四人目 手結子(Te-iko)
(なんと… これは… )
静葉さんと新宿でモーニングを食べてからアパートに戻って、ドアを開けて中に入ると、そこは、大学時代に住んでいたアパートの部屋ではなくて、田舎のある街で働いていた時に借りていたアパートの部屋だった。
もしや、と思って、ドアを開けて外に出ると、やはり、東京の住宅密集の風景から田舎のアパート周辺の風景に変わっていた。
これまでに、三人の女性が俺の部屋を訪れてきたことを思うと、四人目が現れるとすれば…と予想していたけれども、まったくもって当てが外れた。
(この部屋なら、もしかして…)
玄関を入ってすぐが狭いダイニングキッチンで、キッチンの隣に6畳二間がある2DKの部屋だ。俺は、この部屋で2年余り過ごした。
赤い14インチのテレビは、学生時代からずっと使っていたもので、窓の下に横に置いたカラーボックスの上に置いてあった。以前は、西側にあるもう一つの窓を大きな二つの洋服ダンスが塞いでいたが、ひとつはもう無かったから、夕方になると橙色の夕陽がカーテンを染めるはずだ。
隣の6畳の部屋に入ると、当時、使っていた大きめのCDラジカセが置いてあるだけで、他には何も置かれていなかった。念のために、押し入れを開けると、そこには一人分の布団が畳んで静かに置かれていた。当時の俺は、夜に寝るときに、ここに布団を敷き、CDラジカセからヘッドフォンを通じて流れるジャズかインストゥルメンタルの曲を聴きながら眠りに就いていた。
キッチンにある冷蔵庫を開けてみると、なんと、
俺は、Schlitzのプルタブを開けて、一口飲んでみた。すると、あの爽やかでフルーティーなホップの香りが鼻から抜けたものだから嬉しくなった。食器棚に輪ゴム止めされたピスタチオがあるのを見つけたから、それを肴にして居間で飲むことにした。
♪ピンポーン
ノック音ではなく、玄関呼び出しチャイムの音がしたので、俺はピスタチオを急いで噛み飲み込んで玄関に行った。
(もしかして… )
「わたし。テイコ」
ドアを押し開けると、本当に手結子が立っていた。
「車が駐車場に停まってたから居るのかなあ、って思って」
「ああ、さっき、新宿から戻ったばかりでさ」
「新宿~?」
「あ、いや、東京に行っててね。さっき、帰ったばかりなんだ」
「ああ、びっくりした。あがっていい?」
「うん、いいけど、ビールと乾き物くらいしかないよ」
「そんなことだろうと思って、カンパリとソーダ、それと、ほら、フジミショッピングセンターでピザ買ってきたの」手結子はそう言いながらビニル袋を上にあげた。
「それは助かる。どうぞ、入って」
(そうか…手結子だったか。順番が違うけど…)
俺は、背中で手結子の靴を脱ぐ音を聞きながらそう思った。
手結子は、同じ会社の同僚で、俺が入社してから1年後に彼女が入社して、それから1年くらいしてから付き合うようになった女だった。
「このシュリッツが冷蔵庫にあってね、飲む?」
「うん、いただくわ」
「グラスで飲みたい?缶のまま飲みたい?」
「変なこと聞くわね。グラスがいいわ」
「わかった。あ、カンパリとソーダもらっていいかな。冷蔵庫に入れておくから。ピザは食べちゃうから机に出しておいて」
俺は、ビニル袋ごと酒を受け取って冷蔵庫に入れた。
「あえて聞いたのはさ、シュリッツなんて、今じゃ珍しいから、ラベルを見ながら飲みたいかな~って思って聞いたの」と俺は居間に戻りながら言ったけど、手結子のリアクションはなかった。
「ほいなら、乾杯」
「乾杯」
「ね、旨いでしょ?シュリッツ」
「う~ん、私はよくわかんない。私は一番搾りが好きだから」
「そっか。俺は、このビールかなり好きだから、今日は嬉しくってね」
俺がそう言っても、手結子は何も言わなかった。
「ところで… 俺の車はなんだった?」
「車が?、なんだった? って、駐車場に停めてあるあなたの車のこと?」
「うん」
「今日は、変なことばっかり言うわね。いつものカリブよ。それとも新車買ったの?」
「そうか~やっぱりカリブだったか。もう、すっかり、走っているの見なくなったものね」
「ほんと、おかしい!だいじょうぶ?」手結子はそう言って俺の額に手を当てた。
