第九章 新人、飲み会、飲み会

 新人といっても、他の部署から異動してきたらしかった。

 自前の眼鏡、背は私より高い、頭には白髪が目立つ、私より年上かもしれない。小さな目が、いまいち焦点が合っていないように見える。顔の表情も含めた全体の雰囲気が、どことなく散漫で茫漠とした印象を受けた。

 ややいきった態度で、当たり障りのない挨拶をした。

「松井と言います。梱包はやったことありませんが、一日も早く仕事を覚えて、頑張りたいと思います。よろしくお願いします」

 何故、他の部署から異動になったのか、その点には触れられなかった。こちらで人間が必要になったから、だけなのか。或いは放出される何らかの理由があったのか。

 それに体力も気になった。私より背は高かったが、特にスポーツをやっていたようにも見えなかったし、かつての成見のようなメタボ体型ではなかったが、引き締まっている訳でもなかった。

 いろいろと気になる点はあったが、一応は真面目そうで、少なくとも邪悪な人間には見えなかった。

 小迫さんのように異常行動に走ったあげく逆切れしたり、旗振りにケチをつけてきたり、部品を故意にぶち撒けたりといったことはなさそうだった。言われたことを素直に聞いて、淡々と仕事をこなしてくれれば、それでよかった。取り敢えずは、慣れてもらうしかないだろうと思った。

 まあどうせなら、とてつもなく優秀で、私を飛び越えて代わりにサブにでもなってくれたら尚よかった。

 しかし、そもそも優秀な人間はこんなところには来ない。

 しばらくはUCで指導を受けていた。

 ある時、聞いてみた。

「前は、どこにいたんですか」

「水すましです」

 毅然として答えた。

 『みずすまし』って何だ。

 あまりにも自信たっぷりに答えたので、聞き返すのがためらわれた。

 ダイレクトで、ガイドの段取りをしながら携帯でググってみると、概要がわかった。

 工場における『みずすまし』とは、ごく簡単にいうと、工程間で部品を運搬する係のことを指すらしい。

 この工場では、UC工場と、今年から稼働している新工場との間で、牽引車により部品を運搬している。どうも夜勤でそれをやっていたということである。

 この工場の人間なら、このくらいは常識なのかもしれない。私は話す人間が限られているし、そもそも仕事自体にあまり興味がないせいか、恐らく常識的なことでも、まだまだ知らないことがたくさんあるのであろう。

 とある土曜日に、初めてダイレクトにやってきた。UCが一段落したらしく、前田さんと成見も一緒だった。小迫さんは何かの理由で休みだった。

 梱包のやり方はだいたい同じだが、こちらでは台車を使用しないといけない。少しでも作業しやすいようにと、小さい方の台車を提供してあげた。松井さんは、初めての台車に悪戦苦闘して、ガチャガチャと向きを変えた。見ていると、どうも動きがぎこちないというか、無駄なアクションが多いような気がした。まだ慣れていない、ということもあるのだろうが、元々そういう人なのかもしれなかった。へらへらとしながら、独り言を呟いていた。前田さんは優しく指導していたが、諦めともつかない、やや微妙な空気が流れているような気がした。

 それ以来、ダイレクトにも頻繁に来るようになった。

 仕事量が増え、小迫さんが防錆をメインにやり始めたので、松井さんが来るしかなかったのであろう。

 ある日、彼がテーブルに座って段取りをしていると言った。

「何か、音がうるさいんですよね。集中出来ない」

 そう言うと、耳を押さえる仕草をした。

 フロアの向こうには、製造のラインがあった。機械音がガッタンゴットンと、工場中に響き渡っていた。

 書きかけの製品ラベルを見ると、間違えたのか、二本線で消した跡で埋まっていた。

 何か、脳に器質的な異常でもあるのではないかと思った。

 自分の作業をしながら、目を光らせることにした。

 箱を積む位置を修正してあげた。

 副票を入れ忘れかけたので、指摘した。

「アーー」

 ヘラヘラと笑いながら、叫んだ。

 取り敢えずその程度で、大きなミスはなかった。

 確かに作業は早くはないが、こちらでは割と普通に作業しているように見えた。

 しかし、前田―成見サイドの評価は芳しくなかった。

 また土曜日のことだった。

 まだ朝の早い時間に、選りに選ってダイレクトに、小迫さんと松井さんが揃って派遣されてきた。

 小迫さんは着くなり、自分の台車を確保し、テンパっているようなクソ苛ついた態度で松井さんに指示を飛ばした。松井さんが押してきたのは、ワイリンクの台車だった。

 Rワイは、当初は普通に梱包していた。他の部品と同じように、コンテナに入れられて、部品用の台車で我々の許に回されてきた。しかし、途中から何故か、中二階の画選で、梱包用の段ボール箱に直接入れて、普通の台車に載せられて、こちらに回されるようになった。我々は途中から梱包すればいいことになった。その代わり、箱を作ってからまた画選に戻す必要があった。

 小迫さんの不可解な行動はともかくとして、折角なので、松井さんに教えることにした。中の防錆袋を閉じるまでは、上でやってもらっていた。後は段取りをして、管理表と副票を入れて、箱を閉じて、パレットに積むだけだった。

 問題はその後だった。段ボール箱を作る際に、普通はすぐ使えるように綺麗に積み上げておく。しかしRワイの場合は、台車に積んで上に返さないといけない。そのため、上の箱を下の箱に突っ込んで、積み上げることになっていた。その通りに教えて、私が台車をエレベーターに載せて上に返した。

