第四章 派遣から請負へ、奴隷から奴隷使いへ
その日の点呼担当は私だった。
点呼、挨拶、ファッション・チェック、それでは連絡事項お願いします。
連絡事項が終わると、志田君が言った。
「加藤さん、どうぞ」
相変わらずチュシャ猫並みのにやけ面で、愛嬌を振りまきながら言った。
「ああ、いいですか。それでは。もうお、聞いてるかもしれないけどぉ、この十月からぁ、この梱包セクションがぁ、ワークネードの請負になるのね。それでぇ、新しいリーダーがぁ、前田さんっていうんだけどぉ、やってきてぇ、皆さんの仕事をみてくれることになります。それでぇ、成見さんにはぁ、サブリーダーになってもらうことになります」
妙に説得力のこもった喋り方が学校ドラマの教師を髣髴とさせる。『人という字はあ、人と人があ』何ちゃらかんちゃら。話は続いた。
「それでぇ、今までは派遣だったんだけどぉ、これからは請負でぇ、ワークネードの契約社員になるのでぇ、契約を更新しないといけないのね。それでぇ、もし契約社員は嫌で、派遣社員のままじゃないと嫌だとかぁ、そういう人がいればぁ、言ってほしいんだけど、どうですか」
入社時の面接で訊かれたのは、このことだったのだ。
誰も、といっても成見と小迫さんと私の三人だけだが、手を挙げる猛者はいなかった。
「いないね。それじゃあ、契約書の方はぁ、後で持ってくるんでぇ、名前書いてぇ、持ってきて下さい」
請負化に関しては、噂では聞いていた。といっても、私が噂なんかを聞ける相手は成見くらいしかいなかった。いつかの休憩時に、ちょっとそんな話を聞いた。成見がサブになり、ワークネードの社員がGL(グループリーダー)として着任する。いろいろと変わるのは面倒だとは思ったが、実際にやってみないとどうなるのかわからないので、深く考えるのはやめた。
更に続けた。
「それからぁ、この梱包セクションだけどぉ、いつもぉ、頑張ってもらってるんだけどぉ、これからぁ、自動車会社の工場がぁ、海外に幾つもできることになってるのね。そうするとぉ、この梱包セクションも、益々忙しくなると思います。なのでぇ、今まで以上にぃ、皆さんのお力が必要になりますので、どうかこれからも、よろしくお願いいたします。では、お仕事頑張って下さい」
今まで以上と言われても、それは無理な相談だ。現状でも限界である。
まだ品質目標が残っていた。
「ああ、まだ終わってないのか」
「ゼロ災でいこう、ヨシ」
「ゼロ災でいこう、ヨシ」
全員で品質目標の呼称をして朝礼は終わった。
解散すると加藤さんは、尻尾をフリフリさせながら、事務所の長田さんのところへと挨拶に行った。事務所内でしばし談笑して帰っていった。
それからしばらくして、新リーダーとして前田さんが着任した。
歳は私より一回りくらい上なのだろう。背は私と同じくらいでやや低めだが、体格は小迫さんとは違った意味でガッチリとしている。やっぱりゴーグルの代わりに分厚い眼鏡をかけている。そして日焼けしている。ある時聞いてみた。
「サーフィンとか、やってるんですか」
「色黒いからね。そう見えるよね」
笑いながら言った。
「いや、高校野球が好きで、よく神宮に行ってるんだよね。それで日焼けしてるんだよ」
独身と聞いていたので、高校野球が好きなのではなく、もしかして高校球児たちのエロいお尻が好きなのかもしれないと一瞬疑ったが、特にそうした性向を感じられる場面は、私が辞めるまでなかった。恐らく本当に野球が好きだったのだろうと思う。スポーツ観戦が趣味というのは自分には全くない素養だったので、少々興味深く思った。
普段は、常ににこやかに、コロコロとしたアルトボイスで、愛嬌を振りまいているように見える。しかし分厚い眼鏡の奥の目はどうも笑っていないような気がする。無理してテンションをあげあげに上げているのではないかと思えた。
そのおかげかどうか知らないが、長田さんには、すぐに気に入られた。よく前ちゃん前ちゃんと嬉しそうに話しかけられていた。まあ社員としては優秀なのであろう。
