第一部・ニーチェの妹

一 幼少期の記憶



〝過去に存在したものたちを救済し、一切の『そうであった』を『わたしはそう欲したのだ』に造り変えること――これこそ初めて救済の名にあたいしよう。

 意志、――それが解放し、喜びをもたらす者の名だ。〟

     『ツァラトゥストラ』第二部「救済」





 小さな村の真ん中にある大樹の下で何人かの小さな女の子達が言い合いをしている事に、運んできた干し草を束ねる仕事に勤しんでいる大人はみな気が付いていた。

 彼女達が揃いでかぶっている薄赤色の帽子は女子初頭学校の生徒である証。どうやら少女達は何か白熱する重大な議論を展開しているらしく、みなそれぞれ声を張り上げている。よく観察すれば彼女らはどうやら二つの陣営に分かれて言い合っているらしく、その情勢は四対一と後者にとってひどく不利になっているらしかった。

 やがて多数派のリーダー格らしいやや背の高い少女が、一人果敢に立ち向かっている少女に対して指をさしてこう叫んだ。

「これだけ言っているのにあなたはまだ〝コウノトリが赤ちゃんを運んでくるなんてウソ〟だなんて言うの? リースヒェン!」

 この叫びを皮切りに他の徒党を組んでいる少女達も雛鳥のように叫び始める。

「うそつき!」「うそつき!」「うそつきリースヒェン!」

 かまわず仕事をしている大人達は小さな魔女裁判のその糾明を聞いて思わず笑ってしまいそうだったが、しかしながら被告人席に立たされた魔女にとってはとても笑い事ではなかった。

〝うそつきリースヒェン〟はその青い瞳をたたえた目に涙をいっぱい浮かべていたが、それでもなお噛みつかんばかりの表情で審問官達をにらみつけている。そうして彼女はまるで腹の中にため込んだものを一気に吐くかのように叫ぶのだった。

「うそじゃない! !」

 その大声に、審問官たる少女達はびっくりしたらしく途端に口を閉ざしてしまう。しかしながらすぐに落ち着きを取り戻し、負けじと言い返しが始まる。

「私達はお母様から聞いたから!」「学校の絵本にもそう書いてある!」「どうしてうそをつくの!」

 そうして更なる苛烈な非難を浴びせかけられる羽目になったリースヒェンをあざ笑うように、例のリーダー格の少女が勝ち誇ったようにでこう突き付けたのである。

「フリッツもまだ子供! うそついてるんだ!」

「あっ!」

 それは禁句だった。その言葉を聞いた途端、リースヒェンは顔を真っ赤にし、腕を振り回しながら審問官少女達にとびかかったのである。

 四対一であったがリースヒェンの暴力にはもう躊躇がなかった。容赦なく相手の腕をつかんでは平手打ちをくらわせ、別の子が驚いて転べばそちらに馬乗りで飛びついて叩こうとする。大騒ぎの物音や泣き声を聞きつけて飛んできた農家の人達が慌てて引き離すまで、小さな魔女は泣きじゃくりながら嵐のように荒れ狂ったのである。

 駆け付けた他の大人や審問官少女らの親達も、元はといえば自分が子供に向けて吐いた迷信が騒動のきっかけだと分かると強く叱るわけにもいかず、あいかわらず泣きながら──しかし誇り高く──立ち尽くしたリースヒェンを遠巻きにしながらばつ悪く苦笑いを浮かべるばかりだった。

「リースヒェン! お前はまたやったのか!」

 そこに駆けつけてきたのはリースヒェンより二つ三つ年長に見える、彼女と同じ栗色の髪と特徴がよく似た大きな青い目を持ち、チェック柄のジャケットを着た痩せた少年だった。

 一目で兄妹と分かるこの少年はリーシヒェンに駆け寄ると真っ先に全身に怪我などないか確認をし、それから地面に膝をつき、戒めるように告げる。

「闘争する気持ちは良い。それは気高いことだ。――だけど暴力を振るうのはのすることだぞ」

 少年はじっと目を見ながら、何度も繰り返し言葉だけでそう諭すのだった。それがこの優男じみた兄の叱り方で、この時代の大多数の兄のように――大人にしてもそうだが――暴力を用いて妹を叱る事は決してなかった。

 リースヒェンの方はあいかわらず泣いていたが、それでも兄が重ねて「わかったかい?」と尋ねると「はいヤー」とはっきり答える。それから兄が「謝りなさい」と指示すると、リースヒェンはもうすっかり落ち着いた様子で四人の女児のところへと向かい、たどたどしいながらも手を組んできちんと謝罪の言葉を述べたのだった。

 その間に兄の方はぶたれた子供の親達のところに行って丁寧に謝罪を述べ、それからリースヒェンの手をしっかりと握って導きながら歩き始めていた。

「さっすが〝小さい牧師様〟だ。大人顔負けの心遣いと態度だ」

「亡くなった司祭様に似たんだよ。真面目な方だったからねぇ」

「妹の方はあの年で兄貴の崇拝者という感じだね。ほれ、あんなにしっかりと手を握って離そうともしやしない」

 集まっていた村の男達は兄の秀才ぶりと、あれだけ荒れ狂った妹を完璧に手なずける辣腕について物見高く語りながら、また元の仕事に戻っていくのだった。



                ◆


 ──ニーチェ家の長男フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェが生まれたのは1844年、十九世紀の半ばであった。

