四 リースヒェンの決断


 ――ヴァーンフリート荘での起工式から四年が過ぎていた。

 この頃バーゼルのニーチェ兄妹の家には新たな顔が見えるようになっていた。

  一人はポーランド出身のパウル・レーという若い哲学者。論文執筆に関する質問のためにニーチェの元を時々訪ねて来ていた。

 もう一人はハインリッヒ・ケーゼリッツ。書店に並んだ『悲劇の誕生』を読んではるばるイタリアから訪ねてきた若き音楽家で、ニーチェはこの男を非常に気に入って助手として扱うようになった。彼が名乗ることになった「ペーター・ガスト」というペンネームもニーチェが考えてやったものであった。

 人嫌いの彼がなぜ助手を使うことになったのかといえば、彼はここ二三年のあいだでどういうわけかひどく視力が落ちてしまい、長時間の読書や執筆が難しくなってしまっていたのである。家事全般を肩代わりしてくれている妹にさらに長時間の手伝いを頼むわけにもいかず、そこで代わりに本を朗読したり口述筆記をしてくれる人物が必要になっていたのだ。


「エリーザベトさん! 大変です! 来てください!」

 奥の書斎からガストが大声をあげて彼女を呼んだ。それを聞きつけたエリーザベトはエプロンをつけたまま大慌てで二階の書斎へと駆け上がっていく。

「――ああ、フリッツ!!」

 嫌な予感は当たっていた。ニーチェは崩れるようにして床に座り込んで身体を痙攣させていた。服の胸元には吐瀉物がこびりついているし床にも飛び散っている。どうやら立ち上がった途端に嘔吐してしまったようだった。

「あの、先生は気分が悪いから少し休むと言ってお立ちになったんです! その途端に吐いてしまって……」

 ガストがうろたえながらもう分かっていることをくどくどと説明しようとする。叱りつけるように「見れば分かる!」とだけ答え、彼女は膝をついて兄の肩に手をやりながら尋ねた。

「フリッツ、ここは気にしないで大丈夫だから。寝室で横になる?」

 ニーチェは答えなかったが小さく頷いて見せたので、彼女は慎重に気遣いながら兄をゆっくりと立たせて、それから身体を支えた。ようやく自分がやるべきことに気づいたガストがニーチェに肩を貸して一緒に歩いていき、彼はようやく書斎の隣の自分の部屋のベッドに横たわることができた。

「私はフリッツの服を着替えさせますので、ガストさんは書斎の床に吐いたものを片付けてあげてください」

 エリーザベトは依頼したがガストはあいかわらずきょろきょろとせわしなく周りを見るばかりだった。

「……ああ、塵取りなら一階の台所にありますので!」

 それを聞いたガストはようやくどたばたと階下に降りて行った。

 いまいち気が利かないガストに内心いらいらしながら、エリーザベトは兄の着ているシャツを脱がせていく。吐瀉物に血は混じっていないが酸い臭いがしない。あまり消化が良くないのだろうか。容態を尋ねたかったがニーチェは苦痛そうに目をとじているばかりであった。いったい兄の身体を何がむしばんでいるのだろうか。そのことは近頃つねにエリーザベトの不安を掻き立てるのだった。


 ニーチェの健康状態はここ数年でさらにひどく悪化してしまっていた。

 ときおり猛烈な吐き気と雷鳴のような激しい頭痛が彼を襲った。そうなるともう何も手に付けることができなかった。絶え間ない頭痛が話すことも考えることも不可能にさせた。

 ニーチェの半生に付きまとった病気について分かっていることは少ない。

 二十世紀の伝記執筆者の多くはその症状からして彼は梅毒に侵されていたのだという結論を下した――若き日の彼が友人たちに連れられて娼館に入ったという証言は実際複数あった――が、梅毒が脳に至った場合長くても三年以内で死亡するのに対し、彼は最終的な破局のあとも十二年間にわたって生存していたことから現在では疑問視されている。

 のちのエリーザベトは彼の病を「あまりに多くの読書と著述に取り組み続けた末に神経を痛め、苦痛を和らげるために濫用した鎮痛剤と睡眠薬が彼の精神を破壊した」という物語に仕立て上げた。

 いずれにせよ、彼は人生の半分を病とともに過ごしたのだ。そしてこの激しい痛みがいずれ自分を発狂させるのではないかという恐怖心を彼は抱くことになった。


 それからまたしばらく後。服用した鎮痛剤が少しは効いたのか、あいかわらず口はきかないもののニーチェの表情は先刻よりはいくぶん和らいだものになり、落ち着きを取り戻していた。ずっと見守っていたエリーザベトとガストもようやく安心して部屋から退出した。こうなってしまっては論文執筆の仕事も中断なのでガストはさっさと帰り支度を始めていた。