 二時前に、三人ともUCに戻ることになった。先に二人を帰すと、私は入庫して、フォークがパレットを引くのを見届けて、誰もいない工場で優雅に一息ついてからUCへと戻った。

 既に二人は段取りを始めていた。成見に指示を受け、私はセットのラベルを貼り始めた。

 その日は三時で終了することになっていた。ご機嫌でラベルを貼りながら、脳内で『ビフォア・アキューズ・ミー』を再生していると、成見が、箱を作っている松井さんに何か言った。コンクリート柱の陰から首を伸ばしてよく見ると、上の箱を下の箱に突っ込んで積んでいるようだった。

 成見が私の許に来ていった。

「ちゃんと教えて下さい」

 教えるも何も、私はラベルを貼っていたし、柱の陰で見えなかったし、箱の積み方はもう知っているはずではないのか。まさか、Rワイのやり方を普通にやるとは想定外である。どうも松井さんの脳内では、そういった区別がつかないのかもしれなかった。小迫さんは、普段からギャアギャア言うくせに、隣で作業をしていて何も言わない。それに、どうせ梱包する時に気付くだろうから、そこまで言う必要があるのか。その時点で何も気付かないようだったら、注意すりゃいいんじゃないのか。

 それ以来、という訳でもないのだろうが、朝礼が終わって、私が松井さんの後を追ってダイレクトに移動しようとすると、成見が言ってくるようになった。

「松井さん、ガンガン煽っていいですよ」

 とうとうこの子も、そういうことを言い出すようになってしまったのか、と思った。他人に気遣いの出来る、優しい子だと思っていたのに。今にして思えば、自己愛性パーソナリティ障害の過敏型から誇大型へと移行しつつあったのであろう。

 成見はまた、こんなことも言い出した。

 残業時に、残り三十分というところでUCに戻った。

 取り敢えず、松井さんの作業を手伝うことになった。その時だった。

「ギリギリまで、手を出さなくていいですよ」

 ギリギリの時間まで追い込んで煽ってやれば、多少は早くなるだろう、という意図だったのであろう。

 しかし煽ったところで、仕事が早くなるとも思えなかった。

 何度も反復してりゃ、そのうち覚えるだろう、というのが私のポリシーだった。それは今でも変わらない。極端な状況でもない限り、一度だけで覚える必要があるとは思えなかった。

 というよりも、こういうちょっと抜けてるというか、足りないというか、そういう人に対してこそ、最も有効な手段が、粘り強く適切な指示を与えながら反復させることではないだろうか、と思った。精神的にプレッシャーをかけたところで、逆効果であろう。

 尤も、UCの梱包ヤードで四六時中監視して指示を出すことは困難だったかもしれない。狭いダイレクトのヤードだから出来ることなのかもしれなかった。ダイレクトなら、目の前で彼の作業を監視しながら、自分の作業をやることも容易だった。

 それにちょっと賢い人間なら、こんなハードな仕事を続けようとは思わないだろう。ここで続けていけるのは、他に行き場のない連中だけだ。小迫さんと同様に、適当におだてて仕事をやらせておく方が無難ではないだろうか。

 しかし、私のそのような楽観的な見通しは、突然暗雲に見舞われ、土砂降りの雨になった。


 このセクションでは、朝礼時に全員で丸くなり、交代で司会を担当することになっていた。

 松井さんが入社して、既に何週間か経っていた。ある朝、そろそろ彼にも司会をやってもらおうということになった。

 毎朝見ていたので、恐らく彼もそのことは知っていたはずである。しかし、進行を覚えておらず、メモも取っていなかったようだ。

 当然の如く、最初からしどろもどろになって言い淀んだ。

 私はと言えば、朝はいつも調子が出なかった。眠気を堪えて、目を伏せてぼんやりと床を見ていたが、その時バタンと音がしたような気がした。ふと目を上げると、松井さんが床に横たわっていた。

 しかも、まるで自らその場で寝たかのように、綺麗に足を延ばして、まっすぐに横たわっていた。安全靴の凸凹したソールが見えた。

 事態を理解するのに一秒くらいはかかった。

「倒れたの」

 その瞬間を全く見ていなかったので、思わず小迫さんに聞いてみた。

 どうも一瞬意識を失って、そのまま後方にひっくり返ったらしい。しかし、意識はすぐに回復したようだ。

「大丈夫。頭打った」

 彼に聞いてみたが、自分でもよくわかっていないらしかった。取り敢えず、ヘルメットが役に立ったようだった。吐き気や痙攣はなかった。

 誰かが誰かに報告に行き、他の誰かが医務室に担架を取りに行ったようで、その場には、私と松井さんだけが残された。

「もう、どうしよう。恥ずかしいなあ。何でこんなことになるんだろうな」

 恥ずかしそうにへらへらと笑いながら、喋り続けた。本当に恥ずかしかったのであろう。

 他のGLやら社員どもも集まってきた。

 やがて、担架で医務室に運ばれていった。

 何故、彼が突然倒れたのか、その時に何があったのか。成見が言った。

「あれ、聞いてなかったんですか」

 何も。

「自分が、『ちゃんと覚えて下さい』って言ったら、突然倒れたんですよ」

「ああ、そうそう。言ったよね」

 前田さんが言った。

 そういえば、確かに何か言っていたような気はする。

「すげえ、びびりましたよ。いきなり、ぶっ倒れるから」

 成見が言った。

「てか、俺のせいですかね」

 ちょっと注意されて、いきなりぶっ倒れるなどということがあるのか。

「元々、何か病気とかじゃないんですか」

 前田さんに聞いてみた。

「いや、特にそういうのは聞いてないんだよね。履歴書見てみようかな」

 その後、しばらく医務室で休んで、その日は帰ったらしい。結局、原因は不明だった。

 いずれにしても、この状態では、ここも長くはないだろうと思った。まだここに来て一月も経っていないが、これから疲労が蓄積して、体重も減り、時間外労働が精神と肉体に重くのしかかってくることだろう。

