第二章 見えない狂気
成見の第一印象は決して悪くはなかった。それどころか好感さえ抱いた。
「鬼ですよね」
ラジオ体操で、休憩が五分潰れることを評してそう言った。
またヤードの地理的条件を考慮して、休憩が二三分伸びてもいいということも教えてくれた。極めて常識的な感覚の持ち主であるとその時は思った。その時は。
休憩時間になると、いつも二人してデスクに並んで座った。私もあまり人に話しかける方でもなかったので、それほど会話も進まなかった。沈黙がその場を支配した。
「高島彩って結婚したんですよね」
「何かゆずの母親が宗教やってるんですよね」
「……」
「……」
しかし、それでも特に気まずくなるようなことはなかった。向こうも常に携帯を見ていたし、特に気にしている様子もなかったので、私もそれほどは気にしないようにした。自分のコミュ障については重々承知していたが、私もその頃には開き直って、若い頃ほど気に病まなくなっていた。今にして思えばそれも、自己愛性パーソナリティ障害のアザー・サイドだったのかもしれない。
ちなみに二人で並んで座るという行為も、彼の私に対する感情に何らかの影響を及ぼした可能性が高いと思う。
前にも書いたが、出身は岩手県だった。
「三一一はどうだったんですか」
「うちは山の方だったんで大丈夫でした」
被害はなかったとは言うが、被災県の出身であることも、多少は彼に対する同情を後押ししたのかもしれない。山の方というが、具体的な地名は聞いていない。加藤さんとどの程度近いのかもわからない。
その岩手を出て、東京近郊でリサイクルの会社に勤めていたらしい。その会社が潰れたとか何かで、独立したとか何かで、それでいまいちだったとか何かで、職を転々としたとか何かで、結局その工場に勤めることになったらしい。そのせいか、当時は軽トラに乗っていた。会社の駐車場でもすぐにわかった。ついでに言うと、私は駐車場の奥の方に停めていたが、彼は入り口に近いところにいつも停めていた。しかし誰一人そんなことは気にしないのであろう。恐らく私のような人間が、国有地払い下げ問題とか、大学新設許認可不正の問題を引き起こすのであろう。
当時は容貌も、後とは違っていた。
身長は百七十五センチくらいだったと思う。見た目はそれほど丸々とした感じではなく、腹もそれほど出ているようには見えなかった。がたいがいいといった表現に当てはまる程度だった。しかし体重は、彼自身が言っていたところによると、百キロを超えていたという。後ろから見ていると、よろよろと体を左右に揺らして、のろのろと歩いていた。『気は優しくて力持ち』というタイプに見えた。
私が入社した頃は、私が分配機で作業する横で、延々と防錆の作業をやらされていた。
当時、防錆の作業を出来るのは成見だけだったので、彼には我々以上の負荷がかかっていた。彼が入社したのは私の前年で、恐らく半年くらい先輩だったのだろう。
部品の供給が遅れると、長田さんや志田君から『定時間内にここまで』『残業中にここまで』と煽られることがしょっちゅうだった。私と小迫さんが定時で、彼だけ残業或いは休出ということもよくあった。おまけにピンはクソ重いし、ホイストで不安定なコンテナを上下し、ミスしてピンをぶち撒けないようにいつも気を張っていなければならないし、立ったり座ったりを繰り返し、回転するチューリップを見つめると目が回ったり、油の匂いで鼻が曲がるし、分配機ほどではないにせよ、ガシガシとクソうるさいし、防錆自体が実に手間のかかるキツい作業だった。
残業時。長田さん自らがフォークを駆ってヤードに滑り込んでくる。
「成見君、持ってきたよ」
ニコニコと上機嫌で、急ぎフォークからピンを満載した台車を下ろすと、成見の前にワークを一つ追加する。成見は嫌な顔一つせずに、社員どもに煽られ、時計を見ながらそのピンに着手するという訳だ。横目でその姿を見ながら、絶対に自分では巻き込まれたくないと思った。