「そういえば先生にイタリア旅行を勧めたらつよく興味を持たれていたんですよ。南部なら冬でも滅多に雪は降らないと教えたら『そりゃあいい』と感心しきりでした」

「イタリアですかぁ、良いかもしれませんね。兄は寒さでよけいに具合を悪くしているようなので……」

 ガストに出した紅茶のカップを片付けながらエリーザベトはなんの気なしに答える。

「ヴェネチアにはガストさんがおられますしローマにはマイゼンブークさんが居ますものね。フリッツも心強いかもしれません」

「エリーザベトさんも同伴してご一緒にどうですか? 歓迎しますよ」

 その言葉を聞いてエリーザベトはふとガストの方に目を遣った。

 鳥の巣のような頭にむりやり帽子をかぶせているのが少々滑稽な、音楽家としてはちっとも評価されないヴェネチア在住の貧乏青年。マイゼンブーク氏の所はともかく、ガストの家は面白くなさそうだ。師匠の妹から値踏みをされていたとは夢にも思わず、人の好い笑顔で挨拶するとガストは逗留先のホテルへと帰っていった。

 突然の発作は予定外だったがガストは元より今日で手伝いを切り上げて帰郷する予定であった。兄妹は今日からバイロイトのヴァーンフリート荘に出かける計画を立てていたからだ。兄の健康状態が芳しくない時はエリーザベト一人で出向くことも多くなってきていたので、いまのところの支障はなさそうだ。

 それにしても、とエリーザベトは思った。兄は近頃あまりバイロイトに出向かなくなってきていた。もちろん病気が理由であったがそれにしても意欲が乏しくなってきているように彼女には感じられた。それを問いただすと兄はきまって不機嫌になって「最近うろちょろしてる取り巻きが気に入らないんだ」と答えるばかりだ。いまもおそらく行きたくないに違いない。

 ――ようするに兄はのだとエリーザベトは思っていた。

 トリプシェンに居た頃のワーグナーはなにしろ孤独だったので信奉者ニーチェが訪ねていくと大歓迎で迎え、何時間でもショーペンハウアー哲学について語り合ったらしい。

 今のワーグナーは違う。バイロイトに移ってからの彼は生き生きとして走り回っている。支援者がいくらいても足りないような大事業に取り組み始めたのだから無理のない話ではある。しかし兄はそれを自分が捨てられたかのように取ってしまって意固地になり、わざとつれない態度を取っているのだ。

 エリーザベトにとってそれはとても残念なことだった。ワーグナー夫妻は兄だけでなく彼女のことをもとても気に入ってくれていた。特にコジマ夫人とは打ち解けた話もできる間柄になっていた。この関係は彼女にとって何よりも大事なものだった。

 上流社会とのつながりは兄にも自分にも有益なものとなるに決まっている。なのに兄はつまらない誤解がもとでワーグナーとのあいだに溝を作ろうとしている。

 こうなれば私が二人のあいだを執り成し、仲直りさせてあげるしかない!

 バイロイト行きの荷物を確認しながら彼女は決意を新たにしていた。



                ◆



 翌日の早朝には彼女は駅馬車に乗り込み、バイロイト市内には正午過ぎにはもう到着していた。兄と一緒に泊まるはずだった安ホテルで入浴を済ませ、新調したベール付きドレスに袖を通して念入りに髪を梳かし、一番高い香水を使った。

 着飾ったエリーザベトはきっかり約束の時間にヴァーンフリート荘の正門前にやってきていた。彼女が今日訪れたのはワーグナー家のお茶会に参加するためだった。


「ニーチェ教授はまた寝込んでいるのかね。それは心配だ」

 友人の訪問を楽しみにしていたワーグナーは欠席の知らせをエリーザベトから聞かされると残念そうな表情を浮かべた。そして「兄もぎりぎりまで一緒に来ようと努力していたのですが。彼は何度も『ワーグナー氏にくれぐれもよろしくたのむ』と私に頼みました……」という調子で言ってもいない言葉までさらりとまじえながら欠席の非礼を詫びると、少なくとも感銘を受けたようだった。

