第七章 覚醒

 四月に入ってしばらくすると、入庫ラベル貼りをやらされるようになった。

 入庫ラベルは、製品の段ボール箱一個につき一枚ずつ貼っていく。

 しかし、ただベタベタとシールを貼ればいいという訳ではない。

 まず、どれに何を貼るか、ということが問題となる。

 梱包する時に、我々が記入した仮組表と製品ラベルのチャージナンバーを確認する。間違いなければ、入庫ラベルを引き出しから引っ張り出す。その前に正しい引き出しはどれか。仕向け地はどこか、製品は何か、といったことを確認しなくてはならない。そして引き出しが見つかっても油断してはいけない。ラベルと仮組表の仮入庫ナンバーが一致している必要がある。

 何せシールなので、貼り直しがきかない。

 再発行も恐らく出来るのであろうが、その方法を私は知らない。前ちゃんか成見クンに知られずにミスを揉み消すことが出来ないとなると、細心の注意を払うしかない。

 そこまでしてやっと、貼る作業に取り掛かることが出来る。

 箱が積まれたパレットを前にしゃがみこんで、ラベルの半券を引き離す。おもむろにペラペラとシールを剥がし、ベタベタと貼り付けていく。

 ヤンキー座りだと膝が痛くなる。ただでさえ梱包の作業で膝を酷使している。片膝を立てて作業することにした。

 今貼っているのはダイレクトのワイリンクで、全て同じ部品である。総計四十八枚。

 これがセットということになると、複数の部品が同じパレットに載ることになる。違う部品にラベルを貼ってしまうということも考えられる。プレートにピンのラベルとか。更にセットは、パレットが三枚とか四枚なので、間違ったラベルを互い違いに貼る可能性もある。これも気を付けないといけない。

「どうでした」

 例の如く、成見が聞いてきた。

 椅子を用意しろ、とは流石に言わなかった。

「意外と大変ですね」

 例の如く、適当に当たり障りのない受け答えをした。

 しかし、当たり障りのないといっても、全くの口から出まかせという訳でもない。地べたに座っての作業は、それはそれでキツイ。パレットの狭い隙間でラベルを貼らなくてはならないので、意外と肉体労働だ。

「これ、結構ラクな作業に見えるんですけど、やってみると、意外と大変なんですよね。特に数が多くて煽られてりすると、結構キツイんですよね。でも小迫さんとかが見ると、『ラクしやがって』とか思われるんで、やる時はなるべく、真剣にやるようにして下さい。わざと大変そうに見せるようにした方がいいですよ」

 そんなもん知ったことか、としか言いようがなかったが、素直に了解しておいた。

 社員どもは、よく仕事終了間際に急いでベタベタと作業をしていた。

 忙しかったのか、自分たちで好き好んで追い込んでいたのかはわからない。どうも両方のような気がしないでもない。

 ラベル貼りが済むと、入庫しなくてはならない。当然そっちもやる羽目になった。ただし後になって、UCの部品で、実験Z棟で教えてもらった。

 事務所は社員どもの巣窟である。取って喰われるのではないかとビクビクしながら、前ちゃんの後に付いて入室した。

 しかし誰も我々に関心を払っていないようだった。存在に気付いているのかすら怪しい。

 入庫は、ラベル半券のQRコードをリーダーで読ませるだけである。ただし、全ての箱の数だけ、ラベルを一枚ずつ読み取らなくてはならない。UCの05Wのセットは、複数部品の混載で、一パレットあたり箱数が総計四十個である。四十枚のラベルを、ピッピッと読ませていくのは、なかなか骨が折れる。集中していないと、飛ばしてしまうだろう。その場合、どのラベルを読んでいないのか、画面と睨めっこして見つけ出すしかないという。『08542469536』『08542469537』『08542469539』『08542469540』、あった、『8』だ。