念のため断っておくが、別に長田さんやリーダーの志田君は、嫌がらせをしたり、非正規いじめをするつもりで、このようなことをやっている訳ではない。本当に仕事が好きで、滞っていた仕事が進むことにカタルシスを感じていたのであろう。ワーカーズ・ハイだったのかもしれない。そしてその時は気付かなかったが、成見は彼ら以上にハイになっていたのだ。
しかし当時は、そういった成見の狂気は私には全く見えなかった。
最初に私の目を引いたのは、小迫さんの方だった。彼の異常は、入社初日からわかった。
初日は、ワークネードの事務所でブリーフィングの後、午後からヤードへと案内された。
「今日は一日見学して下さい。まあただ立って見てるだけで暇かもしれないけど、見ることも仕事の内だからね。しっかり見といてね」
長田さんが言った。しっかりのところにアクセントがついた。
しかし仕事に関しては、半日見ても何をやっているのかよくわからなかった。
小迫さんがややぶっ飛んでいることだけはすぐにわかった。
彼は、私より二週間早く入社しただけだった。
年齢は私より一つ上だという。小柄だががっちりとした体躯で、ガニ股で歩き、喋ると独特のイントネーションがあった。
可愛げのないアンパンマンのような丸顔で、キレていない時は、いつも陽気にニコニコとしながら、仕事中でも構わず独り言を呟くか、或いは誰かに話しかけておいて、答えを待たずにまた自分の世界に籠ってしまうのだった。かなりのヘビースモーカーで、私が休憩時間にトイレに行く時には、喫煙所で煙草を吸っていた。私が通りかかると、ギラギラした目でこちらを見つめながら、何やらブツブツと呟いていた。
私もまだ慣れない頃は、隣で仕事をしながら、彼の声に反応して振り向いては、一人悦に入る彼の姿を見て、思い知らされるのだった。
後に坂上君に言われた。
「小迫さんが何か言うと、朝木さんが振り向くんですよ。でも何もないの。超面白いですよ」
彼を知った当初は、ちょっと頭の足りない変わった人程度の認識であった。
例の如くお人好しな私は、同情と憐憫を込めて彼に接していた。
成見と坂上君が、小迫さんについて楽しそうに陰口を叩いているのを聞きながら、何もそこまで言わなくてもいいのに、と一人で善人ぶっていた。
しかし段々と実態がわかってきた。
まずルールが守れなかった。
工場には、様々なルールが存在した。全社共通のものから、そのセクションだけのローカルなものまで、常識レベルのものから、工場特有のものまで、生活態度に関するものから、安全に関するものまで、大きなものから小さなものまで、動かす力がどうたらこうたら、もちろん仕事自体もルールに則って遂行される。工場の存在自体がルールそのものと言っていい。
歩行帯を歩く、右側通行、喫煙は喫煙所で、安全ゴーグルを装着する、部品を素手で触らない、フォークリフトには近づかない、ここはボールペンでこっちはシャープペンで、ヤード内で走らない、台車でスケボーをしない、ショックレス・ハンマーで上司の頭をぶっ叩かない、などなど。
その中の一つに、大声を出さない、というものがあった。
工場内はたいていうるさいので、人に話しかける時は、その人に近付いて話しかけることになっていた。いきなり後ろで大声を出されると、ミスをしたり、場合によっては危険なことも考えられる。
しかし小迫さんの場合、何度注意されてもお構いなしで、ヤードの端から反対側にいる坂上君に大声で呼びかけた。
「坂上さん、終わったよ。次何やんの」
おまけに作業をしながら歌い、口笛を吹き、箱を二個同時に積み上げ、パレットを二枚同時に下ろし、防錆袋は揃えず、作業手順を勝手に変更し、ヤードの真ん中で作業を始め、狭いヤード内をバタバタと走り、バックしてくるフォークの後ろを台車で横切り、その度に坂上君に注意された。最早ルール以前の常識レベルの問題だった。
