第六章 第三の男

 自動車部品工場に勤める前にも、別の工場で働いていた。

 工場といってもいろいろある。家電、工作機械、肥料、カレーが焦げ付かない鍋とか、トイレ用の芳香剤とかコンビニの肉三種盛り合わせ弁当とか、まあくどいからもうやめるとして、そこではロボットのユニットやモーターなどを製造していた。

 会社自体は、工業用ロボットの分野で世界ナンバーワンのシェアを誇る、超優良グローバル企業で、本社は九州のどこかにあった。その『東京工場』(実は東京にはない。ディズ〇ーランド的な)も、自動車部品工場と同じく超巨大工場で、私は派遣社員として入社した。

 そこで配属されたのは倉庫部門だった。いわゆるピッキングという作業をして、部品を後の工程、最終的には製造ラインに送るのが我々の仕事だった。

 倉庫部門は幾つものセクションに分かれており、最初に担当したのは、EMだった。

 そのセクションに社員のリーダーがいた。四十代で独身。常にマスクを着用し、手袋を二重にしていた。マスクなしの顔はほとんど見たことがない。成見と違って明るい、というより常にハイな感じで、マスクをしているにもかかわらず、よく通る大きな甲高い声で、同僚や非正規社員たちと冗談を言い合っていた。喋り方は気さくだが、有無を言わさぬ威圧感は感じた。しかし、職場の雰囲気は悪くないものだと思った。

 それが表面的なものだと気付くのに、二日とかからなかった。

 例によって初日は見学から始まった。

 ピッキングというのは、棚に収納された部品を、指示伝票に従って取り出していく作業である。

 薄暗い棚間を、リーダーに付いて回った。

「ラーメンとか好き」

 リーダーが、テキパキとピッキングをしながら聞いてきた。

 ラーメンが特別に好きだった訳ではないが、人並みには食べる。あくまで人並みには。

「ええ、池袋あたりでは、結構食べてますよ」

 映画を観に行ったりすると、ラーメンを食べることがよくあった。

「ふうん。池袋ね」

 関心がなさそうに言った。というよりも、何か小馬鹿にされているのか、或いは嫉妬されているような言い方だった。どちらか判断がつかなかった。ラーメンの話はそれきりだった。

 何か感じ悪いな、と思った。

 後に成見も、ラーメンマニアだと判明した。これは極めて重要な事実である。

 すなわち、『自己愛性PDはラーメンが好き』。

 ラーメンについては、また後で論じるかもしれない。

 リーダーの態度は少々気になったが、それ以外の人たちは普通に仕事をしていた。リーダーともごく普通にやり取りをしていたので、私が初日でナーバスになっているだけなのだろうと、その時は思った。

 初日はもちろん定時だった。

 しかし二日目から、早速残業が始まった。自動車部品工場でさえ、入社後一週間は定時であった。

 当時、世界経済がリーマン・ショックから立ち直りつつあった時期で、その工場でも、特に中国からの需要に対応するため、ゴールドラッシュの如くに増産を迫られていた。派遣社員の大量募集もその対応のためだった。

 当然、工場全体が連日の残業を迫られていた。

 リーダーに尋ねてみた。

「残業って、どうすればいいんですか」

「二時間でも、三時間でも、好きなだけやっていいですよ」

 ハイテンションで嬉しそうに言った。

 これには唖然とした。

 そういうことではないだろう、と思った。

 好きなだけも何も、元々やりたくはないのだ。

 残業をやるにあたっては、何か上から指示があるのか、こちらの意向は確認されるのか、何か手続きのようなものがあるのか、そういったことが全くわからなかった。こちらは入社したばかりで、どうすればいいのかわからない、という状況を彼は理解していないのだろうか。

 しかし何となく空気に従って、黙って残業をした。

 倉庫では、製造ラインに部品を流す以外に、外部に部品を送るという作業があった。伝票に従って部品を梱包して、専用のヤードに持っていくと、担当者が積み込みその他の手続きを行うことになっていた。伝票番号に従って、『05』と呼ばれていた。

 残業時に、その05の作業を行うことになった。

 ところが何も知らない私は、残業時間終了近くになって、選りに選って、部品数五十個の小さなコネクターを選んでしまった。

 部品はバラバラになっており、全て梱包材で包んで梱包しなくてはならなかった。

 もうハンディで伝票を読み込んでいたため、中止は出来なかった。

 他のメンバーは皆粛々と帰宅した。仕方なく一人で作業を続けた。

 後で知ったことだが、中断しようと思え、ハンディに打ち込むだけで出来たのだ。リーダーが普通の神経の持ち主なら、作業を中断して、もう帰っていいよ、とか何とか言ってくれそうなものだった。ところがリーダーは、何も言ってはくれなかった。姿も見えなかった。私が一人で焦って作業に悪戦苦闘していると、彼がひょっこりと現れた。

「大丈夫ですか」

 甲高い声で言った。

 ハイテンションで、どこか嬉しそうだった。

 今考えると、一緒にいてくれて本当に嬉しかったのだと思う。

 しかし私の方はたまったものではなかった。流石に三時間の残業はキツい。

 どうしたものかと思っていると、水曜日になった。

 こちらも毎日残業とか、普通はあり得ないだろうとその時は思っていた。何か手続きとか段取りがあるはずである、どうにかして探り出さなくては、と思った。

 そこで櫻井君に聞いてみた。

 彼は当時、十九歳の若者であったが、既にそのセクションのナンバーツーだった。非正規だったが、直接雇用の契約社員で、派遣が入ってもすぐにやめてしまうため、リーダーを除くと結果的に彼が一番長くそこにいる、という状態になっていた。しかし何せ、まだあどけなさがのこる十代なので、年上の後輩どもに対する気遣いなんてものは期待出来ようもなかった。ヘラヘラと答えた。