少なくとも悪い人間ではなさそうに見えた。理不尽にキレたり、悪態を吐いたり、暴力を振るったり、月百時間の残業を強制してきたり、といったことはなさそうだった。
当時、まだ『ブラック企業』という言葉は存在しないか、または存在していたとしても、人口に膾炙していなかった。
我々非正規労働者にとっては、『派遣切り』の傷跡の方が、まだ生々しく残っていた。幸いなことにというべきか、或いは残念ながらというべきか、私自身はその濁流に巻き込まれずに済んだ。
その当時に、頭の悪そうな派遣会社による、派遣社員への対応が問題となった。
派遣切りにより、三日以内に社宅のレオパを出ろ、と迫られた。社員寮のレオパで、タコ部屋住まいをさせられ、正規の家賃までむしり取られていた。勤務時間外の夜中に携帯が鳴り、今すぐレオパから出社して機械を直せと連日迫られ、鬱病を発症した派遣リーダー。労働者をピンボールの如くたらい廻しにする日雇い派遣。一日二百円の『データ装備費』。偽装請負、二重派遣、劣悪な労働環境、労災隠し、社員によるパワハラ、暴言と暴行、常軌を逸したピンハネ、その他もろもろ。
しかし、少なくとも前田さんとワークネードは、そういった脳味噌の足りない対応はしそうになかった。
これはもしかしたら、請負に変わったことでいい方向へ変化するのではないか、と期待した。
ややオラついた社員どもの相手をするのは、前ちゃんと成見ということになる。我々がミスをしても怒られるのは彼らであって、我々ではない。そして前田さんはあまり怒らないタイプなのではないかと思った。
これで残業が減れば言うことなしだった。
派遣であれば、時給分プラス、恐らく何割かのピンハネ料がワークネードに支払われているはずである。
それが請負に変わったとなるとどうなるのか。前田さんの話によると、梱包ワンケース幾らで請求がなされるらしい。となると、利潤を上げるためにはコストを下げるしかない。そしてこの場合のコストとは、我々の給料である。まさか時給を下げる訳にはいかないから、当然のことながら、労働時間を圧縮して給料を減らすしかない。
これは悪くないぞ、と思った。
週末に連休になったら、映画を観て、布団を干して、英語の勉強をして、凧を上げて、お屠蘇を食べて、独楽を回して遊ぶんだ、と浮かれた気分を楽しんだ。
しかし、そう上手くはいかなかった。三日も経たない内に現実を思い知らされた。
前田さんが我々のGLとして配属されると、すぐに成見と仲良くなった。
私も人間或いは社会人としての義務或いは責任として、職場の同僚と普通にコミュニケーションをとって仲良くする振りくらいは出来ないとマズいのではないかと思い、会話に加わろうとした。少なくとも努力はした。しかし例によって上手くいかなかった。
第一の原因は、私が生粋のコミュ障であるためだ。
しかしそれだけではない。
二人の話を聞いているうち、だんだんと雲行きが怪しくなっていくのを感じた。
いつも何のことを話しているのかと思えば、何と仕事の話をしていたのだ。しかもクソ真面目に。何やら抽象的で威勢のいいことを口走っては、二人で盛り上がっていた。
『リーダーでもさあ、やる気のない奴がいるんだよ』
『坂上さんに聞くと、他はホントやる気ないみたいですね』
『ここは長田さんがいるからさ。やっぱり他とは違うんだよね』
『見てないようで、ちゃんと見ていてくれてますよね』
『他はみんな休んでばかりだよ』
『勤怠は大事ですよね』
『上の連中は現場なんか見てないからさあ』
『結局そこで判断されちゃいますよね』
『俺も最初は派遣で入ったんだけどさ』
『派遣とか正社員とか関係ないですよ。仕事なんだから』
『まあタイミングとか運もあるけどさ』
『やっぱりやるからには上を目指さないとダメですよね』
『やってやろうぜ』
『頑張りましょう』
『頑張りましょう』とか言われても、頑張って仕事をしたところで、正社員になれる訳でもないし、時給が二倍になる訳でもない。上を目指すって、上に一体何があるんだ。俺には何も見えない。老朽化した建屋のごたごたした天井が見えるだけだった。彼らには、恐らく天国でも見えていたのであろう。
