二 悲劇の誕生(前編)




 ──雨戸を閉めずにいた窓から夜空が白みだしたのが見え始めた頃、ニーチェはまんじりともせず夜明けを迎えていた。口ひげを豊かに生やした青白い顔は、近頃は大抵そうだったが、この朝はいつにもましてひどく不安そうだった。

 テーブルの上に鎮座して気をそらしてくれていた好物のクルミ入り焼き菓子を食べ終えるとその不安はますます強まってしまったようで、

「もうダメだ。ただ待っている事はとてもできない。僕は新聞屋に行く!」

 とても座ってはいられないといった様子で着いていたテーブルから立ち上がった。

 一方向かいのテーブルに座っていた女──彼の妹エリーザベトは呆れた様子を隠そうともせず冷ややかにこう告げる。

「慌てたところで無駄ですよ。もう少しゆっくり構えたらどうですか」

「いいやキミは分かっていないね! ショーペンハウアーも言っていただろう、永遠は一瞬の中にこそ……」

 なにか言い立てていたが急ぎ足で階段を登っていくものだから、最後の方はまるで聴き取れはしなかった。そうして自分の部屋からひったくるようにコートを取って戻ってきた。その表情はあいかわらずいたって真剣だった。

「とにかく僕は行くよ。止めないでくれリースヒェン」

「いやどうしても行きたいならべつに止めはしませんけれども……」

 ちょうどエリーザベトも玄関先から戻ってきていたところで、彼女はニーチェ愛用のステッキとハットを新品のようにぴかぴかな状態で用意していた。

 妹の手際の良さに感心しながらそれを受け取ると鏡の前で自慢のひげを指先で軽く整え、いよいよ玄関に向かい始めた段になって、ちょうどノックの音がした。

「こんな早朝に一体誰だ?」

 驚いた様子でフリードリヒがドアを開けると、そこに居たのはいつものんびりと朝刊を届けに来る新聞屋の爺さんだった。

「おはようございます先生、朝刊を届けに来ましたよ」

「は、はあ? いつもは七時過ぎに配達に来るのにえらく早いですね」

 面食らった様子のニーチェの事はまるで気にせず、爺さんはニコニコしながら手にしていたドイツ語新聞を差し出す。

「エリーザベトさんに頼まれてたんですよ。明日の朝刊は先生がとても楽しみにしているから朝一番で届けてほしいって。だもんで印刷所から届いた朝刊を持って真っ先にここに来たんです」

 ようやく事態を理解したフリードリヒは苦笑しながら後ろを振り返る。案の定そこにはエリーザベトが立っていて、ニヤニヤ笑いながら彼の事を見ている。どうやら彼女には、私がまんじりともせず朝を迎えて待ちきれずに出かけようとする事まで最初から分かっていたらしかった。

 自分を見つめる勝ち誇っているような表情にニーチェも誘われるようにニヤリと笑みを浮かべ、「愛しいめ!」とつぶやくのだった。


 ラーマというのは幼少期に彼が妹に与えた、もう一つのニックネームだった。百科事典に載っていた働き者の家畜の名前である。そしてラーマとエリーザベトにはもう一つ共通点があった。彼の持つ百科事典にはこう書かれていた。

〝ラーマはじつに働き者な家畜である。この家畜には一番重たい荷物を率先して背負うだけの勇気と粘り強さがある。そしてこの家畜は同時に非常に頑固な性格をも持っている。ラーマは気に入らない事があれば地面に座り込みエサを食べることを拒否するのだ。自分が納得しない限り、ラーマはたとえ飢え死にしようともそこから動かない……。〟


 ニーチェはよく気が付く妹がそつなく手配してくれた刷りたての新聞を開き、彼女とともにバーゼルの地方記事の裏にある小さな広告欄を注視する。

「あった!」

 彼は思わず歓喜の声をあげた。そうして見つけた小さい広告を、まるで宝石でも見つけたかのように得意げに妹に対して指で示した。


『バーゼル大学文献学部教授フリードリヒ・W・ニーチェ氏の著作

 Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik

    (音楽の精神における悲劇の誕生)

