五 勝者と敗者 ドイツ神話再生の傍らで


 ニーチェはバイロイトから少しばかり離れたクリンゲンブルンという静かな村に宿をとって、夜はゆっくりと眠り、日中は涼しく薄暗い森の中で過ごしていた。それももう八日目になろうとしていた。

 靴もソックスも脱ぎ散らかし、泉の岸に座って足を澄んだ水の中につっこんだまま、ニーチェはじつに不快そうに呟いた。

「いつのまにやら僕は、すっかりドイツのことが嫌いになっていたようだ」

「自身ドイツ人でありながらですか?」

 彼のつぶやきに対して皮肉気に言葉を返した男はニーチェのすぐ隣に座り、同じように泉の水を裸足でぱしゃぱしゃと蹴飛ばしていた。髭のない柔和な顔つきの若い青年だった。ニーチェは特に感慨もなさそうに答える。

「国籍上の僕はスイス人だ。バーゼルに勤めるにはスイス国籍が必要だったから……だがコトの本質はそこには無い。要するに僕はドイツ語を話しドイツ語が読める人間だ。だからつまり、目や耳に入ってくるドイツ語の陳腐さに耐えられないのだ」

「――なるほど。つまり言論が気に入らないということですか。あ、続けてください」

 若い男は優男風の外見に似合わず、まるで食いつくように発言を促す。そしてそれにのせられるようにニーチェの語り口も雄弁になってくる。

「そう、ドイツ的。いまや僕はその言葉が大嫌いなのだ。なまじ戦争に勝ってしまって以来この陳腐な言葉がおおいに流行った。ドイツ帝国! ドイツ的言論! ドイツ的芸術! ドイツ的ビール! ……そんなフレーバーをかければかけるほど物事の本質を見失うことに連中は気づきもしない。少なくとも僕は吐き気を覚える」

「しかしニーチェ教授。貴方は前の戦争の頃は志願して戦争にいったではありませんか。それは貴方の中にあるドイツ的な部分とは言えませんか?」

 青年は冷ややかにそう尋ねたがニーチェは仏頂面のまま「違うよ」と答えた。


「僕が軍隊に入ったのは――そう、自身に闘争を与えるためだった。ことによっては戦争が自分自身を最も高めてくれる。戦いこそが生の本質だからだ」

 そこまで言うとニーチェは目を細め、「まぁ僕が軍隊で負った傷は落馬して折った肋骨だけだがね。二度目は赤痢とジフテリア……これがきっかけで今の酷い病気を患いだしたんだからビスマルクは僕に勲章をよこすべきだとは思わないか」そうひとりごちて鼻を鳴らした。

 青ニーチェが冗談を言って笑うところを初めて見たので青年は内心では驚いていた。ここにきた直後に比べればだいぶ元気になっているし機嫌も良くなっていた。しかし今しょうもない雑談などに移れば却って機嫌を損ねることを青年はよく分かっていた。

「生とは戦いであり、戦うのは常に自分自身のため……教授がいつも仰っている、自分自身の王になれという言葉にも通じてきそうですな」

「僕は本質的には国とか正義なんてものはクソクラエと思う人間だ。もしも国が未来永劫の繁栄なんてものを保証しだしたらどうなると思う? 人間はどうしようもなく堕落するだろう。オマケにそんな空手形をいばって発行するのはどうしようもないクズだと決まっている。――堕落した大衆と自分が全能だと信じ込んだクズ指導者が同時に揃う未来! 想像しただけで恐ろしい!」

 「たしかに空恐ろしい話ですな。しかし一方では世界を善意と愛と助け合いで繁栄すると解釈する人もいます。たぶんそういう人達のほうがずっと……」

「彼らは常に多数派だ。人間というものは弱いから群れたがるし侮辱を侮辱と思わない。実際彼らは二千年もの間、お前たちは羊だと言って侮辱したナザレ人の言葉をありがたがっていた。――だが、神は死んだのだ! なのに人間はちっとも変わらない! 同情し合いかばい合う惨めな卑屈さのみかと思えば、跪いている神がいかに偉大か、そして自分がいかに神から愛されているのか、将来どんな素晴らしい天国に入る予定になっているのかを青白い顔で自慢する! 愚かな人々だ!」

 ニーチェの語気には怒りが込められていた。彼にとって耐えがたかったバイロイトはまさにそういう場所だった。あれは「ドイツ的」なる神を祀る祭壇だった。派手な装飾の底にあるブタ小屋にもおとる悪臭に気づき、鼻持ちならず逃げ出したのだ。