『こいつはヤバイ』と思った時には既に遅かった。まさに後悔先に立たずだ。
おかげで携帯電話が手放せなくなった。仲間に入らなければ、という義務感の反面、体が拒絶反応を示していた。これはフロイトのいうところの『防衛機制』である。多分。
成見クンは全く気にする様子はなかったが、前田さんは恐らく、『こいつ何なの』と思っていたことだろう。それが普通の反応だ。
前田さんも、そのような状況を憂慮してか、私との距離を縮めようと努めていたのかもしれない。ある時、私に聞いてきた。
「朝木さん、趣味とかあるんですか」
「音楽は好きですけど」
「どんなの聞くの」
「最近は、ブルースとかカントリーとかですかね」
「………」
「………」
「………」
「ブックオフで、五百円のをよく買ってますよ」
ブルースだと、マディ・ウォーターズ、バディ・ガイ、オーティス・ラッシュ、その他もろもろといったところか。ロバート・ジョンソンのリマスタリング盤にいたく感動したのも最近だ。カントリーは、ハンク・ウィリアムスあたりがメインか。しかし、高校時代からイーグルスやドゥービー・ブラザーズあたりのアメリカン・ロックが好きだった。ウディ・ガスリーやカーター・ファミリーはフォークと言った方がいいのか。実は、最近のお気に入りはジョン・ハイアットだったりするのだが、要するに、目に付いたものは何でも買い漁っている状態である。あくまでお小遣いの範囲内で。
そもそも、あんなことは言うべきではなかったのであろう。AKBとかエグザイルとか言っておけばよかった。
かくして、前田さんと私との間の断絶は、より一層深くなっていった。
どうも彼は成見と違って、普通以上に繊細なところがあったような気がする。
正式に請負化した後のとある週末、ワークネードの社員旅行があったらしい。
週開けの朝礼で、そのことを話した。
ちなみに請負化後は、朝礼は社員どもと分離して行うようになっていた。
どこかの太平洋岸の温泉宿に宿泊した。熱海だか静岡辺りだか、確かその辺だった。初めて社長の顔を見た。まだ若かった。いかにも起業家らしい、やり手そうな奴だった。
どうもワークネードは自身で起業したらしい。
そしてその帰りに、わざわざ一人で反対方向への列車だか新幹線に乗り、どこかの鉄道博物館を見てきた。特に鉄オタという訳でもないらしい。
「たまには社会見学じゃないけど、ああいうところを見るのも楽しいもんですね」
社員旅行の帰りに、一人で寄り道、しかも反対方向へと向かう。
ストレスから一人になりたかったのではないだろうか。その気持ちはよくわかる。しかし私でさえ彼の立場だったら、流石にそのようなことはやらない。列車内なら寝た振りでもして凌ぐだろう。他の社員たちがどう思ったことか、他人事ながら少々心配になった。
更に、こんなこともあった。前田さんも以前ジムに通っていたことがあるとかで、彼と成見と坂上君とで、仕事終わりに筋トレ話で盛り上がることがあった。もしかして地球上の人類で、ジムに通っていないのは私だけなのではないだろうかと思った。この頃になると、成見の体重もかなり減って、七十キロくらいになっていたらしい。体型もみちがえるほどスリムになっていた。顔も細くなったのか、笑うと薄い唇の脇には皺が寄るようになった。
相変わらず成見は私を攻め立てた。ジムで発行された、体重や体脂肪率の推移だの何だのといったレポートを見せながら、言った。
「朝木さんもやりましょうよ」
「いやあ、時間がないんで」
「時間がない」
その時一緒にいた前田さんが呟いた。普段のテンションから、どうも一瞬素に戻ったようだった。
恐らく彼も、我々非正規に長時間労働を強いていることを気に病んでいたのではないだろうか。
調子のいいことを宣わっていても、彼はあくまでビジネスでやっていることが何となくわかってきた。それは加藤さんも同様だった。最初の面接では少々疑問を抱いたが、彼も自分の言っていることをそのまま信じているほど単純でもないことは、その後の様子を見ていれば、よくわかった。
