使用人リーゼ──その女は知っている

 馬車の帰路から、大きな暗室、ユーキリスの病室と、一瞬のうちに移動したような昏倒と覚醒を繰り返したあと、随分と長く眠っていたような気がして、私は生きているのかどうかさえ分からない心地でいました。


 そして、エンリケの城の、私の部屋で目を覚ましたとき、驚くべきことに、介抱していたのは、エンリケ自身だったのです。


「目が覚めたか」


 夢か現実かを問うて二度寝できるような立場ではありませんから、私は驚きと申し訳なさで跳び起きました。


「こんな、いけません、エンリケさま」


「いいから寝てろ」


 命令されてしまったら言うことを聞かないわけにはいかず、私はベッドに戻りました。その枕元に、エンリケは神妙な面持ちで椅子を近づけて、辺りを見回しながら、私に耳打ちしました。


「お前、フリオに会ったか」


 その問いは明らかに、私の行方の見当がついていたものでした。


「はい」


「お前は一週間、ここを空けた。私は三日間だった」


「それはつまり、エンリケさまも、さらわれていたのですか?」


 エンリケは黙ってうなずきました。


「では、フリオさまともお会いになって?」


「ああ」


「その……あの」


「妃殿下との話、考えてやってもいいと言われた」


 限りなく小さな声で会話をやり取りしたことで、すでに私たちは「直属」の存在への警戒を共有していたことが分かりました。


「研究所からの帰り路、お前が倒れたのを見て馬車を降りようとしたら次の瞬間には真っ暗な部屋だった。そしてフリオの尋問を受けたあと、また目の前が真っ暗になって、気づいたら私のベッドの上だった。使用人たちが言うには三日間誰もいなかった寝室に突然私の姿があったそうだ」


「では、私も」


「そうだ。今朝、使用人がこの部屋に入ったらお前が寝ていた。私は急いで使用人たちを締め出した。それで今だ」


 私はその時、エンリケがどんな内容の尋問を受けたかを訊こうとして、ためらいました。それを訊けば、逆に、私が研究所で見たことを話したことも、ユーキリスに会ったことも話さなければなりませんでした。エンリケの機嫌を損なうことを、こんな状況でも私は恐れていました。


 そんな私を意に介さず、エンリケは抑えた声で続けました。


「問題はここからだ。私とお前がいない間に、使用人たちが勝手に新しい使用人を雇った。ドラゴンに餌やりするのをためらわない、頑張り屋の女性だと言っていた。おかしいとは思わないか?」


 その言葉に、私は黙ってうなずきました。言葉もありません。エンリケの周辺状況はますます、フリオの手中へと収まっていると感ぜられました。


「いいか。これからは周りに『直属』がいつでも、どこでも居ると思え。誰も彼も怪しい。新しく現れた人間は特にだ。しかも『直属』は、使用人に気づかれないように私たちを部屋に運ぶことができる能力の持ち主だ。気を付けたほうがいい。これからこの部屋を出たらその新入りを紹介する。絶対に警戒心を顔に出すな」


 エンリケの真剣な視線を真正面から受け止めるのは、そのときが初めてだったように思います。それぐらい、私とエンリケは、そのとき立ち向かっている問題に協力しなければならなかったのです。


