西病棟八〇〇一号室患者ユーキリス――魔法剣士の入院
私が再び目覚めると、そこは周りを白い壁と天井に囲まれた個室でした。椅子に座ったまま、突然のごとく暗闇から白い部屋に移動させられたことと、両腕と両脚を縛り付けていた縄が無くなっていたことに驚きながら、私は辺りをゆっくりと見まわしました。
正面の壁の天井近くに小さな嵌め殺しの窓があるだけで、外の様子をうかがい知る術はありませんでした。左右の壁にはいたるところに落書きがあり、後ろに振り向いて出入口を見ると、ドアノブがありませんでした。この部屋は、中の人間が自分の意志では出られない、つまり監獄と同じ構造になっていました。
目の前にはマットレスの薄いベッドと、壁に据え付けられた蓋のない便器があり、その手前では、上半身裸で、無精髭だらけのユーキリスが、腕立て伏せを繰り返していました。
私が状況の変化に言葉をなくしていると、腕立て伏せをやめたユーキリスが、その場に座って、私を見上げて、言いました。
「久しぶりだな、デック」
「ユーキリスさま、どうしてこんなところに」
「ちょっとな。お前こそどうしたんだ」
「いえ、突然、気づいたら、ここに居ました」
「俺も気づいたらお前がいたぞ。たぶん『直属』の仕業だ」
ユーキリスの口から「直属」の単語を聞くとは思わず、私の声は自然と大きくなりました。
「あの、ご存じなのですか? 『直属』って何者なのですか?」
旧交を温める言葉も思いつかないまま、私が訊くと、ユーキリスは首をかしげました。
「よく知らん。なにしろ俺も、ある日気づいたらこの部屋に閉じ込められてた。そのとき久しぶりにフリオに会った。そしたらあいつ、偉そうに『直属』の言う事を聞いたほうが身のためだ、なんて言いやがった。ずいぶん偉くなったもんだよ」
ユーキリスは立ち上がって、ベッドのそばの床にじかに置いてあった、金属製の水差しから、床に置いてあったやはり金属製のカップに水を注いで、喉を潤しながら、小さな窓の光を仰ぎ見ていました。空は白く曇っているようで、明かりは少なく、部屋は天井の平たい照明に照らされていました。天井からぶら下がっているものはありませんでした。
「せっかくユーキリスさまが領地をお預けくださったのに」
「な。薄情なやつらだよ、修道会は」
ユーキリスは国王から与えられた領地の管理を、修道会に任せて旅に出てしまいましたから、その領地の年貢はほとんど修道会に入っていました。もちろん、修道会に入った利益がユーキリスに分配されていたという噂は聞きませんでした。
「まあ、どうでもいいよ。どうせここから出られないんだから」
「あなたの魔力をもってすれば、こんな部屋」
私が冒険者のころのパーティを思い出しながらそう言うと、ユーキリスは首を振りました。
「結界が張ってある。それも随分強力なやつがな」
ユーキリスは壁にもたれて座り、遠い目をしました。その顔からは、なにか諦めとも悔しさともつかない表情が感じられました。
私はやっと椅子から立ち上がり、ユーキリスのもたれている壁に近づきました。落書きの中には、卑猥な単語や、罵詈雑言や、切迫した悲鳴のような文言と、蛍光草の花の絵が沢山ありましたが、その中に、線五本で一つの図形を描いたものが、いくつも並んでありました。
「これは?」
「閉じ込められた日数だ。もう一年以上ここにいる」
途方もない数の図形を眺めながらも、私は、それらの図形が描かれる前のユーキリスが気になりました。
「その前までは、どこに」
「ほうぼう旅してたよ。蛍光草を求めてって感じだけどな」
「今も、その、やってるんですか、蛍光草」
「ここ病院だぞ? できるわけないだろ」
「どうして病院って分かるんですか」
「フリオがそう言ってた。実際治療も受けてる」
「もう、一年以上も蛍光草を断っているってことは、順調なんですね」
「どうかな。お前も幻覚かもしれないぞ」
そう言ってユーキリスはもたれた壁から立ち上がると、よろよろと歩きながらドアに近づき、外に向かってノックしました。
「おい、客が来たんだから、茶ぐらい出してやれよ」