 そう語る彼自身気づいているのかは分からないが、ある意味でそれは自己正当化のための弁舌だった。八日間ずっとニーチェに付き添って話し相手を務めていた青年――パウル・レーは彼の言葉についてそう感じるようになっていた。しかしそれは彼の言論が浅薄であることを意味してはいない。彼にとっては人生そのものが実践哲学なのではないか。

 慰めを否定する荒っぽい視野で自分の生を眺めるというのは一体どんな感覚なのだろう。そしてあらゆることに打ちひしがれて逃げ込んだこの場所ですら、彼は対談相手に自分のような愛とか善意に対する懐疑論を持っている「優しくない」批評家を選びたがる。

 彼は自分をとことんまで追い詰めることをむしろ望んでいる。しかしながらその苛烈さによって彼の人間的感情の部分はすでにずたずたに切り苛まれ、悲鳴をあげて泣いているのかも知れない。どんな医者もさじを投げたという彼の頭痛の原因も案外そこにあるのではないか。レーはひそかにそう感じていた。

 ニーチェはというとひとしきりしゃべって何かが思い浮かぶと傍らに置いたノートに殴り書きのようなメモを取っている。彼はそれを「戦いのノート」と呼んでいた。彼にとっては思考を巡らせることも本を書くことも戦いだった。

 満足のいく殴り書きになったのか、腕を組み雷鳴のような声で考えを巡らせていたニーチェはもういなかった。眼を細ませてご機嫌そうに口ひげを櫛で整えながら彼はこう言った。

「君との会話は心がはずむね。バイロイトの欺瞞を見るよりもずっと心地がいい」


 ニーチェはバイロイトに着いた初日にはすでに来たことを後悔していた。ワーグナーの取り巻き連中は彼にとっていまや全く面白くなかった。芸術を解する知識も心も持ち合わせていないくせにドイツ的芸術だのドイツの誇りだのと言い立てる教養俗物に、飾り立てた衣装や髪を見せびらかすことばかりに熱心な貴族や資本家。彼らの聞くに堪えないおべっかや自慢話は頭痛の誘発剤だった。

 かつて気高い人間だったワーグナーがそんな連中に気を使い愛想よく付き合っているのは何よりも我慢ならないことだった。

 そして彼の生み出した作品自体も今やニーチェを傷つけた。完璧主義者のワーグナーはリハーサルを何回も事細かくやり直すので時間通りに終わらせたためしがなかった。

 百人以上のオブザーバーがひしめいて座る真っ暗な客席には熱気がこもり、まるでサウナのようだった。かつてない音響効果を狙って設計したホールはあらゆる方向から染み入ってくる圧倒的な音色を実現させていたが、疲れ切ったニーチェの神経にはそれさえも痛みだった。

 毎日十時間以上も練習に付き合ううちにバーゼルに居る時よりはるかに酷い頭痛と痙攣に襲われるようになってしまい、宿泊させてもらっていたマイゼンブーク女史と間もなく訪ねてくるエリーザベトには置き手紙を、ワーグナーには簡単な電報を送ってとうとうバイロイトから逃げ出したのだった。

 この無残な脱走を心配して後を追ってきたのがかつてニーチェに学ぶ学生だった青年パウル・レーで、彼はマイゼンブークが息子のように可愛がっていた学生だった。

 以前から師弟というより対等の友人として打ち解けていたレーに対してニーチェは心を許した。疲れ果ててなかば自暴自棄となったニーチェの心にはレーの――彼と同じくらいに強い――懐疑主義、善性や道徳への不信、無神論への傾倒といった性格は妙に心地よく共鳴した。バイロイトの仕事を放棄して五歳年下の友人と小気味よく語るうち、彼のノートには冒険的な哲学の断章がどっさりとたまっていた。

 気分がよくなってきたニーチェは迷っていた。自分の居場所はもうバイロイトには無いし、砂糖を入れすぎて腐った酒をまた口にしにいくのは気が重い。予定を繰り上げてもうこのままイタリアへ行ってしまうべきか。それとも……。

 彼はノートに挟んでいた一つの封書を取り出す。それは今朝がた宿に届いたばかりの妹リースヒェンからの手紙だった。もはやリースヒェンは今の自分が気にかける唯一のドイツ人だった。