 来春より全国書店で販売開始。郵送希望の方はフリッチュ書店へご注文を……。』


 その小さな広告の一文字一文字を兄妹は二人そろって食い入るように読み込んでいく。そうしてしばらくの余韻があって……先に口を開いたのは妹の方だった。

「おめでとう! フリッツ! アナタの名前がいまドイツ全土に轟いたのよ! 国王から貴族がたまで皆アナタの名前を目にするのよ!」

 まだ名前しか載っていないのに寄せられる大げさな賛辞にフリッツは笑ってしまったが、すぐに満足げに息を吐いた。その額にはじっとりと汗が浮かび、青白い顔は珍しいほどに上気していた。妹に発破をかけられた彼は自信ありげにこう呟いた。

「ああ。これで僕の考えを、ヨーロッパ中に突き付けられる」



               ◆


 ――少年フリードリヒは極めて優秀な成績でギムナジウムを卒業し、高等教育を受けるために故郷を離れて全寮制プフォルタ学院へと進学した。彼は両親に倣って聖職者となる事を目指していたが、教養学科の中で古典文学や歴史研究や音楽、そして思想哲学に触れるにつれて次第に関心が移っていったという。そして後の〝神は死んだ〟に繋がっていく、宗教に対して疑問を差し込んでいく意識の芽生えを得たのもこの頃であった。

 その後も学業面では目覚ましい成績を残し続け、二十歳の時に大学生となった。

一時は休学して短期間のあいだ軍隊にも入隊している。そして二十四歳の時、恩師からの「彼のように優秀な人間は今まで見た事がない」という賛辞の添えられた推挙によって、隣国スイスの名門バーゼル大学の古典文献学科の教授に任命されたのであった。最年少の教授として当時の新聞にも大きく取り上げられた。

 兄が若くしてその名声を上げつつある一方、二つ年下の妹エリーザベトはいつまでも故郷に縛り付けられていた。十三歳で初等科学校を卒業した後、彼女は独学で様々な事に挑戦した。英語やイタリア語を学ぼうと家庭教師を頼んだり、教会の慈善活動に参加したりなど、なんらかの形で社会に携わろうとしていた。保守的な母親が次々に持ってくる縁談も全て断った。「女は初等学校を出たら後は嫁に行くだけ」という当時の社会常識に、活動的な性格の彼女はなじめなかったようだ。

 

ナウムブルクの田舎でいつまでもくすぶっていた彼女の転機は1871年の二月に訪れた。それをもたらしたのは兄フリードリヒからの手紙であった。

「先年より体調を崩しがちでしたが今年に入ってから体調は最悪になりました。どうか母かリースヒェンのどちらかバーゼルに介助に来てもらえませんか……」

 ニーチェは前年に勃発した普仏戦争の際、大学を一時休職してプロイセン軍の兵士として従軍していたが(彼はスイスの大学に勤めるためにプロイセン国籍を放棄していたので徴兵の義務はなかった。従軍は志願だった)戦場で赤痢とジフテリアに感染したため除隊。その後バーゼルに舞い戻ったが一年療養せよという指示を無視して復職したために何度も再発させてしまい、健康を害してしまったのである。

 母親は女一人で遠いバーゼルまで行くのはとんでもない事だと断ろうとしたが、エリーザベトはこう強く主張して母親を説き伏せた。

「気難しく人見知りもはげしいフリッツは女中なんてとても雇えず、このままでは仕事もできなくなってしまうだろう。それならばこの私が彼を助けに行くべきだ」

 そうして手早く身支度を整えてしまうと彼女はただちにバーゼルに駆けつけ、兄の住む家に転がり込んで当時としても珍しい兄妹での共同生活を始めたのであった。ニーチェ二十六歳、エリーザベト二十四歳の頃である。


              ◆



 1871年十二月二十四日。クリスマスイヴの午後。

 スイス・ルツェルン湖のほとりは静かだった。湖のそばに立って見渡せばリギ山やピュラミス山に雲がかかっているのが見え、ふもとトリプシェンの白壁の屋敷群も見事である。風光明媚なのは遠い景色に留まらない。底冷えする空気は朝方に降った雪の薄化粧を未だに溶かさず、足元でさえその美しさを保っている……。

「完璧だ」

 ニーチェは確認するように何度も辺りを見渡してはそう繰り返しながら、石造りの歩道の上を揚々と歩いている。服装はというと、ツヤが輝いて見えるほど手入れされた燕尾服にシルクハット。その姿はふさふさとした口髭や愛用の丸眼鏡、ややずんぐりとした体型もあいまって年齢よりも年上に見えた。