確かに、前田さんも我々を利用する気は満々だったのであろう。しかし正社員という立場なら、非正規を上手くコントロールして、仕事をさせる必要がある。
そこはお互いに立場を弁え、持ちつ持たれつ、本音と建て前で、面倒ごとを避けつつ、波風を立てないように上手くやっていくのが、大人の態度というものであろう。
ところが成見は、前田さんの掻き鳴らす三味線で、マジにダンスを始めたようだった。
前田さんが、派遣からワークネードの社員になったという事実も、更に彼を奮起させたのであろう。
サブリーダーになってからは、常に前田さんにべったりと寄り添うようになった。まるで『フレンチ・コネクション』のポパイとロイ・シャイダーのようだった。
毎朝少し早く来て、その日の予定などを話し合う。
朝礼が終わって仕事が始まると、二人していなくなる。UC工場やらダイレクト工場やらで、部品の状況を偵察していたらしい。
昼礼の後には、事務所で社員どもと昼の会議に参加。
作業の現況と、今後の作業の進行について確認し、長田さんが香田さんを攻め立てるプレイを拝聴する。
後で、生産状況だか何とか推移だか何だかの資料を見せてもらった。成見が嬉しそうに解説してくれたが、何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。部品がいつ揃うのか予測を立てながら、梱包の予定を立てているようだった。慣れないと大変そうだった。そりゃ志田君も、坂上君にブチギレる訳だ。
サブリーダーの主な仕事は、リーダーにくっ付いて会議に参加することだけではなかった。作業指示とパレットの指定、そして入庫作業もろもろが主な仕事だった。
最初は何をやるにも、どことなくぎこちなかった。
セットのパレットを指定したが、どうも位置に問題があったらしく、列を移動させる必要に迫られたらしい。片側だけ箱を積んだパレットにハンドフォークをぶっ刺して、移動させようと試みた。傾いた状態での移動は、大変そうだった。
小迫さんに作業指示を出した。たまたま場所がなかったらしく、彼は完成品のパレットの近くを選んだ。そこまではいいとして、通路の真ん中に張り出して段ボール箱を並べて、梱包を始めた。人並みのセンスを持ち合わせていれば、パレットのすぐ脇に箱を並べるところだろう。
成見が、後に語った。
「お前そこじゃねえだろ、って思ったんですけど、どうしようかなあ、って思ってたんですよ。でも長田さんが、お前注意しないのか、って感じでこっちをじっと見てるんで、仕方なく言いましたよ。なるべくやんわりと」
戸惑いながらも、全力でサブリーダー職にぶつかっていく彼のひたむきな姿は、実に微笑ましかった。コモドオオトカゲ並みの冷血人間の私でさえ、キュンキュンと母性本能がくすぐられて、助けてあげたいと思ったほどだった。
しかし、その時既に、私の入り込む余地はなかったと思う。
請負化してしばらく経ったある週末。『これから一緒に仕事をすることになるのだから、信仰を、いや親交を深めておこう』という名目で、社員どもに二人が加わって飲み会をやることになったらしい。
ただでさえ険悪な雰囲気の社員どもに混じって、果たして飲み会が成立するのか疑問を抱いた。
しかし、その問題はすぐに自己解決した。飲み会の光景は案外簡単に想像出来た。恐らく長田さんが仕事論をぶち、他の連中はありがたく拝聴し、坂上君が何か言うと、志田君か長田さんから鋭い突っ込みが入り、香田さんの言葉は宙に浮き、前田さんがおどけてみせると皆が笑うだろう。成見は何がどうなるのか、よくわからなかった。実際にどうなるのかはともかく、一つだけ確かなことは、私は呼ばれなくて幸いだったということである。
週明け。前田さんと成見がその夜のことを話して盛り上がっていた。
最初にどこぞの居酒屋で飲み、更にカラオケで朝までオールだったらしい。オーーーール、イエエエエエエエイ。