「リーダーに訊いて下さい」

 いや、だから、そのリーダーに訊いても埒が明かないから、君に聞いているんだよ。

 一応弁護しておくと、彼は仕事もてきぱきとこなすし、頭の回転も悪くはなかった。リーダーがあのザマなので、状況に適応しているに過ぎなかった。

 しかし、結局埒が明かないことには変わりがなかった。

 五時になった。その時、放送が流れた。ピンポンパンポン。

「本日、水曜日は、定時退社デーです、云々かんぬん、帰宅しましょう」

 そうか、今日は定時なのか。じゃあ帰ろう。

 帰った。

 しかし、そもそも労使協約は派遣には適用されなかった。しかも、その時は超繁忙期で、協約自体が一時棚上げの状態だったらしい。後でよく見てみると、オフィス棟のホワイトカラーについてはよくわからないが、少なくともラインの社員たちが定時退社をしている気配はなかった。

 翌朝、出勤するとリーダーが言った。

「昨日、何で帰ったの」

「え、定時じゃなかったんですか」

「違うよ」

 彼は続けた。

「昨日いないからさ、びっくりしちゃったよ。あれ、朝木さんいないなって」

 そもそも残業とは聞いていない。定時とも聞いていないが。

「定時で帰りたい時は、朝言ってもらえる」

「ああ、わかりました」

 いやいや、だから、そういうことは最初に言っておいてもらわないと、ねえ。

 以来、週一回は定時にすることにした。

 恐らく彼の頭の中では、その時期に残業をしないで定時帰宅することなど、考えもつかないことだったのであろう。しかし流石に、新人にはそんなことはわかるまい。


 ピッキングの方も、他の部員に混じって二日目から普通に始めた。

 ピッキング自体は、それほど難しい作業ではなかった。

 伝票に記載された棚の番号を見ながら、部品を探し、指定通りの数量を取り出して、コンテナにぶち込み、ハンディで棚番と部品のバーコードを読み取る。それを繰り返しながら、台車を押して棚の間を一周回り、所定の位置にコンテナを積み上げて終了。

 しかし、小さな部品をコンテナ一つに詰めるのに、エリアを一周しなくてはならなかった。まるで迷路を彷徨うマウスにでもなった気分だった。

 部品によっては、大きくて棚に入らなかったり、前の人が補充をしていなかったりで、別置きになっている場合があった。棚には、パレット番号を記したメモがベタベタと貼ってあり、それを参考にバレットの間を探して回るが、なかなか見つからない、というケースがよくあった。よくあったというか、ほぼ毎日、そういう状態だった。貼りっぱなしの古いメモがブラブラとぶら下がっていて、エアコンの風にゆらゆらと揺れていた。3S(整理、整頓、清掃)もへったくれもあったもんじゃなかった。

 探して見つからないと、最初の内は、櫻井君かリーダーに泣きついて探してもらうということになった。

 うず高く積み上がった段ボール箱の隙間で、お目当ての部品が見つかると、リーダーは『やれやれ、しょうがないな』といったような態度で、薄暗い仮置きスペースを後にした。

 効率が悪いような気もしたが、その当時は、大きな部品が多いので仕方ないとも思っていた。

 積み上げた部品のコンテナは、隣のキットに送られる。そこで、他の部署の部品とセットに組まれて、ラインへと送られることになっていた。しかし、ピッキングの予定は大幅に遅れていた。そのため、毎朝の朝礼が終わると、隣のENのリーダーである、三崎さんがEMへとやってきた

「今日は、どこやってるんですか」

 キットでセットを組むには、当然製番を合わせる必要があった。つまり日付が同じでなくてはならなかった。セットに組めない部品がキットのヤードに山積みになるという悪夢のような事態は、誰にでも容易に想像出来た。そのため、毎朝確認に寄っていたのだった。

 作業が大幅に遅れているのは、どうもEMだけだったらしい。そして他の部署がEMに合わせていた。

 作業量が多いので、多少の遅れは仕方ないのでは、と私は思っていた。リーダー自身もそう言っていた。しかし周囲の見方はそうではなかった。

「製造が追いつかないならともかく、倉庫のせいで全体が遅れてるって……」

 三崎さんが言った。

 ところがリーダー本人には、自身の無策に対する自覚は全くなかったらしい。

 他の部署が、自分に気を遣って歩調を合わせているという認識も全くなかった。

 それどころか倉庫部門では、自身がリーダー的存在であると思っていたのであろう。EM自体が、倉庫の中心的存在であったためか、他のリーダーを差し置いて、毎朝、職長との会議にも参加していた。職長自身がリーダーについて正確に実態を把握していたのかは不明だ。

 尊大な態度。他人を見下した言動。仕事は大して出来ない。やる気だけは無駄に溢れている。そのうえ上には何故か気に入られている。誰もがこの男に対して、苛立ちと疑念と諦めを抱えていた。

 私が入ってすぐ、派遣が一人辞めた。二十代で、建設作業員風のややコワモテな風貌だったが、礼儀正しくて謙虚な若者だった。

「リーダーが、狂った人じゃないですか」

 流石に私も入ったばかりで、内心そのような疑念は抱いていたが、まだ同意するにはためらわれた。その時は何も言わず、ヘラヘラと笑うだけだった。

 毎朝、堀之内さんが出勤すると、EMに顔を出し、リーダーをからかった。

「リーダー、嫌われてるからね」

 堀之内さんというのは、遅番の社員で、喋るのが好きで、まさに口から生まれてきたような男だった。当時は、EMの入庫などを手伝っていた。

 冗談めかして言っていたが、それは真実だった。その場にいた者、というより工場全体が、その事実を認識していた。業務に関してはともかく、この件に関して情報共有は完璧だった。しかしリーダーだけがわかっていなかった。

