「奴隷」から「執事」へ──籠の中の自由

 私はその一週間、エンリケが領内の生娘の中から厳選したとっておきの美少女をセペダ王の後宮に連れていくため、馬車を駆っていました。私が手綱を引く馬車は、エンリケのパーティを乗せていた幌馬車のころと違って、国王に失礼のないよう、豪奢に装飾を施した送迎馬車に変わっていました。私の着ていた服も平民のそれと全く同じでした。


 馭者私ひとり、娘ひとりを乗せ、二頭立ての馬車は王城への道を進んでいました。新緑の美しい季節だったと記憶しています。鳥たちが空を行き交い、田畑の緑が風を受けて波打つ風景の中でしたが、私の気分は滅入っていました。


 エンリケが売りたい恩は空振りに終わるのではないか、という気がしていたのです。もしこの娘が男子を孕めばエンリケをはじめ南メンデシアの人間が深く中央の政治に入り込むこともできたでしょうが、先が思いやられました。セペダ王は昔から小姓を何人も侍らせて、後宮には滅多に近づきもしないのです。一粒種のソニア王女も、王妃が姦通して孕んだ子だともっぱらの噂でした。


 日が沈んで、城下にかがり火が灯るころ、馬車は王城の後宮に通ずる門の前に着きました。予定通りに着いたためか、門前で待ち伏せしていたかのように現れたのは、近衛兵長のアランキスでした。


「南メンデシア侯エンリケの『執事』、デックでございます。この度は、陛下に奉る南メンデシアきっての美しき生娘を連れてまいりました」


 私が「執事」の単語を強調すると、アランキスは黙ったまま、苦々しい表情で番兵を顎で使い、門を開いて私を通しました。


 中に進むと、宮女たちが十数人、輪になってこちらに頭を下げて待っていました。私が馬車を宮女の輪の中に入れて停めると、宮女の一人が何の迷いもなく馬車のドアを開けて、中に向かって手を差し伸べました。私は娘の表情を見られませんでしたが、降りるまで間があったことから察するに、やはり戸惑いがあったのだと思います。後宮に入ることは名誉なことでしたが、失礼があれば家族にも迷惑がかかるのですから。


 宮女に手を取られながら、娘は後宮の建物の中に入っていきました。その間、私は馭者台から一切降りませんでした。そしてそのまま、宮女たちに頭を下げて、後宮を後にしました。


 王城からエンリケの居城への帰路につくと、私は、「奴隷」だったころには考えたこともないようなことに頭を巡らせていました。


 途中で寄り道して、何か食べていこうかな、ということでした。


 私は「奴隷」から「執事」と呼ばれるようになっていました。


 私は今でも不思議に思います。侯爵という立場の人間なら、奴隷も、使用人も、代わりはいくらでもいて、より有能な人材を、平民からも採用しようとすれば幾らでも集まってくるはずでした。それなのに、エンリケは私を執事に抜擢することを選んだのです。


 私は必死にエンリケに仕えていました。それは多くの使用人を私が指示し、運用することを意味しました。時として、奴隷出身のことを陰で揶揄されていたことも知っていましたが、それで逆上するようなことがあれば更に馬鹿にされるのは分かっていましたから、仕事の有能さで黙らせる他ありませんでした。


 そんな生活を送っている間、私が執事となって嬉しかったことは、平民の使用人たちを自分の部下としてこき使うことではありませんでした。所要の途中で、酒場に寄り、自分の財布から貨幣を取り出して、一杯のヤギのミルクと腸詰を頂くことでした。


 自由に使える自分のお金を手に入れたのです。領内を一人で行き来することもできるようになったのです。エンリケの居城の中とは言え、住所を持ち、私宛の郵便物が届くようになったのです。


 私はその「籠の中の自由」を存分に謳歌していました。エンリケの庇護がなければ私は奴隷として未だに苦しんでいたでしょうが、当時はすっかり、自分には下僕としての天賦の才があるのだ、と、歪んだ誇りを胸に秘めていました。