 ところが、私の予想に反して、彼は元気に仕事を続けた。周囲の反応はともかくとして、本人は特に気後れすることなく、すっかり職場に溶け込んだ。仕事には慣れたが、相変わらずちょっと抜けていて、時々初歩的なケアレスミスをした。


 新人が加入したということで、また飲み会をやろうとか言い出した。

 今度は国道沿いの焼肉店だった。

 ドライバーは飲めないだろうということで、前田さんが成見と松井さんを車で送ったらしい。優しいというか、健気というか、普通はそこまでやるものなのか、地元で飲むことがあまりなかったので、私にはよくわからなかった。一応私にも聞いてきたが、彼の方もあまり期待していなかったらしく、私は一人で運転して店に向かった。

 店に着くと、前田さんがエントランスで出迎えてくれた。他の二人も既に席で待っていた。例によって小迫さんは欠席だった。

 ランチ以外で、焼肉店に来たのは初めてだった。店内は、土曜日の夜ということもあって、主に家族連れでごった返していた。なるほど、今時の世間の家族はこうして外食をしているのか、と感心した。私の家では、外食をしたことなどほとんどなかった。当時はまだ、ファミレスなるものも、ほとんど存在していなかった。ましてや家族で焼肉店など想像もつかない。

 更に、タッチパネルにも驚愕した。引きこもっているうちに、時代が変わっていたことを痛感した。注文は前田さんに任せた。

 成見と松井さんはビールを注文した。私はドリンクバーでジンジャーエールを注いできた。

 乾杯して、肉を焼いた。

 成見がスマホの画像を見せてきた。腹筋が割れていた。相変わらず前田さんと筋トレの話をしている。私の隣は松井さんだった。

「僕、最初に入ったのが銀行だったんですよ」

「え、銀行。銀行員だったんですか」

「いや、銀行員じゃなくて、サーバーの管理とか、データのバックアップとかやってたんですよ」

「マジすか」

 サーバーの管理。IT系だったのか。

「合併して、今はなくなっちゃいましたけど。昔は大手町まで、毎日通ってたんですよ」

 大手町というと都市銀だろうか。合併して今はない銀行だと、Tとか、Dとか、Uとか、その辺か。しかしあの辺りには、地方銀行や政府系の金融機関もいろいろあるような気がする。いずれにしてもエリートであることに変わりはない。

「SEとかなんですか」

「いや、SEじゃないです」

「プログラムとかは、組めるんですか」

「いや、プログラマーじゃないんですけど」

 SEでもない。プログラムも組めない。頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになった。それで都市銀でサーバーだのバックアップだのの業務が出来るのか。そもそも大学の新卒で入行したのか。プログラマーでもなくて、新卒でIT系の採用があるのか。聞きたいことはいろいろあったが、根掘り葉掘り聞く訳にもいかなかった。

 そもそも、そんな経歴の人間が何故、あんな工場で、あんな非正規仕事をやっているのであろうか。しかもその仕事も出来るとは言い難い。人並み外れたあの抜けようで、銀行の仕事が勤まるのか。勤まらないから退職したとしても、そもそもどういったルートで入行出来るのか。もう何が何だかわからなくなってきた。考えないことにして、肉を食うことにした。しかし、じゃんじゃん注文するため、カルビだかロースだかハラミだか、自分が何を焼いて何を食っているのかさえ、わからなくなってきた。焦げてようと、レアだろうと、お構いなしだった。セロトニンの分泌過剰で一月はハイになれそうだった。

「朝木さんって、何か趣味とかあるんですか」

 鳥の写真を撮っていると言った。

「へえ、カワセミとかですか」

「いや、カワセミはまだ、あんまり撮ったことないですけど」

 カワセミを撮ったのは一度だけで、偶然にも川の対岸にとまっていた時だけだった。PCの画面で見ても、ゴマ粒のように小さな点にしか見えなかった。

 私にはまだ、カワセミを撮れるだけの長いレンズも、待ち伏せする時間もなかった。要するに、まずは金と時間が必要だということだ。しかし、あの工場で働いている限りは、永遠にそんなチャンスは訪れないだろう。

「この辺は、結構いろいろいるんですよ」

 セキレイとか、サギとか、セキレイとか、サギとか、セキレイとか、サギとか。いや、実はもっとたくさんいる。シジュウカラ、メジロ、コゲラ、冬になるとツグミやジョウビタキやカラフルな水鳥たちが飛来する。我々人間どもの極間近に、多様な野生の鳥たちが生息している。しかし説明するのが面倒だった。