「俺じゃなくて、EMでしょ」

 挨拶代わりの嫌味にも、全く気付く気配はなかった。

 今考えると、明らかに自己愛性パーソナリティ障害であった。しかも長時間過重労働型のブラック野郎だった。しかし我々に対しては、パワハラじみた言動はほとんどなかった。どこか上から目線で、人を小バカにしたような態度が鼻についたが、暴言、暴行、強制などはなかった。むしろ、他人を見下した尊大さ、傲慢さ、自意識過剰は、全て自分に対する義務感へと向けられていた。

『やれやれ、仕方ない。みんなやらないからな。俺がやらなきゃダメなんだよな。いいよ、俺がやるから』

 これは根っこが同じでも、表現型が逆になることがあるという典型例だと思う。

 そんなリーダーだったが、一度だけキレたのを見たことがある。

 須藤君は、私のすぐ後に入ってきた二十代の若者だった。彼も入社早々、リーダーを毛嫌いし始めた。

 朝、仕事にかかる準備をしていた。

 須藤君は毎朝、小型のコネクターの計量をしていた。

 計量器のある棚の方から声が聞こえた。

「おい、それはないだろ」

 リーダーだった。どうも須藤君が、リーダーの指示に対して返事をしなかったらしい。

「ああ、ちょっと考え事してて」

 須藤君の方も,若い割に食えない性格で、のらりくらりとかわした。

 まあシカトされれば、誰でもいい気分はしない。しかし、普段はキレないリーダーがあそこまでキレるという事実は、注目に値する。

 倉庫では、月二回の棚卸があった。そのため土曜日は休日出勤で潰れた。

 最初はEMではなく、EOセクションに回された。EOは細かい部品が多く、時間がかかるため、他の部署からの応援が集結することになっていた。

 ネジ、ボルト、ワッシャー、ピンなどなど、材質は様々だが、吹けば飛ぶような極小の部品ばかりで、一つずつ数えるのは不可能だった。計量器で計量して、まとめて数える必要があった。ところが私は、計量の仕方を教わっていなかった。

「倉庫で仕事するのに、計量出来ないのはマズいな」

 EOリーダーはそう言うと、懇切丁寧に教えてくれた。

 当然のことながら、本来はリーダーが教えるべきものであろう。

 EOは、EMの取っ散らかった混乱ぶりとは大違いだった。

 極小の部品ばかりで、全てキャビネットに収納されているということを差し引いても、見た目も綺麗で、整理整頓が行き届いていた。

 計量と棚卸の作業自体は面倒だった。目が痛くなった。しかし場の雰囲気は和やかで、作業はトラブルもなく、理路整然と進んだ。これもリーダーの人徳とスキルによるものであろう。

 その工場はまだ新しく、巨大工場のため社食も広かった。しかし最初のうちは、そこで一人で時間を潰すのもためらわれたので、一人でランチを済ませると、真っ暗な倉庫に戻ってきて、段ボールを敷いて一休みすることにしていた。他にもそういう人たちが何人もいた。

 しかし昼休み終了五分前に電気が点いた。

 夕方は五時から十五分間の休憩だった。

 しかしそこでも、終了五分前に電気が点いた。

 その時は、偏執狂的で狂信的だと思った。今ならブラックと言われるだろう。もしかして暗闇が怖かったのかもしれない。


 部品の中には、ピッキングをせずに、ラインに直接運ぶものも存在した。金属製のプレート状の部品で、大きさはハードカバーの本くらいだった。三種類あり、いずれも数機種に共通の部品で、ピッキングをするとかなりかさばるため、ラインの方で直接セットにしているようだった。

 一回やり方と運ぶ場所を教わり、次の日から、私が担当にさせられた。体よく押し付けられたようだ。

 朝、伝票が発行される。午後一で、伝票の数通りに部品を揃えて、台車かパレットに載せ、ラインへと運ぶだけだった。最初は一人で運んでいたが、だんだんと数が増えてきた。所定の場所に置ききれなくなると、ラインの空いたスペースにパレットを敷いて、そこに置くようになった。通路が狭くてハンドフォークが入れないので、台車に乗せ換えて運んだりした。

 ある日、配膳の牧田さんがEMに現れた。

「今検査してるらしいんで、終わったら持ってきてもらえますか」

 部品は全て、検査部にて検査しているらしかった。

 何か問題が見つかると、全数選別ということになる。その間ラインには流せない。

 しかし当然のことながら、そういったことはその時は何も知らなかった。

 リーダーに訊いてみた。

「検査って、どうすればいいんですか」

 しかし例によって、埒が明かなかった。

「終わったら、持っていけばいいんじゃないの」

 あまりに確信的な言い方だったので、それ以上は何も聞けなかった。

 これは私の聞き方も悪かったのだろう。というより、聞いたこと自体が間違っていたのかもしれなかった。そもそも検査室がどこにあるのかも知らなかった。どうやって終わったことを知るのか、手続きがあるのか、どこから持っていけばいいのか、そういったことが全くわからなかった。

 後で、須藤君と検査室に行ってみた。検査室は事務所の隣にあった。

 プレートがパレットごと、部屋の前に鎮座ましましていた。大きな箱が一パレット分なので、東京の街を闊歩するゴジラの如く目立った。

「もう、どうすりゃいいんだよ」

 須藤君が苛ついてきた。

 誰に聞けばいいのかもわからなかった。

 取り敢えず、検査室の人に聞いてみた。

「伝票に印鑑が押してあれば、検査終了したやつ」

 なるほど。で、伝票ってどれよ。

 部品の段ボール箱に、確かに伝票らしきものがぶら下がっている。印鑑も押してある。しかし、一つだけではない。『検査済み』とかいうやつではなく、どうも担当者の名前と今日の日付の入ったやつがそれらしい。