                  ◆



 バイロイトにやってきたエリーザベトはもう泣きださんばかりの心境だった。

 先に来てリハーサルに出席しているはずのフリッツはマイゼンブークの別荘に置手紙一枚だけを残して雲隠れしてしまったのだ。ワーグナーやマイゼンブークにあてたメッセージにはしばらく出席できないとだけ告げられていたが、彼女宛の手紙には「バイロイトに戻るかは分からない。おそらくはこのままローマに行くので後始末をたのみたい」と離脱の意図が打ち明けられていた。

 差し当っての問題は、その急な気まぐれのためにワーグナー夫妻が取り計らってくれた有名人たちとの交遊が中止になったことだった。多くの有名人との社交を拒んで社会的に認められる機会を放り捨てる気持ちが、彼女には理解できなかった。

 マイゼンブークは「ニーチェ教授の病気は深刻でそのことはワーグナーも理解している」と慰めてくれたが、実際どう思っているかはともかくメンツをつぶされたワーグナーに対して申し訳なく、また恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。弁解に行きたかったが彼はあまりに忙しくて会う事すらできなかった。

 置手紙にはフリッツが移った宿の住所が記載されていたのでよっぽど迎えに行こうかとも考えたが、あまりの来客の多さ――彼らの多くはワーグナーの親友に挨拶に来るだけで彼女には関心がなかった――にバイロイトを離れることはとうてい無理なように思われた。これはちっとも楽しくなれない、まさに後始末のような仕事だった。仕方なしにエリーザベトは手紙で兄に訴えた。

「親愛なるフリッツ。なぜ私に一言でも相談してくださらなかったのですか? 私はいつも貴方の成功を夢見て手伝ってきました。きっと力になれたのに。……ヨーロッパの名士は皆バイロイトへと集まりつつあります。その重大な場所に私の兄一人だけが不在だというのは非常に悔しいことです。せめて本演までには戻ってきてくれると信じています。この席を欠かすことがあれば、ワーグナー氏との友情は永遠に失われてしまう事でしょう……」

 過去の思い出やら初めて一緒に『ローエングリン』を観たときの感激やらを宝石のようにちりばめた悲痛な手紙一枚を送ることが、彼女にできるすべてだった。

 自分は無力だと思った。上流社会に出入りできる自立した女になったのだと内心うぬぼれていたが、そのじつ自分はフリッツの付属品でしかなく、彼の気まぐれな行動一つで立場は崩れ落ちそうだった。


 窓辺に薄明かりが差し込み始める。夜明けだった。エリーザベトはこの晩ほとんど寝付けなかったが、それは兄への心配や不信ばかりでもなかった。彼女はひどく興奮してしまっていた。エリーザベトは昨晩マイゼンブークの友人として『ニーベルングの指環』の序幕にあたる『ラインの黄金』の最終リハーサルに出席することが叶い、彼女はそこで非常に強い感動をおぼえたのだった。

 ワーグナー自ら設計したという祝祭劇場はそれまで彼女が知っていた劇場とは何もかもが違っていた。一般的な劇場は客席がU字型をしていて、舞台に進んだ俳優を囲んだ形で見ることになるのが常だった。しかし祝祭劇場の客席は四角いバスケットのような形に席が並べられていて、全ての席が舞台を真正面から見ることになった。一度に入れられる客の数は少なくなるが俳優の後頭部や向かいの席の客の顔を見たい観客など居るわけがない。それならば私は鑑賞の快適さをとるし、今後はこの形が劇場のスタンダードになるだろうと開演前にワーグナー自身が壇上に立って説明していた。

 さらに驚いたことに上演の開始と同時に客席側の照明が消し去られて真っ暗になったことだった。舞台の上の役者達だけが明々と照らされ他の物はなにも目に入らず、芝居に没頭させられる。こんな視覚体験ははじめてだった。

 上演中も驚きは続いた。音楽はほとんど常に鳴り響いているがオーケストラの姿はどこにも見えない。役者が主役、オーケストラは裏方というワーグナーの信念から舞台の裏側の段下に隠れた状態で演奏をするのだとか。

 舞台上の俳優たちは身振り手振りのみならず大きな演技を交え、小道具を手にして舞台中を駆け回りながら芝居をした。オペラはまっすぐに立って両手を開きながら歌い上げるもの、という固定観念をワーグナーは見事に破壊した。