 兄と同じように辺りを見渡しながら少し後ろを歩いているのは勿論エリーザベトである。彼女は薄赤色のドレスを身にまとい、勿忘草があしらわれた帽子を浅く被っている。いつでもやたら老けこんで見える兄に比べ、礼服に身を固めて髪を流行りのように巻き上げたエリーザベトはとても若々しかった。小柄で鼻筋も整い、宝石のように煌めく碧眼を持つ彼女はどこかの令嬢のようにも見えるのだった。

「トリプシェンって本当に素敵なところね。バーゼルほど賑やかではないけれど、まるで調度品みたいに奇麗な街……」

「そうだとも。トリプシェンこそがいまや世界一の芸術都市に他ならないよ。自然は美しく空気は澄んでいる。おまけにドイツ語が通じる。もはやパリなんて行く必要もないさ」

 ニーチェはそれを自分の事のように誇らしげな顔をしながらそう述べ、さらに芝居がかった調子で歩道の先にある建物を指さしこう告げるのだった。

「なんたって今この場所に、リヒャルト・ワーグナーがいるのだから!」

 二人が高揚した様子で見つめた先にあるのは今から尋ねる相手の別荘。風光明媚で知られるルツェルン湖畔の中でも最も名高い景勝地に建てられた三階建ての豪奢な屋敷、そこは当代一の音楽家リヒャルト・ワーグナーの別荘であった。

 彼ら兄妹はワーグナー家の私的なクリスマスパーティに招待され、バーゼルからはるばるトリプシェンまでやって来たのである。

「あんな有名人と知己になれるなんて、フリッツは本当に偉大な人になったのね」

 妹はあいかわらず大仰な、しかし完全なる本心から先を歩く兄を誉めたてる。

「――ああ。リースヒェン、そしてお前も今日からその仲間入りさ」

 そう言って、兄妹は満足げな微笑みを浮かべながらその屋敷へと向かっていく。二人がやってきているのに気が付いたのか、屋敷の方でも使用人達が入口に出迎えに集まり始めているのが見えていた。



 二人が使用人から通された広い客間は湖側の壁が全面ガラス張りになっていて、ルツェルン湖一帯のその景色を居ながらにして眺めることができる見事なものだった。これがワーグナーがこの屋敷を購入する決め手になったのだという。日も沈み始めていて、湖はなんとも言えない色彩を帯びながら煌めいていた。

 部屋にはすでに何人かの男女が居て、テーブルの上にはすでに菓子類やワインが用意されていたが、エリーザベトは初めて見る上流階級の邸宅にいささか興奮していてそれらに手をつける気にはなれなかった。部屋にはいくつかの調度品とピアノ、そして絵画がたくさん掲げられていた。

 彼女にはその題材は分からなかったが、ほとんどはゲルマン神話を題材にした荒々しい絵であった。槌を振って戦う雷神トールや麗しき女神フライヤ、そして主神ウォーダンが自らの片目を差し出してミーミルの泉の水を飲む場面……。

 調度品もゲルマン民族古来の武具や鎧のレプリカである。それらは調和してある種の威容を感じさせていたが、包み込む部屋の内装は白く艶やかなロココ調のそれであったのが、エリーザベトの感性にはなんだか不格好にも感じられたのだった。

 兄はこれをどう思うのだろう? ふと気にかかったエリザーベトはニーチェに尋ねようと思ったが、その時ちょうど


「いやぁ久しぶりだねニーチェ教授! よく来てくれた! 私も妻も子供達も、君が来るのを朝から楽しみに待っていたのだ!」


 甲高い声をあげながら階段から降りてきたのは、エリーザベトが持っていたイメージと少し違う雰囲気を持った老人だった。ふさふさとした金色の髪と顎鬚は想像以上に立派なものだったが、とにかく小柄だったのだ。腕を組んで一緒に降りてきた奥さんよりも背が頭一個分低かった。ベレー帽をかぶり真っ赤な礼服を着こなしているその姿は芸術家らしさの演出としては過剰にさえ思える。

 しかしその小さな体には確かに並々ならぬエネルギーが充満していて、エリーザベトにもその事は十分に感じ取れた。――この老人こそ間違いなく、リヒャルト・ワーグナーだ!