「まあいいんじゃない。持ってっちゃって」

 ハンドフォークを引きずってきて、ラインまで運んだ。


 一向に作業が追いつかないためか、私の後にも新人が二名入ってきていた。そして更に三名が一挙にEMに配属された。

 そして三名とも、入って早々リーダーを敬遠し始めた。知り合う人間が全て彼を毛嫌いするようになるのは、逆に凄いと思い始めた。

 その内の一人は、ややオタクっぽい若者だった。昼休みに携帯で、それっぽいサイトを見ていたので、恐らく私の偏見という訳でもないと思う。残業について聞かれたので、一通りのことは答えた。あのリーダーって、どうなんですか。

「ちょっと、やる気バカみたいな人なんで」

 私がそう言うと、相当ショックを受けたようだった。

 『やる気バカ』で話が通じたのは嬉しかった。当時は他に形容しようがなかった。

 オタク君が何か言ったのかどうかわからないが、その後、派遣会社の社員に言われた。

「頼みますよ」

 言われずとも、作業に関してはわかることは教えていた。何せリーダーが、碌に指導が出来ない上に、皆彼を敬遠していたため、他の人たちが教える羽目になっていたのだ。

 しかし、メンタル面の配慮までは流石に出来なかった。

 とある朝、中倉庫で、櫻井君たちと補充をしていた時のことだ。

 補充は、入庫とは別で、その日の朝に、その日に必要な分を補充する作業のことである。

 補充が終わらなければ、その日の出庫が開始出来なかったらしい。

 しかし出庫自体が相当遅れていて、出庫だけ過去の日付で、補充はリアルタイムなのか、それとも補充の日付も出庫に合わせているのか、その辺は今もって定かではない。

 中倉庫は、老朽化した古い建屋でクーラーもなかった。

 ちょうど真夏で、クソ暑い中、ダラダラと部品の段ボール箱を台車に積んでいると、そのオタク君が現れた。

「リーダーに、『ここで何やってんの』って言われたんですけど。何にも言われてないって言ったら、中倉庫で補充しろって。僕は一体どうすればいいんですか」

 こっちも朝はバタバタしていて、そこまで気が回らなかった。

 確かに彼の言い分もわかる。今にして思えば、超絶ブラック野郎だったが、月百時間の残業を強制したり、『窓から飛び降りろ』とか言う訳でもない。リーダーも深く考えずに、その場のノリだけで言っていることだろうし、反論せずに適当にあしらっておけば、それ以上に何か言ってくることもない。あれで結構、可愛いところもなくはない。そこは適当に適応してもらうしかなかった。

 毎朝、補充なる作業をしているという説明をしてから言った。

「まあ、そのうち慣れるよ」

 しばらくして、彼は消えた。

 派遣会社の社員に言われた。

「やめちゃったよ」

 俺のせいじゃないぞ。

「あのリーダーのせいで、みんなやめちゃうんだよな」

 社員が言った。確かに、その度に新人を募集するのも面倒だろう。しかし、派遣会社の社員にまで、その狂気が知れ渡っているとは相当なものだと思った。

 ちなみに、櫻井君もゲーマーで相当な腕だったらしい。更にENリーダーの三崎さんもゲームでは相当な腕前だったらしいが、櫻井君にだけは勝てなかった、という話を後で堀之内さんから聞いた。彼らの方は見た目もそれなりで、あまりオタクっぽくは見えなかった。


 出庫量が増えて、補充の量も増えたせいか、毎朝、ピッキング作業のスタートも遅れていた。ところが、いつの間にかその補充がなくなった。

 ある時、堀之内さんが言った。

「あいつ、朝七時に来て補充してるらしいぜ」

 仕事に関心がなかったこともあって、この事実に気付くのにしばらくかかった。しかもリーダーは、タイムカードも押していなかったらしい。サービス時間外労働だった。

 リーダーがきちんと出勤してくれれば、毎朝スムーズにピッキング作業が始められた。しかしリーダーが休むと、補充が押して、十時の休み時間になってもピッキングが始められないという事態に陥った。しかも、それが三日も続くことがあった。あったというより、よくあった。月に一回は、そういう事態に陥った。彼には金属アレルギーがあったらしく、調子が悪くなると寝込んでしまうらしかった。マスクに二重の手袋もそのためだった。

 派遣の一人が言った。

「この仕事、向いてないんじゃないですかね」

 アレルギーも含めて、リーダー一人に相当な負荷がかかっていたことは事実であろう。

 しかし、誰一人として同情する者はいなかった

 ある日、二時間の残業が終わって帰ろうとしていた。受付の前を通りかかった。

 受付とは、文字通り下請けの工場などから部品を受け入れる部署で、部品の段ボール箱がパレットに山積みになり、フォークリフトが建屋内外を往復していた。

 同じく派遣で、受付の顔見知りの男が言った。

「もう帰るんですか」

 その時は、彼は何を言っているんだ、と思った。二時間残業すれば充分ではないのか。

 しかし、その意味が後でわかった。

 EM向けの入庫待ちの部品が、パレットに山積みになっていたのだ。彼らとしても、処理に困っていただろう。本来は、我々がきっちり処理しなければならない荷物だった。ところがリーダーに言っても、聞く耳を持たなかったようだ。

 これはよくありがちな思考パターンだった。

 ピッキングおよび出庫(攻撃)をするには、入庫(補給)が必要なのだ。しかしそういったことは頭にはない。攻撃することしか考えていない。どこかの軍隊と同じである。

 それに、そもそも他人の話など聞かない、そこら辺の石仏の方がまだ話が通じるというレベルなので、普通に話したところでどうしょうもない。

 取り敢えず、入庫の作業を増やす必要があった。その時は堀之内さんが一人で、EMの入庫作業をやっていた。

 ところが堀之内さんは堀之内さんで、また奇怪な行動に走り出した。

 部品をEMに入庫せずに、バッファ、すなわち中倉庫に全てぶち込んでいたらしい。

 EMに入らないものはバッファに入れて当然として、小さな部品まで、全て中倉庫にぶち込んでいた。

 ある時、堀之内さんが櫻井君に言った。

「あいつさ、何日も休んで、一言もねえのな」

 確かに普通の神経であれば、周囲の人間、特に櫻井君あたりには、『悪かったね』の一言でも言うところであろう。しかしリーダーにとって、そんなことは想像もつかないことだったのであろう。