 それを三セット分。専用の袋に入れて、パレットの上に置く。

 実は、入庫の作業はこれで終わりではない。

 厄介なことに、構成表というものが存在していた。

 そちらもまた、別の機会に教えてもらった。

 正式名称は、部品構成表というらしい。部品のチャージナンバーなどを記入した用紙である。どうも、『構成表』という書類が何種類もあるようだった。

 デスクに座り、仮組表を見ながら、ナンバーとピッチを記入していく。日付印を押す。私の印鑑はまだないので、成見のものを借りた。非正規だし、自分の名前は極力使いたくないが、どうもそういう訳にもいかないようだった。

 コピーを取る。用紙は一枚で二セット分となっている。コピーした方を、二枚に切らなくてはならない。点線に定規を当てて、一気に切り取る。何故、ハサミを使わずに定規を使用するのか。それは長田さんがそうしているからだ。理由を尋ねることすら、誰も思い付きもしない。まあハサミでチョキチョキやるよりは、こっちの方が早いのだろう。

 封筒に仕向け地、部品名、仮入庫ナンバーを記入する。封筒に折りたたんだコピーを突っ込み、封をする。その封筒を完成品の上にガムテープで貼り付ける。原本の方は、引き出しに突っ込んで保管する。三セットだと、用紙が半分余ることになるが、そこは気にしなくていい。紙を浪費しようが、熱帯雨林が消滅しようが、我々には関係のないことだ。

 恐らく、これらのやり方を、全て長田さんが考え出したのであろう。

「これ、メールとかで送れないのかって思うよな」

 前田さんが言った。しかし、社員の前では、そういった話は禁句だったのであろう。昔はメールとか、インターネットといったものは存在しなかったのだ。

 新たに責任の重い仕事を覚えて、自分がサブリーダーになるんだ、という実感を噛み締めるとともに、工場のため、ワークネードのため、世界平和と子供たちの未来のために、全身全霊でこの身を梱包仕事に捧げていこう、といった感慨は一切なかった。ゼロどころか、真冬の南極の気温くらいマイナスだった。

 本気で辞めることを考え始めた。

 しかし、サブになるのが嫌だから辞める、というのは、人間として、或いはいい年した大人としてどうなんだ、と思わずにはいられなかった。

 それに辞めるといっても、その後はどうするのか。仕事は適当に見つけようと思えば見つかるだろうが、また求人広告を見て、ハロワに通って、履歴書を何枚も書いて、面接を受けて、どうでもいい質問に真顔で答えて、新しい作業を一から覚えて、職場の人々に愛嬌を振りまいてと、考えただけでもうんざりだった。

 だいたい非正規のリーダーとか、喜んでやる奴がいるのか。普通は嫌なものなのではないのか。嬉々としてやっているのは、成見くらいではないのか。他の連中は、一体どういうつもりでやっているのか。それとも、私がやっぱり回避性かシゾイドなのか。回避性パーソナリティ障害の要件に、『恥ずかしいことになるかもしれないという理由で、個人的な危険をおかすこと、または何か新しい活動にとりかかることに異常なほど引っ込み思案である』という項目がある。この点に該当するようなしないような、微妙なところだ。恥ずかしいことになる、というより『すっげー面倒くせえ』というのが主な理由だ。他人の診断は勝手に下しておいて、自分のことは棚に上げているだけなのかもしれない。私がまともなのか、やっぱりおかしいのか、誰かに聞いてみたかったが、聞く相手は誰一人として存在しなかった。


 年末に派手な忘年会をやったばかりだというのに、また飲み会をやろうとか言い出した。ゴールデンウィーク前で、今度はKD梱包セクションだけの飲み会だった。

 請負になってから、飲み会ばかりやっていたような気がするが、普通に考えれば、それは二回目だった。

 私に飲む友人すらいない方が問題なのであろう。

 例によって小迫さんが固辞したため、参加者は前ちゃん、成見、そして私の三人だけだった。貴重な長期休暇の一角が、これで潰れるとなると、暗澹たる気分になった。費用は会社持ちなので、食う以外になかった。

