三 悲劇の誕生(後編)
エリーザベトは栗色の髪をポニーテール状に束ね、女中が使うような短めのエプロンをかけて台所でベーコンスープを煮込んでいた。いろいろ不足の多い男所帯であったが、そこでの家事の切り盛りはもうお手の物になっていた。彼女の兄は整理整頓だけはよくやったが他の些事についてはまるで無頓着だった。放っておけば砂糖パンばかり食べて暮らしていそうな人だとエリーザベトは思った。
エリーザベトがやって来て以降、彼の着る背広や帽子を彼女が毎朝完璧に仕上げるようになったおかげで彼の身なりは見違えるほどスタイリッシュになった。――おかげで五十年後にインタビューがなされた頃、バーゼルの町の老人たちは速足で歩くおしゃれなドイツ人教授のことをまだよく覚えていたという。
彼女がニーチェの暮らすバーゼルにやってきてから、すでに一年が経っていた。
兄の生活を手助けすることは彼女にとって喜び大きい事であったが、バーゼルでの生活自体彼女はとても気に入っていた。故郷ナウムブルクではエリーザベトは明らかに浮いた存在だった。男は妙に威張っていてそのくせ無教養。女は結婚して子供を産むことが幸せと信じて疑わない。母親の家事さえも妙にのんびりしていて手伝っているとイライラする事が多かった。エリーザベトは女権論者には批判的だったが、それにしてもナウムブルクは独立心の強い彼女にはともかく暮らしにくい場所であった。文化都市の気質は彼女の欲求をよく充たしてくれた。
時計の針が十八時を指した。ニーチェはもうすぐ帰ってくるだろう。それに合わせて夕食を作り始めるのももう彼女の日課だった。
「ただいま」
まるで十八時になるのをわざわざ待っていたかのようなタイミングでニーチェは帰ってきた。迎えに出たエリーザベトは驚いた。ニーチェの顔色は真っ青だった。まだ肌寒い時期なのに汗をかき、こめかみの辺りをしきりに触っている。
「頭痛がひどいんだ」と彼は言い、部屋にも戻らず上着も脱がずそのまま客間のテーブルに座り込んだ。見かねたエリーザベトがコップ一杯の牛乳を出してやるとそのまま一気に飲んで、いくぶんか痛みが和らいだようだった。
「やっぱりお医者にかかった方がいいんじゃないかしら」
エリーザベトが心配してそう薦めるとニーチェは大きく首を振って「医者は信用ならん。薬は嫌いだ」と拒絶する。
その自然療法かぶれの態度はワーグナーの受け売りで、彼の敬愛する巨匠は菜食主義になって薬を断てばあらゆる病気にかからなくなると吹聴するろくでもない趣味があった。エリーザベトとしてはそんな理念よりは兄が首を振ると同時に彼の長い髭がパタパタ揺れるさまの方がまだ関心を引いた。飼い犬の毛を洗ったあとに頭をブルルっと震わせた時の動きにそっくりだった。
「……それにしても近頃のフリッツには元気が無いように感じるんだけど」
湧き上がってきた可笑しさを噛み殺しながらエリーザベトも向かいの席に座った。どうにもすぐに夕食という気分ではなさそうだった。するとニーチェは「大学には僕の味方がまるでいないんだ」と寂しそうに答えた。
そして一呼吸着いてから忌々しそうに続ける。
「――ある学者は僕を『学問的には死んだ人間』と評した。教授職に推薦してくださったリッチュル先生も僕を見限ったと人づてに伝えてきたし、プフォルタ学院の後輩だという若い学者は僕を嘲る目的でこんな書評を書いてみせた。
『おおニーチェ氏! 貴方は母校に対してなんという恥をかかせたのだ! 貴方はもう文献学にはかかわらない方が良い。望みどおり笛を吹いて踊りながらギリシアまで行ってしまうがよろしかろう! ただしくれぐれもドイツの学生を連れて行かないように……』」