 蒸気機関を利用した大掛かりな舞台仕掛けは観客をびっくりさせたし、吹きあがったスチームをそのまま再利用して神々の世界を包みこむ濃霧に仕立て上げた。

 それは間違いなく新時代の楽劇だった。エリーザベトだけでなくこの最終リハを見たすべての人達が、世界史上初めて繰り広げられた臨場感あるスペクタクルに息をのんだ。


 そしてこの席上でエリーザベトはまた別の感激をも味わっていた。

 直前になるまで知らされなかったことだが、この最終リハにはバイエルン国王・ルードヴィヒ二世が出席したのだ。この当時の祝祭劇場にはまだ王侯用の観覧席がなかったため、離れた場所に設けられた特別席に大勢の従者を引き連れて座っている国王の姿をエリーザベトは見ることができた。彼女は気になって何度もその席をのぞいたが、幕間の休憩時間にはなんとワーグナーと歓談する国王と一瞬目が合った。そして国王はその青い瞳でエリーザベトの姿をみとめると、ほほ笑んだのだ。

 とたんに彼女は体中が熱くなるような満ち足りた感慨を覚えて顔が上気した。

 自分はついに国王の目にさえとまる人間になった! その高揚感が上演が終わるまで彼女を離さなかった。



                  ◆



なものへの反感は常々お話していたように私にも理解できます。ここで敢えて聞きたいのですが……なぜニーチェ教授は今まで心酔していたワーグナーに愛想を尽かしてしまったのでしょう?」

 レーが探るように尋ねたその言葉にニーチェは間髪を入れず答えた。

「彼が変わってしまったからだ」

「変わってしまった……教授が唾棄するそのドイツ的ドイツ人という輩に?」

「その通り」

 ニーチェは仏頂面でそう答えた。彼がまた腕を組んだのを見たレーはほんの少しだけ意地悪そうに微笑み、さらに問う。

「本当にそうでしょうか?」

 思わぬことを言われたとばかりにニーチェは目を丸くする。ずっと苛立たしげに水を蹴っていた足も動きを止めてしまった。レーはそのしぐさの一つ一つを舐めるように確認してからまた口を開いた。

「本当にワーグナー氏は変わってしまったのでしょうか? 私の立場からすると彼はずっと昔からあんな人間であったように思えるのです。

 派手好き贅沢好きの浪費家で、借金を少しも恥とせず浮気性で、自分の天才を確信して常に鼻高々にふるまって……そしてユダヤを嫌っている」

「いや違う。以前の彼は本当に素晴らしい男だったんだ。革命に身を投じるほどに向こう見ずで勇敢で危険を愛していた。ドイツを追われようとも屁とも思わず自らの人生を切り開いてゆく力強さがあった。僕が引かれていたのはその……」

 妙なことにニーチェは自らは非常に激しくワーグナーを非難するのに、誰かが彼を非難すると逆にむきになって彼を弁護することがあった。その習性は生涯に渡って変わらなかったが、レーもここで彼の心理に一つの澱みを見抜いていた。レーは挑発するようにいう。

「なるほどそれはたしかにワーグナー氏だ。しかし彼は老いてもなお生きる力に充ち溢れているようには見えませんか? 身一つでバイエルン王やドイツ皇帝まで手玉に取って見せ、今もひとつ間違うだけですべてが破滅するような危うい祝祭を実現させようとしている。まさに獅子の生きざまだ。逆に我々こそ、敗残兵のように彼を恐れて森に隠れているのではありませんか?」

「…………」

 先ほどまでの機嫌のよさそうな雰囲気は消え失せ、ニーチェは黙り込んだ。レーの疑義を聞いてこそいるが、その眼には怒気さえはらんでいた。しかしレーはひるまずさらにこう言い添えた。

「結局のところですよ……ニーチェ教授はヤキモチを焼いているのだ! トリプシェンで密に付き合っていた時にくらべてワーグナー氏が目を向けてくれないことに嫉妬しているのだ! ……どうでしょう?」

 ニーチェは相変わらレーをにらみつけていた。口元は長い髭でおおわれているのでその表情全体は見通せないが顔は珍しく紅潮し眉はぴくぴくと動いている。そのまま数十秒が経過したがやがて彼は長い息を吐き、それが終わるといつものおだやかな目つきに戻っていた。

「レー博士はあいかわらず容赦がないな」

 その言葉を聞いたレーは安堵したようなひきつった笑みを浮かべて「さすがに怒鳴られるかと思いました」とつぶやく。

「きみをそんな毒舌家に育てた教師は僕だからね。怒るわけにもいかない」

 ニーチェはずいぶんさっぱりとした様子で立ち上がり、そばにあった岩の上に腰掛けながら足をタオルで拭き始める。続いて上がってきたレーが濡れた足跡を作りながら尋ねた。「バイロイトに戻るのですか?」