そしてルール無視以上に問題だったのが、その後の態度である。
注意されてしおらしく謝罪していれば、まだ可愛げもあっただろう。
すいません、忘れてました、てへ。僕バカだから、ついつい忘れちゃうんです。
ところが、小迫さんの場合、公然と反論し、口答えし、最悪の場合、逆切れし、弁の立つ坂上君に、結局言い負かされた。
「何だよ、坂上の野郎、なあ」
後で私に毒づいた。
私が入社した時には既に、坂上さんには反逆し、社員の香田さんとは公然といがみ合っていたようだ。ワークネード内のことであればともかく、工場の社員に対しても平然と逆切れするとは、彼の頭の構造は一体どうなっているのか。全くもって理解出来なかった。
香田さんは、三名いる社員の一人だった。長田さんの一年後輩だったが、仕事が遅いのか、事あるごとに長田さんに責め立てられ、常に苛立ち、びくついていたのであろう。言動にもやや神経症的なところが見られたように思える。
とある金曜日のことだった。
工場の労使協定で、金曜日は定時退社日となっていた。本来、ワークネードには関係がない話なので、他の部署では普通にラインが稼働し、残業もしていたらしい。しかし我々は派遣で、社員の直属だったので、社員が定時退社で我々だけが残るという訳にはいかなかった。実験Z棟も閉める必要があった。
そういう訳で、毎週金曜日は作業を十六時半に切り上げて、残りの二十分でヤードの清掃を行っていた。
成見と私は大型のモップで、黙々とヤードを掃いていた。二人いるので、ヤードの両端から掃いてきて、真ん中でゴミを取ることになっていた。
小迫さんは普通のほうきを振り回しながら、その辺を無軌道にウロチョロしていた。
ゴミを集めると、早速小迫さんが台車に袋一杯のゴミを積んで、UC工場のゴミ集積場に捨てに行った。
その時はどうも、量が少ないと勝手に判断したようで、段ボール類はヤードに置いていった。
ところが台車をガラガラと押して帰ってきて、さあ上がろうとしていた時に、たまたま香田さんが居合わせた。まだゴミ捨てに行く前だと思ったのかもしれない。彼は言った。
「段ボールも捨てて来いよ」
それを聞いた小迫さんが絶叫した。
「えええええええええええええええ」
かつて聞いたことがないような、不気味で恐ろし気な叫び声だった。驚いたと同時に、背筋がぞわぞわとした。その時には既に、香田さんの姿は消えていた。
結局、小迫さんは段ボールを台車に載せて、ヤードを飛び出していった。
甘い判断で、段ボールだけ残した小迫さんも小迫さんがだが、香田さんによる指示のタイミングも明らかに悪かった。
この人はどうも間が悪いというか、指示もややズレていたりすることが多かった。やっぱり精神的に抑圧された状態にあったのだろうと思う。
終業のチャイムが鳴ると、成見が朗らかに言った。
「帰りましょうか」
それまでは、内容は忘れたが普通に何か話していたように思う。
事務所に挨拶をして、二人してヤードを出た。
そこに小迫さんが台車をガラガラと押しながら戻ってきた。
それまで普通の調子で話していた成見が、豹変した。
「小迫さん、会社辞めたいんですか」
小迫さんは何か言いたげに、口をパクパクと動かした。まるで餌に群がる鯉だった。成見は更に畳みかけた。
「あそこで叫ぶとかあり得ないでしょう。社員さんに対して。ちゃんとやって下さいよ」
それだけ言うと、私をも残して歩き去った。
小迫さんは困ったように笑っていた。
私も小迫さん以上に驚いた。彼にかける言葉もなかった。
「まあ……、お疲れ様です」
そう言うと、成見の後を追った。その時の彼の後姿は、メタボでも振り子のように左右にフラフラと揺れてもいなかった。まだ消え残る夕陽に染まった建屋の白い反射光が彼を包んでいた。
『まあ、素敵。何て男らしいの。抱いてほしい』
実際のところ私は、人に怒ったり叱ったり、そういったことが出来ない性分だった。この時は純粋に尊敬の念を抱いた。