 場所は駅前の、焼き鳥系の居酒屋だった。

 ビール生中三つ。乾杯。適当に頼んだ料理の皿。早速焼き鳥が何皿も運ばれてきた。

「自分、最初の頃は二日酔いで仕事来てましたよ。梱包しながら、吐きそうになってましたよ」

 成見が言った。

「箱閉じながら、もうここまで出かかってましたよ。やべえ、どうしよう、吐きそうだよ、とか思って、必死で堪えてましたよ」

「箱の中に吐いちゃったりしてな」

「海外で箱開けたら、部品がゲロまみれとか」

「クビどころの騒ぎじゃねえな」

 なるほど。どうりで、最初はほとんど喋らなかった訳だ。コミュ障の私に一方的に問題がある訳でもなかったようだ。

 普段からこの二人は、小迫さんの話題で盛り上がっているが、それは酒の席でも同じだった。

「奴も随分丸くなりましたよね。最初の方、酷かったですよね」

 成見が俺に振ってきやがった。

「何かあったの」

 前田さんが言った。

「坂上さんに注意されて、逆切れしてましたよ」

 私が説明した。

「ヘルメットバンって、叩きつけたりして」

「マジか。ワークネードだけだったらいいけどさあ、って別によかないんだけど。工場の社員と揉め事起こさないでほしいよね」

 前田さんが言った。

 ゴーヤチャンプルーがなかなか旨い。ゴーヤがシャキシャキとしていて、ビールによく合う。

「でも、あいつにだけは勝てないですね」

 成見が妙に妙にしみじみとして言った。

「最初の方、あいつの隣で『ぜってー負けねえ』って思って必死こいてやったんですけど、結局勝てなかったですよ。梱包だけは早いですよね」

「梱包だけはね」

「ホント、よくやってくれてますよ」

 情感を込めて感謝の言葉を吐き出すと、突然モードがハイに切り替わった。

「でもつけ上げるから、ぜってー褒めないですけどね」

 成見がそう言うとみんなで笑った。

「絶対本人の前では褒めないんですよ」

 ここは魚も置いてあるらしい。ホッケ焼きを突つき、刺身に手を出した。大根を紫蘇で巻いて醤油をつけると旨いのだが、誰にも理解されない。

 私が入る前に、成見は分配機で部品をブチ撒けたことがあるという。

「あれ、本当にスローになりますよね。シャッター開けて、『アッ』って思って止めようとするんですけど間に合わないんですよ。掃除すんのスッゲー大変でしたよ」

「あれも、センサーとか付けて欲しいよね」

 前田さんが言った。

「何か、長田さんと志田さんが妙に優しくて、逆に励ましてくれたりして、もうこっちが泣きそうになってましたよ」

 部品をブチ撒けるのだけは気を付けよう。

 話題は筋トレに変った。

「もうダメだって思ったところでもう一回やらないとダメなんですよ」

 成見が力説した。

「最後にプラス一回やらないとダメなんだよな、あれ。でもそれがキツイんだよ」

 同じく筋トレ経験者の前田さんが言った。

「前行ってたとこだとさあ、トレーナーのおねえちゃんが超スパルタでさあ、『ダメよ、やめちゃ。ハイ、もう一回』とか言われてさあ、超こええの。あれ、女の方が怖いんだよね。男の方は優しいけど」

「一度筋トレ始めると、負荷を上げていかないといけないんですよ。どんどん重くしていかないと、すぐに筋肉落ちちゃうんですよ」

 鶏の唐揚げが旨い。あくまで筋トレの話だよな。仕事の話じゃないよな、な。

 当然の如く、仕事の話もした。

「志田さんとかも、仕事前に、全部部品見て回ってるんですよね。それもやっぱり長田さんのやり方なんですよね」

「長田イズムだよね」

 前田さんが言った。

 レモンサワーを飲んだ。酸味と炭酸で、背筋に冷たいものが走った気がした。

「実は今んとこに来る前に、化粧品メーカーの工場も決まってたんですよ。でも、あそこに面接に来て、長田さんに話聞いたんですよ。それで向こう断って、こっちに来たんですよね」

 誰も手をつけないチーズ明太子シラスサラダを、ビールで流し込んだ。酔いが回ってきたようだ。視界がグルグルと回り始めたような気がした。

「何か志田さんも、高校が定時制だったらしいんですけど、昼間ここでバイトしてたところを、長田さんが正社員に採用させたらしいんですよ」

 定時制というと、成績の問題か、中学で何かやらかしたのか、或いは貧困とか家庭の事情のため、という場合もあり得る。志田君の場合は、確かに更生したヤンキー臭もしないでもないが、実は意外と真面目で勉強も出来そうな気もする。どっちか判断がつかない。母子家庭だったりすると、長田さんが父親のような存在と化しているのかもしれない。