「堀之内さんが、こっちに入庫しないんだよな。全部中倉庫に入れてるんだよね」

 その行動が意味するところは、誰でもわかる。しかし、当の本人だけがわかっていなかった。

「何でだろうな。職長に言おうかな」

 どうも本気で悩んでいるようだった。

 その時は流石に私も同情した。自業自得とは言え、これは可哀想ではないのか。薄暗い朝の中倉庫で、一人でハンディを片手に、ピッピッと補充の作業をするリーダーの姿が頭に浮かんだ。

 しかし今考えると、時間外の補充が増えて、ブラック的に負荷が増したからと言って、彼が怒りを感じたり、打ちひしがれたりといったことは、あり得ないことだったのだ。むしろずっと会社にいられて、喜ばしいことだったに違いない。


 出庫は遅れ、入庫も追いつかず、その上更に処理量が増加しつつあった。

 部品が倉庫に入りきらず、溢れ出した。

 敷地には、二階建ての広い駐車場があった。その下が、仮の部品置き場となった。

 ちなみに契約社員はそこを利用出来たが、派遣である私は、外部の駐車場を利用させられていた。料金として月六千円が給料から徴収されていた。

 ピンハネ派遣会社の阿漕さはともかくとして、部品を運んだり探したりする手間は増えた。

 プレートを運ぶのにも、駐車場からパレットを引きずり出し、例によって製品がディスプレイされたエントランスから工場へ入り、長い通路を通って工場まで運ばなくてはならなくなった。

 午後にパレットを引きながら通路を歩いていると、牧田さんに会った。ちょうど出勤したところだった。何だか疲れた顔をしていた。

 堀之内さん情報によると、どうも製造が遅れていたことで、ラインの配膳は夜の十一時までラインに常駐しているらしかった。そのために、出勤時間をずらしているということだった。もしかして我々のせいではないか、という気もしたが、リーダーを替えるかしないと、どうにもならなかったであろう。

 駐車場にすら部品が置ききれなくなると、部品を近所の運送会社の倉庫にストレージし、毎朝必要な量をトレーラーで運び込んでもらうということになったらしい。EMは部品数も多く、大型の部品もあるため、毎朝大量の部品をパレット単位で注文していたようだ。

 私も、そういったことをしていることは何となく聞いていた。しかし特に何の指示もなかったため、それまで通りピッキングをして、ラインに部品を運んだりしていた。

 ある日、受付のリーダーである加納さんが、EMにやってきた。

「EMのパレット引き揚げてほしいんですけど」

「え、パレット。うちのって、うちの別にないでしょ」

 話が全く通じないと思ったらしく、加納さんの方がすごすごと引き揚げていった。

「一体何を言ってるんだ」

 リーダーが言った。

「主語がないよね。言ってることがよくわからないんだよな」

 彼らのやり取りを聞いて、私もその時になって初めて事態を理解した。倉庫にはもう部品を置く場所がない。その日、或いは次の日に使う分が足りない場合に、わざわざ外から運び込んでもらっている訳で、当然うちの部品は、我々が引き取る責任があったのだ。

 ところがリーダーは、受付の方で適当に、どっかに収納してくれるものと思っていたらしい。朝の会議は、職長とリーダーと加納さんの三人でやっていた。恐らくそこで、外部輸送とか、その段取りなどを話していたはずだったが、どうも話が通じていなかったらしい。

 櫻井君に相談したが、やっぱり埒が明かなかった。誰がやるかとなったら、選択肢はなかった。

 仕方なく、私が引き揚げることにした。

 午後一で、ラインにプレートを運び、それが終わったタイミングで、取り敢えず勝手に引き揚げを始めることにした。ハンドフォークを引きずって受付を出ると、パレットがズラリと並んでいた。しかも大型のクソ重たい部品ばかりだった。受付の傾斜を乗り越えるのに、受付の人の手を借りなければならなかった。EMに運び込んで、空いたスペースに押し込んだ。しかし、パレット十枚も入らなかったので、一部、通路に置く羽目になった。リーダーには特に何も言われなかった。

 二日目は、一応リーダーに報告することにした。ちょっと、部品の引き揚げをやります。うん、わかった。どうやら本当に漠然とだが、状況を理解しつつあるようだった。ピッキングをやらないとなると、何か言われるのではないかと思ったが、特に何も言われなかった。了解は得られたので、その日から毎日の日課になってしまった。

 EMの連中は、部品がなくなってもパレットなど片付けないので、まず私が適当に整理して、パレットをどかして、場所を作らなくてはならなかった。その時はちょうど夏休みシーズンだったので、高校生のアルバイトにも手伝ってもらった。

 ある日、残業が終わり、ハンディを置き場に置こうとしていると、リーダーに遭遇した。

「三百超えた」

 いきなり尋ねてきた。『さ・ん・びゃ・く・こ・え・た』だと。一体、何のことだ。

 リーダーに教えてもらって、ハンディでその日の累計を見た。そんなページがあることなど、その日初めて知った。

「いや、二百九十八ですね」

「そうか。惜しいね」

 リーダーが残念そうに言った。

 恐らく、一日三百オーバーがノルマとかいう話になっていたのであろう。

 しかし、そもそもそんな話は聞いていなかった。それに私はプレート運搬と、パレット引き揚げをやっていて、午後からは、出庫をしている時間があまりなかった。


 棚卸では、それまでEOに回されることが多かった。しかし在庫が増えたこともあって、その日はホームのEMに回された。

 他からの応援も何人かいた。

 作業を始めようという時に、キットの福原さんが言った。

「リーダー、何か一言」

 これを受けてリーダーは言った。

「探して」

 毅然として言った。本当に一言だった。

 普通なら、作業の注意点やら、EMは別置きも多いので、手間がかかるかもしれませんが、取り敢えず探して下さい、すいませんとか、数が合わない場合はどうすればいいかとか、そういったことを言うものであろう。