ただし、それも一瞬のことだった。それまで普通にしていて、いきなり豹変したのは少々気になった。その直前まで小迫さんの話題すら出ず、怒りの感情などおくびにも出さなかった。そして私を置いて歩き去ったことも、やや引っかかった。
小迫さんのように、すぐに感情的になってキレるのも問題だが、冷静にキレるのも少々厄介なような気がした。そして全くキレない自分自身も、もしかしたら厄介なのかもしれなかった。みんながみんな厄介だった。
その後、この一件が特に問題になるようなことはなかった。
香田さんとの諍いも、誰も気に留めなかった。普通なら即クビレベルだが、同じレベルでいがみ合っていると認識されていたのかもしれない。
今考えてみると、小迫さんも何らかの発達障害であるところの注意欠陥多動性障害(ADHD)あたりに該当したのかもしれない。
ともかく、小迫さんのむき出しの狂気の陰で、成見は随分まともに見えた。まともどころか人格者にすら見えた。
私が失敗した時も、優しくフォローしてくれた。
仕事にはミスがつきものである。
あの梱包の仕事の場合、最悪のミスは、部品をぶち撒けることである。
それは土曜日のことだった。
分配機を使うべく、部品置き場からプレートの台車を運ぼうとしていた。置き場はヤードの四分の一のスペースを占める一角にあり、何故かそこだけ床面が他より数ミリ程度低く、縁が緩やかに傾斜していた。
私が不安定な部品台車を引き揚げようとした時のことだった。
後輪が何かに引っかかったのか、動かなくなった。そして後方に台車自体が傾斜し始めた。気付いた時には、部品がザラザラと流出していた。慌てて力を入れて、台車を前に戻したが、時既に遅しで、かなりの量のプレートを床にぶち撒けてしまった。よく見ると、コンクリートの床が割れて凹みができていた。そこに後輪が嵌ってバランスが崩れ、後方に倒れそうになったようだった。
部品を床に落とすと、もう使い物にならなかった。下手をすると、そのチャージを諦めて、また新しい部品を調達し直さなければならなかった。その時は完全にひっくり返した訳ではなかったが、部品の量が足りているのかどうか、判断がつかなかった。成見の指示で、とりあえず現場を保存した。
その時に志田君がフォークリフトでヤードに帰ってきた。実験Z棟は離れなので、UC工場とダイレクト工場から、当時はフォークリフトで一台ずつ部品台車を運んでいた。
本来は私が自分で報告するべきだったと思う。しかし何故か成見が、志田君に全て説明してくれた。
志田君はまだ二十代だったが、引退間近の長田さんに代わり、梱包ヤードのリーダー業務を務めていた。流石に長田さんが見込んだだけあって、仕事は完璧にこなしていたらしい。我々派遣に対しては、普段は優しかったが、仕事に対しては厳しかった。坂上君には特に厳しく当たっていた。
「さかうえー」
坂上君がヤードで成見ときゃっきゃうふふと話していると、ヤードの入り口の方から志田君が呼びかけた。
坂上君の方も、どうも仕事が遅かったらしく、テキパキと指示が飛び、何かあるとビシビシと指導が入った。
当時、彼の経歴については知らなかった。しかしややぞんざいな口調に、そこはかとないヤンキー臭を感じた。あまり怒らせたいとは思わなかった。
二人して、流出した部品の山から、使える部品をすくい上げ、残りは磁石で取り去って、コンテナにぶち込んだ。志田君は、そのコンテナを台車に積むと、フォークリフトでUC工場のゴミ捨て場へと、秘密裏に処理するために急ぎ走り去った。土曜日は社員も二名しかおらず、香田さんはその時ヤードにいなかった。まだ仕事がたくさんあったのだろう。余計な一手間が、私のせいで増えたという訳だ。
多少苛ついていたが、私に対しては、特に責めるようなことは言わなかった。部品は多少減ったが、元々規定量より多いのが普通なので、ギリギリ大丈夫と判断したのであろう。
