第二十九話 変わるために
突然のことに、ヘレナは瞬きをして、アリアをまじまじと見つめた。アリアは衝動的な言動をしたことに少し恥ずかしさを覚えつつも、決意が揺らぐことはなかった。
「あの音楽祭でのこと、『良くも悪くも普通』って言ったわよね。異論はないわ。私も痛いほど感じた。自分の至らなさ、意識の低さ、格の違い……。あの日それを実感させたのは、他でもないあなたの歌だった」
あの日ヘレナから痛いほど感じた圧倒的な迫力と、自分との隔たりを思い返す。あの敗北感を、アリアは一日たりとも忘れたことはなかった。
「……今の私では、あなたの引き立て役にしかならない。変わらなくっちゃいけないの。そうでなきゃ……」
「……っ、ああ、もう、ごちゃごちゃと面倒くさいわね!」
ヘレナが唐突に口を挟んだので、アリアはびくりと身体を反らした。ヘレナは不愉快そうに足を組んで身を屈め、大袈裟に溜め息を吐いた。
「何を言い出すかと思ったら、くだらなくって本当にびっくりした。
あなた、頭でっかちなのよ。いい? たしかに考え続けるのは大事ってカミラさんもよく言うけど、あなたに関しては考えすぎだわ」
「で、でも……」
「少なくとも私はあなたのことを、今回の仕事のパートナーとして認めている。引き立て役なんて思っていないわよ」
「そう……かしら……」
アリアはなんだか腑に落ちないままだったが、それ以上話を続けることはできなかった。流れを断ち切るように立ち上がったヘレナが、部屋の中央にあるグランドピアノへ手を伸ばして、その屋根を持ち上げ始めたのだ。
「もう暗い話はよしましょう、時間の無駄。歌の練習、するんでしょう。
せっかくだから、いろいろと歌えるデュエット曲を合わせてみましょう。方向性が掴めるかも」
ピアノのセッティングをしながら、ヘレナはあれこれと曲名を口にする。その様子を見て、アリアはようやく力みが取れた気がした。急いても仕方がない。まずはこの仕事を、最高のものにすることだ。
「そうね。デュエット曲なら、今回の仕事に合わせていろいろと調べてきたの。
先方の依頼文に、『二人の対極的な歌声が交じり合うことで生まれる化学変化』、って言葉があったじゃない。それを感じられる曲って、どんな曲かしら、と思って」
アリアは台本に挟んで持ってきていた紙を見せた。事前に用意していたデュエット曲のリストだ。
「へぇ、準備がいいわね。この中だったら、そうね……『約束』は歌える?」
この曲は、アリアが好きな歌手のエルヴィーラと、もう一人の女性歌手アイリーン・グレンのコラボ曲だ。エルヴィーラの甘やかに伸びる透き通った美声と、アイリーンの落ち着きのある柔らかな歌声が混ざり合い、豊かな音を生み出している。アリアが最も『化学変化』を感じた曲だった。
「ええ……歌えるわ」
アリアは少し緊張気味に頷いた。エルヴィーラのカヴァーは、レッスンでしたことはあるけれど、どの曲も音域が広くて難しい。そして、コラボ曲であるこの『約束』も、例外ではなかった。
「じゃあ、あなたはエルヴィーラね。私にはあんなに高い声は出せないもの」
「えっ」
「何、歌えるんじゃなかったの?」
アリアは冷や汗が背中を伝うのを感じながら、「そうね、歌うわ」と応えた。
ヘレナが鳴らすピアノに合わせて、カミラ式の発声練習を行い、そのまま歌の練習に入った。ヘレナが伴奏を自ら弾き、それに合わせてアリアのパートから始まる。そこにヘレナの歌声が加わり、心地良いハーモニーが部屋に響き渡った。初めての合わせとは思えないほど、ふたつの歌声は綺麗に重なり、互いを引き立て、重厚に曲の世界観を広げていく。
――考えてみれば、こうやって誰かと歌を合わせるのは初めてだった。アリアが人と一緒に歌った経験は、学校や教会の合唱、他は孤児院の皆との遊び程度で、こうして歌に向き合っている相手と共に曲を作り上げることはなかった。
ヘレナと目配せをしながら、タイミングと表現をその場で合わせていく。どんどん歌声がまとまって、ひとつになっていくのを感じる。
歌い終えたアリアの胸には、ツァウベラーで歌った時とは違う、驚きにも似た感動があった。
「……ヘレナ。私たちの曲、きっと素晴らしいものにできるわ」
「何を当たり前のことを、と言いたいところだけれど……私も、そう思った」
二人は目を合わせて微笑みあった。
その後は、執事が運んでくれた軽食を摂りつつ台本の残りを少し読み合わせ、お互いに眠たくなってきたところで解散した。
日が暮れてから随分時間が経って、ヘレナは今すぐにでも寝てしまいそうだったが、門の方までアリアを見送りに来てくれた。
「次は泊まりで来てもいいわよ。その方が作業も捗るでしょうし」
「ありがとう、お言葉に甘えてそうしようかしら」
