中メンデシア侯爵グロッソ――「研究所」という名の切り札

 大公国に駐在していた王国の大使は、大公の城の瓦礫の中から見つかりました。竜騎兵団の特殊作戦で辛うじて救出された駐在大使は、ギョエテとセオドールに、その目で見た異形の恐ろしさを力説しました。


 そもそも、あの異形が国境に現れた時点で、大使から何も連絡がなかったことを、王国はおかしいと思わなければならなかったのですが、大公国が異形の攻撃を受けて滅亡したのがたった五日間のことだったというのですから、大使ひとりの力ではどうしようもなかったのでしょう。


 戦線はゆっくりと、しかし確実に後退していました。ピントン領の南部から部隊はじりじりと撤退し、東は南メンデシアの境界線まで、西は極西砦の目の前まで、魔界の軍勢が迫っていました。


 南メンデシアを守るために、エンリケは必死でした。領民の兵士の先頭に立って、ワイバーンを飛ばして指揮にあたりました。優秀な魔導師の部隊を都合してもらえたこともあって、何とか持ちこたえている状態でした。


 しかし浮き彫りになったのは、「顔のないドラゴン」の石礫や「移動する砦」から放たれる巨大な岩を防ぐ手立てとして、王国全体で魔導師の部隊を再編成しなければならないことでした。そうなれば、王国で一番の魔導師であり「研究所」の所長――ネフィの力が必要でした。


 そのネフィを利用して、なんとグロッソが、王国内で交渉を始めたのです。ネフィを前線に送り出す条件として、グロッソは「直属」との直接交渉を求めたのです。


 私はグロッソと「直属」の交渉を手伝わされることになりました。交渉の場となる極西砦に、王都からフリオをドラゴンで迎える役目を与えられました。空を飛んでいる間、私の背中に抱き着いたフリオは、目をつむりながら、ずっと注文を叫んでいました。


「もっとゆっくり飛ばせ!」


「時間がないとおっしゃってたのはフリオさまでしょう?!」


「じゃあ低く飛ばせ、低く!」


「低く飛ばしたらそれこそ隠密行動になりませんよ?!」


「うるさいこの腐れ死体洗い奴隷! とにかく早く目的地に向かえ!」


「鞄おちますから暴れないで!」


「落とすなよ! 絶対落とすなよ!」


 ドラゴンは極西砦のつなぎ場に着陸し、憔悴しきったフリオを降ろして、私たちはネフィとグロッソが来るのを待ちました。迎えたジョゼが疲れた顔をしていたのは、そのときの状況では無理もないことだと思われました。


 魔法陣の工事が途中で投げ出された極西砦は、堀も浅く、水はもちろん張られておらず、まだ橋を架ける前だったので、砦の中央に向かう道がくねくねと曲がったままで残っていました。その曲がりくねった道の向こうからネフィとグロッソがやってきた時の様子を、私は今でも鮮明に憶えています。


 二人が乗っていたのは、まさに「馬が引かない馬車」だったのです。馬が引いているはずの馬車の先頭には大きな宝箱のようなものが据え付けられており、その下に取り付けられた車輪は自ら回って道を駆っていました。馭者の姿はなく、馬車の座席の中では、グロッソが船の舵輪のようなものを回していました。


 魔界の軍勢と同じような乗り物に乗ってやってきたわけですから、フリオもジョゼも目を見張っていました。「馬が引かない馬車」から降りたグロッソに向かって、フリオは小走りに近づき、握手もせずに質問しました。


「それ、どうした」


「開発した」


 グロッソはそっけなく答え、ネフィはその隣で小さくうなずきました。


「どうやって」


「ここの工事を再開できるように助力してくれるなら、教える」


 「直属」とリンファが関係していることを、グロッソも既に知っているようでした。フリオはネフィとグロッソを交互に見据えたあと、踵を返して背中で答えました。


「時間がない。中に入れ」


 フリオは、ジョゼがドアを開けて中に通す前に、自分で極西砦のドアを開けて入っていきました。


 話し合いの場が設けられたのは、以前、フレドニアとソニアが休暇で訪れていた部屋と同じ場所でした。しかしその日は、茶もなく、茶菓子もなく、大きな一枚板のテーブルが部屋の真ん中に据えられていただけでした。