「ああ。憂さの方はきみと毒をかけ合っているいるうちに晴れた。体調もまぁまぁ。リースヒェンも必死に僕を呼んでいるようだし……」

「エリーザベトさんですか。お若いのにずいぶん活動的だとマイゼンブークさんもほめてましたよ」

 ニーチェは辺りの草や木々、それに日差しを受けて白いきらめきを見せる泉を目に焼き付けるようによく見渡す。そして最後に目をとめたのはノートだった。それを拾い上げながら彼はつぶやくように言った。

「ああ。素晴らしい妹だよ。あの子がいてくれるから僕は生きていられる」



                 ◆



 エリーザベトは夜明けを見てから三時間ばかり眠る事ができたが、兄と違ってタフな彼女は少々の寝不足では不都合を感じなかった。昨日の感激がむしろ興奮剤のように自身に作用を与えたとさえ感じていた。

 しかしほとばしらんばかりの鋭気に対して今の自分がやらねばならないことは不毛だった。ちょっとした有名人の兄を訪ねてくるお客に対してもっともらしい理由をつけて欠席を述べてお帰り願うだけ。バイロイトまできてまるで留守番だった。同情してくれるマイゼンブークもいまは出かけてしまっている。

 昨夜の、まるで自分が大人物になったかのような高揚感は結局のところまやかしだったのだろう。自分はどこまでいってもフリッツの添え物。そんなふうに今まで考えたことはなかったはずなのに、今日はどうにもイライラしてしまう。ふっと寝室の一角に置きっぱなしのブランデーのボトルが目に入った。昼間から飲んでやろうかしら。

 そんなことをぼうっと考えていたところに、ドアにノックの音がした。誰が叩いたのかは分かっている。この別荘の執事だ。エリーザベトにとって重要なのは執事が誰の名を告げるかだった。ドアを開けると案の定年寄りの執事が立っていて一礼しながらこう述べた。

「ニーチェ教授にお会いしたいという方がお見えになりました。ご挨拶なされますか?」

「どういう方?」

 エリーザベトは連日のつまらない応対に内心かなりうんざりしていた。そこで大事そうなお客だけは自分が挨拶をし、つまらない客は執事に不在と伝えてもらって居留守で片付けることにしていた。彼女にとって大事な客人とはもちろん爵位を持っているような人か資本家だったが、執事は答えた。

「ベルリンからやって来たという男性ですね。職業は教師、少なくとも男爵ではなさそうです」

 エリーザベトはおもわず鼻を鳴らしてしまった。自分の書いたものを見てもらいたい作家志望とか自称音楽家はバーゼルの家でもうんざりするほど訪ねて来ていた。断りを入れようとしたが執事は忘れていたとばかりにこう付け足した。

「そうだ。エリーザベト様のこともご存じでぜひ会いたいとも仰っていました。お名前はベルンハルト・フェルスター氏」


 化粧を軽く直したあと、エリーザベトは一階にある喫茶室へと向かっていった。来客の対応用にマイゼンブークが快く貸してくれたしゃれた部屋で、彼女の母国イタリア風でないところがひそかに気に入っている場所でもあった。急ぎ足で執事に新しい紅茶を二人分入れるよう頼んだ後、エリーザベトは一瞬だけ息を整え、それから悠々と客人の前に姿を現した。

 客人――ベルンハルト・フェルスターは椅子に座らずに彼女が来るのをずっと待っていたようで、貴族のように着飾った今のエリーザベトを見ると少しばかり驚いた様子だった。

「……お、お久しぶりです。覚えておられますか? 四年前にバイロイト起工式でお会いした」

 少しばかりびくついた様子で話し出したフェルスターに対して、エリーザベトは微笑みながら答えた。

「覚えておりますとも。シャンパンをひっかけて名刺をお渡しになられた……」

 突っつくようにそう言うとフェルスターは気恥ずかしそうに笑みを浮かべた。エリーザベトの雰囲気も四年前とは変わっていたがそれはフェルスターも同じだった。以前会った時は端正な顔立ちと態度の異様な弱々しさのギャップが印象的だったが、今の彼は長い口髭と顎髭が顔の半分以上を覆い隠しているので、そのぶんだけ目つきの精悍さが際立っていた。