歌うような調子で一気に言い立てたニーチェは一瞬だけ憤怒したような表情を浮かべていたが、すぐに泣きそうな顔に変わってしまう。
「ともかく僕はドイツ中の同業者からコケにされた。大学でもひどい侮辱を受けている……」
それを聞いたエリーザベトは仰天してしまった。立派な兄が他人からバカにされるなど、彼女にとってはまったくもって信じられないことだった。
「いったいどうしてそんな事になってしまったの?」
……刊行された『悲劇の誕生』を読んだ同僚たち、殊に同じく文献学を専門とする学者たちはたしかに唖然とし、それから彼らは口々に「これはもう文献学ではない!」と言い立てた。そしてそれは実際そのとおりだった。
ニーチェがこの処女作で示したのは彼の思弁力の高さと大胆さであり、文献を精密に解読し隠された過去を発見する彼の職業とは遠いものだった。
彼は自分の直感を信じて語る。いわく、ギリシア文明はなぜあれほど巨大に栄えることができたのか? それは生を愛していたからだ。しかし彼らはただ快楽と喜びを重んじただけの民族ではなかった。アポロンに象徴される理性と創造性、そしてディオニュソスに象徴される無秩序で荒々しい陶酔の感情。彼らはその二つを両立した健康な精神を抱いていたのだとニーチェは信じる。
しかし哲人ソクラテスの――キリスト以前のキリストの――登場以降、ギリシアには理性のみを偏重する合理主義が台頭するようになり、ディオニュソス的な生の喜びは忘れられていった。ギリシアは合理主義という病によって滅んだのだ。そしてギリシア文明を受け継いだ西洋文明も、その病にいまだ毒され続けている……。
しかしニーチェは高らかに断言する! 現代の音楽家リヒャルト・ワーグナーによって破壊と陶酔のディオニュソス的精神は再生された! 『トリスタンとイゾルデ』を見よ! あの悲劇こそ人類の精神を再生させる最初の一撃なのだ! ……と。
この絶叫じみた独断的な論文の中で彼が見出そうとしたのは、明朗な生の喜びと暗い陶酔感の二輪こそが生を充実させるという確信であった。そしてそれはたしかに文献学とは程遠く、それまでニーチェに好意的だった人々も心酔するワーグナー宣伝の道具に学問を利用したと冷ややかな態度を取ることになった。
(無名の著者が本を出すには有力者の力を借りる必要があり、彼の熱烈な賛美に気をよくしたワーグナーは実際に出版を後押しした。後半の露骨な加筆部分を助言という形で暗に要求したのもワーグナーであった……という事実はおそらく彼らの評価を変えるほどではなかった)
ニーチェは暫くの間なにか考えていた様子だったが、やがて何も答えずコップに残っていた牛乳を飲み干し、うなだれるようにして口を開く。
「僕の味方はオーヴァベックとローデだけだ。そしてリースヒェン、君だけだ……」
ローデはライプツィヒ大学時代の友人で、彼を弁護すると確約してくれた唯一の相手。オーヴァベックはバーゼル大学で一緒に働く教会史研究者でニーチェとは妙に気が合い、過去五年間も同じ下宿で一緒に生活した親友だった。エリーザベトは二人とも面識があった。ニーチェは相変わらず湿ったような眼差しだけを妹に向けていた。
エリーザベトは知っていた。彼女の兄はどういうわけか物腰や話し方、目つきに至るまでが極端にやさしげで女性的にさえ思えた。父が早くに亡くなって女しかいない家庭で育ったせいだろうか? 本人もそれを気にしているのか権威的な口ひげを生やしているが、とても覆い隠せるものではない儚げな雰囲気があった。
その兄がペンを握った途端、どういうわけかまるでウォーダンに仕える
その時、あいかわらず潤んだ瞳のままニーチェはかなしげに呟いた。