「別に、礼を言われることじゃないわ。仕事のためよ」
相変わらず素直でないヘレナに、アリアはふふ、と笑みを漏らした。
「そうね、いい仕事をしましょうね。おやすみなさい」
小さく手を振ると、ヘレナも「おやすみなさい」と軽く手を振って、屋敷の中へ戻っていった。アリアはその背中を見送って、冷え込む夜の街を歩き出した。
それからの日々は多忙を極めた。アリアが抱えている仕事は映画の企画だけではない。ツァウベラーとしての仕事も複数抱えているし、練習や新しい曲作りも日常的に行わなければならない。
特に音楽祭の後は、出演依頼が多く舞い込むようになり、一番遠いものは来年の夏に予定が入ったほどだった。それはニーナが活動休止する直前でもあった。
「アリア、大変だよね。僕ですらけっこう忙しく感じるのに、個人の仕事もあるなんて」
「たしかに仕事は多いけれど、私は二人とは違って学校には通っていないから……それに、ニーナもかなり忙しいでしょう? 大学のための勉強も大変そうだわ」
「そうねぇ、先生が厳しくて厳しくて……ちょっと滅入っちゃう」
ニーナの覇気のない返答の裏に、ニヤリと笑うカミラの顔が見えた気がした。彼女の紹介する講師は、さぞスパルタだろう。
「でも、これは私の都合だもの、仕事に支障は出さないわ。それに、演奏が上手くなるのは楽しいし。理論は嫌だけれど、ユウトも教えてくれるから」
「この人、僕もわかるような基礎で躓いてるからね」
「うう、これに関しては返す言葉もないわ……」
そういえば、最近はこの二人の喧嘩を見ていない。上下関係ができていたからなのか、とアリアは妙に納得した。
「ねぇ、ヘレナとのコラボはどんな感じ? ただでさえ多い仕事がさらにやりづらくない?」
「そんなことはないわよ。ヘレナも仕事に情熱を注いでいるし、むしろ話が早くてありがたいくらい」
それに、ヘレナから学べることは多いし……。そう言いかけてから、アリアは口を噤んだ。
昨晩二人で一緒に歌の練習をした時の体感では、特に自分との差が明確に見える部分はなかったのだ。隣に立つために足りないもの全てを知りたい、などと宣って練習に付き合ってもらったのに、アリアは肝心の「足りないもの」を見つけられずにいた。カミラもレッスンでは特に変わったところは無かったと話していたし、ステージ上の彼女の変化、あの気迫や人を惹きつけるカリスマ性は、技術的な話ではないのだろうか?
黙り込んだアリアの顔をニーナが覗き込んだので、アリアは慌てて飛び退いた。
「どうしたの、アリア。なんだか上の空だわ」
「そ、そんなこと……」
一度誤魔化しかけた言葉を切って、アリアはかぶりを振った。
「いいえ、そうね。ヘレナと仕事したら何かあの歌声の秘密が掴めるんじゃないかと思ったの。でも今のところ収穫はないわ」
「ふぅん、アリアはアリアで素敵な歌声なのに、そんなこと考えてたのね。
あ、でも、私も上手な人の演奏を聴いたら、どうやってそんなふうに吹けるのか気になっちゃうかも」
「僕も気持ちはわかるけど、そういうのって合う合わないもあるし、気にしすぎないほうがいいよ」
「……そうね。気にしすぎも良くないわね」
今は目の前の仕事を着実にこなすことが最優先だ。アリアは頷いた。
ツァウベラーの新曲は、今回はまた違う方向性を試そう、ということになっている。『魔法使い』を意味するグループ名を生かして、多様な音楽を披露できたら面白いのではないか、と言ったのはユウトだった。
「『聞く人みんなが笑顔になれる』っていう今までのテーマもいいけど、どうしても楽しい曲とか前向きな曲にまとまりがちになると思うんだよね。それだけじゃなくて、難しいんだけど、こう……『聞く人みんなに魔法を掛ける』みたいな、僕らの音楽で心が楽になったり、寄り添えたりとか、そういうのもできたらいいのかなって」
そんなユウトの考えに、バールも賛同した。
「『魔法を掛ける』、君たちらしくていいんじゃないかな。三人それぞれの個性を掛け合わせてできる表現は、他のところにはない大きな魅力になるからね」
「そうしたら、笑顔とかにとらわれず、とにかくいろいろ曲を作りましょうってことね!」
「雑にまとめないでよ……」
ユウトは呆れ顔だったが、最終的な方針はニーナの言葉に近かった。今足りていないのは曲数で、ツァウベラーがどんな曲を作るのかは、過去に披露した二曲のみで判断されている状態だ。これでは出演依頼は来ても、タイアップの依頼は取りづらい。早急に『ツァウベラーの世界観』を示すことが求められていた。
毎回集まるたびに案を持ち寄って話し合いをして、新曲候補を増やしていく。同時に候補に上がった曲のブラッシュアップを進めて形にしつつ、実際に合わせてみたりもすることが、事務所でのルーティンになった。
