アランキス騎士団長――初めて芽生えた殺意
ピントン領を上空から見下ろしただけでも、領民の生活がひっ迫しているのが見て取れました。夜に灯るかがり火の数も少なく、朝でも家々から上がる炊事の煙は少なく、家畜の数が日に日に少なくなっていたのは、私にもわかりました。
街道の道端にさえ死体が遺棄されていました。それは平民も、奴隷も、行き倒れた没落貴族も関係なく、捨てられていたことでしょう。それでも魔法陣の工事を続けようとしていたジョゼの正気を、私は疑っていました。
エンリケの執事のはずだった私ですが、国王への拝謁から王国が国境へ兵を配置することが決まって以降、竜騎兵団の軍属として伝令の職を与えられていました。ドラゴンに乗れることから竜騎兵団の目に留まったのでしょう、奴隷としての身分からそのような形で出世することができたのは幸運とは思えましたが、その実、忙しさと使命感に気持ちが若干追い詰められていたように思われます。
そのときはまだ実際の交戦にまで至っておらず、魔界の軍勢も国境付近で姿を見せはするものの、ピントン領内まで入ってくることはありませんでした。魔界の軍勢の姿は、顔のないドラゴンや、移動する小さな砦や、馬が引いている様子のない馬車など、異形以外の何物でもありませんでした。
時として、砦や馬車の中から出てくる、人と思しき姿の者もいましたが、それらも、私の乗っているドラゴンに向かって、手元の魔法の杖のようなものから石の礫を放ってくるなど、同じ人間ではないことは明白でした。かといって、ゴブリンのような野放図な様子でもなく、班や隊列を組んで行動している様子が見られましたから、決して知性が低いということでもなさそうでした。
エンリケはもちろん、エレラもグロッソも、ピントン領内の国境付近に自らの軍勢を引き連れて、交戦の時を待っていました。それぞれの場所に配置された彼らの連絡――時として王国や騎士団長には秘密のやり取り――も、私は伝令としてつないでいました。
南メンデシアの城の留守はリーゼが守ってくれることになりました。使用人の中で一番の下っ端だったはずのリーゼがみるみるうちに信頼を獲得してリーダーシップをとるまでになった姿は、まさに魔法でも見ているかのようでした。彼女自身が本当に魔法で使用人たちを操っているのかとさえ思えました。
騎士団長のキャンプは私の「故郷」だった地に設営されていました。おそらくは私の目撃情報を基にした配置だったのでしょうが、私が目撃者だということはもちろん共有されていなかったでしょう。私はもちろん何の感慨もなく、その日もドラゴンでキャンプ地に着陸しました。
忙しく働かされたドラゴンが腹をすかして、すこし言う事を聞かなくなっていました。携帯していたプディングは底をついていました。街道の死体を食べさせたり、死体を持ち運ぶのは、なぜだか気が引けました。私は、無駄骨とは思いながらも、キャンプの兵士たちに餌のありかを訊いて回りました。
「ドラゴンに餌をやりたいのですが」
「……そんなもの無い。自分で用意してないのか?」
案の定どの兵士たちもそんな調子だったので、私は伝令のついでにアランキスに直訴することにしました。騎士団長のテントの前で、私は自らの参上を声にします。
「伝令デック、参上しました!」
私は自らの呼び名に固執していました。そういう意味ではアランキスと大差のない感性だったのかもしれません。アランキスは私が「伝令」とだけ伝えても応じることはありませんでした。
「……奴隷生まれの伝令デック、参上しました!」
「入れ」
私がテントの中に入ると、アランキスは朝餉を摂っていました。側仕えの兵士は私のほうを横目で見て含み笑いしていました。
「こちらを」
私が手紙を持った手を伸ばしても、アランキスは受け取ろうとはしませんでした。
「おい」
アランキスに呼ばれて、含み笑いしていた兵士ははっとして、私の手から手紙を奪い取り、アランキスに渡しました。アランキスはその手紙の内容を流し読みすると、手紙をテーブルの端に放って、近くにあった布巾で、丹念に、丹念に手を拭き、朝餉に戻りました。
「行け」
いつものようにアランキスは私に命じましたが、私はその時ばかりは食い下がろうとしました。
「閣下。恐れながら申し上げます。ドラゴンに餌をやりたいのですが、その……どこかに用意は」
「そこら辺の奴隷でも食わせておけ」
「いえ、死体が」
私の言葉に、アランキスは私のほうを見もせずに、パンを頬張り、茶をすすっていました。私は訴えを続けました。
「死体でないと」
「殺せばいい。それとも貴様が死体になりたいか」
それは、奴隷を殺してドラゴンの餌にせよ、という意味でした。キャンプでも奴隷が働いていました。雑用として、兵士たちの出したゴミや、簡易便所の排泄物を掃除したりしていました。無論兵士たちの玩具のごとく、虐めの対象にもなっていました。
私はその時、自分が奴隷であることを改めて思い知らされるとともに、自分の出自が奴隷であることに、少なからずこだわりがあることを思い知らされました。それは、同じ奴隷を殺すことなどできない、という感情でした。
私はアランキスが朝餉を頬張る姿をじっと見つめながら、彼を殺める道具が周囲にあるかを探しました。側仕えの兵士は腰に剣を帯びていましたが、私が扱える代物ではありませんでしたし、奪い取ろうにも相手に隙はなさそうでした。テーブルにはアランキスの朝餉のパンを切るナイフがありましたが、切れ味が足らなそうな気がしました。
テントの中を見回すと、テントの布を押さえるための、手のひらより少し余るくらいの大きさの石が置いてありました。武器の扱いに不慣れな私でも、鈍器として扱えるような気がしました。そしてなにより、食事中のアランキスは兜を取っていました。
これなら――そう思った瞬間でした。
アランキスの体が爆発したのです。
返り血を浴びた私は状況を把握できずに周囲を見回しました。テントは散り散りに破けて空が見えました。見上げた上空には、あの異形――顔のないドラゴンのような鉄の凧――が、以前のように石の礫を吐きながら、キャンプの上空を旋回していました。私が最初に目撃したものよりも大きな異形は、私が受けたものよりも大きな石の礫を吐いて、キャンプの地面をえぐり、テントを破壊し、兵士や馬を「爆発」させていきました。
「敵襲! 敵襲ーっ!」
叫んだ側仕えの兵士も石の礫を食らってすぐに爆発し、辺りには一瞬で、引き裂かれた死体の臭いと、テントや馬車が焼け焦げた臭いとが広がっていきました。
キャンプはすっかり焼け野原になって、私はあの日必死に逃げ出した故郷の村の風景を思い出していました。一度ならず二度までも、同じ場所が焼け野原になる経験をした人間に、私は会ったことがありません。
私は自分のドラゴンの無事を確認するためにつなぎ場に走りました。そこには高々と炎を上げるドラゴンの死骸がありました。私は、エンリケに与えられたドラゴンを台無しにしてしまったこと、移動手段を失ったことを惜しむと同時に、アランキスを殺害して証拠を消す方法を失ったことに、悔しさを感じていました。
アランキスの死体は見つかりませんでした。私はそうした事実を確認するまで、アランキスの死体を自分のドラゴンに食べさせようとしていたことを、今でもはっきりと憶えています。
今思えば恐ろしいことだとは思いますが、冷静に考えれば、人間の死体を食べさせること自体に何の抵抗もなかった事に対して、恐ろしいと考えなければならないはずでした。人間の命に敬意を持つことこそ、人間の進歩であり、それを人間全体で目指していかなければならないと、今は強く思い至っているのです。
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