(そういや、そうだった。シュリッツといいカリブといい、その昔の時代に俺は居るんだった。話したり、尋ねたりする言葉も慎重に選ばなければならないんだ)
「ふふふ…だいじょうぶだよ。それより、会社の方はどんな?」
「うん。それは順調よ。最初は、不安だったけどね、みんないろいろ教えてくれて助かってるわ」
(どうやら、手結子は部署を変わったか、転職したらしい)
「そうそう、赤い四駆は元気にしてる?」
「うん。おかげさまで。駐車場の隣に停めさせてもらったけど良かった?」
「ああ、大丈夫。朝まで置いておけばいいよ。にしても、フジミショッピなんて、まだあったんだ…じゃなくて、フジミショッピのピザ、なんだか懐かしい感じがするよ」
「ふふふ…こんなどうってことのない出来合いのピザ、ター君、好きだものね」
手結子と話しながら、過去の状況を段々思い出してきて、話が噛み合うようになってきた。この感じでいいみたいだ。
「よ~し、カンパリいく?」
「うん。よいね」
「オレンジはないけど、レモン果汁はあったかも」そう言いながら俺は冷蔵庫に行って覗いてみた。
「ふふふ…誰かが用意してくれてたかのようにあったよ、レモン」
「ええ?ター君、一人で住んでいないの?」手結子は、俺の下の名前からそう呼ぶ。
「ふふふ…俺が此処に居ないときに、準備してくれていたのかもね」
「またあ、そんなこと言う!」
「一人だよ。ずーっと、一人」
「そうなの?」
「ああ、もう、かれこれ、15年くらい一人だよ」
「ふふふ…そんなに経ってないでしょ!」
「わっかる」
俺は、お愛想程度に付け添えられたタバスコが入った小袋を開けて、小さいにピザに掛けた。
「カンパリソーダって、ずっと昔から、そこかしこでよく聞いた酒だけど、実際に飲んだのは手結子と一緒に呑みに行った時が最初だったよ」
「私は、学生時代から好きで飲んでいたわ」
「まあさ、手結子は、学生時代からイタ飯屋さんとかで飲んでたからだよ。俺の頃は、あっても、行けない行けない」
「そんなもん?5つ歳が違うだけで?」
「いやいや、そうだってば。イタ飯どころか、マハラジャだって行ったことなかったし」
「ふふふ…マハラジャなら、この街のマハラジャにも何度か行ったわ」
「ああ、そうなの!あの、古町のマハラジャでしょ。ないな~。そうそう、古町と言えば、手結子は酔っぱらって、歩きながら俺のここを触ったりしてな~」
「私、そんなことした~?」
「したした!週末でたっくさん、人が歩いてるっていうのに、構わずしてくるし。誰が見てるかわかんないからやめれ!って言っても、イヒイヒ笑いながら触ってくるんだもん」
「ふふふ…でも、あの頃、楽しかったよね」
「ああ、楽しかったね」
「ター君」
手結子はそう言いながら俺の方に手を伸ばしてきた。
「どうなってる?」
「さあて、どうなってるかな」
「確かめてもいい?」
「って、もう、確かめ始めてるじゃん」
「金沢に旅行に行った時があったでしょ。そう、海が目の前のなんとか温泉。あん時も、楽しかったよね。部屋食の夕飯で、時々、これくらいの蓋付きの皿がカタカタ、カタカタって音がして。それも、俺の方の皿だけね。で、おそるおそる蓋を開けてみたら」
「海老が、ね」
「そう。酢漬けになっているのにまだ生きていて」
「ター君、海老嫌いだから、窓を開けて」
「海老の恩返し~!って」
「ほんと、楽しかったね」
「あん時ね」
「うん」
「もうひとつ、印象的な場面があって忘れられないんだけど」
「なんだろ…」
「手結子、俺を一人掛けの椅子に座らせて、脚を開いてから上げて『すっごいことしてあげる』って言ってさ」
「きゃっ」
「何が、きゃっ、だよ」
「してほしい?」
「うん」
「いいけど、私に何か言うことない?」
「う~ん、して!」
「じゃなくて、他に」
「う~ん、思いつかないなあ」
「だって、結局、私じゃダメだったんでしょ?」
「ん?なにが?」
「ううん、だったらいいの。してあげる」
「え?え? なに? あ…」
手結子もだ。
いったい、俺に、どんな言葉を求めているっていうんだろう。
俺は、いったい、何を言わなければいけないんだろう。
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