財務省東南領管理特任担当リンファ――金の流れに真実がある

 修道会病院の中央病棟七七〇二号室に通されると、ベッドの上で半身を起こしているラファエロを前に、書類鞄を傍らに置いたリンファが、椅子に座ってひたすら帳面にメモを取っていました。


 南向きの、眩しいほどの外光が入る部屋でした。壁紙には装飾があり、花瓶に花が飾ってあり、ユーキリスが閉じ込められていた殺風景な部屋とは全く異なりました。私がドラゴンで病院のそばを飛び過ぎたときに見下ろした、その巨大ながら清潔な雰囲気を漂わせる建物は、まさに教会そのものでした。その建物のおそらく一番広く上等であろう部屋を、ラファエロは個室として使用していたのでした。


 しかし、そのラファエロはベッドの上ですっかり衰えていました。私が初めて出会ったときの、馬上で威光を放つラファエロの姿はすでに消え失せ、顔のしわは深くなり、筋肉は落ち、目はくぼみ、背中は丸く、髪はまばらに抜け落ちていました。


 そんなラファエロの目の前で、リンファは厳しい表情で、しかし生き生きと筆を走らせていました。王国の財務省に仕え、すでにメンデシア全域の財政を一手に担っていたリンファが、この度、ピントンの領地の財政まで管理することになったのです。


 私は、エンリケのラファエロに対する債権をまとめた書類を届けるために、ラファエロの病室で落ち合うことをリンファに指定されました。そして、書類をリンファに預けると、私はラファエロのそばに近づきました。


「いかがですか、ピントン侯」


「酒」


 ラファエロは即答しました。その横で、リンファは首を振りました。


「この通りよ。さあ、ピントン侯、ここにサインを」


 リンファが一枚の書類を差し出すと、ラファエロはベッドの上で、状況が分からないとでも言いたげに、書類とリンファの顔を交互に見比べました。


「何で?」


「サインを」


 リンファが強く念を押しました。するとラファエロは首をかしげながらもペンを取って、書類にサインをしました。


 そのとき私は、しきりに辺りを見回していたと思います。ここが修道会病院であることを考えれば「直属」がどこにいてもおかしくないと覚悟する必要がありました。部屋のどこかに隠れている可能性もありますし、発言を記録する魔法を使える相手である可能性も考慮しなければならなかったのです。


 私が何かの企みを持ってリンファに近づいていると疑念を持たれても仕方がありませんでした。当時の立場から考えれば、潔白を示すことは不可能でした。


 そのときの私は、そもそもリンファは「直属」やグロッソたちの企みを知っているのか、そして、リンファが一体「どちら側」なのか、と思っていました。企みのほうは金の流れですぐに悟られそうな気もしましたが、それを踏まえてリンファがどちらに味方するかの確証が得られない状況でリンファと話すことは、実に不安でした。


 薬草茶を病室に運んできた看護師さえ「直属」に見えました。運ばれてきた薬草茶を受け取ったはいいものの、毒が入っているのではないかとさえ思いました。私はラファエロが口にするのを待ってからその薬草茶を飲みました。リンファはカップをサイドテーブルに置かせたままにしていました。


「あれは、まだ作ってるのか、魔法陣」


 ラファエロは虚空を見つめながら質問していました、リンファは帳面に視線を落として答えませんでした。仕方なく、私はラファエロの質問の答えました。


「作ってらっしゃるみたいですよ」


「どこだったかな」


「極西砦に作ってらっしゃいましたね」


「そうか」


 私のほうに振り向きもせずそう言って、ラファエロは俯いてしまいました。


 すると、看護師が三人ほど入ってきて、ベッドを囲み、ラファエロを引き起こそうとします。


「侯爵、お風呂のお時間です」


「嫌だ」


「嫌でも入ってもらいますよ」


「嫌だ! 寂しい! 酒よこせ!」


 暴れだそうとするラファエロを、看護師たちは抱え上げて、無理やり病室から運び出していきました。それを見送った後、リンファは、すっかり冷めた薬草茶のカップを取り上げて、一気に飲み干しました。