ユーキリスの呼びかけの後、しばらくして、ドアの地についた小窓から、トレイに乗せられた茶の入ったカップが、滑りこんできました。それを持ち上げてユーキリスが私のところに運んできたトレイには「西病棟八〇〇一号室」と書かれていました。
「申し訳ありません、運ばせてしまって」
私は思わず謝ると、ユーキリスは苦笑いを浮かべました。
「いいんだよ。もうお前は俺の奴隷じゃない」
その言葉を聞いたとき、私はなぜか、寂しさを覚えました。あれだけ暴力を振るわれて怯えていたのに、すっかり染みついた奴隷根性が、主人の没落を悲しんでいました。
カップを取った私が茶に口をつけるのを、ユーキリスはじっと見つめていました。
「うまいか」
すっかり冷めた茶を飲みながら、私は首をかしげました。
「……どうでしょう」
「そうか。よかった。俺もそう思うんだ。ここの茶はとびきり不味い。茶だけじゃない。水も、飯も、何もかも不味い」
そう言ってユーキリスはカップの茶を一気飲みして、げっぷを吐きました。
「治療って、どんなことされてるんですか」
私が訊くと、トレイとカップを水差しの横に置いたユーキリスは、ベッドの上に座りました。
「ゴブリンの血を塩水で薄めて注射してもらってるんだが、一向に良くなる気がしない。ずっと蛍光草のことばかり考えている。落書きしてないと落ち着かない」
「道具は何で描いてるんですか?」
私が椅子に戻って座りながらそう訊くと、ユーキリスはカップに再び手を伸ばして、その底を私に見せました。
「この茶は茶渋ばっかり濃い。指で掬って取るとインク代わりになる」
「尖ったものは、やっぱり」
「そうだな」
私が察すると、ユーキリスはうなずきました。
「全部取り上げられてるし、くれと言ってももらえない」
「何がしたいんですか? その『直属』は? 私をユーキリスさまと会わせるために、こんな風に拉致したりして」
声が大きくなる私を、ユーキリスは憮然として見つめます。
「それを俺に聞かれても困るよ」
「……申し訳ありません」
「ただ、あれだろうな」
私が頭を下げていると、ユーキリスは顎に手を当てながら、首を左右に傾げました。
「フリオがそれだけ偉くなってて、修道会がなんか秘密裏に動いてるってことだろうから、なんかあるんじゃないの? 戦争とか」
その時、私はフリオが口にした「グロッソは何を企んでる?」という問いを思い出していました。王権の打倒や中メンデシアの独立などという言葉を、フリオから聞かされるとは思いもよりませんでしたから、私は、何かの誤解だとばかり思っていたのですが、ユーキリスまでがそんなことを言い出したので、妙な説得力を感じたのを今でも憶えています。
「だとしたら、ユーキリスさまも、またご活躍の機会が」
私の言葉に、ユーキリスは乾いた笑いを放ちました。
「それはねえだろうなあ。だって、ずっと健康診断ばっかりやらされて、剣術の稽古も魔法の練習もできねえもん」
「健康診断?」
「そう。なんか、脈拍計ったり、血液取られたり、ションベン取られたり。それを毎日」
そう言って、ユーキリスは振り向いて、嵌め殺しの窓を見上げました。
「お前、まだエンリケの奴隷やってんの?」
「奴隷と申しますか、エンリケさまの執事になりました。エンリケさまも今は立派な侯爵です」
「へえ」
エンリケは驚いた素振りもなくそう返事したあと、首を振って私に向き直り、言いました。
「いまこうして会ってること、エンリケには言わないほうがいいぞ」
そのとき、ドアが外からノックされました。
「これって」
私が怯えると、ユーキリスは深呼吸して、ため息を吐きました。
「多分、時間だってことじゃない」
「私、いいんですか、そこから出ていって」
「座ってな。また『魔法』をかけられて、気絶するから」
私が心配しながら椅子に座っていると、ユーキリスの言う通り、だんだんと意識が遠のいていき、視界がまた暗転したのでした。
この時の面会から、私はそれほど時間を置かずにユーキリスと再会するのですが、それが動乱の始まりであることを、この時は、予想することもできなかったのです。
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