「オレ、完全に飲まされるキャラになってましたよ。みんなに飲め飲めって言われて、注いでくるんで、全部空けてやりましたよ」
成見が言った。
「ジムに行きだしてから、あんまり飲んでないんですよね。久し振りに限界まで飲みましたよ」
楽しそうで何よりだった。
そういった振る舞いが出来るのは、純粋に偉いとも思った。
前田さんが実際にどう思っていたのかはわからない。まあ、想像はつく。
カラオケでは、成見はエグザイルを、前田さんは、何故かアニメの『黄金バット』の主題歌を歌って場を盛り上げたと言っていた。
しかしこっちの二人はともかく、社員どもがカラオケで一体何を歌うのか、全く想像が出来なかった。まあ特に聴きたいとも思わなかった。
やっぱり私の入り込む余地はなさそうだった。
そのような状態だったため、成見に相談を受けた時も、適当にあしらってしまった。
土曜日の昼休み。
私が社食で昼食を終えて、隣のクローザー工場の休憩室で携帯と睨めっこしていると、成見が入ってきた。
「今日何時までやるか、迷ってるんですよね」
その日は、前田さんはいなかった。その頃彼は、土曜日も出来る限り出勤してはいたが、その日は恐らく何か用があったのであろう。
「取り敢えず二時で、ノルマは終わりなんですよね。でもそこで切ると、志田さんが何か言いそうだし、かと言って、三時までもうワンセットやるのも、みんな嫌だろうし、どうしようかと思って」
志田君としては、後で何があるかわからないので、可能な限り仕事を片付けておきたいのであろう。
しかし私としては、言うまでもなく二時一択であった。
だからといって、それを正面から言うのはカドが立つ。三時とは絶対に言いたくない。そんなもの、一体何て答えればいいのだ。
本人がどうしたいのかも、はっきりしなかった。どちらかに誘導したいという意図も見えなかった。本当にどちらにするべきか、迷っていたのかもしれない。
この頃はまだ、成見もこういったことで悩んだりしていた訳だ。
もしこの時に、私がもっと彼の心に入り込んで、正しい方向に彼を導いてやれば、後にブラック化することもなかったのかもしれない。
ワークネードの利益を考えると、なるべく残業はしない方がいいんじゃないですか。
今月は、量もそんなに多くないでしょうし。
請負になったんだから、どう言われようと知ったことじゃないでしょ。
そういったことを率直に話して、非正規労働者の正しい在り方というものについて、教育をしてやるべきだった。ブラックへと向かう前に、ホワイトに洗脳してやればよかった。
志田さんに何か言われる、或いは何か思われるのはどうせ成見だし、自分は傷つかない。全ては彼のせいになるはず。私には関係ない。
しかし私は逃げてしまった。流石にそこまで頭が回らなかった。数独に夢中だったせいもあるだろう。
そもそも終了時間を決めるのは、私の仕事ではなかったし、前ちゃんと成見の二人に加わって、業務の意思決定に関わりたくなかった。
結局、その日は無難に三時となった。
プレッシャーをかけてきたのは、志田君だけではなかったらしい。坂上君まで、成見にあれこれと言っていたようだ。
またまたとある土曜日。志田君は休みで、香田さんと坂上君が休出していた。その時には、四時まで残業をやれ、と迫ったらしい。この時、成見は断ったと言っていた。
更に、こんなこともあった。
仕事が終わり、帰ろうとしている時に、成見が愚痴をこぼした。
坂上君が、我々にもっと『仕事をやらせろ』『もっと煽れ』そして『時間を計れ』とまで言っているらしい。
「やらせる、じゃなくて、やってもらう、なんだよね」
成見が言った。
こういった素晴らしい気遣いは、どこで身に着けたのだろうかと思った。他の職場で身に着けたのか。自己啓発本やビジネス本など、読んでいるとは思えなかった。『人を動かす会話術』とか、『部下をやる気にさせる人心掌握術』とか何とか。その時は単純に、自分で考え出したのだとしたら大したものだと思った。