「すごく、屈強ですね」


 私が言うと、リンファが驚くでもなくうなずきました。


「そうね。彼らは『直属』だから」


 その言葉は、リンファが「直属」の側であることを示していました。私は気が動転していたのでしょう、額から冷や汗が流れ出したのを今でも強く憶えています。


「最近はだいぶ派手に動いてるみたいね」


「ご存じなのですか」


「金の流れは情報の流れ。金を追っかけてれば情報は自然と耳に入ってくるわ」


 そう言ってリンファは帳面を閉じると、書類でパンパンになった鞄に突っ込んで、金具を閉めて、鍵をかけました。椅子にもたれかかって背伸びをして、リンファは続けました。


「私はね、皆に仲良くしてもらいたいの。そうじゃなかったら、また戦争で国民が貧乏になっちゃう。王国も中メンデシアも仲良くしてもらって、それで王国が発展するのが、いいじゃない」


「そのために、ピントンの領地を押さえたのですか」


 私が問いを絞り出すと、リンファは私を指さして微笑みました。


「仲良くしないとこれから大変になるからね。魔界の軍勢が押し寄せてくるのは確かだから」


 魔界の軍勢――まさかその単語をリンファから、「直属」の側の人間から聞くとは、私は思っていませんでした。


「やはり、来るのですか? その、『魔界の軍勢』というのは?」


 私が訊くと、リンファは腕組みしてうなずきました。


「いつ、どこから、は分からない。でもね、確かに来るわ。それは『直属』も、『君たち』も、分かっていること、ってこと」


 私を、つまりグロッソの側の人間たちを「君たち」と呼んで、リンファは椅子から立ち上がりました。


「ユーキリスには会った?」


「……病室を探したのですが、見当たらなくて」


 私は素直に答えました。すると、リンファはさも当然と言いたげに笑いました。


「八〇〇一号室なんてないわよ、この病院に」


「えっ、でしたら、ユーキリスさまはどこに?」


「秘密」


「そもそも、私とユーキリスさまが会うことが、何か意味があったのですか?」


「あんたを試したのよ。あの部屋、結界が張ってあったのは知ってるでしょう?」


「ええ。ユーキリスさまが仰っていました」


「あそこね、普通の人間が入ったら、死ぬよ」


「どうして」


 私の顔は、かつて主だった人間に対して見せるような表情ではなかったでしょう。それぐらい疑念に凝り固まっていたと思います。しかしリンファは気にするそぶりも見せませんでした。


「精霊の力が強すぎてね、体が粉々になっちゃうの。ユーキリスぐらいの魔法の使い手なら、耐えられるんだけどね」


「そんな場所、どこにあるんですか」


「だから、それは、秘密」


「その部屋で、私が耐えられたから、一体何だっていうんです」


「いままで、魔法の攻撃を一度も受けてこなかった自分の人生を、顧みてみることね」


 言葉の真意が読み取れず、私は思わず首をかしげていました。その私の肩に、リンファはそっと手を当てました。


「あなた、これから忙しくなるわよ」


 リンファの企んだ笑顔に、私はそれ以上突っ込んで訊くことができませんでした。


「それからね、わかったのよ、あなたの生まれ故郷。知らないって言ってたでしょう?」


 唐突に話題を変えたリンファは、さきほどの鞄の鍵を開けて、中から一封の手紙を引っ張り出しました。


「ピントン領内の昔の帳簿を漁ってたらね、見つけたの。当時の領地のやり取りの記録。こんど用事のついでに見てきたら?」


「それはつまり、私の村が、ピントン領内にあったということですか?」


「そうなるわね」


 そのときのリンファの言葉を聞いた驚きは、形容しがたいものがありました。郷愁ではなかったと思います。どちらかと言えば、恐怖に近かったかもしれません。


「私の村を襲ったのが、ピントン侯だというのですか」


「そこまでは分からない。あの一帯は昔から領主が入れ代わり立ち代わりだったし、そもそも隣の大公国との国境だったから。それを安定させたのが、ピントン侯だったんだけどね」


 そう言って、リンファは手紙を私に手渡しました。その手紙を、握った汗で濡らさないように、素早く自分の鞄にしまったことは、未だに鮮明に思い出される記憶です。

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