 彼の両親は共にプロイセン王国の高位聖職者の家系で、特に父親は国王ヴィルヘルム四世からの寵愛を受けていたという。彼のミドルネーム「ヴィルヘルム」はまさに彼の血脈と王室の関係を象徴するものであった。

 妹のエリーザベトが生まれたのはその二年後の1846年のことで、続いて生まれた三男ルートヴィヒは二歳になる前に病死してしまった。

 ニーチェ家の不幸は続き、1849年には父親までもが脳に異常をきたす病気によって若くして死亡し(詳細は不明。後のエリーザベトはこれを脳病ではなく転倒による怪我での死と捏造していた。兄も脳症状で亡くなった事から、ニーチェ家の人間に遺伝病があると思われる事を忌んだと考えられている)母子家庭となった一家はナウムブルクという小村へと移り住み、兄妹はそこで育った。

 ニーチェ家の家計は親族の支援に大きく頼った侘しいものであったが、フリードリヒは学業が非常に優秀であったので小学校や塾の学費の減免を受けることができ家計を大きく助けたという。

 エリーザベトも家事を早くから手伝うことで母親を手助けしていたが、彼女は当時の少女にしては珍しく、高度な学問に対して非常な興味を示した。そうして勉強が得意な兄を自分の先生のように慕って様々な事を教わるようになった。

 また書物に向かうこと以上に自然散策と日光浴を何より好んだフリードリヒは毎日のように長時間の散歩に出た。そういう時もまたエリーザベトはまるで弟子のように後について、近郊の野山を歩き回るのだった。

 斯様に二人だけで過ごす時間が非常に多かった彼らはお互いを「フリッツ」「リースヒェン」と愛称で呼ぶようになり、その呼び方は生涯に渡ってこの不思議な兄妹がお互いの親愛を示すために使われた。


               ◆



 ──農民達が集めて積み上げた干し草が、小路の両脇にどこまでも高く積み上がっている。おかげでそこら一帯に草の香りが充ちていてなんとも独特な雰囲気があった。あまり積み上げてあるので子供の目線からすると迷路のように感じられた。

 西に傾き始めた陽光をぞんぶんに浴びながら、兄妹はその迷路を歩いていたが、家路からはもう途中から逸れてしまっていた。彼らにとってこういう時はというサインなのである。

 大騒ぎをした理由は歩きがてらすでに聞き及んでいたが、改めてフリッツはこう尋ねた。

「なぜ友達を叩いたんだい?」

 あいかわらず手を繋いだまま兄は尋ね、その手をぎゅっと握り返しながらリースヒェンは口をとがらせて答える。

「フリッツがうそをついたなんて言うから」

「だからといって叩いて良い理由にはならないことは、分かるかね? わが妹よ」

「んー……はいヤー

 結局咎められてしまったリースヒェンは露骨に不服そうにそう答える。彼の兄は時々古典小説から抜け出てきたような大仰な言葉遣いをするのが癖であった。

「……だけどな」

 そうぽそりと言うとフリッツは振り返り、リースヒェンの目を見降ろしながらじっと見つめる。西陽がちょうど兄の顔に影を作ったが、それでもなお兄の目は溢れんばかりの煌めきを湛えている。

「間違ったことに果敢に立ち向かうのは誇り高い生き方そのものだ。そしてただ恭順するだけの生き方は何よりもみじめで醜悪なことだ。それを理解して誇り高く生きてくれるなら、僕はきみをいつまでも愛しているよ」

 そう言うとフリッツはリースヒェンの手を引き、ぎゅっと抱きしめる。涙のあとがまだ残る頬にほおずりをして、そうして軽くキスをした。それは彼ら兄妹の幼少期からの親愛表現であったのだが、それを受けたリースヒェンの方はというと……もう恍惚とした忘我の状態としか言いようがなく、身体をこわばらせながら全身でを受け止め感じているという感じであった。

「ああ、愛らしいリースヒェン。それじゃあそろそろ家に帰ろう。母さんも伯母さんも待っているから……」

 妹が大きく息をついたのを見たフリッツはそう言うと再び妹の手を握り、来た道を戻るべく歩き始める。リースヒェンの方もようやく正気に戻ったのかコクコクと何度かうなずき、遅れることなく隣に立ってついていくのだった。


 ちょうどその時、小路を妙に強い風が吹き抜けはじめた。積み上げられた干し草が揺らめきながらざわついた音を立て始め、切り裂くような甲高い風の音も合わさった不思議な調べとなっていることに、少なくとも兄の方は気がついていた。

 これをドイツの古俗ではウォーダン(北欧神話に云うオーディン)の隊列が人里を駆けているなどとも言い慣わしたが、異教的なモノから目を背けさせる事を望んだ母はそのような知識をあえて授けるような事はしなかった。

 忌むべき迷信は──つんざくようなウォーダンの先触れを耳にして、道を譲らなかったものは気が触れる――などと伝えていたのだが。

 そしてその奇怪な音色に聞き耳を立てながら歩いていたせいか彼には聞こえていなかったが、リースヒェンは彼の手を握ったまま、風の中で誓うように呟いていた。


「私は、フリッツを愛してる」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る