第二十八話 予兆
「家に、って、ヘレナの家に? 私が?」
アリアが驚いて聞き返すと、ヘレナは鼻を鳴らした。
「他に何があるのよ? 公開前の映画の脚本について、公共の場で話すわけにもいかないでしょう。
二人で脚本の解釈の擦り合わせをしたいの。どう音楽に落とし込むのが効果的かだとか、『二人の化学変化』をどうやって表現するかだとか」
事前に考えていたのか、ヘレナは滔々と語った。先ほど迷っている風に見えたのは、声を掛ける決心が付かずにいただけらしい。
「二人でやっていくって決めたんだから、それくらいはしないと。でしょう?」
「え、ええ、そうね」
アリアはやや面食らいながら同意した。
「お邪魔しても構わないのなら、ぜひそうしましょう」
「あなたの部屋に出向くくらいなら、来てもらう方がましってだけよ。手土産なんかもいらないから」
流石のアリアもこの言われようには顔をぴくぴくと引き攣らせながら、「それじゃあ、遠慮なく」と返した。
ヘレナと会う予定を決めて、その日は解散になった。なんだかどっと疲れてしまったアリアは、事務所に帰り、バールと今後の予定について確認をして別れると、そのまま行きつけのカフェに向かった。もう日暮れどきで、甘味を味わうには少し遅い気もしたが、仕事をした褒美だから、と自分に言い聞かせて扉を開いた。
カフェに入って席を探していると、見知った顔を見つけた。
「まあ、エリック! 偶然ね」
端の席でコーヒーを飲んでいたエリックは、アリアに突然声を掛けられて、咳き込みながら顔を上げた。
「ああ、ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったの」
「いいや、ちょっと咽せただけだから大丈夫だよ。それより、偶然だね、アリア。君もここの店がお気に入り?」
「ええ。今日はちょっと疲れたから、羽を伸ばしにきたの」
「そう。まだ席を決めていないなら、そこ、座ったらどうだい」
エリックが自分の向かい側の席を指差した。
「ええ、いいの? それじゃあ、お邪魔するわね」
椅子に腰掛けて、アリアは息を吐いた。
「ほら、メニュー」
アリアはありがとう、と差し出されたメニューを受け取り、すぐさまスイーツのページを開いた。
「うーん、どうしようかしら。せっかくだし、いつもと違うものを選んでみても良いかも」
「それなら、こっちのケーキがおすすめだよ。苺のジャムがたっぷり入ってる」
「じゃあ、それにしてみようかしら」
店員を呼んで、コーヒーと苺のケーキを注文する。
「そういえば、悩みは解決した?」
エリックの言葉に、アリアは先日彼と出会った時のことを思い出して、微笑んだ。
「ええ。おかげで、気持ちの切り替えができたわ。その節はありがとう」
「それは良かった。
ああ、そういえばあの後、君たちのレコードを買ったよ。とても優しくて綺麗で、芯がある歌声だよね。生でも聴いてみたいな」
エリックの言葉には実感が籠っていて、お世辞ではないのだとはっきり感じられた。
「本当に! ありがとう、すごく嬉しい。
また何処かで演奏する機会があったら伝えるわ。ニーナとユウトの演奏も、レコードより生演奏の方がずっと良いのよ」
「へえ、君が言うなら本当にそうなんだろうね。楽しみだな」
しばらくして、アリアのコーヒーと一緒に、サンドイッチが運ばれてきた。
「もう夕食? 早いのね」
サンドイッチを手に取るエリックに問いかけると、いや、と彼は首を振った。
「仕事に夢中になって、昼食を取り損ねたんだ。自分で作るのも面倒だから、ここに」
「まあ、もう五時過ぎよ? よく平気で作業できるわね。朝ご飯は食べたの?」
「朝食は十時半くらいに」
「もう少し生活習慣にも気を遣ったほうがいいと思うわよ」
サンドイッチを頬張りながら、彼は大袈裟に肩を竦めた。
「そういう君も、自分が有名人だってことにもっと気を遣うべきじゃないかな。変装とかしないの?」
「変装?」
そんなことは考えたこともなかった。たしかに、周囲から少し視線を感じる気がする。
「目元を隠す眼鏡とか、顔を分かりにくくする帽子やショールとか。なんならウィッグを試してもいいと思う」
「ウィッグって、髪色を隠すための?」
「普段と違う格好をするのに使うことだってあるんだよ。髪型も髪色も手軽に変えられるからね。
君、ファッションに興味なさすぎじゃないかい。もちろん職業柄はあるけど、こんなに洒落た格好をしている君よりも、俺の方が詳しいなんて」
「だって、地元では着られるのは古着ばかりだったのよ。服のことはよくわからないから、いつもエリスに選んでもらっているの。どうせ私は田舎娘だわ」
ちょっとした軽口のつもりでそう口にすると、エリックは目を丸くした。
「てっきり都育ちかと。へぇ、どこの出身?」
「北方地方の生まれよ。ここから汽車で一時間、そこからさらに車で一時間」
「それは、遥々ようこそお越しで」
「ちょっと、馬鹿にしていない?」
「してないしてない」
彼はまたサンドイッチを頬張る。アリアが不満げにしていると、彼女の注文したケーキがようやく届いた。
エリックおすすめのケーキは甘くて、疲労もどこかに飛んでいくような気さえする。
「美味しい!」
「気に入ってもらえて何より」
彼は目を細め、コーヒーを一口啜った。
エリックと別れて帰路を歩きながら、アリアは彼に言われた変装のことについて考えていた。
――変装が上手くできたら、髪の染料も買いに行けるだろうか?