 成見も、結構酔いが回っているようだ。目が虚ろになっている。

 唐突にラーメンの話になった。芦田屋って知ってますか。確か県道沿いにある。

「芦田屋は旨いですね。煮干し系なんですけど、柚子胡椒の風味がさわやかで、すごいスッキリしてるんですよ」

 またラーメンか、と思った。前の職場のリーダーもラーメンが好きだと言っていた。しかし成見の場合、好きというレベルではなかった。

「実はSNSでラーメンのレヴューを書いてるんですよ」

 そのSNSには加入していない。レヴューを読んでみたい気もするが、本名で登録しなくてはいけない。四十代で、工場で非正規やってます。同級生は皆結婚して子供もいます。偽名を使えばいいのだろうが、そこまでやるのも面倒くさい。しかしそのSNSをやっているという人物に初めて会った。実在しているとは思わなかった。

「毎週、休みの日は必ず行ってますよ。この辺だったら何でも聞いて下さい」

 ここまでくると立派なラーメンマニアだ。しかし筋トレはどうなっているのだ。

 話は過去に遡った。

「自分、高校で吹奏楽部に入ってたんですよ」

「へえ、楽器は何やってたんですか」

「チューバです」

 それは偶然だ。自分も小学生の時、鼓笛隊でトランペットを吹いた。しかし、面倒くさいので言わなかった。

「卒業してからも、バンドでギターやってましたよ」

「ああ、そうなんですか。俺もギター持ってますけど」

「そうなんですか。バンドとかやってたんですか」

「いや、バンドはやったことないですね。一人で弾いてるだけで」

 実は、バンドをやったこともあるにはあるのだが、これも面倒くさいので言わなかった。

「どんなのやってたんですか」

 相手に喋らせることにした。

「ニルバーナとか、ガンズとかですね」

 なるほど。時代からすると、確かにその辺りだろう。しかし、この二つのバンドはいがみ合っていたはずではなかったか。まあロキノン的に細かいことはどうでもいいのであろう。私も両方とも同じくらい嫌いではない。両方ともCDを持っている。

「親にねだって、レスポール買ってもらいましたよ」

 それはうらやましい。

「あの頃は、好き放題やってましたよ。楽しかったな」

 それは何より。

 この間、前田さんは黙りこくっていた。やはり、音楽はあまり好きではないらしい。というより、よく知らないことに何か引け目でも感じているような感じだ。

 その後は、自己啓発的な話が続いた。やっぱりさあ、仕事だからさあ、人を動かすには自分でやらないとダメなんですよね、仕事だからさあ、頑張りましょうね、朝木さんもサブリーダーになってガツンといこうぜ、やらなきゃダメなんだよ。相変わらず、抽象的で観念的で雲を掴むような内容だった。

 時刻はもう十一時を回っている。

「そろそろお開きにするか」

 前田さんが聞いてきた。

 イエス・ウィ・キャン。

 ところが成見は、前田さんの呼びかけをはぐらかした。店員さんを呼んで、ドリンクと韓国風チヂミと焼き鳥盛り合わせを注文した。ラストオーダーにしては量が多かった。またまた仕事の話になった。成見が淡々と話し始めた。

「最近は、あんまそういうことないんで、朝木さんとかわかんないかもしれないですけど、防錆やってて、残業の時に、あともうワンセットって煽ってくるじゃないですか」

 確かに私が入った頃はそういうことがよくあった。

「こっちも焦ってキツイなって思うんですよね。でも長田さんが、フォークで部品持ってきて『成見君、持ってきたよ』って笑顔で言われると、やらない訳にはいかないですよね」