 ニーチェはといえば彼の姿を見た瞬間にそそくさとワーグナーに駆け寄り、満面の笑みを浮かべながら彼の手を握っていた。そしてやや上ずった調子の声で彼に対して挨拶だか賛美だかよくわからない長口上を述べだすのだった。

 ひとしきりの挨拶を聞き漏らさずに受け取った後、ようやくワーグナーはエリーザベトの方に目を遣ると微笑みながら手を差し出した。そして彼女の手を握りながら「それで君が、ニーチェ教授の妹君か。私がワーグナーだよ。今日はよく来てくれた」と滑舌よく聞き取りやすい声で告げたのだった。

「は、はい……! 本日はご招待にあずかりまして、真に光栄でございます」

 エリーザベトの方もひどい緊張でうまく口が回らないのが分かった。顔が熱くなっているのが自分でもわかるほどだった。その様子が手に取るように分かったのだろう、ワーグナーはもう一度ニコリと微笑んで見せると「固くならずに。今夜は私の親友達だけを招待したんだ。楽しんでいってほしい」と朗らかに言い添えた。

「あらあら素敵なご令嬢ですわね! ニーチェさんにこんな愛らしい妹さんがいたのですね!」

 そこに賑々しくやってきたのはワーグナーの妻・コジマである。ワーグナーと並ぶと余計に長身で若々しく見えたが、実際すらりとした美人であった。

「私がコジマ・ワーグナー。よろしくお願いいたしますわ。ええと」

「エリーザベト・ニーチェです。お会いできて嬉しいです、ワーグナー夫人」

 幾分か落ち着いた様子でエリーザベトはコジマと握手を交わす。彼女の纏っているドレスは非常に煌びやかに見えるもので、近くで目にすると宝石があちこちに縫い入れてあり、縫い目には金糸が使われているのが分かった。あまりの豪奢ぶりに目を丸くしてしまい、おそらく態度にも出てしまっていたのだろう、コジマは彼女を見て可笑しそうに笑ってしまっていた。

 それから彼女の後についてきていた幼い三人の子供たちに挨拶する。一番大きな長女でもまだ五歳だという事だった。ワーグナーは呵呵と笑いながら「孫と思われてしまう事が多いよ」と言い添えたが、六十歳近い彼と三十三歳のコジマと子供達が並んでいる姿はたしかに三世代家族に見えた。

「それでは私達は他の友人のところにも挨拶に行ってくるよ。クリスマスパーティは七時からだ。今日という夜を我が親友と美しい妹君が楽しんでくれるならば、何よりだ」

 ワーグナーはニーチェにそう言い添えると小さく手を振り、再びコジマとしっかりと腕を組みながら、別の友人達の所へと向かっていった。


「素晴らしい人だっただろう? もちろん人柄だけではない、彼の曲はドイツの、いや全人類の生命を躍動させるのだよ。彼は革命家だ」

 興奮のあまりか額に汗を光らせながら、ニーチェはニコニコしながらエリーザベトの方を向く。エリーザベトも恍惚とした様子で「うんヤー」と頷いていた。エリーザベトもこの対面に人生で初めてかんじる強い陶酔感を覚えていたのだが、それは兄の抱いていたそれと、じつは大きく異なっていた。

 ニーチェにとってワーグナーは師であり同志であり革命家であった。彼らは共にかねてより「音楽は言葉より熱い」という信念を抱いていた。音色やダンスは、迂遠な言葉よりも遥かに雄弁に世界の真理を示せるものだった。ニーチェは自らの処女作ではっきりとその考えを述べた。

 ソクラテスが説いた哲学以来、ヨーロッパ人は言葉で紡いだ論理の中で生きる事になったが、それはじつに冷え切った、生命の熱情を無視した思考法である。嘆かわしいことに魂の震えをそのままに表現するべき芸術までもが冷え切った言葉の論理のしもべとなり、人の心と生命を熱くさせる事がなくなった。しかしながら! 十九世紀末の今日に現れたワーグナーこそは、ソクラテス以前の熱い音楽の精神を蘇らせた巨人なのである! ……と。