 しかしリーダーには、他人に対してわかりやすく説明するという芸当が出来なかった。これも自己愛性PDゆえの悲劇であろう。

 他の棚では、数が一つ合わないだけで大変な騒ぎになる。ところがEMでは、数がきっちり合う方がラッキーという状態だった。取り敢えず飛ばしながらやっていると、リストの最後にきてしまった。根気強く探すしかなかった。

 しかし、棚にベタベタと貼られたメモは当てにならず、パレットには部品の段ボール箱がうず高く積まれ、それらの箱の山を乗り越えて、部品を数えなくてはならなかった。

「わかんねえな。もういいや」

 福原さんが苛ついて、投げ出し始めた。

 いずれにしても、棚卸の時間は午前中までだった。それまでに終わらせる必要があった。数が合おうと合うまいと、適当に締めるしかなかった。

 最早、在庫管理もへったくれもなかった。しかし、リーダーはこの状況を当然のこととして受け止めていたようだ。オーダーが多い、EMの部品がでかい、置き場所がない、或いは我々のせいと思っていたかもしれなかった。

 そのためか、大量の欠品が出てもお構いなしだった。

 ある日、堀之内さんが言った。

「あいつさあ、24A欠品のままラインに送ってんのな」

 24Aは一番の主力製品だった。数も多く、部品を取るのにやや煩わしいため、ピッキングはリーダーと櫻井君が主に担当していた。そのプラスチック製のケースが大量に欠品になっていた。段ボール箱にして十数箱という量だった。

 その時は検査によるもので、検査が終わればEMに戻ってくるはずだった。

 ところがリーダーは、欠品のままピッキングを強行し、大量のコンテナをラインに送り込んだ。

 検査からいつ戻ってくるのかわからないとなると、待っていられなかったのかもしれない。しかしいずれにせよ、ラインでも部品が揃わないことには製造が出来ない。欠品は後で欠品処理をして、ラインに送ることになっていたが、向こうで部品を揃えないといけないため、あまりにも大量の欠品が出ると、ラインの方はたまったものではなかっただろう。ルールとしては問題ないが、倫理的には大いに疑問がある行為だった。グレーゾーンの金利で金を貸し付けたり、JKをデートさせたりするのと大して変わらない。

 納期のこともあるし、先方の了解を取るなりすれば問題なかったろう。しかしリーダーはそんなこと思い付きすらしなかったと思う。『え、何が問題なの』。後工程に対する配慮は微塵もなかった。


 その頃には、EMの人数が更に増えていた。

 須藤君がやめ、新人が二名入った。一名は異動し、更に二名入り、また一名はENに異動した。

 狭い棚で、カラカラと台車を押す列が渋滞と化していた。激増する出庫量は、人を増やしてカバーするしかなかったのであろう。リーダーとしては楽しかったに違いない。

 最初の二人の内の一人は、DJをやっているという若者だった。土曜日の夜に、都内のハコで回しているという話だった。

「午前三時という、みんなが眠くて疲れ切っている時に盛り上げるという、超難しい役を任されましたよ」

 要するに、一番盛り上がる時間帯に回すほどの人気も知名度もまだない、ということであろう。

 堀之内さんほどではないにせよ、彼も喋るのが好きな男で、初日からEMのメンバーと打ち解けて、毎日仕事中に、何やら盛り上がっていた。

 私も最初はどうかと思ったが、キャッキャッと話している割には、仕事はきちんとこなしているようだったし、櫻井君がまごまごしている内に、彼を差し置いて率先して作業をやることもあった。リーダー向きなのではないかと私には思えた。

 しかしEMのリーダーと派遣会社の社員には、お喋りがあまり好まれなかったようだ。後に繁忙期が終わった時に、もう一人の同期は、契約を継続して製造に回されたが、DJ君の方はあっさりと契約を切られた。

 その時点で私も、少々後に退職する決意を固めていた。私の代わりにDJ君が会社に残れるのではないかと思い、派遣会社の社員に、彼がやめる前に退職の意思を伝えたのだが、私の意図は伝わらず、結局私よりも早くやめさせられてしまった。はっきり言えばよかったような気もするが、私なんぞが意見したところで、やっぱりダメだったと思う。

「継続してくれって言ったんだけど、あいつ、聞いてくれねえの」

 私も同情はしたが、どうにも出来なかった。


 人を突っ込んだおかげか、遅れていた出庫も追いつきつつあった。繁忙期も、もうすぐ終わろうとしていた。

 とある朝、ENの三崎さんが、リーダーと職長を交えて話していた。私を指差した。

「朝木さん」

 リーダーが私を見て呟いた。

 どうも、ENの派遣社員が一人やめたらしい。EMに人がわんさかいたので、一人譲ってくれ、ということだった。こっちのリーダーは難色を示したが、結局三崎さんの要求が認められた。その日から早速、ENに異動となった。

 ENでの仕事は快適そのものだった。

 入庫も日々きちんとされていたらしく、毎朝の補充も短時間で済んだ。

 ピッキングでも、コンテナ一個の部品を取るのに、ほとんど動かずに済んだ。部品が一列で隣り合って並んでいた。EMで同じような量の部品を取るのに、棚間を一周させられるのとはえらい違いだった。大きな部品が多いことを差し引いても、何故こうも違うのか、その時はわからなかった。