 『最後の一杯』が余程効いてきたのか、脳味噌が雑巾並みに捻じれていくような、奇妙な感覚に陥った。こめかみを指で揉んだ。

「あれ言われちゃうとな。やらない訳にはいかないですよ」

 成見がしみじみとした口調で言った。焦点が定まっていない目で、何かのサワーの入ったグラスを見つめている。

 私は何を言えばいいのか、全くわからなかった。同意も拒絶もリスクが大きすぎる。

 問題は前田さんだ。自分で『長田イズム』とか煽っておいて、明らかにドン引きしていやがる。とんだタヌキ野郎である。

 私は徒歩だからいいが、後の二人は電車だった。上り電車は終電も早い。前田さんは気を揉んでいたようだった。しかし時間には間に合ったらしい。

 酒より会話の方に酔っ払った。こんな経験は初めてだった。

 ともかく成見のことはよくわかった。長田さんラブで、ラーメンマニアで、元バンドマンで、朝まで飲みたがる。どこかで似たような人物を見たような気がする。誰だったっけか。


 連休が明けると、UC工場の会議室に、工場、ワークネード双方の作業員一同が集められた。何をやるかと思えば、DVDを見せられた。内容は、指差し呼称に関する講習だった。

 作業を中断して、座っていられるのは大歓迎だった。寝るのではなかと心配したが、思いのほか興味深い内容だった。

 指差し呼称は元々、国鉄の運転士が安全確認のために行っていた動作らしい。それが現在では、工場やら建設やら、様々な職場で行われるようになっている。

 『実際に声に出し、体を動かすことで、脳が活性化し、集中力が高まる効果が得られます』。ナレーターが言った。なるほど。科学的な裏付けがちゃんとあるのだ。ただ単に好きでやっている訳ではないのか。

 最後に、部長だか何だかの偉い人が言った。この工場でも指差し呼称を導入する、具体的にどうやるかはセクションごとに話し合って決めろ、安全とミス防止のために是非活用して下さい、以上。

 その後、工場内の横断歩道を渡る際には、左右前方の指差し呼称を行うこと、というお触れが出た。

 早速、前ちゃんと成見は、指差し呼称をネタにして冗談を言い始めた。

「軍手ヨシ、台車ヨシ、小迫さんヨシ。意味ねえな、これじゃあ」

 この時点では具体的にどうするかは、話されなかった。


 ある日の終業時、前田さんと成見が話していた。仕方なく私が近づくと、前田さんが言った。

「請負やめるんだって」

 『う・け・お・い・を・やめる』だと。我々はクビか。

 しかし話を聞いていると、何かがおかしい。どうやら『請負』ではなく、『直置き』と言ったらしい。

 工場ではどこでも、安全何とかといったパトロールを実施している。ダイレクトヤードでも、何度か見たことがある。そこで梱包の方法が問題とされたらしい。

 段ボール箱を床に直置きして作業するのはどうなの、という疑問が呈されたということである。

 恐らくUC工場なら問題にされなかったのであろう。事実、実験Z棟の方にも何度もパトロールが来ていたが、それまで指摘されたことはなかった。誰も長田さんを相手にしようとは思わなかったのであろう。しかしダイレクトでは、そんなことお構いなしだったようだ。

「何か敷くしかないかな。ヨガマットみたいなの」

 前田さんが言った。

「パレットの上でやりますか」

 私が言った。他にいいアイデアは出なかった。

「ちょっと加藤さんと話してみて、どうするか決めるわ」

 前田さんが言った。

 それからしばらくして、ダイレクトのヤードに、加藤さんともう一人の社員、そして前田さんと成見が集結した。もちろん私も駆り出された。

 ヤードにあったのは、細長い台車だった。両側に取り外し可能な取っ手が刺さっていた。よく見ると、二台の台車が中央で連結されていた。どうも工場で作ったらしかった。緑色で雑に塗装されていた。その上に段ボール箱を載せて、梱包の作業をやれ、ということらしかった。

