メンデシア侯爵令嬢ジョルゼッタ──最初の名前しかなかった頃

 フレドニアとエンリケがドラゴンに乗って砦の上空を旋回しているのを、物見台から眺めていると、背後の階段から足音がしました。振り向くとそこには、紺青色のワンピースを着て、未だに年齢不詳を保ったままのジョゼが居ました。出会った時と変わらない美貌のジョゼでしたが、水龍は体に這わせておらず、代わりに、毛皮のマフラーを首に巻いていました。


 冷静に考えればピントン領内なのですから、ジョゼが居たところでなんの驚きもないのですが、私はすこし虚を突かれて、慌ててジョゼにひざまずきました。


「ご機嫌うるわしゅうございます、ピントン侯爵夫人」


「久しぶりね」


 ジョゼは気取る様子もなく、私の隣に立って、物見台の手すりに手をかけながら、滑空するドラゴンを見上げました。


「いつまでそうしてるの? 立ちなさいって」


 見上げたまま言うジョゼに促されて、私は立ち上がり、ジョゼと同じ方向を見ました。ドラゴンの上で交わされている会話は、遠く、速く動いていて、さらに風の中なので、下の人間には聞こえてきません。それは下の人間の会話がドラゴンに乗る者には聞こえないということでもありました。


「私が『ジョルゼッタ』だったことは聞いた?」


 視線をドラゴンに向けたまま訊くジョゼに、私はうなずいていました。


「恐縮ですが、この耳で」


「そう」


 視線を下げ、物見台から見下ろすと、中庭でソニアが使用人とボールで遊んでいました。フットボールでもなさそうな、ルールの判然としない遊びに、付き合わされていた使用人はソニアから怒られていました。


「私の妹」


 ジョゼが呟くのに、私は口を真一文字に結んで、彼女たちの複雑な運命を真摯に受け止めていることを示しながら、うなずきました。フレドニアがソニアを謀らんとしていることを、ジョゼが知っているのかは分かりませんでした。しかし、知っていても知らなくても、ジョゼは使命のためならその運命を受け入れる女性なのだろうと思いました。でなければ、若くして使命のために親元を離れるなんて出来ないでしょうから。


「そうなりますね」


 私が一言、そう返すと、二頭のドラゴンが物見台に近づいてきて、フレドニアがこちらに手を振ってきました。ジョゼが手を振り返すので、私は最敬礼して、ドラゴンが飛び過ぎるのを待ちました。


「ネフィ、ずいぶんと調子に乗ってるようね。妃殿下も虜にしたみたい」


 ドラゴンの尻尾が遠のくのを見つめながら、ジョゼは言いました。私はうつむいたまま答えました。


「私は、妃殿下とも、ネフィさまとも、全くと言っていいほど話しておりませんので、申し訳ございませんが詳しくは存じ上げておりません。侯爵夫人は、最近、お二人のどちらかとはお話しされておられないのですか?」


「やめてよ。二人の時はジョゼでいい」


「……ジョゼさまは、やはりまだ、ネフィさまのことが」


「どうしても好きになれない。でも、仕方ない。使命のためには好き嫌いなんか言ってられないもの」


 私は顔を上げて、砦の中庭から、砦の周囲に広がる堀へと視線を向けました。物見台からもその巨大な構造物の威容が着々と出来上がっているのが分かりました。


「この魔法陣も、ジョゼさまが背負われた使命なのですね」


「そう。でも、背負ってるって感じでも無い。大好きで大好きでたまらない、お父上が私に下さった、プレゼントって感じ」


 魔法陣の眺望に、ジョゼは目を細めていました。その堀の中では、奴隷たちが鞭で打たれていたわけですが、そのことをジョゼが気にする様子はありませんでした。私は臆病だったものですから、奴隷から自分の意識をそらそうと、話題を魔法陣からさらに移しました。


「閣下は、いかがされておりますか?」


 私が訊くと、ジョゼは吹き出すように笑いました。


「入院したわ」


「……どこか、ご病気でも?」


「脳みそが酒浸りになってダメになったのね。修道会病院に入院しているから、今度、お見舞いにでも行ってみたら?」


 まるでピクニックでも勧めるようにジョゼは言いました。そのとき、ジョゼがラファエロと結婚したことが「愛情」でも「虚飾」でもなく「使命」のためであったことを、見せ付けられたような気がしました。