 三崎さんは、恐らく私より一つ上くらいだった。先にも書いたがゲームが好きで、年下の櫻井君とよくつるんでいたらしい。控え目で優しい性格で、仕事も出来た。私の方がこういう性格だったため、あまり仲良く話したとは言い難いが、ENにいる時は、拍子抜けするくらい穏やかに仕事が出来た。

 ところが数カ月後、更に異動することになった。

 次の異動先は二階のELで、何かトラブルがあって、そこの男性契約社員と私が交代する羽目になった。

 ELは小さな部品が多く、リーダー以外は女性の非正規社員が中心だった。たまに重たいものを扱うのに、男手が必要ということで、女性の中に男が一人放り込まれるのが通例だったらしい。

 流石に女性ばかりで、しかも、というべきか何というべきか、主婦かシングルマザーがほとんどだった。独身の女の子も一人いたが、私が転入してすぐに結婚した。このため、というべきか何というべきか、ともかくリーダーも含めて男性は肩身が狭かった。こちらは妙な気の使い方をしたとは思う。しかし特にトラブルもなく、空気のように溶け込んだ。まあこちらも仕事はきちんとこなすし、余計な口は出さないしで、嫌われてはいなかったと思う。

 二階の一角に、EKセクションがあった。

 そこは基板などを扱う部署で、リーダーはややおらついた感じの男性契約社員だった。その時四十代だったと思う。

「十年もいるのにさあ、職長何もしてくれないんだよね」

 年齢的には微妙だが、十年もいて非正規でリーダーをやらされているのは確かに納得いかないだろう。他の部署は、全てリーダーは社員がやっていた。その頃は、リーマン・ショック後、ブラック前といった時期だった。その後彼が正社員になったのか、その工場の待遇に変化があったのかは不明だ。

 ちょうどELにいる時に、三一一に遭遇した。

 二階で作業中に、ガタガタと建屋が揺れ出した。横揺れがだんだんと大きくなって、床が大きくスライドし始めた。皆でフロア中央に集まって、床に座り込んだ。

 揺れが収まると、下からリーダーのでかい声が聞こえた。

「二階、大丈夫」

 最後に階段を降りようとして、ヤードを見回した。部品を収めた巨大なキャビネットから、引き出しが独りでに引き出されていた。グラウンドに集合して、寒い中でかなりの時間待った。流石に巨大工場だけあって、高校の朝礼並みの人数だった。やがて、誰かが拡声器で何か話し始めたが、音声が小さく、何を言っているのか全くわからなかった。

 その日は帰宅した。

 その後、原発がぽぽぽぽーんっと吹っ飛び、ガソリンの供給が途絶えた。

 自分の軽も、ガソリンがタンクに半分しか入っていなかった。

 会社の帰りに入れようと思ったが、ガソリンスタンドは長蛇の列だった。結局入れることが出来なかった。次の日は工場を休んだ。

 関東だったので余震は続いていたが、一週間もするとまた以前の日常に戻り始めた。

 工場でも繁忙期は終わり、派遣切りが始まった。二階ではほとんど変化がなかったが、EMでは何人かが工場を去った。

 ELのシングルマザーの若い女の子は、夜にマッサージ店でバイトを始めたということだった。時給が安いので、残業がないとキツかったのであろう。

 ELでは、QC活動の一環として、棚の一部変更を行うことになった。とは言うものの、私は何もしなかった。女性陣がリーダーにリクエスト、というかクレームを入れる形でプランがまとまった。

 ここで驚愕の事実を知った。

「棚番って、自分で変更出来るんですか」

「出来るよ」

 ELリーダーの佐伯さんが、事も無げに言った。

 棚番を変更出来るとなると、EMで超煩わしい思いをしてピッキングをしていたのは、一体何だったのか。元々専用ソフトか何かで、効率とか、ミスをしないようにとか、似た部品を離してとか、そういったルールに基づいて、棚番が決定されていると思っていた。自分で最初から決定出来るとなると、コンテナ一つの部品を取るのに、棚を一周する必要はなかったのではないか。でかいプラケースを狭い棚に放り込んで、何度も何度も段ボール箱を入れ替える必要があったのか。大量に使う部品を、棚の狭いスペースに押し込んで、これまた何度も何度も入れ替えをする必要があったのか。どうりでENは作業が楽だった訳だ。キチンと順番と効率を考えて、棚番が決定されていたのだ。

 リーダーにとっては、効率など元々頭になかったのであろう。ある時、佐伯さんに聞いた。

「何か、仕事終わったのに帰らないんだよね。何もしないで、椅子に座って、ボーっとしてるの」

 どうも、昔からそのような状態だったらしい。家に帰りたくなくて、会社にすっといたかったのであろう。

 そのためには、仕事が多い方が好都合だった訳だ。

 異動して数カ月後、そのEMに戻ることになった。戻るといっても、異動ではなく、ヘルプという形においてだった。そのうちELよりもEMにいる時間の方が長くなった。

 どうもピッキング量がまた増えて、彼らだけでは処理出来なくなったらしい。

 私のみならず、上での作業が終わると、女性陣も下に降りてきてピッキングの列に加わることがあった。流石に棚を何周もする羽目になったので、彼女たちには不評だった。歩くのみならず、EMには異様な煩わしさがあった。部品の入れ替えと補充、段ボール箱が大量に積まれた別置きパレット、小型部品のカウント。作業効率といったことは、リーダーの頭にはなかった。根性で突き進むだけだった。

 とある土曜日の午後には、こんなことがあった。

 リーダーが、伝票をカタカタと出力し始めた。最初に出てきたのは、大型部品のモノだった。リーダーはそのまま、何か用があるとかでセクションを離れた。特に何の指示もなかった。