「近頃はなんだかやたらと頭痛が起きるんだ。父さんが脳軟化症で死んだのが三十五歳だったろう。僕も同じように死んでしまうように思えてならない。そう、このまま何も果たせないまま……」
「そんな事!」思わず立ち上がってエリーザベトは叫ぶ。「そんな事は絶対にない! 私がさせない!」
「だけど予感がするんだ。僕の背後には気味悪い影が一歩一歩近づいてきている。そんな予感が」
「――そんなものがいるはずがない! 私が認めない!!」
エリーザベトは甲高い声でそう叫ぶとツカツカと彼の背後まで歩いていく。そうしてそのまま、ニーチェを肩越しに抱きしめた。密着したまま彼女は力強く言う。
「ここに私がいるから大丈夫。フリッツは永遠に守られている……」
肩越しに組まれた妹の腕をさすりながら、ニーチェは首をゆっくりと曲げて後ろを見る。慈しむように彼の目を見つめるエリーザベトの顔がすぐ近くにあった。
「……ああ。ラーマなら
「フリッツの敵なんてひっかいて、噛みついて、おしりを蹴飛ばして地獄に叩き落してやるわよ」
そう言うと、彼女はわざと歯を見せるような荒々しい笑顔を作って見せるのだった。ああ! 久しぶりに見た悪魔の顔だ! とニーチェは内心思った。
この兄妹は子供の時からひどい近視で、二人とも無意識のうちに睨むような目つきをして人を見る癖があった。悪魔のような目で人を見てはいけないと母親から叱られるうちに作られた兄妹間の秘密の遊びの一つだった。他の誰にも見せない、悪魔の顔ごっこ。
やっと気持ちが和んだらしい兄の様子をみとめたエリーザベトはようやく組ませた腕をほどき、台所の方へと向かっていく。残りの夕食の支度にかかるらしい。
「リースヒェン」
その背中にニーチェが声をかける。そうしてそのまま返事も待たず彼はこう続けた。
「今度一緒にバイロイトへ行こう。バイロイトこそが僕たちの居場所だ」
◆
――1872年5月22日。この日はリヒャルト・ワーグナーの誕生日である。
例年通りならば彼の信奉者たちはトリプシェン湖畔の別荘に集まっているはずだったがこの年は違っていた。バイロイトこそが信奉者たちの目印だった。
ワーグナーは若いころから、自分の書いた楽劇を自身の理想の劇場で演奏する日を夢見ていた。バイロイトに移り住んだのは彼の長年の夢を実現するためだった。
バイエルン国王ルートヴィヒ二世――彼は国家が傾くほどの予算を芸術振興に費やしたあげくに発狂した事から、のちに狂王と呼ばれた――の支援を受け、彼はこの地に夢の劇場を建設する事を決意して移住。膨大な金のかかる夢の実現に向けて動き始めた老音楽家はより多くの後ろ盾を求めるようになっていた。そこで彼は自らの誕生日に支援者を集めるべく、大々的な施工式を開くことにしたのだった。
以前から彼の夢の実現について相談されていたニーチェはもちろんその夢を一番に支持し、兄妹は連名で三百タレル(彼の年棒の三分の一ほど)を即座に寄付してワーグナーを非常に喜ばせた。
そうしてこの日。多くの信奉者が押しかけるワーグナーの新居ヴァーンフリート荘のホールにはもちろん、ニーチェとエリーザベトの姿もあった。
ヴァーンフリート荘はニーチェが三年間足繁く通ったトリプシェンの別荘よりもずっと広かった。保守的な地方都市という土地柄もあってだろう、建築様式も質実剛健な準ドイツ風で統一されていて威容が備わっていた。トルプシェンの別荘のロココ調が調和を乱している事をひそかに感じていたエリーザベトは即座にこの新しい宮殿の雰囲気を気に入った。
この起工式にはドイツ語新聞で顔を見た事があるような貴族階級の人々が多く参加している事もまたエリーザベトを喜ばせていた。自らと兄が彼らの一員として振るまっているのはなんとも誇らしい事だった。雑踏とピアノの音が耳に触るほどに響き渡る中、彼女は目を輝かせて周りを見渡している。