しかし部品をぶち撒けたことを『何でこの人は自分で言わずに、成見さんに言わせているのだろうか』と思ったかもしれない。状況としては、第三者が報告した方が多少クッションになるとは思うが、それでもいい大人が、しかも私の方が年上であるにもかかわらず、人任せというのは如何なものか、とは自分でも思う。
そしてフォローしてもらって言うのも何なのだが、自己愛性PDというフィルターを通して見ると、その時既に成見は、私に対しても支配或いは同一化の感情を抱いていたのかもしれない。
最初は分配機による梱包だけだったが、当然の如く、それだけやっているという訳にはいかなくなった。手による梱包作業もやる羽目になった。
手によるというのは、特に名前がないため、手によると表現するしかないのだ。ヤードでは手梱包とも言っていた。本来はこちらの方が基本で、かつては、重たいプレートも人間の手で投入していたらしい。分配機の方は、後から導入されたという。
段取りは分配機と一緒だった。その後の作業が違った。
まず段ボール箱を直にコンクリの地面に並べる。八箱を一列にきれいに揃えて。
そしてその列の上を跨ぎ、部品の入ったコンテナを慎重に掴み、箱の中にぶち込む、というか流し込む。ザザザザザァァァァと。コンテナ一ケースを、段ボール二箱に分ける。
前方から後方へと、四ケースを八箱に投入する。量を均す。
次が文字通りの梱包作業である。
床に這いつくばる以外は分配機と同じだ。防錆袋を閉じてガムテープで留める。管理票と副票を入れる。スプロケットの場合は、梱包材を入れる。カラーや一部のプレートは、部品だけで箱一杯になるため、梱包材は必要ない。段ボール箱の蓋を閉じて、ガムテープで留める。箱の左上にラベルを貼る。その間、床を這い、起き上がり、また床を這い、立ったり伏せたりと、まるで軍事教練だった。『ワイルドギース』のリチャード・バートンにでもなったような気分だった。
まだこれで終わりではない。台車に箱を一個ずつ積んでいく。台車を押してパレットまで運ぶ。指示されたパレットに積みあげる。これでやっとワンチャージ終了である。
このハイテク時代に、他にもっとマシなやり方はないのかとも思う。しかし仕事を辞めてから何年経っても、未だに他のやり方は思い付かない。
最初はフラフラとしていたが、そのうち慣れた。作業時は、腹筋に力を入れるように意識を集中した。
入社時に七十キロあった体重が、半年後には五キロ減った。一年後には更に五キロ減っていた。工場をやめて久しい現在では、幾分か戻してしまった。
成見と坂上君は、よくこのことで冗談を言い合っていた。しかし私はとても冗談に加わる気にはなれなかった。
仕事だけでも充分ダイエット効果が得られたにもかかわらず、当時の成見は筋トレに興味津々だった。坂上君が既にジム通いをしており、仕事が終わると、質問攻めにしていた。その間私も、話に付き合わさる羽目になった。
やがて自分でも通い始めた。
最初は体験入会を利用して、あちこちのジムを渡り歩いていたらしい。しかしそのうちに、近所のジムに正式に入会したようだ。
その辺りまでならまだ、私も特に気にしなかったであろう。
しかしこの頃から、彼の隠れた狂気の片鱗を意識し始めたように思う。
ジム通い当初には、風呂だのジャグジーだのに無料で入れるとか、まだ呑気なことを言っていた。アパートのワンルームにはユニットバスしかなかったのだ。しかし段々と本気で筋トレにのめり込んでいった。ジムの休業日以外、毎日通うようになった。
毎日筋トレすること自体は、特に珍しいことではない。初心で疑うことを知らない私は、最初は例によって純粋に感心し、体重が減っていくと尊敬の念すら抱いた。強靭な意志、地道な努力、成功への何ちゃらとか、目標達成へのどうたらとか、まあそういったところで。
