第2話 あなたが深淵を覗くとき……

 しばらくの時間が経過した。いや、あるいは一瞬だったかも、それかすごく長い時間か。

 

 何も見えず、何も聞こえず、無音が耳鳴りとなって頭蓋に響くこの空間に時間の感覚は早々に潰されてしまっていた。

 

 「右腕、左腕、右脚、左脚、胴体、顔」

 

 自分の耳にすら届かない声で呟きながら順に自分の身体に触れていく。

 

 「顔、胴体、左脚、右脚、左腕、右腕」

 

 終わると今度は逆に触れて確認していく。

 

 「右腕、左腕、右脚、左脚、胴体、顔」

 

 ただ自分という存在がまだあることを確認する。

 

 「顔、胴体、左脚、右脚、左腕、右腕」

 

 何故俺がこんな目にあっているのか、神と自称したあの女に何の正義や道理があったというのか。

 

 「右腕、左腕、右脚、左脚、胴体、顔」

 

 一巡するごとに苦しみは恨みとなり、血となって体内を流れていく。

 

 「顔、胴体、ひだりあ」

 「ただの人の魂がよおもそれほど保てたものじゃのぉ」

 

 !?

 

 思わず動きを止める。このルーティンを中断したのはいつ振りだろうか。

 

 ややハスキーな若い女の声に聞こえたけど、ここ俺以外に誰かいたのか?

 

 「狂っても壊れてはおらんじゃろ? 千年もつとはあやつらも喜んどるだろうの、憎らしいが」

 

 せんねん……、千年! それほど経ってたのか。いや、それよりあやつら? 喜ぶ? 何の話だ?

 

 「誰の話……?」

 「おん? あやつらじゃよ。お前もここに放りこまれる時に会っとるじゃろ」

 

 ああ、あの女か……。思い出すだけで全身の血が煮えるように熱くなり、その熱が体から周囲に発散されるような感じすらもしてくる。

 

 「邪気をまき散らすな鬱陶しい。お前がここに放り込まれた理由を覚えとるか?」

 「理由……、輪廻させるために魂を消耗させるとか」

 

 覚えているけど、やはり理解も納得もできない理由だ。だいたいなぜ

 

 「わざわざ意識を保った状態でこれほど苦しめられるのか……、かの?」

 

 思考を先読みして言い当てられる。もちろん驚いたけど何となくこの声の主はそれくらいできる何かなんだろうなとは思えてきた。

 

 「エネルギーの多い魂が次の輪廻に送れんのも、神々は直接手を出せんのも事実じゃ。そしてそのエネルギーを神々が欲しがっておることも……のぉ」

 

 は? 魂のエネルギーを欲しがる?

 

 「それってどういう……?」

 「人は神々に管理されることで繁栄を得て、神々は人から魂を得て存するのじゃよ。普通は死に際の残り火を掠めるだけなんじゃがの、たまぁにそんな狡いことできんほどの魂を持つ人間もおるんじゃよ、お前のようにの」

 「それを奪うために、こんなとこで長々と拘束されてると?」

 

 これまで貯めた恨みに新たに湧いた怒りが注がれていくような気分だ。

 

 「奪うはそうじゃが、長々は普通は違うのぉ。大きな魂のエネルギーを放出させるためには発狂させればよい。狂えば魂は全てのエネルギーを勝手に放出しつくしてすぐに消滅する。じゃから目を付けた魂に適当な刑期を告げてからここに放り込むんじゃが、お前はずうっとそうしておるからの、さぞ膨大な魂なんじゃろう」

 

 そうか、そんなことのために。それは

 

 「許せんよのぉ。どうじゃわたしに手を貸してひとまずここから出ていかんか?」

 「は? え?」

 

 そんなこと可能なのか? それに流してたけどこいつは

 

 「わたしはお前も知っとるあの光神とその一派に堕とされた、元神。闇と狂気を司っておったわたしが組み込まれとることで、この空間は魂の収奪場として機能しておる。名前はその時に奪われてもう名乗れんし……、まぁシン・イェンとでも呼んでくれればよいよ」

 