さらに、直近のイベントまでもあと一ヶ月を切っており、セットリストに新曲を加えるため、何度も合わせ練習を繰り返していた。ユウトが中心に作曲と編曲をして、ニーナとアリアが二人で詞を考えた、春を先取りするような曲だ。
「そこ、サックスのソロ、もっと爽やかに表現したいから、もう少し柔らかい音にしてほしい」
「はーい!」
「アリアの歌は、うん、だいたい雰囲気は取れてるんだけど、もう少しだけサビに力強さがあってもいいかな。今のままだと雪を溶かす春風って感じではないかも」
「わかった、試してみる」
編曲を担当したユウトが全体の指揮を取る。初期に比べたら随分まとまるようになったものだ。
三人で過ごす時間は、慌ただしくとも、アリアにとっては気負わずに過ごせる安らぎの場になっていた。これからも三人で音楽を続けるためにも、活動を軌道に乗せなければ。アリアの変わりたいという思いは、強まるばかりだった。
翌日、アリアはヘレナとともに、朝早くから撮影現場に招待されていた。この日の撮影は最終シーン付近らしく、まだヘレナとの読み合わせが終わっていない部分ではあったが、台本だけではわからない部分も含めた全体像を先に知ることができるのはありがたいことだった。
現場に着くと、程なくヘレナも到着したらしく、こちらに歩いてくる彼女にアリアは手を振った。
「ヘレナ、お疲れさま」
「あなたもね。お喋りはよして、挨拶に行きましょう」
二人が話していると、スタッフの一人がこちらへ駆けてきて、
「お二人とも、ようこそお越しくださいました」
と、撮影場所まで案内してくれた。
今回の撮影は、事前に見せてもらった映像にもあったオーディションの後、その結果が届き、二人揃って初めての舞台出演が決まったことを知るという、物語のクライマックス直前の撮影だった。
朝早く手紙が届いたエマは、急いで部屋を飛び出して街を駆け、イザベラに会いに行く。すると、道中でエマに会いにくるイザベラに遭遇し、二人は同時に自分の手紙を開封するのだ。
この場面の撮影現場には、都の繁華街からは少し離れた、個人経営の小規模店が並ぶこぢんまりとした街が採用されていた。街の住人と相談した上で、短時間での撮影だという。
複数スタッフが撮影道具を配置したり、セットを整えたりと慌ただしく動き回っている。
アリアたちは監督や撮影者に軽く挨拶をした後、用意されていた椅子に座らせてもらって、撮影が始まるのを待っていた。
しばらくすると、「ビアンカとベティーナ、入ります」と声が掛かり、「おはようございます」と軽やかな挨拶が現場に響いた。エマ役がビアンカ、イザベラ役がベティーナだ。ビアンカは無邪気で可憐な乙女、ベティーナは理知的な大人の女性といった雰囲気で、二人とも映像で見るより華がある。
二人は並んで歩いていて、その距離感から仲の睦まじさが見て取れた。アリアは自身とヘレナのぎこちない距離感とは大違いだ、とぼんやり思った。
二人の俳優がこちらに気が付いた様子を見たアリアは慌ててヘレナに声を掛け、立ち上がって挨拶に向かった。
「あの、初めまして、私はアリア・ツェルナー、こちらはヘレナ・ティールです。お二人にお会いできて光栄です、本日はよろしくお願いします」
アリアが緊張気味に早口で捲し立てると、俳優陣はぽかんと口を開けて顔を見合わせた後、同時に声を上げて笑った。
「二人とも緊張しすぎよ! ヘレナさんもほら、そんなカチコチにならないで、怖くない、怖くない」
「な……怖がってなんかないですから……」
ベティーナの言葉に、ヘレナがびくびくとそう返すのを見て、アリアも吹き出してしまった。
「ちょっと、笑わないでくれる?」
「だってあなた、まるで怯える小動物みたい!」
「たしかに、ちょっと子猫ちゃんみたいね」
「もう、ビアンカさんまで!」
ヘレナが顔を真っ赤にするのがなんだか余計に面白くて、アリアはお腹を抱えて笑ってしまった。
「改めてお二人とも、会えて嬉しいわ。精一杯の演技をするから、しっかり目に焼き付けてね」
ベティーナがウィンクする。先程感じていたクールなイメージとは違って、お茶目な部分もある親しみやすい人だ。ビアンカも、年齢より幼く見える容姿とは裏腹、頼れるお姉さんのような安定感がある。
二人のギャップに驚きながらも、アリアは「応援しています」と応え、ヘレナも「私も」とそれに続いた。
そうしているうちに撮影準備が整ったという一声が掛かり、現場は一気に緊張感に包まれた。ついさっきまで談笑していた二人は真剣な面持ちで頷き合い、互いの持ち場につく。
監督の合図で、撮影が始まった。
夜更けのアリア 藍沢 紗夜 @EdamameKoeda
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