 しかも、グロッソが言っていたような「奴隷が自由に生きられる社会」の到来を待たなくても、こんなに有意義な生活を送ることができるじゃないかと、読み書きを教えてもらった恩人の思想を、どこか馬鹿にしていたところさえあったのです。


 私はそのとき、自分がただ単に幸運だったこと、多くの奴隷はいまだに奴隷として蔑まれ、酷使されていること、その多くの人々を救わなければならないことに、気付いていなかったのです。


 帰路の道中、私はそれぞれの土地の名物にありつくことができました。有名な修道士がレシピを考案したというカブの酢漬けや、モンスター狩りの冒険者から肉を買って作ったというオオカミの燻製や、村の保存食として昔から食べられていたという米と麦のプディング。みな美味でした。


 旅のグルメを堪能して、私は南メンデシアの城に戻り、エンリケの執務室をノックしました。


「エンリケ様、ただいま戻りました」


「入りたまえ」


 すっかり貴族めいた言葉遣いにかぶれたエンリケでしたが、私が執務室の中に入ると、机に両脚を土足で乗せていました。ほかの貴族たちが見ていない所では、冒険者の頃の癖がよく表れるのでした。


「ご苦労」


 書類に視線を落としながら、エンリケは私のほうを見ずに言いました。机をはさんだ向かいには、リンファが居ました。


「お疲れ」


「ご機嫌麗しゅう、リンファ殿」


 挨拶に答えると、リンファは冒険者のころには見せなかったような笑みを浮かべました。きっと領内の財政に関する話し合いが行われているのでしょう。


 リンファは王国の財務省に仕えることになり、メンデシア全域の財政を一手に担うことになりました。つまり、エンリケと、エレラと、グロッソの領地の財布を取り扱うという、冒険者の頃とさほど変わらない立場だったのですが、動かす金の額は数万倍ではききませんから、責任は重大です。しかしリンファはそれを目標としてきたのですから、笑みが浮かんで当然でした。


 私はエンリケの執務室をあとにし、溜まっていた仕事を片付けた後、エンリケとリンファの夕餉を料理人に用意させました。食堂でテーブルを共にした二人は、久しぶりの会食だったようで、話も弾んでいました。


「で、グロッソやエレラの懐具合はどうなんだ?」


「だから言えないって何度言ったら分かるの? デックだってそこで聞いているでしょう?」


「大丈夫だよ、こいつはずっと私の『荷物持ち』なんだから、口は堅い」


「……それよりも、ジョゼのことを気にするべきでしょうね」


「ん? ラファエロ殿か?」


 エンリケが首をかしげると、リンファは私の方に目配せしました。私は頭を下げてその場を去る準備をします。


「全ての者、失礼いたします」


「ああ、デックはそこにいていいの。他を人払いして」


 言われた通り、私は食堂にいた使用人を全員外に出しました。残った私はリンファのグラスにワインを、エンリケのグラスに水を注いで、側に立ちます。


「ピントン侯、なんでも、エレラから借金しているらしいの」


 リンファの言葉に、エンリケは頭を抱えました。


「閣下が、借金!」


「それもこれも、全部ジョゼの無駄遣いよ、きっと」


「きっとじゃなくて、絶対そうだろう」


 そう言って、エンリケはにやけながらグラスの水を一気に飲み干しました。


 ユーキリスを除いて――この頃の彼らはそれぞれに、もうすっかり地位を築いていましたから、エンリケのパーティが一同に会することは二度とないと、私は思っていました。しかし、再び彼らが一同に会し、強大な敵に立ち向かうことになるのを、私はもちろん、エンリケたちも、知る由がなかったのです。


「あー面白い。そうだデック、娘はどんな様子だった」


 エンリケが後ろ向きにそう訊くのを、私は頭を下げて答えます。


「特に会話も交わしませんでした」


「あれだけ美しければ、さすがの陛下も通われるだろう」


「あまり顔もよく見ませんでした」


 そう答えると、エンリケは、ふうむ、と唸って、うなずきました。


「それでいい。忘れるな。お前は今でも私の『荷物持ち』なんだからな」

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