しかし工場での肉体労働の後で、更に二時間の残業の後で疲れ切っているはずなのに、それでも一日も欠かさずにジムに通うというのは、努力とか根性とか、そういったことを通り越して、執念とか執着とかトレーニングハイとか葉っぱ吸ってアッパーアッパーとか、そういった類の暗黒面的なモチベーションによるのではないかと疑念を抱き始めた。
更なる問題が発生した。私を誘い始めたことだ。しかも蛇のように執拗に。
ヤードには我々派遣用に、小物などを置いておけるように、スチール製の小さな棚が置いてあった。成見は直接梱包ヤードに出勤し、そこに上着などを放り込み、冒頭にも書いたが、帰りもUC工場の更衣室に寄らずにそのままゲートへと向かっていた。
小迫さんは、終業のチャイムとともに、つむじ風のように姿を消すのが常だった。彼の場合、それはそれで協調性とか世間体とか、そういった面で問題があるような気もする。しかし今まで経験したどこの職場でも、終業したらとっとと帰るのが普通の労働者の在り様だった。
私も仕事が終わったからには、とっとと帰りたかった。
ところが何故か成見は、帰り支度に妙に時間をかけた。
のろのろとパーカーを引っ張り出し、携帯だのキーケースだの何だのをカチャカチャといじくりまわし、しまむらで買ったというパーカーにやっと腕を通すと、おもむろに出口に向かう。
その間に話すこといえばジムの話で、最後に必ずこう締めくくる。
「朝木さんもどうですか」
「今度一緒に行きましょうよ」
最初は社交辞令的なものだと思ってヘラヘラと聞き流していたが、それにしてはあまりにも執拗だった。もしかしてこいつは本気なのではないかと恐怖を感じ始めた。
「いやあ、残業の後だとキツいですね」
極めて常識的な返答をしたつもりだった。
「残業の後だからこそ、行くんですよ」
成見が言った。
「最初はキツかったけど、慣れてくると楽しいですよ。体調も良くなってきて、仕事でも疲れなくなってきますよ」
彼と話していると、自分が正しいのかどうかよくわからなくなってきた。善良な人間というのは皆、ジムに通って体を鍛えるのが正しい生き方なのではないか、と思えてきた。
しかし私にも一応やりたいことがあった。ただでさえ少ないプライベートタイムを筋トレに費やす気はさらさらなかった。あまりの執拗さにこの男は、人にはそれぞれ自分の生活がある、という認識が欠けているのではないかと思い始めた。
当時はわからなかったが、この帰り支度にやたらと時間がかかること、筋トレと執拗なジム通いへの勧誘には、重大な意味が隠されていたのだ。
最初は私も一人でとっとと帰っていた。
しかし帰る時は、事務所の社員どもに挨拶をしなくてはならなかった。その度にスライドドアがカラカラと開き、挨拶に付き合わされるのでは、社員どもも面倒であろうという細やかな配慮から、成見と一緒に済ませようと思い、というより、挨拶は成見にやらせて、自分は後ろにいるだけで済むということに気付いたため、一緒に帰るようになった。
それにまあ同僚なんだし、自分としてもコミュ障をもう少し何とかしたいという思いもあったので、なるべく人並みに仲良くしようと、或いは外面だけでも取り繕おうというつもりもあった。
ところが、帰る時のもたもたと、執拗な勧誘に段々と辟易としてきた。
もたもたといっても、恐らく二三分のことであったろう。
しかし一分たりとも、職場なんぞで無駄な時間を過ごしたくなかった。
この頃は、残業が月二十時間から六十時間といったところだった。平均すると、一月で四十時間弱だった。忙しい時は耐え、暇な時には多少息を抜くというサイクルが成立していた。土曜日も、運が良ければ月二回は休めた。社員どもは仕事に対してはうるさ型で、いろいろと問題もあったにせよ、決してブラックなんぞではなく、極めてへいぼ、いや常識的な人々だったと思う。彼らも仕方なくやっているだけで、普通に残業なんぞやりたくはなかったのだろう。
