は、誰も何も言わなかった。
防錆では、小迫さんの方も相変わらずだった。
以前は、先にピンを防錆機のチューリップに入れてから、段取りをしていた。何度か注意したがやめなかったのに、飽きたせいか、或いは忘れたのか、いつの間にか正常に戻っていた。
ところが今度は何と、ホイストを使用せずに、コンテナを防錆機のレーンに載せ始めた。
防錆機のコロコンレーンは、大体私の胸の高さにあった。そして、ピンが詰まったコンテナは、種類にもよるが、大体二十キロから三十キロといったところだった。
まあ実際のところは、小迫さんなら、そのくらいのことは楽勝だったのかもしれない。『あなたは天才だからよ』。強制している訳ではないし、コンテナを足に落として骨折しようが、腰を痛めようが、よろけて頭を壁に打ちつけて死のうが、私の知ったことではなかった。
しかし、もしそうなったとして、労災はどうなるのか、会社に責任は問われるのか、よくわからなかった。会社はどうでもいいが、私が非難されるのは間違いなかった。長田さんにでも見られたら、私の心証が更にダダ下がりである。しかし、ホイストを使用しなくてはならない、といったルールは聞いたことがなかった。こんなアホな行動に走るのは想定外だったろう。
ホイストで吊るし上げたい衝動を堪えて、一言優しく注意してあげた。ホイストちゃんと使ってね。しかし例によって、メンガタスズメガでも見るような目付きで私を見ただけだった。
更に、防錆だけではなく、普通の梱包においても逸脱行為に走り出した。
通常は、一製番ワンパレットごとに作業を行うことになっている。ピンの場合は例外だ。
ところがこいつはまとめて二パレット分の段取りをして、連続して梱包を始めやがった。
個人的には、一人で作業をガツガツとやってくれるのは大歓迎だった。二つまとめてやった方が効率的でもある。時給も上がらないのにバカかとは思うが、バカなのは今に始まったことではなかった。
しかし、これも長田さんに見つかったら、またクレームになるかもしれなかった。
例の如く注意してあげたが、例の如く聞き入れなかった。
仕方なく、なるべく二製番同時に作業出来るように、連続してブツを振ってあげた。
「朝木さん、ガイドやるよ」
「ああ、いいすよ」
元々ガイドは、パレット一枚に二製番分載せられていた。
適当に餌を投げて、ジャンジャン喰わせることにした。
長田さんが来た時だけ、監視するようにした。
成見も、相変わらず言っていることがよくわからなかった。
笹井さんが、他のセクションの応援で夜勤などに駆り出されていたため、私が運搬に付き合う機会が増えた。
広い工場を走り回る間、車内で相手をする羽目になった。
「ガソリン値下がりしましたね。昨日入れましたよ」
「ああ、そうすか」
「ガソリンの値段て、何で決まるんですか」
「何で。先物取引で」
原油価格は、OPECの総会で産出量が決定され、それで価格が決まる。いや、OPECってもうないんだっけ。覚えていない。それにしてもこいつはニュースくらいは見ていないのか。
車内で二人並んで、ヨタ話に興じる姿は、まるで『ハワイ・ファイブ・オー』だった。
ドラマと違うのは、私の方はともかくとして、こいつは少佐のようないい男ではないということと、夫婦漫才がクソ面白くもないということだった。
おまけに笹井さんが新任で、元からあまり仕事熱心ではなかったようで、旗振りから残業も含めて、こいつが全てを仕切り始めた。前からこうなるだろうとは思っていたが、当然といえば当然の流れだった。
「やっぱり、みんなの評価にも影響するじゃないですか」
成見が言った。
「他だと、結構やらない奴はやらないらしいんですよ。でも、前に加藤さんが言ってたじゃないですか。もし、何かあった時に、真っ先にそういう奴から辞めさせられるんですよ。だから残業をやらせることが、みんなのためになるんですよ」
先日は確か、残業を振りにくくなるから残業をやらせるという話だった。何が何でも、残業をやる方向へ誘導したいらしい。
それに、加藤さんが言っていたのは、残業云々ではなかったはずだ。まあ残業も無関係という訳ではないのだろうが。
話は残業から、ジムの話に移った。
「朝木さんもやりましょうよ」
未だに私を誘ってくる。
「いやあ、残業の後はちょっとキツイですね。時間もないし」
「残業の後だからこそ行くんですよ。みんな仕事帰りとかに、時間を作って通ってますよ」
『時間は作るもの』。またどこかで聞いたような、自己啓発本じみたことを言い出す。
確かさっきまで、如何に残業をやるかという話をしていたはずだが、その後更に、一緒にジムへ行こうという話なのか。それとも、最初から何も考えていないのか。
そもそも、私は一緒にいても楽しくない人間だと思うのだが、何故ここまで執拗に誘ってくるのか。ジムに通うと誰もがこうなるのか、それともこいつだけなのか。
残業にしても筋トレにしても、私は基本的にやりたくない。いや、実は筋トレの方は多少興味がないことはないのだが、この工場にいる限りはジム通いに費やす金も時間もない。特に時間がない。私にも一応、プライベートタイムというものがある。何をやっているかは、ヒ・ミ・ツ。
成見が自己愛性PDだとすると、こちらの都合を無視して自分の考えなり欲望なりをごり押ししてくるのは理解出来る。しかし、そういった傲慢さとか、自己中心性だけではない何かを感じる。
小迫さんや松井さんも、アホだとは思うが、それほど奇異な印象は受けない。
しかし、こいつと話していると、いつも奇妙な感覚を味わう。他の人々と一体何が違うのか、これまではよくわからなかった。
しかし、最近になって、その奇妙な感覚の正体がおぼろげながらわかったような気がした。これまで曖昧模糊としていた、漠然とした印象が、具体的な言葉となって実を結んだ。それは『境界線がない』という言葉だった。
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