うそつきリースヒェン
ハコ
プロローグ 栄光に充ちた最後
ドイツ・ワイマール。
かつてある一人の〝狂人〟が晩年を過ごした赤煉瓦仕立ての清潔な山荘は、いつしか彼が携わったあらゆる書物、日用品、端書きの一つに至るまでを蒐集した公開施設へと様変わりし、彼の死後十年も経過したころにはもう、彼の思想の信奉者があいついで訪れる聖地となっていた。
この日もまたある男が多忙な中でこの場所を訪ねて来ていた。男はずいぶん遠い場所で車を降りると大勢の揃いの制服姿の従者やカメラマン達を従え、まるで既に自身が
――輝く正午の陽がきらぎらしく差し込む中、正面玄関の上に大きく掲げられていたのは『NIETZSCHE-ARCHIV』の文字。そうしてその両脇に華々しく掲げられているのは、ハーケンクロイツの垂幕。
男――
ようやく自分の目の前までやってきた女に対し、ヒトラーはにこりと微笑みながらゆっくりと右手を差し出した。
「ドイツが世界に誇る偉大な哲人のご家族と対面できるとは、非常に光栄です」
そう告げながら差し出されたヒトラーの手を女は両手で力強く握り、輝くような青い瞳で彼の顔を見つめ、張りのある力強い声でこう答えるのだった。
「私達の記念碑的場所へ偉大なる
……
ヒトラーと側近達はこの年老いた女の案内でジルバーブリッグ荘の隅々まで歩き回らされ、書き残された沢山の紙片や生前愛用していたステッキなどを見せられた。
またこの山荘に大きな食堂やサロンまでが設えられている事をヒトラーが尋ねると、女は兄の死後すぐこの山荘を世界中に公開しようと思い大規模な改修を加えたのだという事だった。その事をヒトラーは大変に称賛したが、彼女が言うにはメインホールにはさらに改装を施し、今年中に大きなハーケンクロイツ旗とヒトラーの像を飾る予定にしているという。
そうして色々と勿体をつけた末に最後に案内されたのは、寝室であった。ヒトラーは神妙な顔をしながら二階へと上がっていく。あまり手狭なので側近達は遠慮して上がってこなかった。彼が立ち入ったその狭い部屋には木製の椅子二つとテーブル、それに今はシーツの敷かれていないベッドだけが置かれているのだった。
「貴女の著書によれば、心神喪失後の兄上はいつも此処で夕陽を眺めていたそうですな」
ヒトラーは感慨深げに大きな窓辺に立ち、そう尋ねたが女は何も答えない。訝しんだ彼が振り返ると、後から入ってきた老女は目から涙をこぼしてハンカチで拭っているところだった。
「失礼いたしました……。兄はこの部屋で人生の最後の時期を過ごしました。今でも子供の心に帰った兄がそこに居そうな気がいたします」
……
「1914年に始まった大戦の時、多くのドイツ人兵士達が背嚢の中にしのばせていたのは聖書と『ファウスト』……それに何より『ツァラトゥストラ』だった。私もその時は一兵士でしたが、戦友達が持っていたのは何度も見ましたな」
ヒトラーと老女は部屋に残された椅子にそれぞれ座り、語っている。過去の出征を懐古するヒトラーの姿を老女は実に嬉しそうに見つめ、こう述べる。
「まことに嬉しいことです。あの時の本は私が発案したのですよ。多くの兵士達の手に届くように軽量で安価な戦時発行版を大量に刷ったのです。二万部を用意しましたが即座に完売してしまいまして、私の独断でさらに一万五千部の増刷に踏み切りました」
「まことに――まことに素晴らしい。実にドイツ精神的献身だ! おかげで多くの……多くの将兵達が……」
総統が思わず鼻の頭を赤くし言葉を詰まらせるのを見ながら、合いの手を打つように老女は述べる。
「はい。兄の哲学を抱いて誇らしく戦い、死んでいきました」
「……素晴らしい……!!」
ヒトラーはもう感極まって涙も流さんばかりの顔色で、それから暫く沈黙した後、決心したかのようにこう叫ぶのだった。
「嗚呼、いまや私は断言できる! ニーチェ哲学こそドイツ的でありナチズムそのものである、と!」
そう叫び、燃えるような眼差しで老女を見つめながらヒトラーは更に続ける。
「我が党は……いまやじつに二十万人の党員を有しています! そう、来年には議席をも掻っ攫い、私が首相の座を得るでしょう! そうなったならば……私が政権を取った暁には……この資料館を聖地とし、そしてニーチェ哲学そのものをナチズムの聖典として大いに顕彰しようと思っているのです! ……嗚呼誓ってもいい! ニーチェ哲学はドイツ千年王国の名前と共に全世界へ知れ渡る事でしょう!」
自分の心の中に湧き出した空想がもう抑えられないといった様子の絶叫じみた宣誓(?)を終えたヒトラーは、漸くボロボロのテーブルに手をつく。乾いた音がドンと響き、その音に彼は自分でもひどく驚いた様子だった。
一方、彼の燃えるような叫びと身振りを食い入るようにじぃっと見つめていた老女は、まるで天国の門を見たかのような恍惚の表情を浮かべていた。そうして自分の半分ほどの年齢の野心充ち満ちた指導者に対し、老女はまるで若い娘のような情熱的な言葉づかいでこう誓ったのだった。
「私の答えは決まっております、我らが
1932年1月、首相就任の一年ほど前にヒトラーはワイマールのニーチェ文庫を公式訪問した。それに際して、館長でありフリードリヒ・ニーチェの実妹である老女エリーザベト・フェルスター=ニーチェは彼を歓待し、ニーチェ思想をナチズム宣伝の重要な拠点にしたいという彼の提案に強い賛同の意を示した。
ヒトラーは最高指導者となった後も激務の間を縫ってニーチェ文庫に七回も公式に訪問し、国家はナチズムの精髄としてのニーチェ哲学をあらゆる形で顕彰し続けた。
さてエリーザベトの死後に行われた調査の結果、おどろくべき事実が判明した。彼女にはひどい裏の顔があったのだ。すなわち彼女は、兄の思想をひどく捻じ曲げた形で世界に伝えていたのである。
彼女は兄の遺稿や個人的手紙などありとあらゆる文献に捏造を加えていた。面識もない相手と親しく手紙を交わしていた事にし、仲睦まじい相手との手紙のやり取りを険悪な絶縁状に書き換え、あろうことか残存するメモ書きを好き勝手に繋ぎ合わせて言葉を紡ぐような事さえもしていた。
それも一体いつからという話ではなく、彼女が「哲学者ニーチェの唯一の肉親」という触れ込みで最初の表舞台に現れたその時にはもう、既に多くの改竄が行われていたのだ。
捏造は彼女の後半生に渡って続けられ、それによって多くの名声を得ていた。彼女は何度かノーベル賞候補に推薦され、晩年は台頭してきたナチスの庇護を受けた。
そして1935年に栄誉と幸福感に満ちた生涯を終えた。……彼女の兄のあまりに悲惨な最期とは対照的だった。
現在、エリーザベトは哲学者ニーチェの最も身近な人物でありながら、後世の正当なニーチェ理解が大きく妨げられる事になった元凶の一人だと見なされている。
本作はこの怪女エリーザベトの半生、そしてニーチェとの関係性に対して多大な空想を交えて描くフィクションである。
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