「パンチラでも撮ってるんじゃないですか」

 成見が言った。

「町の中でパシャパシャって、撮ってんのな。あれ、鳥なんかいねえぞ。何撮ってんだ」

 前田さんまで同調した。全く品のない連中である。

 こいつらは、あんまり女性と付き合ったことがないのではないかと思った。

 『鳥は鳥でも、ハメ撮りしてるんですよ、ハハハハハ』くらいの冗談は言ってやろうかと思ったが、いろんな意味でドン引きされそうなのでやめておいた。

 そもそも、私もそれほど他人のことは言えない。前の彼女と別れてから、一体何年経ったのか。最近は、女性と付き合う気力も体力も時間も金もなかった。いや、金がないのは昔からだな。

 何故か話は、成見による音楽論に変った。

「ジャンルによって弾き方が違うんですよ。ジャズにはジャズの弾き方があるし、ロックにはロックの弾き方があるんですよ。おんなじように弾いてちゃダメなんですよ。ギター弾いてるから、わかるでしょう」

 私に振ってきやがった。

「いや、私は一人で弾いてるだけなんで」

 恐らく、吹奏楽部時代の誰かの受け売りであろう。しかし、アドバイスとしてありがたく参考にさせてもらうことにした。いつ実践出来るかは不明である。

「今も弾いてるんですか」

 松井さんが聞いた。

「今でも、時々弾いてますよ」

 以前聞いた話だとレスポールを持っているらしい。本家かコピーかは知らない。

 前田さんは相変わらず、このテの話題が苦手のようだ。何か音楽に対して、相当なコンプを抱えているようだ。恐らくカラオケなども本当は好きではないのであろう。

 流石に肉は旨かった。サラダバーで野菜もコオロギ並みに大量に摂取した。

 車で来ていたこともあって、二次会はなしだった。

「朝木さん、松井さん送ってくれる」

「ああ、いいですよ」

 帰る方向が同じだったので、私は松井さんを送ることになった。

 成見は往路と同じく前田さんが送迎することになった。

 車内で松井さんが言った。

「うちの部屋、中二階があるんですよ」

 中二階付きの部屋とは、一体どんなマンションに住んでいるのか、もしかして金持ちなのだろうか、仲良くしておいた方がいいのではないか、銀行にも何か強力なコネがあって入行したのかもしれない、と運転しながら想像を巡らせた。

 指示通りに車を走らせると、ごく普通のアパートの前に着いた。暗い通路に、彼の自転車が立てかけてあった。帰る時に見たことがある。中二階付きのデザイナーズ・マンションには見えなかった。

「ありがとうございます。お疲れ様です」

 一人で運転しながらよくよく考えてみると、中二階とは恐らくロフトのことなのであろう。どうも、職場の連中と話せば話すほど、距離が遠くなっていくように感じる。まるでワイエスの絵でも見ているようだった。恐らく私の方に問題があるのであろう。


 ディスコミュニケーションは相変わらずだったが、仕事の方は特に問題もなく進めていた。その点は認識して頂けていたようである。

 ある日の午後、防錆したピンを搬入するべく、香田さんがフォークでやってきた。

 珍しく気分が良かったので、元五流ホテルマンらしくにこやかに対応した。

 後で前田さんが言った。

「香田さんが、『大分よくなった』って言ってたよ」

 何がどうよくなったのか、よくわからなかった。それもいつものことだった。しかし、言っていることは何となく理解出来た。

 やっぱり社員も含めて、私の態度が問題にされていた訳だ。

 しかし、ダイレクトの入庫は滞りなく行っていたし、クソ重たい計量も一手に引き受けてきたし、多少引きこもっているだけで、そこまで文句を言われる筋合いもない、とは思う。前田さんと成見の二人で、上手く仕事が回っているのであれば、私が茶々を入れる必要もなかっただろう。


 加藤さんが言った通り、仕事は増えたようだった。

 午前中は私もUCで作業をして、何故か前田さんが一人で、ダイレクトで計量をする、といったことが増えてきた。

 自分で作業することを厭わないのは、前田さんのいいところだった。

 そこまでしないと間に合わない、という事情もあったとは思う。

 それまでは、月一程度で土曜日にも休めたが、この時期から休みもあまりなくなった。

 その土曜日、松井さんの方は何らかの理由で休みだった。

 朝からUCで作業をしていた。ランチの後の昼礼で成見が言った。

「今日は三時までです。今やってるのが終わったら、全員でダイレクトに移動して作業します」

 二時からみんなで行くのであれば、私だけ先に行った方がいいのではないか、とも思った。

 成見と私とでUCの入庫作業を済ませてダイレクトに着くと、前田さんが入庫ラベルを貼っていた。

 小迫さんは既にアウトリンクの投入を始めていた。

 ヤードには、更にアウトリンクとワイリンクの台車二台も置かれていた。どうやら前田さんが段取りを済ませたらしかった。

「じゃあ、これだけやって終わりにしましょう」

 成見が言った。

 これだけも何も、時間内に終わるのか。

 成見はワイリンクをやるつもりらしい。

 仕方なく私はアウトリンクに手を付けた。ピンの設定は既に終わっていたが、丈選がまだだった。

 ヤードのパレットに近い辺りは、小迫さんと成見に譲って、私は事務スペースの方に台車を押していった。

 まあ三人いれば、終わらないことはないのであろう。しかし、この狭いスペースで、全員で一緒に梱包しなくてもいいような気はする。梱包台車が二セットしかないため、全員床で梱包する羽目になった。この点を踏まえても分散させた方がよかったのではと思った。

