ピントン侯爵夫人ジョゼフィーン――召喚獣への愛と逸脱
それは結界という規模を超えた、巨大な構造物でした。
ラファエロの居城の周辺に魔法陣の形をした堀を作り、湛えられた水に魔力を与えて、召喚獣と常に暮らせるようにしたのは、ラファエロと結婚したジョゼでした。
ぼんやりと発光する堀の水の中を、水龍が泳いでいました。ジョゼが体に這わせていた水龍は、堀の水の魔力をその身に浴びて、鯨のように巨大になっていました。
ジョゼは一日中、召喚獣と寝食を共にするためだけに、この巨大な魔法陣を作らせたのです。それも、ラファエロの資産――つまりはピントンの領民の血税――を使って。
ジョゼは、ラファエロとの結婚の条件として、結婚式に召喚獣を出席させることを条件としました。そのために、城を円の中心とした巨大な魔法陣の堀が作られたのです。その際、魔法陣の域内に入っていた領民の家は取り壊され、田畑は掘り返されました。一度作った魔法陣の堀が元に戻されることはなく、召喚獣もラファエロの居城に住み着き、今となっては、まるで魔獣の動物園のようになっていました。
晴れてピントン侯爵夫人ジョゼフィーンとなったジョゼでしたが、放蕩な性格は変わらなかったようでした。ピントン侯爵ラファエロの資産を一年足らずで浪費したにもかかわらず、ジョゼはさらなる領民への課税をラファエロにお願いしたそうです。その話はリンファから聞いたのですが、リンファがピントンの財務を担当することを自分から申し出ることはありませんでした。理由を聞くと、リンファはこう言いました。
「金にならないから。財務を管理することはできるけど、浪費を管理することは無理。しかも私はいま王国に仕える身。埒外」
私はエンリケを乗せた馬車の手綱を引きながら、何度も繰り返し馬車を走らせてきたピントンの城への道中に思いを馳せていました。最初に来たときは領民による工事の真っ最中だったのですが、回を重ねるにつれて、明らかに商人から買った奴隷を領民が鞭でたたいて働かせている光景が増えていきました。私はそれを、見て見ないふりをしていました。いまから思えば恥ずべき行為だったと思います。
魔法陣は点対称で、中心から外に向かって四本の直線が引かれる図案が含まれており、ラファエロの居城に至る道も、その四本しかありませんでした。堀に架かる橋を何本も越えて、馬車は門前に着きます。
馬車を出迎えた門番は人間ではなく、ゴーレムでした。魔法陣を掘って余った土を利用して、ジョゼが作り上げたものでした。
ゴーレムは城の中に建てられた木の実のプディングの「工場」でも働いていました。工場は清潔で、その中で働くゴーレムは腕だけが大理石で出来ており、木の実を砕いたり、シロップを混ぜてこねたり、革袋に入れて煮たりしていました。
出迎えの使用人もゴーレムでした。ゴーレムは人の言葉を話しませんが、会釈と身振りで、大まかなコミュニケーションは取れました。使用人が貴族や騎士と中身のある会話をすることなどほとんどありませんでしたから、それで十分だったのです。
「相変わらず、変な場所だな」
城の中に通されたエンリケが一人ごちると、使用人姿のゴーレムは、こくん、と静かにうなずきました。
案内されて通されたのは、ラファエロの書斎でした。書斎の机には、羊皮紙や植物紙に書かれた請求書類が山のように積まれていました。隣の執務室は鍵がかかったままで、もう長く使われていないようでした。書架の本には埃がたまって、何年も読まれていないのが分かりました。
そんな書斎の真ん中に据えられた、一人掛けのソファに、ガウンを一枚羽織っただけの、すっかり目の座ったラファエロがいました。
「ご機嫌うるわしゅう、閣下」
エンリケが頭を下げると、ラファエロは座っていたソファからものぐさそうに立ち上がり、すり足でエンリケに近づきました。
「ああ」
酒臭い吐息を漏らしながら、ラファエロはエンリケを強く抱きしめて、頬にキスしました。
「わが戦友!」
「……ご夫人はお元気ですか?」
ひきつった笑顔でエンリケが訊くと、ラファエロは首を振りました。
「三日前からワイバーンとデートだそうだ。連絡も取れない」