一方のニーチェはというと給仕から渡されたシャンパンのグラスを片手に持ったままホールの真ん中に立ち尽くしているばかりだった。顔見知りしかいなかったトリプシェンの社交会に比べてはるかに規模の大きいパーティにすっかり参っているらしかった。肝心のワーグナーもあちこち挨拶してまわるのに忙しいようでろくに挨拶にも行けなかった。
「ようこそニーチェ教授」
そこにやって来たのは、あののっぽのコジマ夫人だった。「このたびはリヒャルトの夢にお力を貸していただいたそうで……まったくなんとお礼を言ったらよいかしら」
そう言って彼女はニーチェに対して儀礼的にごく小さく礼をして見せた。どうやら今日はワーグナーとは別々に挨拶回りをしているようだった。兄が饗応を受けている間、エリーザベトは彼女の着ているドレスに注目していた。例によって宝石がちりばめられているが前のドレスとも違う。こんな家より高価そうなドレスをいったい何着持っているのか猛烈に気になった。つい聞いてみたくなるほどだった……。
エリーザベトの悶々とした気持ちを知ってか知らずか、コジマは連れ立ってきたもう一人の女性の紹介を始める。
「こちらはマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク女史。ヘッケン選帝侯から爵位を贈られた由緒正しい貴族の家の女性です。マイゼンブーク女史もリヒャルトに多大な支援を贈ってくださいましたのよ」
二人の前に進み出てきたのは恰幅が良く温厚そうな老齢の女性だった。ドイツの貴族階級出身だが、この頃には男女同権運動を支援する自由思想の女性知識人として知られていた。奇縁なことに彼女もワーグナーの古い友人だった。
「いまはローマで知識人のためのサロンを運営しておりますの。ニーチェ教授もイタリアに来たらどうぞいらっしゃい。歓迎しますわ」
快活にそう告げたマイゼンブークはニーチェと力強く握手をかわし、それからエリーザベトの手も握った。
「貴女もぜひ! これからの時代はね、目覚めた女性の力がなによりの原動力ですのよ!」
そう言いながらマイゼンブークはエリーザベトに対してウインクしてみせた。母よりも年上の女がこんな茶目っ気ある態度を取るのを彼女はこの時初めて見た。
それから「そのうちにリヒャルトも会いに来るでしょう」と言い残し、コジマはあわただしくほかの客に挨拶に行き、マイゼンブークも二、三言ことばを交わすと見かけた他の友人の所へ賑々しく向かっていった。兄妹はふたたび賑々しいホールの中にぽつんと取り残されてしまった。
「……ほんとうにすごいヒトがたくさん来てるのね」
エリーザベトが改めて感慨深げにそう呟くと、ニーチェの方も同感という様子でこくこくと頷いて見せた。そうしてろくに飲めないアルコールを忌々しげに口にしながら「僕は女権運動などというものを評価しないが、ああいう活力ある女性は素晴らしい。あの二人はどちらもワーグナー氏を大きく支えてくれている」と続けたのだった。いちいち仰々しくなる兄の言い方にエリーザベトは苦笑したが、彼女もあの二人の女性に好感を抱いたのはたしかだった。
そうこうするうち、大勢の人たちに取り巻かれながら先頭を歩く小男の姿が目に入った。支援者に礼を述べて回っているリヒャルト・ワーグナーと、大事業をぶちあげた彼と近づきになろうと後から追いすがる貴族や富豪達。小さなワーグナーの後ろに派手に着飾った男女がぞろぞろついて回る姿は孔雀にも似ていて少々滑稽にも思えるのだった。
「おお、我が