 シン・イェンて。深淵てことだろ? まあいかにも闇とか狂気とかの邪神とかそういう存在ぽいけどなんて安直な。

 

 というかそうか、あの自称神女は光神だったのか。

 

 「とにかく……、ここから出たいことは間違いないし、君……シンと協力することはいいけど、ただの人間の俺なんかがこの状況で何を出来るとも思えないんだけど?」

 「んん? 気付かんと使うとったんか。この空間でお前はなぜわたしと話しとるんじゃ。元神とはいえ今はただの意識体に過ぎんわたしを認知して声をだして喋っとるではないか?」

 

 そういえば、ここでは音が出ないはず。いつの間にか……、普通に声を出して喋ってるし、始めはいることにすら気付いてなかったシンのこともここにいると分かっている。

 

 「ここに放り込む魂は頑強な器に注いで落とされる。魂が完全に狂う前に自傷されると意味ないからの。そしてただの器に過ぎんそれに、お前は千年という時間をかけてゆっくりじっくりと恨みを血として流していった。それはもはや邪神とよべる存在じゃし、実際お前は息をするように邪法を使うておる」

 「はぁ……、まぁわからんけど。とにかく何をしたらどうなるんだ?」

 「それほどの恨みを身に流しておるわりにさっぱりしとるのぉ……。ま、ええ、わたしをこの空間から剥がしてくれればええんじゃ。そうすればあとはいい様にしてやろう」

 

 よくわからんし、なんの信用する根拠もない。けど俺の中で既に協力することは決まっている。

 

 気が狂う程の虚無を経験した後にやっとできた話し相手だ。脱出とか復讐とか以前にシンと少しでも長く話していたい。

 

 空間から剥がす、というのが全く理解できてはいないけど、シンの存在は話しているうちに完全に補足できた。ここだ。

 

 「お、そうじゃそうじゃ。何も教えんでもしっかりわかっとるではないか」

 「じっとしてろよ」

 

 意識体と言っていたから掴んだといっても概念的なことだ。とはいえそれでは俺が難しいから自分の右手でシンの左腕を掴んだとイメージする。

 

 あとは薄皮一枚隔てた空間から引き出す様に……

 

 「よっ――と」

 「おおおおおお!」

 

 ずるりっ、と何かが目の前まで引き出されてくる。同じ空間、目の前にシン・イェンと名乗る存在が立っていることが分かる。相変わらず視覚としては何も見えてはいないが。

 

 「はっはぁ! よぉやった! あとはわたしに任せておけ」

 

 飄々と喋っていたシンが明らかな喜びを乗せた声で言う。剥がした瞬間に裏切って襲われることも覚悟していたけど、本当に協力してくれるようだ。

 

 「うわっ!」

 

 安心した瞬間に圧倒的な光が俺の両目に飛び込んできて、思わず顔を手で覆って悲鳴をあげる。

 

 「おん? すまん、目を瞑るように警告しとくべきじゃったのぅ」

 

 そうか、あの暗闇虚無空間から何処かへと移動してきたということか。頭はある程度冷静だし、感覚的に近くにはシンだけがいることは分かっている。しかし急に訪れた光や空気、土、それらの混ざった匂い、とにかくそういう虚無以外の全てに体が驚いてしまった。

 

 「~っ! あぁ、ようやく馴染んできた。目も見え……」

 

 開いた目に映るのは、まだ少し霞んだ視界。短い草がまばらに生えた地面は黒っぽい土が柔らかく、頬を掠めていくやや暖かい風はぽつぽつと生えた低木の枝を揺らしている。

 

 「うぁ、あ、ああ……、えぅ、ぐうぅ、あああああああああああ!」

 

 俺がシンの目も憚らずに上げた慟哭は千年の恨みで、流れる涙は千年の苦しみだった。そして体全体が解放された喜びに打ち震える。

 

 「長い間よぉ頑張ったのぉ。もう大丈夫じゃ、わたしとお前が協力すれば何者も阻めんよ」

 

 シンの声には深い同情と共感、そして俺のそれよりもはるかに深く暗い、まさに深淵のような恨みが込められているように感じられた。

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