王妃フレドニア――母性が謀略の前に霞む

 私はエンリケと共にピントン領内の最西端に位置する砦へ、ドラゴンで向かっていました。「極西砦」というそのままの名前の砦で、そのとき、フレドニアがソニアと共に休暇を過ごしていました。


 空を翔けながら、エンリケは私に向かって叫びました。


「私はなあ! 中メンデシア侯に協力するつもりは全くない!」


「よく存じております!」


「だがネフィ所長のご意思のあるところであれば別だ! やむを得ないんだ!」


「ごもっともでございます!」


「なあ! 何かの罠ではないよな!」


「それは妃殿下のお手紙を頂戴したエンリケさまがよくご存じではないですか!?」


 エンリケの疑念も無理はありませんでした。国王の妃を奪おうという不敬を、「直属」も、グロッソたちも、後押ししようというのですから。


 上空から見下ろす砦の周囲には、魔法陣の堀が着々と描かれていました。ここに近くの川から水を引いて魔力を溜め込むのですから、大工事なわけで、やはり奴隷が働かされていました。


 この密会の計画にグロッソが関わっているのなら、なぜこうして奴隷の労働を許しているのか──あの日、奴隷解放を夢見た言葉を確かに聞いた私は、複雑な思いで奴隷たちを見下ろしながら、砦に着陸しました。


 砦の外観を見ると、王族が休暇を過ごすには殺風景に過ぎると思いましたが、中に入れば、きっとジョゼの趣味なのでしょう、華やかな、それでいて程よく品のある内装が施されていました。


 使用人に奥へ通され、私たちはフレドニアに拝謁しました。南向きの明るい光が入るその部屋では、フレドニアがソニアと一緒に茶とお菓子を楽しんでいました。


「フレドニア妃殿下、ソニア内親王殿下、ここに、南メンデシア侯爵エンリケ、参上いたしました」


 エンリケと私が共にひざまずくと、フレドニアはテーブルから立ち上がって、エンリケの前に手を差し伸べました。もちろん私に差し出されることはありません。エンリケはフレドニアの手の甲に口付けました。


「ごきげんよう、南メンデシア侯。ソニア、ご挨拶を」


 フレドニアに呼ばれて、ソニアが椅子から降り、やはりエンリケの前に手を差し出します。


「ごきげんよう、南メンデシア侯」


 エンリケがフレドニアと同様に、ソニアの手の甲に口付けました。すると、エンリケがじっとひざまずいているのを見かねたのか、ソニアの手を離したのを見計らって、フレドニアがエンリケの手を、その両の手で握りました。


「そんなにかしこまらないでください。ここは王城ではありませんよ」


 まるでフレドニアに引き上げられるように、エンリケは恐る恐る立ち上がっていました。フレドニアの部屋に入ってから、普段のエンリケの威圧感はすっかり消え失せて、その態度は違和感がある程に神妙でした。


「さ、ご一緒に」


 フレドニアに勧められるままに、エンリケはテーブルの席に座りました。フレドニアに側仕えている使用人が淹れた茶を、エンリケは普段のように断らずに、口をつけました。私は部屋の隅に立って、エンリケにいつ呼ばれてもいいように、会話を見守っていました。


