刺青の女(その8)

ー事件は思わぬことから動いた。

摂津尼崎藩は、幕命により領地の入れ替えをさせられたが、そのことによって利権を失い、藩の財政は大きく揺らいだ。

藩主の松平忠告は、再度の領地の入れ替えを訴えたが、幕府が聞き入れるはずもなかった

藩の過激な侍たちは、俳諧などにうつつを抜かすヤワな忠告では、とうてい望みが叶うはずもないと、過激派に理解を示す次男の忠宝に家督を譲るよう迫った。

ここで、幕府が介入し、過激派の侍たちを粛清するよう命じた。

機先を制した過激派は脱藩し、江戸詰の忠宝を担ごうと江戸に集結し、江戸屋敷の過激派と呼応し、決起しようとした。

しかし、忠宝は裏切り、父の忠告に過激派の一掃を願い出る始末だった。

小日向の江戸屋敷内で、過激派と穏健派が入り乱れての乱闘となった。

ーこの日の昼下がり、岡埜同心はいつもの三ノ輪の吉田屋の二階で盃を手にし、浮多郎の話を聞いていた。

「吉原通いの屋形船が、大川橋から身投げした女とそれを助けようとした虚無僧をすくい上げ、柳橋まで送りとどけたそうで」

神田川が大川に注ぐ河口に架かるのが柳橋で、すぐ目と鼻の先が両国橋だ。

「ふたりは夫婦者に見えたそうです」

「だが、住処は分からん」

と、岡埜は鼻先で笑い、盃を呑み干した。

「これはどうです。両国橋の下に住む乞食が、あの日の夕方年増女と若い女が橋のたもとで会って、回向院のほうへ歩いて行ったと証言しました」

「乞食とな!こいつはお笑いだ」

そこへ、階段を踏み破るような勢いで、小者が二階へ駆け登ってきた。

「岡埜さま、大変です。小日向の尼崎藩の牢人どもが、斬り合いをした後、大挙してお城へ向かっているそうです」

それを聞いた岡埜は、飛ぶようにして階段を降り、三ノ輪の辻を駆け出した。

浮多郎も続いた。

ー桜田門で、武装した旗本衆と白装束の十数人の牢人たちがもみあっていた。

牢人たちは、ここで切腹しようというのだ。

ほとんどの牢人が斬られ、捕らえられる中、ひとりの牢人が抜刀したまま日比谷のほうへ逃げるのを岡埜は見咎め、追った。

浮多郎も追った。

鼠を袋小路に追い込むように、二間ほどの間隔を保って追尾するふたり・・・。

八丁堀の先の大川端で、牢人の行く手を塞いだ黒絣の牢人がいた。

「どけ!」

荒い息をつく白装束の牢人は、太刀を低く構え、いきなり突きを入れた。

長刀の柄で、この突きを跳ね除けた黒絣の牢人は、脇差を逆手に抜くなり跳ね上げた。

牢人の白装束の脇腹に鮮血が走った。

「あなた!」

悲鳴をあげた女が、膝を突く牢人にすがりついた。

この女は、『写楽に会わせておくれ』と浮多郎に迫った、吉備津屋のお静ではないか!

抜いた長刀を大上段に構えた黒絣の牢人に、

「東洲斎、斬るな!」

岡埜が叫んだ。

東洲斎と呼ばれた牢人は、つまらなそうな顔をし、くるりと背を向けて立ち去った。

ー小半時ほど待ってから、路地の突き当りのあばら家に踏み入った岡埜と浮多郎は、懐剣で喉を突いた女と、脇差で腹を切った牢人が折り重なるようにして倒れているのを見つけた。

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