 そのテーブルに押し黙ったまま、均等な距離でそれぞれが席に着きました。グロッソとフリオは向かい合って座っていました。ネフィもグロッソに寄り添うことなく、フリオもネフィに迫ることなく、それぞれが互いの利用価値を探るかのような位置に着いていました。私はただただ部屋の隅で立ち尽くしているだけでした。


 沈黙を最初に切り裂いたのはフリオでした。


「ネフィ所長はご協力くださるのかな」


 その言葉に怯えることもなく、ネフィは答えました。


「日の出を待つ前に、かがり火を持って進まねばなりません」


「……了承してくれた。安心してくれ」


 翻訳したグロッソを、フリオは眉間に皺を寄せて見つめていました。


「……そうか。ありがたいことだ。それじゃあ、もう一つ」


 そう言ってフリオは、鞄から、分厚い革の封筒を取り出しました。


「するか」


 グロッソの言葉に、フリオはうなずきました。


「ああ。時は来た」


 私はそのグロッソとフリオのやり取りの意味を読み取れませんでした。しかしグロッソは理解したようで、同じように持ってきた鞄から、同様に分厚い革の封筒を取り出しました。


「『取引』を持ちかけたのは、そっちからだからな」


 フリオの言葉に、グロッソは深くうなずきました。


「そうだな」


「こちらにはカードがある。そちらもカードを出して頂きたい」


「どうする? 『協力』するかい?」


 グロッソの謎めいた提案に、フリオは首を振りました。


「そんなカードじゃ動かないな。こちらのカードにも限りがある。『競争』といこう」


 フリオがそう言うと、グロッソとフリオは立ち上がって、互いに分厚い革の封筒を手にして、同時に、テーブルの上を滑らせるように投げて、封筒を交換しました。グロッソもフリオもすぐさま手にした相手の封筒の中身を確認しました。植物紙の分厚い束をめくりながら、書かれている文書を食い入るように読み込んでいました。ネフィはそんな二人を交互に見つめ、ジョゼは憂鬱そうにテーブルの上を眺めていました。


「確かに受け取った」


 書類をめくり終わったフリオが言うと、やはり書類に目を通し終わったグロッソも答えました。


「こちらも、同じく」


 おそらくこの文書の交換が、グロッソが「直属」に求めた交渉条件だったのでしょう。グロッソは満足げに書類を鞄に入れて着席しました。しかしフリオはというと、書類を鞄に入れても、まだその場に立って、グロッソを見下ろしていました。


「あるんじゃないのか、もっと」


 フリオの言葉に、グロッソは首をかしげました。


「もうないよ」


「あの『馬車』を引いてるのは?」


 フリオが訊くと、グロッソは首をまた逆のほうへ、かしげました。


「工事の再開、考えてくれるのか?」


 その言葉に、フリオはグロッソの無表情な顔をじっと見据えたまま、肩をすくめました。


「リンファに聞いてくれ。僕は金のことは分からん」


 そうして話し合いは終わりました。この会議のなかで、ジョゼは一言も発しませんでした。グロッソとネフィは砦からあの『馬車』を出すと、そのまま前線へと向かっていきました。私はフリオを王都に帰さなければなりませんでした。


「おい、今度は、その、なんだ……優しく頼むぞ」


 フリオの頼みを無視して、私は大急ぎでドラゴンを飛ばしました。


 封筒でやり取りされた書類の中身が、後日あのような形で具現化するなどとは、誰が想像できるでしょうか。しかしそれは現実になりました。私ではどうしようもなかったのです。善でも悪でもなく、奴隷だ平民だということも関係なく、それは現実でしたから、受け入れざるを得なかったというのが、至らぬ私の本心だったのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る