「ドラゴン臭くて申し訳ありません」


「いいえ、むしろ懐かしいくらい。学生時代は乗竜部でしたから」


「しかし驚きました。上から見て初めて分かりましたが、ここはすっかり魔法陣の真ん中なのですね」


「ピントンの城と同様でしょう?」


 フレドニアが訊くと、エンリケは少し目を泳がせました。


「閣下にはしばらくお会いしていないので、なんとも。お元気だといいのですが」


「あら。もう借金の取り立ては諦めなすったの?」


 そのフレドニアの言葉に、エンリケが眉尻を下げたのを見て、私は内心驚いていました。エンリケが人に困らされることがあるのだなと思ったのです。


「お言葉ですが、殿下。いけません、殿下のお口からそのような、卑俗なお言葉を」


「いいのよ。ソニアも世の中の色々なことを知っておかなければなりませんし」


 エンリケは普段飲まない茶のせいか、それともフレドニアのせいか、苦虫でも噛んだような表情になり、それを隠すように、引きつった笑いを浮かべました。


「……それにしても久しくお会いしておりませんでしたが、ソニア殿下も、もうすっかりお母様のお美しさを継がれておられる」


 話題を変えようとする意図が見え透いたエンリケの言葉に、フレドニアは全く動じませんでした。


「北メンデシア侯もお気に召したようですね」


 フレドニアのその言葉に、エンリケは表情を変えまいと我慢しているのがよく分かりました。


「北メンデシア侯は、随分とおしゃべりのようですね」


「あら、そうかしら。ソニアへ忠誠心を表してくださる方なんて、そうそういらっしゃらないから、私もソニアもとても心強く存じておりますのよ」


 意地悪──そんな言葉が脳裏に浮かびました。フレドニアは明らかにエンリケが困っている様を楽しんでいました。


 私はネフィから返された手紙をエンリケに渡していませんでしたし、ソニアがマヒタンの子だということも報告していませんでした。それらの情報は不必要にエンリケを刺激しかねないと思ったからですが、それゆえに、明らかにこの茶会では、持っている相手の情報、というより、「弱み」の数に差がありました。


 私の目の前で、エンリケが不安に陥っているのが分かりました。冒険者の頃なら、この場にいる私は物を投げつけられてもおかしくない状況でしたが、そのときのエンリケは侯爵であり、王妃の御前でした。


「さて、本題に入りましょう。ソニア、お外で遊んでらっしゃい」


 その言葉に、使用人がさっと移動して部屋のドアを開くと、ソニアは椅子から素早く降りて、膝を折って挨拶した後、部屋からスタスタと出て行きました。使用人も出て行きましたから、無論、この状況なら私も出なければならない、と察しましたが、それを覆したのは、他でもないフレドニアでした。


「そちらの執事さんも側に仕えていてくださって。まるで逢引みたいに見られたらいけませんから」


 無言で頭を下げて部屋を出ようとしていた私に、畏れ多くも妃殿下とあろう方が声をかけたということに、私はそのとき、全身の筋肉が硬直したことをよく憶えています。


 私はエンリケの顔色を伺いました。エンリケは、諦念の表情で、深くうなずきました。


 フレドニアとエンリケと私。貴族の出と平民の出と奴隷の出。三人がいる部屋の中は、まるで種類の違う水生生物を一緒に入れた水槽のような、輪郭が不明瞭な緊張感に包まれていました。


「さあ、お聞かせくださらないかしら。貴方がわたくしと結婚することによって、どのようにして王位継承権を得るかを」


 フレドニアの言葉に、エンリケは観念したようでした。エンリケは冷めきった茶のカップを飲み干して、眉間にしわを寄せて、訊きました。


「その前に伺いたいのですが、殿下は『直属』というのをご存知ですか?」


「『直属』は、あなたが王座を狙っていることを、私が知っていることは、知らないはずよ」


 フレドニアが見下ろすように微笑むと、エンリケは、上目遣いで微笑み返しました。エンリケのその笑顔は、この砦に来て初めての心からの笑顔でした。


「話が早いですね。ではお話ししましょう。私の考えはこうです。まず陛下から内親王殿下に王位を移譲していただく。そして幼い女王の執権として、恐れながらこの南メンデシア侯爵が王城にてにご奉公させていただく。その間に、畏れ多くも妃殿下との再婚を頂戴して、そして、女王となるであろう内親王殿下から、この南メンデシア侯爵が王位を頂戴する」


 そこまで言って、エンリケは咳払いを一つ、空のカップの底を覗いて、小さな声になりました。


「それを可能にするために必要なのは、王位継承権を女子にも認めることと、それと……」


 言い淀んだエンリケに、フレドニアは即座に返しました。


「陛下が小姓と再婚出来るように、同性婚を認めることと、ソニアを謀殺することね」


 そのとき私は、この砦に来たことが夢であってほしかったと、心から願いました。しかし現実でした。それはそれは恐ろしい、直視に耐え難い現実だったのです。


 エンリケは驚きのあまり絶句していました。その様子を、フレドニアは睨みつけるような笑顔で眺めていました。


「あら、わたくし、何か間違って?」


 そのフレドニアの言葉に、エンリケが、今にも震えそうな唇で答える姿は、何十年経っても、まぶたに焼き付いています。


「恐れながら、妃殿下。内親王殿下におかれましては、同性婚を認めるとともに、北メンデシア侯への降嫁で、差し支えないかと」


「ご不満?」


 フレドニアの有無を言わさぬ反語に、エンリケが歯向かうはずもありませんでした。


「……滅相もございません」

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