 ワーグナーが「いいんだ友よ。我々の友情がこんなことでゆらぐものか」と大仰に答えた言葉にエリーザベトは喜んだが、彼がさらに言い添えた。

「決めたよ。私はニーチェ教授をバイロイト祝祭のオブザーバーとして招待する。彼の鋭い意見をこそ私は求めたいんだ」

 その言葉に、手にしていたカップをおろすのも忘れたままエリーザベトは目をまん丸にして驚き、そして歓喜した。

 ワーグナーの劇場建設という大事業は四年の歳月をかけてついに完成し、その完成を祝して〝バイロイト祝祭〟と名付けられた大興行が七月に開催されることになっていた。彼の新作歌劇『ニーベルングの指環』の初演が行われる予定で、後援会員であるニーチェ兄妹ももちろんそチケットを購入していたのだが、その上演にオブザーバーとして参加するということは別格を意味していた。

 上演の二週間前から現地入りしてリハーサルに参加し、時には意見して、彼の作品を共有する――それは彼がきわめて信頼している友人たちだけに依頼する大仕事であり、その人物が彼の王国の側近であることを示すものだった。ワーグナーのその好意はエリーザベトにとってもう踊りださんばかりに嬉しいものだった。

「だけど、ニーチェ教授はご病気なのでしょう? 貴方のやりたがるリハーサルに付き合わされたらますます身体を悪くしてしまうのではないかしら」

 小さな夫の隣に収まっていたコジマ夫人がそう忠告すると、ワーグナーははっと気が付いたような顔をして口をつぐんでしまった。コジマはエリーザベトの方を見ながら「リヒャルトったらミスがあるとそのたびに最初から演奏をやり直すんですのよ」と言い添え、呆れたような表情を見せた。

 コジマのもっともな忠告を受けたワーグナーは考え込んでいる様子だった。それを見たエリーザベトはきっぱりと断言した。

「問題ありませんわ。だって、兄は音楽は自分の薬だといつも言っていますもの。ことにワーグナーさんの曲とあれば、もう聞いているだけで元気になるに違いありませんもの」

 言葉だけではない。彼女の目が、表情が、身振りの全てがそう断言していた。



              ◆



 エリーザベトの言葉を聞いたワーグナーは上機嫌で近日中にリハーサルのチケットを贈ることを約束し、さらに今晩は屋敷に泊まっていきバイロイトの貴族たちを招いた夜会に出席すると良いと提案してくれた。エリーザベトはもちろん大喜びでそれを受けることにした。

 ――彼女は社交界やパーティそのものが好きだった。それが孤独な性格の兄との一番の違いだった。そして彼女は自分が貴族の男たちからモテるということにも気が付いていた。

 じっさいエリーザベトは顔だちも整い声も美しかった。彼女が近づいて挨拶でもしようものなら彼らは大喜びで迎え、こんどは私の夜会にも参加してほしいなどと相次いで持ち掛けた。そうした扱いは愉快だったし今後の人脈にもなるだろう事も嬉しかった。

 彼女は自分が貴族社会の一員のように扱われだしたことを秘かな誇りにしていたが、貴族たちがこの大酒のみで快活な女性を「貴族の女にはいないタイプ」として面白がっていたことに気が付いたのはだいぶ後になってからだった。――もちろん老境に差し掛かった彼女はそれをなんなく笑い飛ばしてしまうのだが。

「ああ~……幸せがグラスからこぼれだしそう」

 夜会で上等のワインをしこたま口にしたエリーザベトはさすがに酔い、少しばかりのふらつきを感じながら二階のテラスへと進み出ていた。顔がほてっているのが分かる。手すりにひじをかけ、グラスをぶらさげながら、彼女は上機嫌で夜風を浴びた。

 バイロイトは森に囲まれた小さな都市だ。こうして高いところから見ればガス灯や電灯の明かりは手近のほんの一握りで、あとは飲み込まれんばかりに広大な暗闇がどこまでも広がっている。真っ暗な夜の森をながめているうち、いつのまにか彼女はぼうっとしてしまっていた。