 それを見ていると彼女は兄を思い出した。フリッツの口髭も口元をすっぽりと覆って彼の繊細さを覆い隠しているように思われた。もしかして男性は自分の弱い部分を覆い隠すために髭を伸ばすのだろうか? フェルスターは背も低く体格も痩せていたがその楯のような髭が彼女には似た印象を抱かせた。

 運ばれてきた二杯目の紅茶にやたらと砂糖を落としながら、フェルスターが口を開く。

「正直お会いできるとは思っていませんでした……エリーザベトさんはいまや有名人ですし。私はニーチェ教授の本のファンなんです。あの時の女性が偉大な哲人の妹だったと知ったときは本当に驚きました」

 自分が有名人といわれるのはなかなか心地が良かったがもちろんそれはおくびにも出さず、エリーザベトは答える。

「フェルスターさんはベルリンにお住まいなのですよね。あんな都会でも兄の本が読まれているなんて、嬉しいことです」

「読まれているなんてものではないですよ! ベルリンの仲間たちはみんな褒めてるんですよ! って!!

 今日お会いできないのはじつに残念なんです。私たちのやっている運動の名誉顧問になってもらいたかったのですが……」

 フェルスターが口にした文句を聞いてエリーザベトはくすっと笑ってしまった。要するに兄はワーグナーの添え物としてちやほやされているのだ。なんだかかえってへそを曲げそうだ。フェルスターは話す中で不在は無念だと何度も何度も強調してきたがエリーザベトはだんだん苛々してしまった。結局この男も別に私に関心を持っているわけではないのか。分かっていた事だがなんだかますます腹が立ってくる。

「それで、フェルスターさんの運動と申しますのは?」

 さっさと用件だけ聞いて面会を終わらせてしまおうと考えてエリーザベトはたたみかけるようにたずねた。しかしフェルスターの方はこれまた意外な反応をした。彼は口ごもりながら言った。

「いえ……ご婦人に聞かせるような話ではありませんので。はしたない話とかではなく、その、イデオロギーですので」

 その当惑したような言い方がますます彼女の癇に障った。椅子から立ち上がり両手を腰に当てながらフェルスターをにらみつけ、エリーザベトは叫んだ。

「どういうこと? 女にはイデオロギーが分からないというんですか! バカにしないでください!」

 エリーザベトはほとんど無意識のうちに目を細めて「悪魔の顔」でフェルスターを睨んでいた事にふっと気づいたがかまいやしなかった。本当に怒っている時に怒らないのはバカげていると思った。肝心のフェルスターの方はあまり驚いたのか放心状態で目を白黒させているばかりだった。

 沈黙の中の見つめ合いが続く。一分も続いただろうか。さしものエリーザベトもさすがに後悔の気持ちを抱き始めた。怒りは間違っていないから謝りたくはないが気まずい沈黙には嫌気がさした。もういっそ何もいわず退席してしまおうかなどと考え始めたところで、フェルスターは意外なことを言った。

「嗚呼! 私が間違っていた! そう、私が間違っていた!」

 そう言いながらフェルスターは興奮した様子で立ち上がり、何度も何度もうなずいてみせた。そしてさらに続ける。

「私はじつにつまらない偏見に囚われていた! 女にはイデオロギーなど分かるはずもない、いや女は思考しているかすら怪しいものだ。そんな前時代的な偏見に目がくもっていた! 分かってみればなんと愚かだったか!」

 そう熱心に告げ、本心らしい謝罪の言葉を何度も何度も口にした。今度はエリーザベトが困惑する番だった。

「いえそんな……私の方こそ失礼な言い方をしました。どうか顔をあげてください」

 あいかわらず戸惑いながらエリーザベトはフェルスターの肩に手を遣った。ようやく頭を上げて見えた顔は涙ぐんで目は赤くなっていた。おそらく根は真面目で感受性も非常に強い男なのだろう。ひどく極端だが自分が怒鳴った事を彼なりに受け止めた末らしかった。

 その非常に弱々しい、彼女一人に対して全面降伏したような哀れな表情と態度を見ているとエリーザベトは奇妙な感情をおぼえた。背筋がぞっとするような、嫌悪感とも陶酔感ともつかないような未知の感情だった。いやまったくの未知ではない。記憶の底の底までたどれば自分はこの感情を知っている。ずっと幼いころの記憶だ。すぐにかっとなる性格だったエリーザベトは女友達だろうと年長の男の子でろうとすぐに平手でぶって、突き飛ばして、噛みついた。幼児の世界は平等。体格差もなかったし社会的制約もない。自分の激情と共に手を振るえばすぐ勝利者になれた。自分の前にみながひれ伏した……。体の奥に染みついていた嗜虐的な感情の再来に、酔いしれた。

 その感覚にしびれたまま、エリーザベトは勝利者の微笑みを浮かべて再び問う。

「改めて聞きます。フェルスターさん、あなたたちの運動って一体何なのですか?