 小迫さんが先行していたので、自分の分が終わると、私の台車を手伝ってくれた。

 残り時間十五分の時点で、ワイリンクが三チャージ残った。

 一人ワンチャージで、片付けの時間を入れるとギリギリだった。

 おまけに二人が既に梱包を始めていて、台車を移動させることが困難だった。やってやれないことはないが、極めて面倒くさい。

 仕方なく、私はバックアップに回ることにした。

 私が同時進行で片付けをして、二人でもうワンチャージやってくれれば、時間内に綺麗に収まるはずだった。

 別に私が、今更梱包作業をやりたくなかったという訳でもない。その時は、それが合理的に思えたのである。

 しかし、その意図は通じなかった。

 三時のチャイムが鳴り、体操の音楽が鳴り始めた。

 ワンチャージ残ると成見は入庫ラベルを貼り始めた。小迫さんも終わった。私は、完成品を積んだパレットをハンドフォークで移動中だった。

「これ朝木さんね」

 ワンチャージ残った台車を指差して言った。

「いいすよ、やっちゃって」

 だから、俺が片付けてるんだから、お前がやりゃあいいだろうが。

 ところが、小迫さんまで何やら片付けを始めた。手つかずの台車が残された。

「終わんねえぞ」

 それを見かねた成見が言った。わざとぞんざいな口調で言って、失敗しているような調子だった。

 私に根負けしたのか、小迫さんが投入の作業を始めた。

 私も、箱の蓋を閉める辺りから手伝ってあげた。

 小迫さんをムチで引っ叩いて火の輪くぐりさせることも、可能なことは可能なのだ。しかし、著しく面倒くさい。やはり許容範囲内で好き勝手にやらせておいた方がスムーズに作業が進むようだ。

 私が逆の立場なら、別に何とも思わずに作業をするだろう。どうせ同じ時間拘束されているのだから、その間何をやったってどうでもいいのだ。しかし、他の人たちはそういったところを気にするに違いない。一人ワンチャージずつでなければ平等ではない、やらないのはズルイ、ということになるのであろう。恐らく私の方が普通ではないのであろう。

 ギリギリ三時十分に作業が終わると、小迫さんは一足先にとっとと一人で帰った。

 私は二人に付き合ってラベルを貼る羽目になった。フォークも引き揚げに来ないし、月曜日にやりゃあいいのに。

 作業が終わり一息吐くと、成見が言った。

「あいつもサブリーダーにしてやろうと思ったけど、今日の様子見たら、やっぱりやめた」

 クソ、マズった。小迫クンにサブを押し付けるチャンスだったのか。くだらない意地を張らないで、やってあげればよかった。

 しかし、ちょっと待てよ、と思った。サブにしてやるというのは、前田さんが言っているのか、それとも成見が勝手に言っていることなのか。今の言い方だと、あたかも成見が小迫さんをサブに昇格させてやろうとしているように聞こえる。しかし当然のことながら、彼に小迫さんをサブに昇格させるような権限はない。わかっていて吹かしているのか、本気でそう思い込んでいるのか、判断がつかなかった。前田さんは特に何も言わなかった。


 この翌年から、工場でもJITが導入されることになった。JITとは、『ジャスト・イン・タイム(Just in time)』の略である。「必要なものを、必要な時に、必要なだけ」供給する生産方式で、某自動車メーカーで考案された。現在では、日本のみならず世界中で、あらゆる業種の企業で導入されているという。

 取り敢えずは、UC工場から導入されることになった。

 今までは、部品は台車に載せて運ばれてきていた。しかし、JIT導入後は、ヤードにコロコンのレーンが設置され、部品のコンテナはそこに投入されるらしい。新たにコロコン台車が導入され、レーンからワンチャージずつ取って、作業をするということだった。

 数日後に半分だけレーンが設置され、朝礼の後に、志田君がレーンとコロコン台車のブリーフィングをやることになった。

 ところが、朝はまだ半分寝ているので完全にすっ飛ばした。松井さんを連れてダイレクト工場へと向かおうとすると、松井さんが言った。

「あれ、何か聞かなくていいんですか」

「ああ、いいすよ」

 ぼーっとしていたので、何も考えずに言ってしまった。

 その後で気付いた。あれ、もしかして、マズイよね、これ。

 私はともかく、松井さんまで巻き込んだのは、流石に反省した。

 しかし、その後も特に何か言われることはなかった。志田君が我々のことで何か言ったという話は聞かなかった。向こうも、全員揃っていなくても知ったこっちゃなかったのかもしれない。後で成見に話を聞いた。要するに、重いから気を付けてね、ストッパーちゃんとかけてね、という内容だった。

 JIT導入と同時に、入庫カンバンも導入されることになった。これはUCのみならず、ダイレクトも一緒だった。それまでは入庫ラベルを一枚一枚リーダーで読ませていた。入庫ラベルを切る時に、多少工程が増えるが、入庫自体は一回読み取れば済むようになった。