エリスに頼れなくなる前に、自分で買えるようにしておかなければならないとは思っていたし、ミサの日にでも相談するつもりでいたが、こんなところでヒントをもらえるとは思わなかった。また今度、エリスに相談しつつ一通り揃えに行こう、とアリアは一人頷いた。
帰宅するとすぐにアリアは鞄から脚本を取り出して、ぱらぱらと捲り始めた。
仕事の上で必要である以上に、アリアはこの映画に強く興味を引かれていた。作中の少女たちから、何か自身の『一流の歌手になる』夢へのヒントを得られるかもしれないと思ったのだ。
仕事で失敗ばかりしている主人公エマは密かに俳優を目指している。対照的に皆から頼られているイザベラも俳優を目指していることを知ったエマは、思わず自分の夢を打ち明ける。イザベラは「あなたには無理よ」と一蹴するが、エマの演技を見てからは自身のライバルとして認めるようになった。
イザベラが家族に夢を認められていないことが明かされ、自分との覚悟の違いに、エマは自信をなくして思い悩むようになった。しかし夢への情熱を再確認し、迷いを振り切ってオーディションへと挑む。
このオーディションシーンこそ、アリアたちが見せてもらった映像の場面だった。クライマックスへの布石となる大切なシーンだ。
この二人の激しい熱を帯びた演技と、その熱が導いた結末に、アリアの胸は熱くなった。この作品に恥じぬ曲を仕上げなければならない。物語の少女たちのように、夢への情熱を持ち続けようとアリアは胸に誓った。
ヘレナとの約束の日、アリアは彼女に渡された地図を持って、まるで中世貴族の邸宅のような立派な門の前に立っていた。中には広い庭があり、壮麗な噴水の向こうには、家というには大きすぎる建物がある。
「ティール邸、で間違いないわよね……」
以前カミラが、ヘレナのことを『音楽一家のお嬢様』と評していたことを思い出して、アリアは震えた。後から知ったことだが、ヘレナの父は有名な指揮者で、兄や姉もクラシック界で名を馳せる奏者らしい。こんなに大きな屋敷は、アリアのパトロンであり、地元で一番の資産家であるベックマンさえ持っていなかった。
アリアは勇気を振り絞って、彫刻の施された美しい門に取り付けられているベルを鳴らした。カラン、と乾いた音が鳴る。
しばらくして、屋敷の使用人らしき燕尾服の男性がやってきて、門を開いてくれた。人の良さを表すように重ねられた皺と、上品に整えられた口髭がよく似合っている。
「ようこそお越しくださいました。ヘレナお嬢様のお客様ですね」
アリアは緊張でどきどきしながら、こくこくと頷いた。
「お嬢様の元へご案内いたしますので、こちらへ」
彼に連れられて、アリアは玄関に足を踏み入れた。
廊下の壁には、ティール家の人々が積み重ねた功績を表すように、数々の賞状やトロフィーや盾が飾られていた。さらに、いくつもの肖像画や人物写真が、来訪者を吟味するかのように並んでこちらを見つめている。それらは全て、伝統と栄光を象徴するように、荘厳な雰囲気を醸し出していた。
一歩進むごとに、どんどん身体が強張るのを感じる。孤児院育ちであるアリアには、そこはまるで別世界だった。
「お嬢様、お客様をお連れいたしました」
広い屋敷の中を進み、ようやく辿り着いたヘレナの私室の前で、彼はノックしてそう声を掛けた。
「もう下がっていいわ。案内ご苦労様」
ヘレナの声に、彼は部屋の前で一礼し、「それでは失礼いたします」とアリアにも一礼して去っていった。
「早く入りなさい。時間がもったいないわ」
「じゃあ、お、お邪魔します」
アリアが恐る恐るドアを開くと、そこにはソファで腕を組みふんぞり返っているヘレナがいた。
「ようこそ。あなたは向いに座って」
「は、はい」
力む身体もほぐれないままに、言われた通りヘレナの向かい側に座る。なんだかアリアは、人生を左右する面接を受けに来たかのような気分だった。
ヘレナの部屋は全体が上品な赤でまとめ上げられており、その広さはアリアの部屋の数倍はありそうだった。中心にはグランドピアノが置かれており、本棚には楽譜がぎっしりと詰まり、机には立派な蓄音機やレコードプレイヤーが置かれている。
「ちゃんと台本は持ってきた?」
「それは、もちろん」
アリアが鞄から台本を取り出して見せると、ヘレナは鼻を鳴らした。
「まあ、当然よね。下読みもしてきたでしょう?」
「当然してきたわ。気になった部分にはメモもしてきたし……」
「ふぅん。それじゃあ早速、冒頭から読み合わせしましょう」
なんとも言えないぴりついた空気の中に、突如、軽快なノックの音が響いた。なぜかヘレナがびくりと身体を震わせる。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