 私にもできることがあるならぜひ協力したい。そう思っているからこそ伺いたいのです」

 自信に満ちた、まるでこの屋敷の女主人にでもなったような優雅な表情。フェルスターは戸惑った様子だったが、女には分からない話という偏見からは解放されたらしい彼はすぐに真面目な顔で話し始めた。

「エリーザベトさん! 貴女を真のドイツ精神の持ち主と見込んで私はお話しします。これはそう、ドイツの未来に関わる話です。アーリア人の未来とユダヤ人の陰謀に関する……」



                 ◆



 ――1876年8月15日。バイロイト祝祭本番。

『ニーベルングの指環』初演は夜からで、エリーザベトは喜びに満ちていた。姿を消していたニーチェが祝祭当日に合わせてついに帰ってきたのだ。

 連れ立って出かけていたパウル・レーと共にマイゼンブークの屋敷に戻ってきた兄の姿をみたとき、先ずは一言叱ろうと決めていた彼女の決心はあえなく崩れた。無事な姿に安心したのか涙がとまらず泣きすがってしまったのだ。ニーチェもまた彼女を抱きしめ「ごめん」と小声で何度も呟いていた。結局それですべて許してしまった。

 その様子を見ていたマイゼンブークは母親のように笑って「レーがついていたから大丈夫とは思っていたけどね」と言い添えたし、ニーチェ自身も彼が身の周りの世話をかって出てくれたので非常に助かったと率直に述べた。その言葉にエリーザベトは嬉しくなって彼女自身もまたレーに対して熱烈に感謝の言葉を伝え、飄々としたレーもそれにはずいぶんと照れてしまったようだった。


 その日の夕刻。ニーチェとエリーザベト、それにマイゼンブークとレーは連れ立って祝祭劇場へと向かっていた。日は落ちてずいぶん涼しくなってはいたが劇場周辺は大変な人出で、チケットを持った観客以外にも大勢の見物人や新聞記者、それにワーグナー支持者たちが大挙して集まっているらしかった。

 まだ体調の万全でないニーチェを気遣い、エリーザベトは彼と腕を組みながら雑踏を通り抜けていく。だいぶ復調したとはいえこの人混みや騒音が彼の神経の負担になっていることは密着した息遣いからすぐにわかった。

「大丈夫。私が合わせて歩くから」

 どこのビアホールから持ち出されたのか、劇場前の通りのど真ん中に樽がいくつも持ち出されている。すでにひどく酔っ払った赤ら顔の男達が紙吹雪をまき散らしたり花火を放り投げながらジョッキを片手に上機嫌で騒ぎ、叫んでいた。

ドイツ芸術万歳Heil'ge Deutsche Kunst!!」「ドイツ万歳Heil Deutschland!!」「ドイツ万歳!!」「ドイツ万歳!!」「ドイツ万歳!!」

 あらゆる雑踏の中から酔歌のように響く万歳Heilの叫び。中には『皇帝陛下万歳』や『ラインの守り』を歌っている者もいて、祝祭の主がワーグナーだということすら知らなそうだった。

「楽しそうだな」

 エリーザベトに支えられてそのそばを通り過ぎながら、ニーチェは呟く。エリーザベトは「みんな楽しそう」と同意したが、彼はむくれたようにしてこう続けた。

「リースヒェン。キミがさ」

 どこかちくりと刺すような言い方にエリーザベトは少し戸惑ったが、彼女は正直に答える。

「ええ。私はいまとても楽しいわ。面白い友達も作れたし……そうだ、その人が言っていたの。ベルリンでは今フリッツの本がとても読まれているって! ドイツの方が貴方に合っているのかも!」

 そう聞かされたニーチェはしばらく困ったような顔をしていたが、すぐに少しばかり表情をほころばせながらこう答えた。

「彼らが僕を本当に理解してくれているなら良いがね……」


 ちょうどその時、劇場の方からやってきた数人の騎馬警官たちが棒を振りかざしてお祭り騒ぎを始めている群衆を追い立て始めた。彼らは解散を命令していて、国家行事に準ずる祭典で通行を妨げてはいけないと事細かに通達していた。しかしすでに悪酔いしていた連中は高圧的な警官に対して散々に罵声を浴びせはじめ、そのうちの誰かが「警官はユダヤだ!」と叫びだした。その叫びは野火のように群衆の中に広がっていき、次第にそれはより原始的な罵声へと変わっていった。


 ――ユダヤ人は出ていけ! ――ドイツ万歳! ユダヤ人は出ていけ! ――ドイツ万歳!!