私が当てにならないことを悟ったため、という訳でもないのだろうが、前田さんと成見のコンビは、より一層親密さを増したように思えた。常に一緒にいて、仕事や社員のことで冗談を言い合っていた。成見は前田さんに対して、同一化の度合いを、より深めていったのかもしれない。
請負化と前田さんの影響を受けたのは、どうも成見だけではなかったようだ。
小迫さんも、謹厳実直な社員どもから解放されて、やや緩くなったヤードの空気を、早速満喫し始めた。
前田さんも、着任早々小迫さんのぶっ飛び具合に気付いた。
「小迫さんをどう抑えるかだな」
毎朝、前田さんと成見が二人揃ってどこかへ消え、社員どももいなくなると、ヤードには小迫さんと私の二人だけになった。
物流の島貫さんが、フォークで段ボール箱のパレットを運び込んでくると、早速ハンドフォークで、パレットの整理を始めた。
段ボール箱のパレットは、入り口の通路脇に並べられていた。そこはフォークの出入りがあって危険なため、ハンドフォークで入れ替えることなく、空いたスペースにそのまま人力で押し込んでおけ、というルールがあった。
それにもかかわらず小迫さんは、都合よくルールを忘れたのか、余程段ボール箱の順番が気になったのか、或いはハンドフォークの腕前を披露して自慢したかったのか、恐らくその全てだと思うが、島貫さんがパレットを置いていく度に、ハンドフォークでガチャガチャと順番の入れ替えを始めた。
たまたま近くにいた私が、新しいパレットを空いたスペースに押し込むと、後ろから何か訳のわからないことを叫びながらすっ飛んできて、またガチャガチャガチャガチャとパレットをいじり始めた。使用途中のパレットでも、わざわざラップの切れ端を巻き付けて、移動させた。流石に防錆機に頭を突っ込んで防錆してやりたくなったが、堪えた。
あの様子だと、私が何か言っても、どうせ逆切れして仕事に支障をきたすので放っておくしかなかった。誰も気付かず、事故にならないことを祈るだけだった。
ところが、そう上手くはいかなかった。
小迫さんがハンドフォークを振り回していたところに、香田さんが、フォークで実験Z棟に突入してきた。
その瞬間は見ていなかったが、残念ながら、ではなくて幸いなことに接触は避けられたらしい。尤も、小迫さんならフォークで五メートルや十メートル吹っ飛ばれたところで、別にどうということはなかったに違いない。しかし香田さんに何か言われて、流石に逆切れはせず、しゅんとしていたようだ。
昼礼で前田さんが、ルールは守りましょう、安全には気を付けましょうと一言注意して、その件は終わった。私は特に何も言われなかった。
問題行動とリンクしていたかどうかは定かではないが、梱包に対するモチベーションも上がったようだった。
とある土曜日の午後だった。
小迫さんが作業を終えると、前田さんに言った。
「前田さん、終わりましたよ」
その時は、たまたま成見がいなかった。終了まで残り四十分を切るという微妙な時間だった。
「カラーでいいですか。カラー」
小迫さんが、やや興奮気味に続けた。
「ああ、いいよ」
前田さんが勢いに押されて言った。
実際その時は、そのカラーくらいしかやるものはなかった。
しかしそれを見ていた志田君が、後で前田さんに言った。
「主導権を握られない方がいいですよ」
流石に前田さんも、わかってはいたのであろうが、あの場合は仕方なかっただろう。
坂上君や志田君だったら、有無を言わさず押さえつけただろうが、前田さんはそこまではやらなかった。リードを適度に緩めて、上手く誘導する方が効率的であると判断したのであろう。何が楽しいのかさっぱりわからなかったが、梱包自体は嬉々としてやってくれるので、適当におだてて仕事をやらせておけば安泰だった。
「天職だよな」
前田さんが言った。
彼の方も、そこまで小迫さんのことを毛嫌いしていた訳でもなかったらしい。よく冗談を言ってからかったりしていた。
前田さんが着任すると、『カイゼン』の一環として、百円ショップで買ったと思しき、プラスチック製のカゴが導入された。それまでは、ラベルの台紙やら、ガムテープは、地べたに散らかしたままだった。