「い、いらないって言ったじゃない」
慌てて突っぱねるヘレナをよそに、先程の彼がドアを開いて、アリアたちの前に姿を現した。
「お客様をおもてなししないなど、ティール家の執事としてあってはならぬことですから。ご容赦ください。
少しばかりお茶菓子もお持ちいたしました。お口に合いましたら幸いです」
「あ、ありがとうございます……」
不機嫌に黙り込んだヘレナにも動じず臆せず、彼は二人の目の前にそれぞれソーサーとティーカップを置き、ポットから丁寧に紅茶を注ぐ。その瞬間、ふわりと鼻腔をくすぐる芳醇な香りが広がり、アリアは先程までの緊張が和らいでいくのを感じた。
「それでは、ごゆっくり。失礼いたします」
紅茶を注いだのち、彼は部屋を去っていった。
「……ごめんなさいね。その、こういうのはあんまり、お友達同士ではやらないものかと思ったのだけど」
ヘレナが髪の毛をくるくると指先で弄りながら、ひどく自信なさげに小声でそう漏らすので、アリアは我慢しきれずつい笑みを漏らした。
「ふふっ、いいえ、嬉しいわ。たしかに執事さんが入れてくださるのには不慣れだけれど、友達同士でもお茶を出すくらいはするわよ」
「ほ、本当に?」
ヘレナがばっと身を乗り出すので、アリアは念を押すようにゆっくりと二度頷いた。
「良かった。その、部屋に人を呼ぶのって初めてだったのよ。マナーとかよく分からなくって」
「そんなこと、気にしなくたっていいのに。それにしても、あんな態度を取ってくるくせ、私のことをお友達だと思っていてくれたなんて」
「そ、それは言葉の綾よ。勘違いしないで。馴れ合うつもりはないわ」
ヘレナはぷいっと顔を背けたが、その横顔が真っ赤に染まっているのを見て、アリアは堪えきれず笑い出した。
「ふふ、そう、そうなのね? 私は仲良くなれたら嬉しいけれど」
「仲良くなんて……私たちは商売敵よ?」
「でも、今回は敵じゃないわ。むしろ一緒に曲を作り上げるパートナーでしょう。だから今、私はここにいるんだもの」
ヘレナはようやくアリアの方に顔を戻した。あんぐりと口を開けて瞬きをした後、しばらくして、今まで見たこともない穏やかな笑みを浮かべた。
「そう、ね。今回はよろしく、アリア」
「こちらこそよろしくね、ヘレナ」
少し打ち解けられたところで、二人は台本の読み合わせを始めた。二時間に及ぶ映画の内容を、じっくり解釈を擦り合わせしながら読み進めていく。
「ここの台詞は、物語の鍵になっていると思うの」
「同感。二人の未来を暗示するものでもあるわね」
二人でキーワードや印象的な台詞を書き出し、メインの登場人物であるエマとイザベラの人柄や物語を通した成長についても考察していく。
時折意見がぶつかることはありつつも、アリアにはそれが新鮮で、刺激的だった。思えば、ツァウベラーで意見交換をする時は、ニーナとユウトの意見がぶつかることはあっても、アリアの意見が二人とぶつかることはなかった。対等に意見をぶつけ合う経験は、アリアにとって初めてのことだったのだ。
作中の主人公、エマもイザベラと初めて会話を重ねたとき、もしかしたらこんな気持ちだったのかもしれない。一人で演技の練習をしていた主人公が、同じ道を志す少女に感化され躍進していくストーリーに、アリアは感情移入せずにはいられなかった。
半分読み終えた頃にはもう日が暮れていて、側には紙の山ができていた。
「歌詞を作るところに辿り着くまで、まだまだ時間がかかりそうね。あなた、時間はある?」
「ええ、今日は予定もないし、夕飯も要らないと伝えてきたわ」
「そう。いい覚悟じゃない」
満足げに頷くヘレナを、アリアは真っ直ぐに見据えた。
「めったにない機会だもの。やれることは全部したいの」
「そうね。できることをし尽くすこと、それがプロとしての最低限だわ」
その何気ない返答に、アリアは思わず固まった。最低限、という言葉が頭の中でこだまして、ヘレナとの距離を明確にしていく。
もちろんアリアだって、仕事には全力を尽くすべきだと思っているし、今までも自分なりに頑張ってきたつもりだった。しかしヘレナにとって、力を尽くすことは最低限。わざわざ宣言するまでもない前提なのだ。彼女の意識はさらに先を見据えている。
考えるより早く、アリアは立ち上がって、勢いのままにこう口走った。
「ヘレナ、今から歌の練習に付き合って。あなたの隣に立つために、私に足りないもの全てを知りたいの」
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