 しかし、JIT導入とは関係ないところで、UCではミスが起きていたらしい。

 数日後の朝礼で、前田さんが言い出した。入庫ラベルの貼り間違いを防ぐにはどうすればいいか、考えましょう。

 ダイレクトでは、それまでそのようなミスはなかった。はっきり言って知ったこっちゃなかった。

 指差し呼称がどうたらと言っていたような気がしたが、これの対策のことらしかった。

 沈黙が流れた。

 松井さんが、求められてもいないのに言い出した。

「昨日、考えたんですけど、一呼吸置いて、落ち着いてとか、標語でも作ったらいいんじゃないでしょうか」

 成見が、あからさまに嫌な顔をした。

 その日は金曜日で、定時だった。

 ダイレクト工場からUCヤードに戻ると、成見が言った。

「今朝の、松井さんの発言、どう思います」

「え、どうって」

「何か、自分らが仕事煽ってることを嫌がって、あんなこと言ってるんじゃないかと思うんですよ」

 あの発言を聞いて、そこまで考えるのか。罪悪感でもあるならやめればいいのに。

 しかし、世の中には上には上がいた。いや、下には下と言うべきか。

 ある朝、朝礼が終わると、UC工場の休憩室にワークネードの連中が集められた。半数以上が日系人のようだった。

「全員揃ったあ」

 加藤さんが言った。

「じゃあ始めるよ。もうみんなも聞いてると思うけどお、先日、また部品を落下させる事故があ、発生しましたあ。今月はあ、もうこれで二度目なのね。みんなもお、普段から一生懸命作業してもらってると思うけどお、普通にい、ルールを守って作業してればあ、まず起こるはずのない事故なのね。私たちはあ、この工場からあ、お仕事を頂いている立場です。でもお、こういうミスがあ、続くようだとお、工場の方からあ、もうワークネードさんとはあ、一緒に仕事は出来ませんって言われてしまう可能性もお、あります。現にい、来年からあ、ラインが一つ減ってえ、四勤三休が五勤二休になるのね。ワークネードとしてはあ、皆さんの仕事と生活をお、守ってあげたいんだけど、もしい、仕事自体がなくなるとなったらあ、申し訳ないんだけどお、誰かにい、辞めてもらうってこともお、充分考えられるんですね。そりゃあ人間だからミスもするかもしれませんけどお、普段からあ、きちんとルールを守ってえ、真面目に仕事してればあ、一回のミスでやめてくれとは言いません。でもお、普段から態度が悪いとかあ、ルールを守ってないとかってなるとお、我々としてもお、かばいたくてもかばいきれなくなるのね。なのでえ、ここでもう一度、しっかりとお、自分を見つめ直して、仕事に対する意識を改めてほしいのね。我々はあ、本当にい、皆さんのことをお、大切にい、思っています」

 拍手は起きなかった。部屋の外から、機械音やフォークのモーター音が聞こえた。

 相変わらず、学園ドラマか何かを髣髴とさせる名演説である。

 このような困難な状況でも、ふざけるな、気合入れろ、首にするぞ(遠まわしに言ってはいるが)、窓から飛び降りろ、とか言わないところは人徳だなと感心する。

 ここまで言うとは、一体何があったのか。解散して、ヤードへの帰りに成見から聞いた。

「何か、連調の誰かが、コロコン台車をフォークでぶっ刺して運ぼうとしたらしいんですよ。それで、コンテナごと倒しちゃったらしいんですよ。そりゃあひっくり返すに決まってるじゃないですか。バカじゃないかと思いますよね」

 コロコン台車とは、短いローラーコンベアを台車状にしたものである。ラインから直接コンテナの出し入れが出来る。KDでも、先日導入されたばかりである。成見の言った通り、何故、そいつをフォークで運ぼうと思うのか確かに理解に苦しむ。一チャージ分ひっくり返したとなると、損害額も恐らく数十万といったところだろう。以前の例からすると、ワークネードが弁償するのかもしれなかった。

 UCヤードに戻ると、私はダイレクトに行かずにそのまま作業をすることになった。

 私は中国向けのカラーを指示された。すぐ横では成見が、カラーリンクのコンテナを引っ繰り返していた。

「やってねえじゃねえかよ」

 成見がキレて言った。そのキツイ言い方に、前田さんも目を剥いていた。

 どうも、まだ油が乾いておらず、紙袋は油で濡れ濡れだった。

 UCでは坂上さんが、何度もコンテナを入れ替えたりして油を飛ばしているようだった。紙袋は新しいものだったので、少なくとも一度は入れ替えているようだった。

 成見と坂上君は、以前にはジムにも一緒に行くくらいの仲だった。仕事が遅かったり、抜けていたりして、長田さんや志田君にガミガミと言われているのを近くで毎日のように見ていた。今更そこまでキレる程のこととも思えなかった。自己愛性PD的誇大感が徐々に膨れ上がり、他者に対する気遣いが薄れ、仕事に対する情熱、というより執念に取りつかれていたのかもしれない。


 日系の連中は、非正規にもかかわらず、皆結婚して家庭を築いていた。長時間労働も、文句も言わずにこなしているようだった。工場での仕事に、家族の生活が懸かっていた。日本人なら、ここで非正規仕事をしながら結婚しようとは思わないであろう。

 加藤さんも、丈選の連中には随分と気を遣っているようだと、成見に聞いたことがある。

 それを美しいと言うべきなのか、或いは、日系人労働者とのコネクションが、健全なものなのか、ワークネードのダークサイドなのか、裏事情がわからないので判断がつかなかった。

 ヤード移転後に、ダイレクトで丈選のサブをやっていたのは、ジェロームさんという年配の男性だった。無口な男だったらしく、話す機会もなかった。夏頃から姿を見せなくなっていたが、この年の冬にガンで亡くなったと聞いた。