小迫さんが、そのカゴを投げつけて、破損させた。特に何かあった訳ではなく、ただ単に雑に扱ったというだけのことだった。その時も、前田さんは寛容だった。怒ることなく、呆れたように一言嫌味を言っただけだった。その後、同じものをまた買ってきた。
しかし小迫さんの方は意外と敏感で、そもそも耐性が低かった。からかわれると、いつもにこにこと聞き流してはいたが、目が笑っていなかった。内心では快く思っていなかったようだ。
ダイレクトで私と二人になると言った。
「ったく、前田の野郎、うるせえよな」
尤も彼の場合、前田さん限らず、誰に対してもこのような言い方をしていた。私のことも言っていたかもしれない。
最初に分配機による梱包を教わり、人力による梱包をマスターし、防錆も覚えた。しかし、仕事はまだあった。
カラーリンクは、リンクプレートに焼き付け塗装された代物である。そいつを塗装工場に出荷することを外製出荷と呼んでいた。その工場から返ってきたカラリンを、また梱包して、他の部品同様に輸出することになってあいた。
最初はカラリンの梱包を教わった。
派手な黄色やピンクなどに焼き付け塗装されたリンクプレートが、紙袋に入れられ、その紙袋がピン用の小型コンテナに詰め込まれていた。紙袋を開けると、部品が油で浸されている。単位はプレートやカラーごとに違った。コンテナ一個から八個まで様々だった。
梱包の手順は、他の部品同様だった。段ボール箱にセットした防錆袋の中に投入して、梱包した。
しかし、油が乾いていないと、ドロドロでベトベトになった。おまけに、毛細管現象で、封をした防錆袋から油が染み出して、ガムテープも剥がれてしまうことがあるということだった。
そのため、梱包前のコンテナを、坂上君がわざわざ何度も移し替えて、油を乾かしたりしていた。
カラリンの梱包はやや面倒だが、部品自体は軽かった。
しかし外製出荷の場合は、クソ重たい金属製の籠から投入の作業をしなくてはならなかった。どうも、磨きなどの工程をすっ飛ばして、KD梱包セクションに回されてくるために、そのような状態になるらしかった。
籠自体が重く、六角形で、取っ手が上部の中央寄りにあるため、投入する時はてこの原理で、余計に重量がかかった。
小迫さんがカラリンの梱包をやっていると言った。
「まるで地獄みたいだな」
何だか『蟹工船』みたいだった。
どうも、滴る油が気になるようだった。
私は油よりも、やはり重い方が気になった。
年末になると、忘年会の話が持ち上がった。
忘年会といっても、この梱包セクションだけではなくて、ワークネード全体で、ホテルの宴会場を貸し切って開催するらしかった。
例によって私は行きたくもなかった。しかし例によって参加する羽目になった。どこの職場でも人気者で、みんなのアイドルでヘルプでヤァヤァヤァな私は、何故か行きたくもない飲み会に誘われて、面倒くさい思いをすることになるのだった。
まあその時は、その辺の飲み屋ではなくホテルということもあって、多少は触手が動いたことは事実である。勿論会費は無料だった。派遣会社で、非正規社員どものためにわざわざそこまでやるのも珍しかっただろう。この点は純粋に感心する。
小迫さんは欠席だった。
「いいです。遠慮します」
前田さんが毎朝のようにしつこく誘ったが、小迫さんは固辞した。ただ酒が飲めるという誘い文句にも頑なに乗ってこなかった。
当日は土曜日だった。仕事が終わり、三人で夕方に駅で待ち合わせた。そこから徒歩でホテルへ向かった。
支部長だか誰だかが挨拶し、日系フィリピン人の女性が『ヒーロー』を絶唱し、ワークネードの若い社員がブレークダンスを踊り、ビンゴでは成見が現金二万五千円を当てた。
そのせいもあってか、随分とご機嫌だった。
余程楽しかったのであろう。完全に職場に溶け込んでいた。
「人脈を作っといた方がいいですよ」
自分のテーブルで、黙々と食い続ける私に成見が言った。
この職場で、しかも非正規で、人脈もへったくれもあるのか。