 物見台に、寒い風が吹きつけていました。


「気になっていたことがあるのですが」


 私の言葉に、ジョゼは微笑んでうなずきました。


「いいよ。私とあなたの仲じゃない、遠慮しないで」


 随分と勿体ない言葉のように思われましたが、それをその場で口にするとまた面倒くさがられるので、私は質問に入りました。


「ジョゼさまのお父様は、どうして、北メンデシアに侵攻されたのですか?」


 北メンデシアはかつて、エレラの父親の領地だったわけですから、そのエレラが若いころに故郷を追われたということは、そこに攻め入ったのは紛れもなくジョゼの父親であるマヒタンだということでした。


 私の問いに黒髪をかき上げて風になびかせたあと、ドラゴンを目で追いながら、ジョゼは言いました。


「父が北メンデシアに侵攻してなければ、エレラもきっと、素敵な令嬢に育って、素敵な男性と出会って、素敵な家庭を築いていたかもしれないよね」


「そうかもしれませんね」


「でも、父も必死だったの。なぜって、北メンデシアにも、魔法陣を作らなければならなかったから。今もそのつもり。エレラにどうやってお願いしようか、考えているところ」


 私の人生には驚きが絶えないのですが、この時はそれに加えて、胸が痛みました。いくらなんでも、ラファエロを堕落させた上に、またさらにその原因たるものを作ろうという気が知れませんでした。さらに、ジョゼが奴隷の惨状について興味がないのは察しがついていましたが、私は、奴隷労働がさらに増えることへの憤りを隠すのに必死でした。


「一体いくつ作られるおつもりなのですか?」


「少なくとも、五つは必要ね」


「あと三つも?!」


 私が思わず声を張り上げると、ジョゼは下からえぐるように睨みつけてきました。


「声が大きい」


「……申し訳ございません」


 寒風の中、二頭のドラゴンは私とジョゼの上空をずっと旋回していました。フレドニアとエンリケも、私たちと同様に、聞かれたくない話をしているのだと思いました。それが愛の詩であるなら、まだましだとさえ思われました。


 ジョゼは目つきを元に戻して、私を真っすぐに、潤んだ瞳で見つめました。それは、奴隷の出の私に頭を下げまいとするプライドと、下げたくもなる事情との狭間で表れた態度のように見えました。


「これは、私からのお願い。私の父と、私の血縁は、エレラには黙っておいて。母のことも」


 ジョゼの母親と聞いて、リーゼのことだと思い出すまでに、少し時間がかかりましたが、私はその言葉の真意を確認しました。


「つまり、血縁に関係なく、ジョゼさまはピントン侯爵夫人として、ご自身の意思で中メンデシアを支援されている、ということですね」


「そういうこと」


 ジョゼは深くうなずきました。私はそのジョゼの姿に、身の程も知らず、いじらしいと思ってしまいました。


「仕方ないのよ。誰かが犠牲にならないと、この世界は護れないの。父が王政を倒していたら、私は父に処刑されていたでしょうけれど、それでも構わなかったの。それが約束だったから。使命だったから」


 ジョゼはそう言って、マフラーの毛皮に顔をうずめて、零れそうな涙を隠しました。


「大変ですね。使命を帯びるということは」


 私が言うと、ジョゼはマフラーから顔を出して、訊きました。


「あなたの使命は? デック」


「それはもちろん、南メンデシア侯のお側で一生懸命に仕えさせていただくことです」


「それは『仕事』でしょう? 私の聞きたいのは『使命』。あなたが生きている意味よ」


 ジョゼに重ねて訊ねられ、私はしばらく頭を巡らせたあと、首をかしげました。


「考えたこともございません」


 本当に考えたこともなかったものですから、素直に答えました。するとジョゼは、寂しそうな笑みを浮かべて、物見台の手すりから離れました。


「それじゃ、帰るわ」


「お二人にお会いにならないのですか?」


 私が訊くと、ジョゼはこちらも見ないで手を振りました。


「また、いずれね」


 階段を下りていくジョゼを見送りながら、私は再び空を飛ぶドラゴンを見上げました。風は一層冷たさを増し、夕日が遠くの山の峰に隠れようとしていました。

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