第10話

「え?」

 4人は同時に声を上げた。

 日曜日の午前9時、美紗希、由衣子、圭一の3人が到着すると同時に政春も自転車置き場に立ち寄っていたのだった。

 ごにょごにょと濁す政春に首を傾げながら、代表で由衣子が段ボール箱を開けた。

 中には、何もいなかった。

 圭一が取り替えた新しい段ボールの中には、子猫はおろか一緒に入れたタオルやミルク、毛の一本さえ見当たらなかった。

「どうして……」

 由衣子は口を押さえ、圭一は箱を他の箱も次々開けて振ってみた。政春は立ち尽くし、事態をだんだんと把握した美紗希はじわじわと目に涙をためていった。

 4人とも訳が分からなかった。誰か、この中の誰かが部屋に連れて帰ったのかとお互いに確認をしたが、そんなことはなかった。

 では誰が?どうして?考えても分からなかった。

 子猫は、いなくなってしまった。

 逃げてしまったのではない。一緒に置いてあったものもなくなっているから。

 4人は呆然と立ち尽くした。

「あー……ほら、誰かに、拾われたのかも!」

 圭一の無理やり明るく作った声が虚しく響いた。手を上げたものの、圭一はその手の下げどころが分からなかった。しかし、動揺しつつ、由衣子がうん、と頷いた。

「そう、かも。全部なくなってるから……誰か心優しい人が保護してくれたのかも」

 呆然としていた政春も、はっと気づいたように顔を上げた。

「そうだ、俺のツレだって猫が好きだ。そういう誰かが、連れて行ったのかもな!」

 3人は美紗希を見た。

 うつむいているせいで美紗希の目頭に溜まった涙は大粒になって、パタパタと地面に落ちていた。

 子猫がいなくなってしまった。せっかく勇気を出してここに来たのに。生きているのか死んでいるのかも分からない。お別れさえ言えずに、消えてしまった。

「う……、うわぁん……!」

 美紗希は声を上げて泣いた。

 生まれて、物心ついてからはじめての我儘な泣き声だった。

 子猫がいなくなってしまった。私の子猫。飼えやしないけれど、勇気を出して世話をしようと決めた子猫。どうしても、引き取りたかった。自分でどうにかしたかった。大人に自分の我儘を聞いてほしかった。そんな感情がぐちゃぐちゃになって溢れ出す。

 下を向くと苦しくて、声を上げて上を向いた。喉の奥を涙が流れていくのがわかる。

 悲しかった。

 周囲の大人3人は何もできずに背中をさすったり、慰めの声をかけたが美紗希は泣きやめなかった。

 そこに、

「あら、まぁ。どうしたの」

 甲高い声が響いた。全員が、聞き覚えのある声だった。4人が振り返ると、

「大家、さん……?」

 美紗希は首を傾げた。

 ごみ捨て場の掃除や、駐車場の草引きなどをしているのを見かけたことがある。

 50代も後半の大家、田井中聡美は温かそうなニットに藤色のスカート姿で不思議そうに駐輪場の手前に立っていた。

 手に、毛布に包んだ黒猫を抱いて。

「猫ちゃん……っ!」

 由衣子は思わず叫んで駆け寄った。思わず同じ言葉を叫びかけた圭一はぐっと言葉を飲み込んだ。政春はぽかんと大家を見た。美紗希もびっくりして、「猫……」っと呟いた。瞬きをすると、涙は最後の一粒がぽろりと頬を伝って落ちた。

「ああ、これ?」

 聡美は嬉しそうに抱いていた子猫を揺すって見せてきた。聡美の腕の中で黒い子猫は大きなあくびをしてから、瞳をぱっちりと開けた。両目は綺麗な青だった。

「可哀想にね、ここに捨てられてたのよ昨日。だから、昨日午後に病院に連れて行って……」

「……大家さんが、飼うんっすか?」

 猫は嫌いだったんじゃ……、と圭一は含ませて懐疑的に語尾を上げた。

 聡美は満面の笑みで子猫に頬ずりする。

「そうよ。私、猫は大好きでね。……アパートじゃ、物件が傷んでも駄目だし住人の方には、動物禁止ってことで申し訳ないんだけど」

 後半は後ろめたそうに3人へ向けて付け加える。そして、背後にぽかんと立っていた政春に気づくと、「あら、こんにちは」と愛想よく挨拶をした。

「それで、どうしたの……?」

 不思議そうに聞いてくる聡美に、4人はぶんぶんと首を振った。

 子猫が無事ならばそれで良いのだ。

 心配しなくて良いなら、それで良い。

「いや、何でもないっす。……な?」

 圭一が引きつった笑いで美紗希に声をかける。はっと気づいた美紗希はぐいぐいと涙を拭った。

「はい、大丈夫です!」

 美紗希は圭一と由衣子に挟まれて笑顔を見せた。隣の由衣子の服の裾をそっと引いて、大丈夫だよと小声で告げる、

「ええ、本当に、何でもありません。よね……?」

 由衣子がまだ呆然としている政春に目線を送ると、政春も漸くうんうんと頷いた。

「あ、ああ。何でもねぇ。ちょっとたまたま……4人が揃っただけで。天気も良いしな、俺は散歩だよ散歩」

 その声に全員が空を見上げた。確かに秋晴れの空は美しく、透き通った青が猫の瞳にも移っているようだった。

 口々に言う4人に聡美は少し首をかしげたが、最後には笑って子猫を抱きしめる。

「そうなのね、何もなくてよかったわ」

 そこの段ボールは来週には全て片付けるから、と駐輪場の片隅に積み上げられた箱類を聡美は指差し去っていった。

 4人はほっと安堵して、それから全員で大声で笑った。


【end】

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箱の中 ―ある4人の場合― 河野章 @konoakira

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