そもそも入社以来、実験Z棟とダイレクトのヤードを行ったり来たりで、他の部署との接点は全くなかった。誰一人知り合いなどいなかった。
小迫さんは何故か、丈選の連中と仲良さそうに話すようになっていた。成見も、たまにUC工場で、通常とは異なる部品の梱包に駆り出されたりしており、何故か工場のお偉いさんの名前まで何人も覚えていた。
まあ恐らく私の場合は、ただ単に接点と機会がないだけではなく、コミュ障が問題なのであろう。
メニューは中華がメインだった。
エビチリ、チキンとカシューナッツ、ローストビーフ、酢豚に五目焼きそば、野菜も一人で大量に摂取した。飲む方は控えていたつもりだったが、時間があったので、結局何杯もグラスを開ける羽目になった。
かなりクセのある紹興酒に嵌って一人で瓶を開けた。二人は不味いと言って、一口だけしか飲まなかった。
酒を飲んでも饒舌になる訳でもなく、性格が変わる訳でもなく、誰彼構わずキスを迫る訳でもない。いつもより冷静になるくらいである。一緒に飲む方は楽しくないであろう。
配膳の従業員は、流石に皆プロだった。
以前、自分が勤めていたホテルとは大違いだった。
そこも結構なブラックだった。無能型。これについては後で解説することにする。
最後に一本締めをして、一次会は盛況のうちに終了した。
駅前のカラオケで二次会をやることになった。恐らく朝までオールになるだろう。オーーーーーーーーーール、イエエエエエエエエエエエエエイ。
駅まで酔っ払いどもが、ダラダラと移動した。
駅にて、謹んで二次会を辞退させて頂くと、成見が名残惜しそうに、私に腕を伸ばした。宙に止まり、また引っ込めた。
一瞬の気の迷いで付き合ってやろうかとも思ったが、前田さんが気を遣ってくれたのか、或いは本当に邪魔だと思ったのか、お別れの挨拶をしてきたので、無事に別れることが出来た。
結構な量を飲んだような気がしたが、三十分余りの道のりを、しっかりと歩いて帰宅した。
翌週の朝に話を聞くと、やっぱり朝までカラオケをしていたらしい。
全くよくやるよ。
請負になったことで、梱包するのみならず、入庫作業もワークネードでやることになった。
入庫作業をやるということは、入庫ラベルを発行して切る、という作業もやるということを意味しているらしかった。おかげで、月末に仕事が増えた。
入庫ラベルは、梱包が完了した時に、段ボール箱に貼るシールのことである。
細長い短冊状で、半分は箱に貼り、もう半分はPCのリーダーで読ませるためのQRコードがプリントされている。専用のラベル用紙は、三枚が一組になっているので、それらをプリントして、ミシン目に沿って切り、ワンセット分に束ねておかなくてはならなかった。月末から月初にかけて、何百枚ものラベルを切るのは、結構な作業量になった。
今までは、前田さんと成見クンが二人で仲良くやっていた。しかし二人ではかなり大変なので、あいつらにもやらせよう、ということになったらしい。その冬は、元々計画量が多くなかったらしく、月末に時間ができたということもあったのであろう。
上の二人は事務所内で、下っ端二人は、ヤードの事務作業スペースで作業をした。たまに小迫さんが何かブツブツと言う以外は、黙々とラベルを切った。
結局ラベル切りで残業になった。
座っていられるのはありがたかった。これで定時ならもっと良かった。
この年末に、長田さんが定年退職を迎えた。派遣の頃は、知らない社員のための退職のセこらレモニーに、小迫さんと私も連れていかれたが、今回はヤードでお留守番だった。前田さんと成見は参加した。セレモニーといっても、UC工場の裏手で挨拶と花束贈呈をするくらいだった。セレモニーから帰ってくると、挨拶をする暇もなく、デスクの荷物をまとめてUC工場へと引っ越していった。退職はしても、シニア社員として工場には残るとのことだった。
そして三月も終わり、この工場に来てから二度目の新年度を迎えた。
やっと本題に入れる、という訳だ。
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