だそうだ、と言ったということは、きっと人づてか、置手紙でもしていったのでしょう。ジョゼのやりそうなことでした。
ラファエロは酒瓶を手放さなくなっていました。ソファに深々と座り、無精ひげを撫でながら、陶然とした様子で、問わず語りとでも言えばいいのか、一人で言葉をつないでいきます。向かい合わせで座ったエンリケも、その側に立つ私も、ただ黙って話を聞いていました。
「これくらいの音信不通は日常だ、心配することはない。むしろ日頃の感謝の気持ちを込めて、彼女を自由にさせてやるのが真心というものだ。私は彼女と出会って、自由とは何かを知った。逆説的な意味ではないぞ? 天真爛漫な彼女と行動を共にすることで、様々な経験をした。美酒の楽しみ方、夜伽の楽しみ方、様々だ。まるで私のほうが子供であるかのように彼女は扱うが、不思議とそうされている間、嫌な感じはしなかった。むしろ少年時代の清々しい気持ちを呼び起こされて心地よかったぐらいだ」
そこまで言ってラファエロは、書斎の窓を見つめました。曇り空でした。ガルーダが気持ちよさそうに庭を旋回していました。
「この部屋は良い。召喚獣が寄り付かない。そっとしてもらえる。ところで、用件は何だったかな?」
「借金の件についてですが」
エンリケの言葉に、ラファエロは吹き出しました。
「わざわざ本人にお出ましいただかなくても、じき払うのに」
「そう仰って頂いて、もう三年になります。失礼は重々承知ですが、私としても、閣下に改めて、けじめをつけて頂かなくてはと思いまして」
エンリケは神妙な面持ちでそう伝えると、ラファエロは瓶に直接口をつけて、酒をあおりました。
「そう焦ってくれるな。君だってわかるだろう、領民からあまり絞り上げるのは、統治者としてよろしくないことを。善政を敷くということは、なかなかに大変なのだよ」
ラファエロはそう言っていましたが、王国への納税も滞っていたのは、国内の諸侯の間でも有名でした。
「お言葉ですが閣下、これは」
エンリケの言葉を遮って、ラファエロは身を乗り出しました。
「じゃあこうしよう。どうしたら帳消しにしてくれる?」
「閣下……」
エンリケの表情が、困惑から悲哀に変わります。すると、ラファエロは顔を真っ赤にして叫びだしました。
「無いんだよ、金が! 信頼もないんだ、領民から! 見てみろこの城の中を! 人間が私以外ひとりもいない! そういう人間に金が集まってくるわけがない! そんな人間が借金を帳消しにしてもらうためには何をすればいいかって、そう訊いてるんだから、それに対して何かいいアイデアを出すのが君の役目だろう! そういうことだろう! なあ! デック、君からも言ってくれ!」
勘弁してくれと思いました。エンリケは私のほうを見ませんでしたが、その背中が、黙っていろ、と言っているのがよくわかりました。
「承知しました。いったん持ち帰らせていただいて、何かいい案が思いつきましたら、追って連絡いたします」
そう言うエンリケに、ラファエロは手を伸ばして、握手を求めました。
「ありがとう。さすが王国の英雄だ。ありがとう……」
ラファエロはエンリケの手にキスをして、頬ずりして、しばらく放そうとしませんでした。
結局その日、ジョゼは城に帰ってくることはありませんでした。私たちが帰路につく馬車に乗る際、エンリケは、ドアを開けて待つ私に言うでもなく、こうつぶやきました。
「私の言える立場じゃないが、落ちぶれたな、閣下は」
その後、騎士団長の座がエレラに奪われることに、ラファエロ本人はもちろん、王国のすべての国民が驚くのですが、まだこの頃はそんなことを空想する人間さえいませんでした。
ピントン侯爵夫人ジョゼフィーンも、その後、ジョゼに戻り、エンリケのパーティ八人は再び集結して、さらなる試練に向けて旅立つのですが、その時の彼女の召喚術は、以前に増して強大なものになっていました。きっと、魔法陣の中で暮らしていたことで、ジョゼの体に強大な魔力が染みついていたのでしょう。
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