 そういうわけでニーチェは自らが見出した理想の実現者として見出したワーグナーに心酔していたのだが、エリーザベトにとっては生まれて初めての上流階級社会の体験の衝撃であった。

 中産階級の家の娘として生まれた彼女にとって、ワーグナーの豪奢な屋敷も、彼やコジマの身なりや仕草ひとつとってでさえ初めて見る物ばかりだった。その豪華絢爛さ、華麗さ、優美さに彼女は一瞬で心奪われてしまったのだった。

 殊に彼女に衝撃を与えたのは、彼らが見せた〝自由恋愛〟という思考だった。年齢の差は問題ではない。裕福な家の老人に若い娘が嫁ぐようなことはナウムブルクのような田舎でも珍しくない。

 エリーザベトを驚愕させたのは、彼らは出会ったときには別々の伴侶をすでに持っていたという点だ。しかし彼らは自分達の中に芽生えた感情を大事にした。お互い忍んで逢瀬する〝愛人〟になり、ついにはかつての伴侶に別れを告げてまで結婚をしたのだという。

 その奔放な上流階級社会のムードは、彼女がそれまで生きてきた世界とは違いすぎた。最初に兄から彼らの関係を聞かされた時はおぞましいとさえ思ったのだが、こうして対面し、あらゆる艱難を乗り越えて愛を貫いた姿を見ると今度は憧憬の念さえ覚えるのだった。

「これが上流社会なのね……」

 エリーザベトはうっとりした様子でそう呟いた。この瞬間に抱いた憧憬が、おそらくのちの彼女の人生の最も大きなエネルギーとなった。そしてその恍惚とした酔歌じみた思考はやがてすぐ隣に立つ兄へと向けられていく。嗚呼、兄はなんと素晴らしい人なのだろう。大学教授という名誉ある地位に就いた兄、が私をこんな素晴らしい世界に連れて来てくれたのだ……。



 ――午後七時。いったん客間から退いていたワーグナー夫妻が再び上階から現れた。ワーグナーもコジマも正装して勿体つけるように階段を下りてくる。招かれた人々は拍手でこのパーティの主催者を迎えたが、やがて改めて挨拶を述べるワーグナーの手の中に何かが抱えられていることに気が付いた。

「あ、あれは……エエッ?!」

 最前列に陣取ってワーグナーを出迎えていたニーチェは驚愕した声をあげた。彼が手にしているのはまちがいなく彼が真っ先に献本した自分の著書だったのだ。

 呆然としているニーチェとエリーザベトを知ってか知らずか、ワーグナーは静まり返った招待客たちの前で本を両手で掲げながらこう語った。

「さて親愛なる皆さん。私の手にあるこの美しい本は『音楽の精神における悲劇の誕生』と言います。まだ一般には出回っておりませんが著者自らが初版を私に送ってくれたのです。私はこの本に非常な感銘をおぼえ、また著者が私の目指す理想を見事に表現してくれている事にも非常な喜びを覚えました。――私はこれから朝食の後にこの素晴らしい本を読み返すとします。こんなに魂が揺さぶられるものは他にない。皆さんにも是非読んでいただきたい」

「フリッツ……!」

 隣にいたエリーザベトは大変な喜びようで兄とワーグナーを交互に見つめていた。堂々とした態度で彼の本を讃えるワーグナーの姿に、フリードリヒは信じられないといった様子で呆然としている。ワーグナーは張りのある声で告げる。

「この本を書いたのは私の親友、フリードリヒ・ニーチェ教授なのです! まったくもって彼は素晴らしい男だ! 諸君! 讃えましょう!!」

 その絶叫じみた紹介は巨匠音楽家から若き友人への激しいラブコールだった。周りからは再び割れんばかりの拍手が巻き起こった。ワーグナーと彼を感激させたニーチェ双方に贈られた賞賛の嵐であった。勿論エリーザベトも熱狂的な拍手を二人に贈った

「……今日は間違いなく、僕の人生最良の日だろう」


 万雷の拍手の中、そう小声でつぶやいたニーチェの肩が小刻みに震えているのにエリーザベトは気が付いていた。素晴らしい人々から贈られた栄光の中にありながらどこか不安げな兄の後ろ姿に、彼女はかえって不安な気持ちを掻き立てられのだった。


 私が寄り添わないと。彼女が改めてそう心に決めた夜でもあった。




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