 その土曜日は、三時で終了だった。私が帰ろうとすると、会社の駐車場に、喪服姿の前田さんがいた。ワークネードの社員二名と一緒だった。夕方から、どこかの教会で葬儀らしかった。

 父祖の地とはいえ、異国であることに変わりはない。わざわざ日本くんだりまでやって来て、工場での長時間非正規労働に耐え、碌に贅沢もせずに家族のために尽くし、定年前の若さで死を前にして、彼は一体どんな心境だったのかと、考えずにはいられなかった。或いは、家族さえいれば充分幸せという価値観なのかもしれなかった。日本人が多くを求めすぎなのかもしれない。


 台車転倒の件が関係していたのかどうかは不明だが、梱包セクションの忘年会に、何故か加藤さんも参加するということになった。

 十一月に飲み会をしたばかりで、こちらはうんざりしていたが、例によって参加する羽目になった。

 土曜日の夜。駅の改札前には既に前田さん、成見、そして松井さんが揃っていた。小迫さんはまたスルーした。加藤さんは後から合流するらしかった。

 場所は駅前の、大手チェーンの居酒屋だった。個室の座敷に案内された。

 律儀にも、加藤さんが来るまでお通しで凌いだ。彼は程なくして現れた。

 派手なダメージジーンズにチェックのチャツ。幅広のダブルピンベルトからウォレットのチェーンを垂らしてジャラジャラといわせている。五十代にしては若い出で立ちだ。

 おもむろに注文して乾杯した。加藤さんが口を開いた。

「時間だけ働いてえ、時給稼いでりゃいいってんじゃダメなんだよ」

 ほう。ではどうしてダメなのか、理由を述べてみよ。しかし誰も異を唱える者はいない。それどころか、恐ろしいことに同意の声が上がっている。そうだそうだ。成見だった。松井さんまで、おおーーっと感嘆の声を上げた。

 来て早々、いきなりそういったことを言うということは、余程こだわりがあるのであろう。今夜わざわざ来たのも、このために違いない。しかし時給分以上に働いたところで、我々にとっては意味がない。会社を利するだけだ。本人は、そこを弁えたうえでやっているのだと思うが、松井さんあたりは本気で感化されそうな勢いである。

 どこからともなく、長田さんの話題が出てきた。加藤さんが言った。

「組立のお、リーダーになった時にね、毎日定時で終わってえ、毎日だよ、一時間くらいこれがいけない、あれがいけないってお説教をくらったの」

 いやいやいやいや、ちょっと待て。終業後に毎日一時間だと……。ある種の偏執狂じゃないのか。誰もおかしいと思わないのか。それとも、ワークネードの連中があまりにも酷くて、余程腹に据えかねたのか。

「でもお、たまに厳しいことも言うけどお、この人は偉い人だからあ、この人に付いていけばあ、間違いないなって思ったの。それで、俺も凄い頑張ったんだよね。それをちゃんとお、見ていてくれて、引っ張り上げてくれたんだよね」

「長田イズムだよね」

 前田さんが言った。

 この人の立場であれば、加藤さんに同調しない訳にはいかない。

 しかし、この長田さんラヴは、ワークネードおよび加藤さん周辺の共通認識なのか。そういったことを知らずに、最初から長田さんに目を付けた成見は、もしかして人を見る目があるのか。そして、さりげなく距離を取っている私が無能なのか。

 それとも、成見の嗜好を知っていて配慮、というか利用しているだけということも考えられた。その両方なのかもしれない。加藤さんは実際のところ、長田さんのことをどう思っているのか、よくわからない。まあ、本気で入れ込むほどお目出度い人間とも思えない。

 わざわざ別料金で注文した刺身の盛り合わせは不発だった。数も鮮度もいまいちだった。小さな鍋もすぐに食い尽くした。後は飲むしかなかった。

 相変わらず、威勢のいい話が続いた。

 俺も昔は苦労した。あの案件は俺が取った。他の工場にも、子飼いの部下が何人もいる。このままじゃ終わらないよ。梱包セクションはこれから忙しくなる。時給も上げる。

 そしてクライマックスに向けて、宴は謎の盛り上がりを見せた。よし、やるぞ、やってやろうぜ。

「いやあ、凄いなあ。こんな飲み会初めてですよ」

 松井さんが感嘆した。お目出度い奴である。その時の加藤さんの微妙な笑いが、今でも目に浮かぶ。

 高揚した気分のまま店を出ると、駅に向かった。

 二次会をやろうということになった。店は加藤さんが行きつけのスナックで、車で二十分くらいかかるらしい。どうやって行くんだよ、そんな場所。

 駅前には、タクシーという便利な代物が列を成していた。

 言うまでもなく、タクシーには四人しか乗れない。超ラッキー。心の中でガッツポーズを取った。私はここでフェードアウトするとしよう。

 タクシー二台で、という話も出たが、謙虚な態度で申し出を丁重にお断りした。誰がそこまでして二次会なんぞに行くものか。

「ああ、どうもすいません。ご馳走様でした」

 まあ会社の金だろうが、一応言っておいた。一人その場を後にした。

 週明けに、松井さんから話を聞いた。

「何か、そこのママさんが加藤さんの知り合いらしくて、朝までカラオケして飲んでましたよ。ボクはもう酔っ払っちゃって、三時頃からずっと寝てましたけど」

 随分とタフな連中だなと思った。しかし他の連中はともかくとして、この人はそんなに無理して大丈夫なのか、脳の方はどうなっているのか、とも思ったが、本人が楽しそうだったので余計な心配はやめることにした。

