魔界の軍勢

村人オイゾ――秘密を知れば死ぬことになる

 かつてそこには村があったと言われましたが、目の前に広がっていたのは草原でした。人が生きていた形跡がまるで無いその場所を、私は丘から見下ろしていました。その向こうの山の尾根沿いには、隣国の大公国との国境がありました。


 私の生まれ故郷だとリンファから伝えられたその場所は、ピントン領内の南端にありました。私が襲撃された故郷の村から逃げ、隣の領地で捕らえられ、新しい奴隷村で生活していたときに、その領主は村ごと奴隷を売ったのですが、そのときの売買の書類が残っていたそうです。その領主は日記も残しており、隣の領地の奴隷村――つまり私の生まれ故郷である草原になってしまった場所――に何者かの襲撃があったことを書き留めていました。


 その領主はのちにラファエロによって討伐されて、領地はピントンの領内に収まったわけですが、そのころのラファエロは、自分が首を刎ねた領主たちの文書を律義に残していたのでした。その後、リンファの判断がなければサインもおぼつかない状態になってしまったのですが。


 そんなラファエロへの債権を回収するために土地を改めるという名目で、私はその地に訪れてはいましたが、実際は自分の半生を確認するための小旅行と言った風情でした。エンリケは特に何も言いませんでした。


 なにしろ当時は生き残ろうと必死だったので、どこからどのように逃げ出したのかも、記憶が定かではありませんでした。ですから、その地を散策してみても、何の感慨もありませんでした。


 私は残念な気分さえ覚えることなく、その地を後にすることにしました。ドラゴンにまたがり、南メンデシアのエンリケの城へと戻るため、ドラゴンをはばたかせて、空中で旋回させました。


 すると、向かいからドラゴンが近づいてくるのが見えました。儀礼の挨拶をかわそうと手を挙げましたが、むこうは返事をしません。それどころか、人がまたがっていなかったのです。


 私は目を疑いました。空を飛ぶ大きな姿のものならば、ドラゴンのはずでしたが、近づくにつれて、そうではないことが分かりました。その頭には目も口も鼻も、耳も角もなく、つるりとしていて、今まで見たことのない異形の物であることが分かりました。


 私は恐ろしくなって、その異形とすれ違う前に直角に旋回しました。するとその異形は、羽をはばたかせることもなく、鶴ように滑空しながらも、鷲のように素早く旋回して、私を追ってきたのです。


 私は振り向き振り向き、その異形の姿を目に焼き付けようとしました。その異形の肌は甲虫の体表のようにつやつやとしていて、背中に大きな穴が開いていたのでした。


 私はその時に陥った不思議な感覚を今でも憶えています。目の前の異形は、はたして生き物なのか。ひょっとすると、人形のような類のものなのではないか、と。魔法で動かす生きていないドラゴンとでも申しましょうか、誰かが何処かで操っている、糸のない凧のような印象を受けたのです。


 その凧に、私は遊ばれるように追いかけられていたのです。猛禽類のように喰らいついてくるでもなく、距離を保ちながらも、決して離れずに、私のドラゴンの後をついてくるのです。異形の姿に魂を感じることはありませんでしたが、その追跡には明らかに何者かの意図が感ぜられました。


 「魔界の軍勢」――幾度も繰り返し聞かされてきた言葉が脳裏をよぎりました。


 私は弓を使えませんでしたし、ドラゴンに火を吐かせたこともありませんでした。ですから、逃げるので精一杯で、異形を振り切る術がありませんでした。


 そのときでした。異形が、火のついた石つぶてのようなものを吐き出したのです。魔法の爆発が高速で連続するような音を立てて、石つぶては私とドラゴンのそばをかすめ跳んでいきました。命中はしなかったものの、揮発した体液に引火して小さな火がドラゴンの体のそこかしこで立ち上がりました。


 私はドラゴンをいさめるために、着陸することを選びました。林の隙間にドラゴンを無理やり着陸させると、異形は上空を数周旋回した後で、遠くの空へ飛び去って行きました。私はその間、ドラゴンが火を吐いたりしないように、必死に落ち着かせていました。


 私はその異形との遭遇を、帰ってすぐにエンリケに報告しました。子細にわたって話すと、エンリケは執務机の前で腕を組みながら、うなずきました。


「分かった」


 エンリケはすぐさま筆を執って、手紙を書き始めました。私はそのとき、きっと異形のことを、グロッソか、「直属」か、そのどちらかに相談するのだろうと思っていました。しかし、エンリケが言った宛先は、私にとって意外でした。


「これを陛下に」


「陛下に、ですか」


「そうだ。いいか、絶対に『直属』の側にも、『研究所』の側にも、知られるな」


 エンリケが『研究所』と呼んだのは、グロッソやリーゼのことだろうと、私は察することができましたが、なぜ彼らではなく、セペダ昴星王に直接渡さなければならないのか、その意図が読めませんでした。


 手紙を託された私は、城を出て一頭立ての馬車を駆るあいだ、エンリケの意図について考えていました。そして至った結論は、「南メンデシア侯は陛下に決断をゆだねる」というエンリケの意志の表れなのだろう、ということでした。


 つまりエンリケは、王国の危機への警鐘と、王国への忠誠を見せることで、「直属」も「研究所」も持っていない「切り札」を得るために私にこの手紙を託したのだと、私は推測したのです。


 すっかり日が沈んだ頃、私は近くの村に馬車を停めて、鍛冶屋のドアをたたきました。すると中から、たっぷりと髭をたくわえた、白髪交じりの中年の男が出てきました。


「あんたか」


 村人の名前はオイゾといいました。オイゾは私を店の中に招き入れると、仕事場のランプを点けて、近くにあったテーブルの上を片付け始めました。


「めずらしいな」


「リーゼにも知られたくない手紙ですからね」


「そうか」


 片付けたテーブルの上に、オイゾは店の奥から出してきた木箱を乗せました。木箱のなかには、川魚の干物がぎっしりと入っていました。


「えらく大きいですね、これ」


 私が干物の一つを取り上げると、オイゾは無表情に答えました。


「日が沈むまで戦った」


「なるほど。お礼ははずみましょう」


 金貨の入った袋を、私はオイゾに渡しました。その中には、フレドニア宛ての手紙が入っていました。


「王城から来る使いに渡してください」


「そうする」


「今後も、直接渡すことがあるかもしれない。なにしろ――」


 私その言葉にかぶせるように、オイゾは首を振りました。


「知りたくもない」


 私は干物の入った箱を受け取り、オイゾの店を後にしました。


 オイゾの素っ気ない態度も無理はありませんでした。オイゾはその村で貴人の手紙を預かる役目を秘密裏に負っていました。そのことが他人に知られれば彼の村での立場は危うくなります。手紙を預ける理由や、まして手紙の中身を知るなんてことになれば、命の危険にさえさらされるでしょう。


 しかしオイゾは口が堅いことで評判でした。だからこそ、今まで手紙の預かり役の務めを果たしてこれたのでしょう。彼の長年にわたって伸ばしてきた髭はその証明でした。


 私は軽率な発言に申し訳なさを感じながらも、一方で、その日の目まぐるしさを思い出して、オイゾに嫉妬していました。オイゾには故郷の村があり、私にはない――そんなことを思ってしまい、私は馭者台でかぶりを振って反省しました。


 そして何より私を困惑させた「異形」のことを思って、背中が凍り付くような思いがしました。あの「異形」は、「魔界の軍勢」が確かにこの世界に迫っているということと、大きな戦役がまた新たに始まるであろうことを、私の眼前に突き付けていたのでした。

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