ここでついていくのはさすがのエリーザベトも少々遠慮してしまった。一着しかないドレスをあの人混みでもみくちゃにされるのは御免蒙りたかった。浮かれた様子でワーグナーの元へ駆けていく兄を見送りながら、エリーザベトは三杯目のシャンパンを飲み干そうとしていた。彼女は兄と正反対で酒にはとても強かった。
ちょうどその時、人の波をくぐりぬけて飛び出してきた男の肩がエリーザベトの手に触れてしまい、
「きゃっ!」
「あっ!」
さいわいにもグラスを手元から落とすことはなかったが、傾けられたシャンパンはみごとに彼女のドレスの胸元にぱしゃりとかかってしまった。
「あああ! こ、これは申し訳ありません! なんてこった、お召し物が……」
肩をぶつけてしまった男は自分の過失を素直に詫び、大げさにも見えるリアクションをとりながら謝罪した。
「――いえいえ。大丈夫ですわ、お気になさらず」
エリーザベトは張り付いたような笑みを浮かべるとお作法通りに受け流して見せた。前もよく見ていなかったのかと腹立つ気持ちはあったが実際大した被害ではなかったし、あわててハンカチで拭こうとした若い男が〝失敬な位置〟だと気づいて余計に目を白黒させているのを見るとどうにも可笑しさのほうが勝ってしまった。情けなくて怒る気にもならない。笑うのはさすがに気の毒。
目の前であたふたしているばかりだった男は漸く状況の打開策を思いついたのか背広の胸ポケットから一枚のカードを取り出してエリーザベトに手渡してきた。渡しながら男は告げる。
「そ、そのぅ……私はベルンハルト・フェルスターと申します。ベルリンのギムナジウムで教師をしている者です。失礼かとは思うのですが、万一お召し物をダメにしてしまっていたら此方に連絡を下さい。ただちに弁済いたしますので……」
フェルスターと名乗った男は切れ長の鋭い目をした精悍な顔つきだったが、その弱々しい言葉遣いと今にも泣きだしそうな態度がすべてを台無しにしていた。歯切れの悪い男で突きだした名刺を受け取られるとひと安心した様子だったが、エリーザベトのほうはその優柔不断な態度にかえって呆れてしまっていた。
「アナタもワーグナー氏に会いに?」エリーザベトが尋ねるとフェルスターは作ったような薄笑いを浮かべると「私は音楽を聴く耳は持っていないのですが、彼の思想に共鳴しているのです」と答え、軽く一礼をしてからワーグナーの後を再び追いかけて立ち去っていったのだった。
「……思想?」
しらけた気持ちでエリーザベトは受け取った名刺を眺めた。やたら細かい文字でそこにはこう書かれていた。
『ベルリン市在住 ベルンハルト・フェルスター。職業・ギムナジウム教師。
ベルリン・ワーグナー協会会員……アーリア人種の純血性を保つ会会員……
ユダヤ汚染に警鐘を鳴らす会会員……市民による反ユダヤ運動の会会員……』
……
孔雀の尾になったニーチェは不満だった。ワーグナーは自分が挨拶をしても一言二言ことばをかわしただけですぐ次の相手に関心をうつしてしまった。
金持ちの追従者たちに対して延々と握手を繰り返していたワーグナーの方は至極ご機嫌なのが傍目にもよく分かった。興奮のあまりかすっかり上気したピンク色の頬をしていたのだ。そしてこの巨匠はいまやすっかり舞い上がった様子で、一番目立つ壇上に上がるやいなや客人相手に叫んでいた。
「みんなありがとう! ありがとう! ――私はこれまで何度も聞かれた!
なぜウィーンやベルリン、あるいはミュンヘンではいけないのか? なぜバイロイトの素朴な街に劇場を立てるなどという酔狂にとりつかれたのか? と。
今こそ宣言する! それはこの街が未だ異人種によって侵されていない清浄な街だからだ! 果たしてほかに理由が必要だろうか?