 もしかしたら加藤さんは、そのママに入れあげて貢いでいるのではないだろうか。我々からピンハネした給料がそこに消えているのかもしれない。しかし私の知ったことではなかった。

 年末の最終日。ダイレクトを片付けると、四時過ぎにUCに戻った。事務所でラベル切りをする羽目になった。

 事務所では、前田さんと成見が一緒にラベルを切り、他のGLがバタバタと出入りしていた。実験Z棟にラベルを持っていけばよかったと思った。

 成見が感慨深げに言った。

「いやあ、今年は朝木さんの成長が鍵でしたよ」

 何だか恐縮した。何故いちいち、このような気色悪い言い回しが出来るのか。ここまでくると感心すらしてくる。私は最初から最低限のタスクをこなしていただけで、成長した訳でも何でもない。周囲の見る目が変わっただけである。

 サブリーダー候補がもう一人欲しい。小迫さんも候補だが、あまり気が進まない。他から引っ張ってきたい。サブリーダーは意外と多く、ただ黄色い線が入っているだけのような奴は嫌だ。成見が言った。私に対する当てつけなのか判断がつかなかった。誰か替わってくれるのであれば大歓迎だった。

 前田さんは特に何も言わなかった。これが二人の意向なのか、成見が勝手に言っているのか、不明だった。小迫さんをサブにするという発想が、前田さんにあったとは思えなかった。

 更に話は続いた。

 かつて、とある食品工場で社員の送迎などをしていた。非正規労働者の外国人が多かった。彼らは工場に不満で、休みも多かった。上司には、いちいち真面目に取り合う必要はない、適当にあしらっておけばいいと言われた。何か嫌な感じだったと言った。本人が非正規だったのか、正社員だったのか、いまいちよくわからなかった。ブラックとは言わなかった。ブラック企業なるワードが世間に認知され始めたのは、ちょうどこの頃だったと思う。

 バレルでサブをやっている伴野さんが入ってきた。

 伴野さんは、非正規のサブリーダーだったが、GL同然に振る舞っていた。成見同様に、前田さんたち社員の周辺にいることが多かった。年齢は見たところ五十代を越えていた。社員どもより年上だったのであろう。

「丈選は、もう帰ったの」

「四時で上がったよ」

 前田さんが言った。

「まあしょうがないよね。彼らは」

 あまり良く思っていないような言い方だった。

 伴野さんが、丈選を工場に取られるかもしれないと言うと、成見が、そんなことないんじゃないですか、と否定した。普段からこのような話をしているのであろう。私にはさっぱりだった。

「加藤さんは、異常に彼らに気を遣ってますよね」

 成見が言った。

 日系人たちは結束が固いようだった。異国の地にいることが理由なのか、元からそういうノリなのか、わからなかった。

「忘年会で加藤さんが、給料上がるとか言ってたじゃないですか。あれ、あまり信用しない方がいいですよ」

 確かに、そんなことを言ってはいた。しかし、元からそこまで期待なんぞしていなかった。

「自分らの給料も、長田さんがプレッシャーをかけてくれて上がったんですよ」

 成見の長田さんラブは、相変わらずのようだった。

「何か、前加藤さんが、知り合いを紹介してくれとか言ってたじゃないですか」

 成見が言った。確かに、加藤さんは以前そんなことを言っていた。

「一人知り合いで、ここで働きたいって奴がいるんですよ。それで、加藤さんに、条件とか案内みたいなのあったらくれって言ったんですよ。でも二週間くらい経ってるのに全然くれないんですよね。折角知り合いがいるのに、これじゃあ紹介してやろうと思っても出来ないですよね」

 こいつは社員を目指して上の連中と仲良くしているようだった。或いはただ単に自己愛性PDのためか。加藤さんに対しても、サラミをねだるポメラニアンよろしく、尻尾を振り振りしているのだと思っていたが、彼の方は、元々本気で紹介してもらう気がないのか、それとも、既に成見の本性に気付いてさりげなく避け始めたのか、判断がつかない。前田さんや私が違和感を抱いているくらいなら、あの人が何も感じない訳がない。そこまでお目出度い人間でもないだろう。忘年会での加藤さんのことを思い出した。

 加藤さんには、野心があるようだった。

 今更自身で起業など出来ないだろうから、どこかの野心的な若者が起業したと思われる、派遣―アウトソーソング企業で成り上がるつもりなのであろう。ピンハネ王にでもなるつもりなのかもしれない。

 そういった人々にとっては、会社の飲み会も重要な意味を持つのであろう。下っ端どもに発破をかけて、洗脳し、品定めをする。そもそも、部品落下事故がきっかけだったのかもしれないが、その辺の意図は実はよくわからない。いずれにしても、恐らく私は利用価値ゼロと判断されて飼い殺しにされることだろう。

 しかし、何の下心もない人間どもにとって、職場の飲み会に何の意味があるのか。

 何故人はそうまでして飲み会をしたいのか。

 一体飲み会とは何なのか。

 そして、飲み会と自己愛性ブラックとの間にどのような関係があるのか。

 その答えを導き出すために、再び過去に遡らなくてはならない。

 恐らく彼が、重要な示唆を与えてくれるだろう。

 北関東の元ヤンにして元ボクサー、そして歌舞伎町の元ホスト。

 第二の男である。

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