 ぴゅうぴゅうと風が吹いていく中、暗闇になにかが浮かび上がる。

 いつしかそれらは二つの白い影となり、それから人の姿になる。白い二人の幽霊は近くにいるのか遠くにいるのか全然わからない。距離感がつかめなかった。

 腰の曲がってしわくちゃな老婆とローブをかぶり顔のよく見えない男。風の中で二人が話す声。男は言う。


「男の幸福は……『我は欲する』である……女の幸福は『彼は欲する』である……見よ、今こそ世界は完全になった……」

 それからまたぴゅうぴゅうと風が吹き、今度はしわがれた老婆の声。

「不思議な事だ……女をあまり知っていないのに……適切なことを言う」

 ぴゅうぴゅうと風が吹き、またしわがれた声。

「……女のところへ向かうときには、鞭を携えることを忘れるな……」


 エリーザベトがふっと意識の輪郭を取り戻すと白い幽霊たちは消え去った。るのは闇だけだった。

「飲みすぎた」彼女が反省しながらなお夜風に当たっていると、またテラスに上がってきたのが分かる。目をやるとそこにいたのは、コジマだった。

 したしげな挨拶の後、コジマはなにげなくたずねる。

「貴女には結婚の意思はあるの?」

「良縁がないもので……」

 いつも母親や親類に言うのと同じ答え。差し入った話題にコジマが触れてきたのは初めてだった。

「そうかしら? 今夜やってきたどの男性でも貴女は射止められると思うけれど」

 その問いとともにエリーザベトは今夜面白おかしく話した貴族連中の顔を思い浮かべた。なんだかちっともピンとこないので答えた。「わからない」

 ふにおちない様子のエリーザベトに対してコジマは言った。

「やっぱり貴女はニーチェ教授が好きなのね」

 その唐突な言葉にエリーザベトはぎょっとしてしまう。思わず手元のグラスを落としてしまい、ガス灯で青白く照らされた庭の芝生に落ちていった。顔を真っ赤にし目を白黒させているとコジマは可笑しそうに微笑んで話題を変える。

「女の幸せは結婚して家庭に入ることだと多くの人は言うけど、私はそうは思わない。私の最初の夫はただ凡庸な人間だった。だから私は選び直した。

 リヒャルトは違う。彼は大きなことを成せる人。人生に立ち向かえる男。私は彼を支え、力を与え、彼をにしたいと願った。それが私の幸せ」

 エリーザベトはなにもいえずに彼女の姿を見つめた。真っ暗な中で目だけが輝いている。いや、暗闇の中に輝きだけがあるのかも知れない。

「リースヒェン、貴女の幸せはなんなの?」

 最後にそれだけ聞こえた後、輝きは消えた。エリーザベトはなにもない暗闇をぼうっと見つめていただけだった。その手にはグラスが握られていた。

 酔いのまわったとろんとした眼差しをホールに向けると、ワーグナーもコジマも取り巻きに囲まれてソファーでくつろいでいるのが見えた。

 今のはアルコールの作用が見せた他愛のない夢。あるいは酔歌。記憶にないはずの記憶を見た瞬間。それだけに却って彼女の脳裏にずっとリフレインし続けていた。


 リースヒェン、貴女の幸せはなんなの?


                ◆



 ――1876年7月。エリーザベトは再びめかしこんでバイロイトを訪れていた。目的はもちろん、三日後に迫ったバイロイト祝祭に参列するためである。

 ニーチェはリハーサルへの参加のためさらに十日ほど前から来ている。

 彼女が同伴で一緒に来なかったのは六年間一緒にくらした家を引き払う手続きをたのまれたからだ。バーゼル大学がフリードリヒに一年間の療養休暇を認めたので、彼は思い切って転地療養を試してみることにしたのだ。バイロイト祝祭の本演に参加したあと、彼はその足でイタリアに発つ計画だった。

 リースヒェンも一緒に行かないかと誘われていたが、彼女はその答えをまだ保留していた。迷っていたのである。兄と一緒にイタリアで楽しく過ごすのも悪くない。しかしいつぞやの夢の影響もあってか、彼女は近頃自分の生活について考えるようになっていた。一度ナウムブルクに戻って何らかの事業を始めてみようかという気持ちもあったし、いっそバイロイトに住んでワーグナー家のそばで暮らすのも良いように思えた。

 ともかく、自分の中のエネルギーを何かにぶつけたかった。しかし何にせよ兄とゆっくり話し合うべきだろう……。

 素朴なバイロイトの街はたった三カ月で何もかもが変わってしまっていた。この間まで土が剥き出しだった街道には美しい模様の敷石が敷かれ、その上をヨーロッパ中から集まってきた貴族や資本家を乗せた馬車が忙しく行きかっている。空を見上げればあちこちに電線が張り巡らされていたし、町中のいたるところに祝祭に参加する人々や華々しく着飾った彼らを見ようとする見物人たちの姿があった。雑貨屋に理髪店に衣装屋にホテル、あらゆる商売がにわか景気で浮かれているのが分かったし民家までもがまるでクリスマスの飾りつけのような装飾でお祭り気分をあおっていた。

 大きなエネルギーがこの街に満ちてきている。エリーザベトの気持ちは高まった。このエネルギーの中心にいるのは天才ワーグナー、そしてその傍らに兄と自分。

それはなんとも誇らしく、二人の栄光ある未来を約束してくれているよう彼女には思えた。エリーザベトはレースの飾りのついた日傘を差しながら、軽やかな足取りで向かっていった。


 しかしその大いなる栄光をもたらす街に、もうニーチェの姿はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る