四十時間でも私としては多すぎたが、それでも贅沢は言えなかった。その前の工場でも、だいたいこの程度の残業時間だった。そのため、だいたいどこもこんなものなのであろうと諦めていた。せめて無駄な時間を一分一秒でも削るべく虚しい努力を続けていた。
しばらくはこの状態が続いた。
成見は一人で防錆を続け、ジムに通い、私を毎日勧誘し続けた。
小迫さんの異常行動は、既に常態化していた。完成品の箱を二個まとめてパレットに積み上げて、長田さんが最初は優しく注意してやると、大丈夫ですよ、と空気の読めない舐めた返答をして長田さんを半ギレさせ、長田さんはやっとの思いで小迫さんにルールの重要性を諭して、彼の行為をやめさせた。
物流の島貫さんが、フォークで完成品を引き揚げようとすると、たまたまヤードの真ん中に積んであったパレットが邪魔になった。
物流というのは、工場内で物資の搬送を行う部署で、こちらの業務は既にワークネードが請負っており、フォークのドライバーたちは皆ワークネードの契約社員だった。梱包が完了すると、物流のフォークの連中が、梱包ヤードから完成品のパレットを引っ張り出して、倉庫まで搬送していた。
小迫さんが勇んでハンドフォークを引っ張り出して、パレットをどけようとした。島貫さんは既に、パレットをよけてヤードの奥に侵入しており、長田さんと志田君が危険だからいいよと止めたにもかかわらず小迫さんは、大丈夫ですよ、と嬉々とした興奮した様子でハンドフォークをガチャガチャと回転させ、またもや社員二名がやっとの思いで彼を制止した。
しかし小迫さんは梱包がやたらと早かった。ダイレクト部品のクソ重たいアウトリンクを連続して片付けて、息巻いて次のワークを坂上君に要求した。後で成見と坂上君は、話のネタにした。小迫さんは梱包すると興奮するようだった。余程作業が好きだったのであろう。
長田さんは香田さんをネチネチと責め立て、香田さんの方はその間、困惑の中にも、微かな恍惚が入り混じったような不思議な表情を浮かべていた。彼にとってそれは最早、プレイ(play)の域に達していたのかもしれない。そこまで高度でマニアックなプレイに長けているとなると、職場ではうだつが上がらなくても、どうということはなかったのかもしれない。
志田君は坂上君を呼びつけて、サンプル採取から帰ってくるのが遅いと言いつつ、次の作業の指示を飛ばした。
更に長田さんも坂上君に対しては、随分とキツイ言い方をしていた。そこだけ見ていたら、普通にパワハラだった。しかし坂上君は、この頃はそれほど気にしている様子はなかった。
ダイレクトの部品が遅れがちになると、志田君に代わって、長田さんが直接向こうの担当者に電話をかけた。
向こうの担当者がビビって、次のはこちらに回すと言ってくる。
「ほらな、だから俺が言っただろ。この後にすぐ出てくるって」
長田さんの尊大な自慢話を、みんなしてありがたく拝聴していた。
私はと言えば、分配機と手梱包を淡々と続け、積むパレットを間違えたり、仮組表の番号を書き間違えたり、いろいろとミスもしたが、まだ首は繋がっていた。
社員間はギスギスしていたが、我々派遣に対してパワハラじみた言動はほとんどなかった。小迫さんに対してさえ、内心はともかく、極めて穏当に対応していた。
その年の年末年始の休みは七日だった。
日本中の自動車関連産業が、いわゆるト〇タカレンダーに合わせて休むらしく、トータルはともかく、長期の休暇だけは長かった。
前の工場では、ちょうど忙しかった時期でもあり、連休でも四日が限度だった。
休みが長いのは悪くないぞ、と思った。
差し当たって動きも取れないし、取り敢えず仕事にも慣れてきて生活は安定してきたので、しばらくはこの状態がこのまま続けばいいと思った。
これで普段の時間外がもう少し減ってくれれば、ありがたいと思った。
しかしそう上手くはいかないこともわかっていた。
年が明けると、やがて変化が訪れた。
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