 祝祭劇場のそばで起きた騒動を収拾するためにあちこちから警官が走ってきている。すぐに抑えられるのだろうが今はますます騒がしくなるばかりだった。

 騒音の洪水にさらされたニーチェがひどく顔をしかめているのに気付いたエリーザベトは彼を一刻も早く劇場の中に連れて行こうと手を引いたが、しかしどういうわけか彼は動かなかった。足を踏みしめ拳を握りしめ、彼は〝ドイツ万歳〟の叫びを耳にし続けた。そうして全身を震わせながら、うめくような声で言った。

「……! ……!」

 ニーチェが噛み殺すような表情で口にした言葉の意味はそこにいた他の誰にも、もちろんエリーザベトにも意味が分からなかった。言葉ばかりではない、こんなに怒りの表情をあらわにしている兄の姿を見るのは初めてで彼女は戸惑った。

 その時。少し後ろをついて歩いていたレーは我慢の限界とばかりに大きなため息を吐き出した。そして言った。

「うすうす感じていたのですが、やはり私にこの街のお祭りは性に合わないようです。失礼してお先にイタリアへ帰るとします」

 それを聞いていたマイゼンブークは一瞬なにか言おうとしたようだったが、すぐに諦めて「仕方ないわね」と頷いた。

 レーは張り付いたような微笑を浮かべたままマイゼンブークやエリーザベト、それにニーチェの手を握って「それでは。ソレントでまた会いましょう」と恭しく告げると、退散させられつつある群衆を避けるようにして脇道へと入っていき、駅の方へと立ち去って行った。

「レーはユダヤ人なのよ。芸術を愛する心に国境も民族も関係ないと言って私がこの祝祭に連れてきたのだけど……嫌な思いをさせてしまったわ」

 すっかり落ち込んだ様子のマイゼンブークはそう説明していたがエリーザベトはそれをうわのそらで聞くばかりだった。彼女の目に見えるフリッツの表情は怒りに満ちていた。すでに散開してしまった群衆たちをまだ睨んでいた。不幸なことに彼はもうこの祝祭自体を憎んでしまっているのだ。そう感じさせられた。

 私たちはいまとても幸福な場所にいるはずなのに、なぜフリッツだけがこんなにも苦しまねばならないのだろうか。あるいはあのパウル・レーというユダヤ人と過ごした時間。それが彼の何かを変えてしまったのかもしれない。

 どうしたらよいのか分からずひどい不安に駆られたエリーザベトの脳裏にはいま、新たな友人フェルスターが先日語っていたある言葉が蘇ってきていた。

「――ユダヤ人は善良なドイツ人たちの暮らしに、争いの種をまくのです!」



 ……



 それからさらに十五日後。バイロイト祝祭は大成功を収めて幕を閉じ、ワーグナーは万雷の拍手の中で「来年は違うやり方に挑戦だ!」と意気揚々と締めくくった。

 尤も初めての開催だけあって技術的には幾多の難点が浮き彫りになっていた。別々の作業チームが突貫で仕上げた舞台装置は勢揃いすると調和がとれていなかったし本番での故障も多かった。極めつけはわざわざイギリスに発注した全長10メートルのドラゴンの模型の頭部だけが間違ってベイルートに贈られたという珍事で、首なしドラゴンの登場は敵対者たちからは長い間もの笑いの種にされた。

 しかしとにかく、ワーグナーは長い闘いをやりとげた。ドイツ芸術の頂点にまで上り詰め、後世まで続いていく自らの王朝を築きあげる歴史の勝利者になった。


 一方のニーチェは最悪の健康状態と失望の念に苛まれながらバイロイトを去っていった――客観的にみれば敗北者としか言いようがない男だった。ワーグナーは変わっていない。変わったとすればたしかに彼の方だった。すべてに幻滅していた。


 そしてもう一人。エリーザベト。彼女もまた自らの強すぎる意志によって、ひどく奇怪な運命を自分と兄の元へたぐり寄せはじめていた。

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