 成見と私が、交代で試してみた。取っ手を片方外した。高さがあるので、地面に這いつくばらずに、台車を跨いで、立ったままで梱包の作業を行う必要があった。

 次に二台を分けて作業してみた。私はそちらの方がやりやすかった。床に片膝を付くと、丁度いい高さになった。成見がどう判断したのか定かではない。

 結局、その台車を使用して作業するということに決まった。テストといっても、元々儀式みたいなものだったろう。

「こっちの人は、うちらの作業あんまり見てないから、わからないんですよね」

 成見が言った。

 私がその台車で作業をしていると、今度は長田さんと志田君が、前田さんとともに視察に来た。

 二人の前で実演をする羽目になった。前田さんが、何やら説明した。私は発言を求められなかった。

 志田君が試しに作業をしてみた。

「ちょっとこの高さだと、やっぱりやりにくいですね。普通に床でやった方が早いですよね」

「まあ、仕方ないよ。こっちはこれでいいんじゃねえの」

 長田さんが言った。

 その後で、もう一台の台車がきた。そちらの方がより小型で、連結用のフックもなかった。正確には二台一組で、取っ手も取り外し式ではなく、車体と一体だった。こちらの方が、車体がスリムで、軽くて取り回しも楽だし、作業もやりやすかった。

 おまけに、箱を一列に並べる必要が、そもそもないということに気付いた。一列を二分割するか、或いは縦に二台を並べることも可能だった。ダイレクトの狭い梱包ヤードだと、大変に重宝した。

 しかし、そう思ったのは私だけだったようだ。

 小迫さんは、新しい作業方法に悪戦苦闘した末に、でかい方の台車を選んだ。

 しかも二台を連結したままで作業をすることを好んだ。重くて長細い台車を、狭いヤードでガチャガチャとぶん回した。しかも、取っ手がすぐ外れてしまうので、その度に差し込まなくてはならなかった。ややうざかったが、小型の方を私に回してくれたので助かった。彼は前田さんに、以前のやり方の方がいいと訴えたが、もう決まったことだから、とあえなく却下された。


 事務作業で事務所に出入りするようになると、社員どもの人間関係もわかってきた。正確に言うと、関係がどの程度良くないのかがわかってきた。

 その時は何故か、UC部品の入庫をやらされていた。ダイレクトの部品があまりなかったので、そちらは小迫さんが一人で作業をしていたようだった。

 入庫やらコピーの作業をするために、事務所を出たり入ったりしていた。

 社員どもは誰もいなかった。

 実験Z棟にいるのは三人だけで、前田さんも、どことなくリラックスしているように見えた。作業をしながら、成見と冗談を言い合っていた。

 電話が鳴った。切れた。しばらく後に、また鳴った。切れた。更にまた鳴った。切れた。

「長田さんじゃねえの」

 前田さんが言った。

 しばらくすると、坂上君がどこからともなく戻ってきた。

 その後を追うように長田さんが現れた。

「坂上、ちょっと流動管理表見せてくれる」

「流動管理表。いや、知らないですけど」

「知らない。何で知らないんだ。見てないのか」

「いや、見てませんけど」

「何で見てないんだ。見てなきゃ仕事にならないだろ。それで、仕事してんのか。もういい」

 そう言うと、去って行った。

「むかつく」

 坂上君が憤っていた。

「何で、あんなこと言われなきゃいけないんだよ」

 以前から仲が良くないことはわかってはいたが、ここまでとは思わなかった。


 サブリーダーの仕事はやらされるようになったが、具体的にいつからという話は特に聞かなかった。ヤード移転の話も同様だった。ただ仕事が終わると、坂上君が我々の元にやってきて囃し立てられるだけだった。

「朝木さんがサブリーダーになってくれると助かりますよね」

 その度に、前田さんと成見と三人で、その話題で盛り上がった。私の方は、自分が裏切り者にでもなったような居心地の悪さを感じた。

「二人も必要ですかね」

 それとなく疑義を表明したが、何故か浮かれていて誰も聞いちゃいなかった。何故こんなに楽しそうなのか、さっぱり理解出来なかった。

 ところが、そのような状態も突然終わりを迎えた。七月も終わろうというとある朝、出勤すると、ヘルメットに黄色いラインが入っていた。

 前田さんと成見が、ニコニコとして私を見た。全員で『おめでとう』とでも叫んで、クラッカーでも鳴らしそうな雰囲気だった。二人とも絞め殺してやろうかと思った。


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