「かしこまりました」


 私は返事をした後、急いで着替えて、エンリケと共に使用人たちの前に出ました。


「皆さんごきげんよう。ご心配をおかけして申し訳ありません」


 列を作って揃った使用人たちがそろって頭を下げますが、その中に「直属」がいるのだと思うと、私は気が緩むことはありませんでした。


 するとエンリケが、その中の一人を手招きしました。前に出てきたのは、黒髪に白髪が混じった、私よりも背の高い女性でした。


「お前が留守の間、ドラゴンに餌をやってくれてたそうだ。これからもここで働きたいと言っているから、お前もよくしてやってくれ」


 エンリケが努めて笑って女性を紹介しました。私も表情を作って応じます。


「デックと申します、よろしく」


「リーゼでございます」


 リーゼは膝を曲げて挨拶すると、また使用人の列の中に戻っていきました。私の手のひらは汗をかいていました。すると、エンリケが私の耳元で、囁きました。


「泳がせる。絶対に目を離すな。証拠をつかめ。いいな」


 そしてエンリケは、その場から離れて、自身の執務室に戻っていきました。


 リーゼは使用人全員の下働きとして契約されていましたが、エンリケが戻ってきてから、この城の使用人として正式に雇うことになったそうです。「直属」の存在を知りながら、エンリケはリーゼを追い払うことはしませんでした。きっとエンリケは、リーゼの弱みをつかんでやろうと考えていたのかもしれません。


 その日から始まったリーゼへの「相互監視」の生活は、いま思えば滑稽だったのですが、「直属」の密偵が近くにいたのは確かだったでしょうから、無駄ではありませんでした。エンリケも私も無口になり、必要のあるコミュニケーションは筆談でやり取りされ、書いた紙はすぐさま暖炉にくべられました。


 リーゼがドラゴンの餌やりを厭わずにやるのは、潜入のためだと決めつけていましたが、それにしては手際がよいので、感心していました。「直属」であれば修道士でしょうから、人間の死体に触れることも抵抗がないだろうとは思っていましたが、ドラゴンにも抵抗なく接することができるのは、修道士としては珍しいと思っていました。


 しかしその日、それらの観察が全くの勘違いであること、そして、リーゼが全く別の使命を帯びて私たちに近づいてきたことを、知ることになるのでした。


 私がリーゼの様子を見ようと竜小屋に向かうと、その入り口の前で、リーゼが鍋を火にかけている姿が見えました。


「何をやっているんですか!?」


 私は思わず叫びました。火気厳禁で徹底されているはずの竜小屋の前で火を使うのは、これはもう破壊工作に違いない、と思い、私はリーゼに駆け寄りました。


 するとリーゼは、あろうことか、鍋の下の火に手を突っ込んだのです。そして、その焚き木の一本をつかんで取り上げ、目線の高さまで持ち上げました。よく見るとその炎は、普通の焚き火のそれよりも紫がかっていました。


「魔法……?」


 私が漏らした言葉に、リーゼは焚き木を鍋の下に戻しながら、微笑みました。


「ご心配なく。この火はドラゴンの体液に引火しません」


 私は鍋の中を覗き込みました。その中では、口を結んだ大きな革袋が煮詰められていました。


「これは、木の実のプディング……?」


「そうです。ドラゴンのオヤツに食べさせると、主人の言う事をよく聞くのですよ」


 そのリーゼの言葉は、私の遠い記憶を呼び起こさせました。


「召喚獣だけでなく、ドラゴンも機嫌がよくなるのですか?」


「ええ。やはりお詳しいのですね」


「あなた、もしかして……ジョゼフィーン侯爵夫人をご存じで?」


 私が訊くと、リーゼはうなずきました。その横顔は、昔よく見た女性によく似ていました。


「ええ、ジョルゼッタのことね」


「ジョル……?」


 私が首をかしげると、リーゼは少し涙目になって、首を振りました。


「あの子にもずいぶん悲しい思いをさせたわ。いまもその悲しみの途中ね」


 その姿に、私は意を決して、エンリケとの秘密を口にしました。


「失礼ですが、もしかしてあなたは『直属』の方ではないのですか」


 そう訊くと、リーゼは「直属」の単語の意味を理解して、答えました。


「むしろ彼らに追われる身。そして、彼らを、皆を、あなたを、説得する使命を負う身。この世界に迫る危機について」


「迫る危機?」


「あなた、あの『装置』をご覧になったんでしょう?」


 私はそのリーゼの言葉に、改めて警戒しました。


「……それもご存じなのですね。『直属』ではないのに」


「あなたにお話ししたいことがあるの。すこし、お時間をくださらないかしら」


 リーゼの提案に、私は黙ってうなずきました。私たち二人は魔法の焚き火を消して、煮詰まった革袋の入った鍋を手に、竜小屋の中に入っていきました。

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