 その後、女性陣が上から降りてくることになった。ところが、主力の小型部品の伝票がなかった。伝票の出力には時間がかかった。大型部品の伝票が出続けた。カタカタカタカタ。

 仕切る人間もおらず、女性陣は、『櫻井君、どうすんの』と言いつつおしゃべりを始めた。

 取り敢えず、出た分から適当にピッキングを始めるしかなかった。そのうちに小型部品の伝票も出力し始めた。

 やがて、リーダーが帰ってきた。状況を見るとお気に召さなかったらしく、櫻井君に、偉そうにお説教を始めた。

「末永さんが二台口とかやってんの、意味ねえじゃん」

 大型部品でも、数によって負荷が違う。二十台口だと、パレット数枚分というボリュームになるが、二台口なら、女性でも出来ないことはない。ちなみに末永さんは男性である。

 リーダーのイメージでは、少ないブツを普通の女性陣にやってもらって、多いブツは、菅井さんにやってもらおうとしたようだ。菅井さんとは、やややんちゃで男勝りなシングルマザーで、以前にもそうした『デカい』ブツをやったことがあった。

 しかし、女性陣が応援に加わることすら我々は知らなかったし、指示もなく他人が自分のプラン通りに動く訳がない。女性陣に大型部品をやらせるという発想は、我々にはなかったし、タスクの数も把握してなかったので最適な割り振りをするのは不可能だった。

「櫻井君も大変だね」

 後で言ってやった。応援なので他人事だった。

「全くだよ」

 櫻井君が言った。

 その後、思うところがあって、工場を辞める決心をした。

 先にも書いたが、派遣会社の社員に電話で伝えた。有休がかなり残っていたが、彼の方からは何も言われなかった。最後に消化することにしたが、結局四日分くらい、ただで献上する羽目になってしまった。

 給与明細を見てみると、その工場での時間外は、繁忙期で月五十時間から六十時間、後半はだいたい三十時間といったところだった。そのくらいが通常の状態だったのであろう。


 最終日も、選りに選って朝からEMに回された。

 リーダーに聞かれた。

「一番の思い出は何ですか。プレート運び、ピッキング」

 思い出という訳でもないが、プレート運びに関しては、ミスもあったが、それなりに充実感も味わったと思う。何せ、ただ倉庫から製造に部品を運ぶだけのはずが、検査に持っていかれるわ、急遽部品が必要になって、受付の加納さんに何度も泣きつくわで、朝から夕方までラインと中倉庫と受付を行ったり来たりする羽目になった。リーダーも櫻井君も碌に指示してくれなかったため、結局自分で勝手にやる羽目になった。情報の共有には気を遣ったし、配膳の人々の信頼も得ていたと思う。

 しかし、結局今になって、一番思い出す必要に迫られているのは、リーダー本人の記憶である。

 私が辞めるにあたって、送別会を開いてくれることとなった。

 参加者は総勢四名だった。リーダーと末永さんともう一人と私だった。櫻井君は、リーダーと飲みたくないということで逃げた。理解は出来たが、更に理由があることが後でわかった。

 場所は、とある駅の近くの和民ということだった。これは冗談でも何でもない、事実である。しかし、詳しい場所は聞いていなかった。私の方は、話の流れから駅で待ち合わせと理解していたので、改札を出たところで待っていた。ところが時間になっても、誰も来なかった。携帯の番号すら聞いていなかった。恐らく携帯で地図を見たはずだが、見つからなかったのであろう。地元ではないので、でかいスーパーならともかく、一飲み屋のことまでは知らなかった。どうしたものかと途方に暮れていると、リーダーが現れた。

「あれ、場所わかんなかった」

 どうも私が、場所を知っているものだと思っていたらしい。というより、誰もが場所を知っているのが当然である、というような言い方だった。自分が常識知らずの間抜け野郎になったような気分になった。

 他の連中は既に来ていたので、やはり私の方が何か聞き逃していたのであろう。

 飲み会は和やかに進んだ。料理も旨いと感心した。また来てもいいと思ったくらいだった。しかしこの時既に、後に大問題となる過労死事件が発生していたのだ。普通に飲んでいる限りは、そうした兆候は全く感じられなかった。

 リーダーのおごりで会計を済ませて店を出た。そして駅で別れる、はずだった。

 他の二名は直接店に来たらしかった。リーダーは電車の上り方面で、私は下りだった。

 ところが、何を考えているのか、普通に帰ればいいのに、何故か私の町まで付いてきた。とある中華料理店のかた焼きそばが旨いので、それをご馳走したい、しかも、そのまま帰らずに中央公園で寝ると言い張った。この時は、理由が皆目見当がつかなかった。

 駅から五分ほどの、寂れた繁華街の中にある中華料理店で、唐揚げとそのかた焼きそばを食べた。食べた、というより無理矢理詰め込んだ。確かに旨かったが、二次会は予定になかったので、散々タダ飯を飲み食いした後だった。リーダーは、以前来たことがあるらしかった。地元の私の方が初めてだった。

 料理を平らげると店を出て、しばらく歩いて、そこで別れた。彼は中央公園の方に向かって去って行った。本当に公園で一夜を過ごす気らしかった。帰ろうと思えば充分に帰れる時間だった。それ以来、その工場の人間には会っていない。


 リーダーが自己愛性パーソナリティ障害(疑)だということに思い至ったのは、工場を辞めてからずっと後のことだった。彼の奇怪な言動も、ぶっ飛んだ性格も、今ならその原因も理由も理解出来る。この点については、また後程触れることになるだろう。

 当時、その工場でも、かなりの長時間労働だと思っていたが、まさか次の職場でも、それ以上の長時間労働を強いられ、更に自己愛性PD(疑)野郎に遭遇して、そいつがブラック化するとは思わなかった。

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