私はアーリア人種の誇りのために、どこまでも高みを目指して見せる!!」
その言葉が発せられた途端、どういうわけかニーチェはこめかみに軽い痛みを感じた。頭痛が起こる前の不快な兆候だった。どんどん気持ちは醒めだした。
不思議なことに彼がしらけた気持ちになるとともに、集まった信奉者たちは反対にひどく感情を刺激されたらしい。彼らは目を潤ませ、歓声をあげながら掌を打ち鳴らした。そしてついには呼応するように口々に合唱を始めたのだった。
「アーリア人、万歳!!」「アーリア人、万歳!!」「アーリア人、万歳!!」「アーリア人、万歳!!」………
ホール中が高揚して何度も何度もその合唱を繰り返す中、ニーチェはたった一人、まるで聾唖者にでもなってしまったかのようにその場に突っ立っている事しかできなかった。
◆
「――フリッツ、本当に頭痛は平気なの?」
「大丈夫」
「もう少しワーグナーさんの家で休んでからの方が良かったんじゃあ」
「出たら治った」
「んー? そうですか……」
ニーチェとエリーザベトはまだ日も高いバイロイトの街を鈍重な足取りで歩いている。ニーチェは体調を崩したといって施工式を途中で抜け出してしまったのだが、追いかけて出てきたエリーザベトにはそれが口実だという事はすぐに分かった。いや体調不良は事実なのだろうが理由はそれだけではなさそうだった。
「パーティで何かあったの? ――たとえば美女にシャンパンをひっかけてしまったとか」
エリーザベトはややふざけた調子でそう尋ねたがニーチェは一瞥すらしない。妹のドレスの胸元のシミには間違いなく気づいていなかった。すっかりスネている事はわかるのだが、彼女には何が理由なのかさっぱり分からなかった。
それから暫く二人は押し黙ったまま歩き続けていたが、やがてニーチェは意を決したようにこう口にした。
「いや、隠したところでリースヒェンには見通されていることだろうな。たしかに僕は気に入らなかった。ワーグナー氏が厭らしい態度を取ったことがね」
「……厭らしい真似?」
ますます分からない。妹の目にはワーグナーの姿は誇り高く威厳のある、皆に尊敬されるものに思えていたからだ。
「僕の知っていワーグナー氏は、あんなことは絶対に言わないのだ。あんな厭らしい煽動家じみたことは!」
なにがなんだか分からないが、ワーグナーの言葉のなにかが気に食わなくて出てきてしまったのか。おそらく忙しさにかまけてほとんど相手にされなかったのも兄の気持ちを損ねたに相違なかった。エリーザベトはさすがに呆れた。
「うーん、まあ。ワーグナー氏も有名になってすっかり忙しくなってしまったものね……今はいろんな人に出資をお願いしないといけないお立場でしょうし」
「そのような俳優的態度が、結局は彼の気高さを損ねると言っているんだ」
兄はあいかわらずふてくされているように見えたが、まるで恋する乙女のようにワーグナーの仕草について語りだすのはやはり可笑しいことのように思えて笑いをかみ殺すのが大変だった。
そうしてついに笑いがこらえきれなさそうになると、エリーザベトはどさくさまぎれに兄の腕につかみかかり、強引に腕を組んで歩き始めた。
「おい!」
ニーチェはさすがにぎょっとした様子で妹の顔を見たが、
「まあまあ、愚痴ならこの可愛い妹がいくらでも聞いてあげますから。くれぐれも素晴らしき友情をほんの一時の感情で損なうことのないよう、どうかよろしくお願い申し上げます」
エリーザベトはまた例の、悪魔じみた笑顔を作りながらにやにやと笑い、うやうやしく自らの兄に願い出るのだった。
バイロイトの陽は高く、二人の足取りはこの頃にはまだ揃っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます