魔法研究所長ネフィ──初めて受け入れた寵愛

「――先のマヒタンによる悪政を誅した後も、領民は苦難の中にいました。とくに、ゴブリン駆除に使われた蛍光草の影響は、領内の農業に甚大な被害を及ぼしました。しかし、領民のその知恵とたゆまぬ努力によって、いまや農地の生産力も、元の水準まで――」


 中メンデシアの中心都市で行われた「装置」の「運転式」なるものに呼ばれたエンリケは、教会のバルコニーに立つグロッソの演説を聞いていました。バルコニーの直下に据えられた来賓席には中メンデシアに関係の深い諸侯や貴族、修道会の関係者や豪商などが呼ばれ、エレラも席に座っていました。


 マヒタン討伐が成功に終わり、国王の御恩によってメンデシアがエンリケのパーティ八人に割り当てられた際、マヒタンの居城があった地域はフリオの物になるはずでした。しかし、フリオがマヒタン討伐を機に修道会への正式な復帰を求めた際、修道会はその土地を明け渡すよう求めたため、フリオは所有権を手放し、マヒタンの居城はいちどは修道会の荘園領地に収まることになっていました。


 しかしその時、グロッソが、自分に与えられた領地の三分の一を譲渡する代わりに、マヒタンの居城のある地域と、居城の遺産の全てを交換したいと修道会に提案したのです。大きさにして十対一ほど違っていましたから、修道会は喜んでその提案を受け入れ、十倍の土地を手に入れました。国民の間では、グロッソは気が狂っている、マヒタンの居城のなかにそんな価値のある財宝があるわけない、と噂になりました。


 しかしそののち、ネフィが自分の領地の所有権をグロッソに任せることにしたため、結果的にグロッソは与えられた土地よりも大きな領地を得ることになりました。中メンデシアの中心都市は、ネフィの与えられた土地で一番人口が多い都市でした。


 そして「装置」も、グロッソの手中に収まったのでした。その装置は、ネフィを筆頭とした魔導師たちの手によって研究され、複製が作られ、「精霊融合魔法発動機」と命名されて、その日、中心都市からひと山越えた谷に作られた「魔法研究所」から「魔力を都市に送り込む」ことになったのです。


 グロッソの開会の演説によって、「装置」の機能が明らかになりました。いままで市民生活に定着していた植物油のランプの代わりとして、魔力による明かりが、「装置」から各家庭に送られてくる魔力によって灯されるというのです。それも夜通し使っても全く衰えないものだというから、私はそのとき耳を疑いました。


 エンリケが来賓席に座っている間、執事の私は、来賓と、集まった聴衆の間の位置に立っていました。使用人たちがいつでも自分の主人の所に駆けつけられる位置であると同時に、賓客と市民の間に陣取って、緩衝帯になるように設けられた場所でした。私の背後の市民たちは、その耳を疑う内容に、戸惑いとも期待感ともつかない態度でざわめいてました。


 バルコニーで朗々と演説したグロッソは、最後にこんな言葉で締めくくりました。


「『精霊融合魔法発動機』は、未だ研究途上です。しかし、もしその能力が十二分に発揮された暁には、ゆくゆくは、領民が租税から解放される日も来るのです!」


 その言葉に、会場のどよめきが頂点に達し、大きな拍手が起こりました。


 私が聞いていた「装置」の印象とはずいぶん違いました。マヒタンの居城を陥落したばかりの当時、フリオはまるで、この世の終わりでも見たような言い方をしていたのに、グロッソは新しい時代の幕開けを告げるもののように説明していました。


 続いて「魔法研究所」の所長となったネフィが登壇しました。あの小さな声で大丈夫だろうかと思いましたが、ネフィは目の前の台座付きの杖に声を大きく響かせる風の魔法をかけて、演説を始めました。


「今日の朝は白パンにママレードを塗って食べました。大変美味しかったです。渡り鳥たちはいつも地平線を見つめながら生きているので、大地が一つに見えるそうです。馬車の車輪が回転する際、踏みつけた雑草の花弁を飛び散らして――」


 詩の朗読なのか、呪文なのか、終始よく分からない文言が続き、そのまま終わった演説は、なぜか市民から、グロッソの時よりも大きな、熱狂的な拍手で迎えられました。しかし、私が驚いたのはそこではありませんでした。 


 演説を終えたネフィが、グロッソに向かって、微笑みかけていたのです。冒険者としてエンリケのパーティに帯同していたころの、表情に乏しかった彼女ではありませんでした。


 そして、ちょうど日が西に傾きかけたころ、中心都市の街路に設置された「街灯」なるものに魔力が送られ、明かりが灯りました。その瞬間の市民の熱狂たるや、私の筆力ではとても表現できませんが、その日の夜は、予定されていなかった一晩中の祭りが続きました。


 市民の熱狂を尻目に、私はエンリケと共に家路につくため、ドラゴンのつなぎ場に向かっていました。


「デック、お前、見たか」


 珍しくエンリケから質問され、私は身構えました。


「何でございましょう」


「あれは本当にネフィなのか。冒険者の間、私には一切なびかず、今となってはグロッソとはあんなに楽しそうにしている。あれがネフィなのか」


 エンリケがあらわにしていた感情は、明らかに嫉妬でした。演説の内容よりもネフィとグロッソの関係に注視していたことで、エンリケがいまだにネフィのことを引きずっていることを私は知りました。


 すると、私たちの後ろから、なじみのある声――さっき演説していた時よりもずっと柔らかな――が聞こえました。


「やあ! 南メンデシア侯! ごきげんよう!」


 グロッソが駆け寄ってくるのに、エンリケは億劫そうに振り返って、作り笑いを見せます。


「ごきげんよう。素敵な演説だったよ」


「ありがとう。これから暇かい?」


「知ってるだろう、酒は嫌いだって」


「似た者同士じゃないか。見せたいものがあるんだ。ネフィも来る」


 グロッソの言葉に、エンリケは少し間を持たせてから返事しました。


「……行こう」


 私は馭者台に乗ると言ったのですが、一緒に馬車に乗れとグロッソに言われ、断れずに三人で馬車の客車に乗りました。グロッソの使用人は平民だったはずですが、客車の外の馭者台に座っていました。


「北メンデシア侯は?」


 エンリケの質問に、グロッソは肩をすくめます。


「彼女がネフィに会いたがるわけないだろう」


 馬車は中心都市から少し離れた谷の館に着きました。いまは「魔法研究所」と呼ばれていましたが、もちろんマヒタンの別荘を改造したものでした。広いエントランスに入ると、真ん中のローテーブルの周りに据えられたスツールに、ネフィが座っていました。


「やあ、お久しぶり! ご機嫌麗しゅう、ネフィ所長!」


 グロッソが紹介する前に、エンリケはずかずかと進んでネフィの手を取って挨拶しました。しかし、ネフィは返事もしません。


「侯爵、所内を案内しますよ」


 グロッソが言っても、エンリケはネフィから手を放しません。


「デック、君が侯爵の案内を聞いてきてくれ。詳細は後でまとめてほしい」


 お前、から、君、と呼ばれ方が変わって、むず痒さを感じながらも、私は頭を下げます。


「かしこまりました」


「南メンデシア侯、貴方はどうされるんですか?」


 釘を刺すような圧迫感のあるグロッソの問いにも、エンリケは動じません。


「久しぶりに、ネフィ殿と昔の話をしたい」


 グロッソと、ネフィの表情が、同時に曇りました。


「……心得た」


 グロッソはそう答えて、興奮気味のエンリケと、不安げなネフィをエントランスに残して、私を研究所の奥に連れていってくれました。


「私のような人間に、お時間を割いて頂いて、いいんでしょうか」


 私が訊くと、エンリケは努めて微笑みました。


「もちろん構わない。君に読み書きを教えたのは私だ。立派な報告書を書いて、侯爵に提出できるだろう。まあ彼がそれを読むかどうかは分からないが。それに」


 そう言って、グロッソは私をじっと見つめます。


「じきに私の執事になるだろうしね」


 グロッソが見せてくれたのは、実際に都市に魔力を送り込んでいる「精霊融合魔法発動機」でした。装置の真ん中には七色に輝く巨大なオーブが鎮座し、その周りを様々な配管や、鉄の箱や、歯車や、風車や、水車が、轟轟と音を立てていました。なんでも、この館から都市に向かって地中に暗渠が掘られ、その水の中をこの装置から魔力が昼夜を問わず送られていくということでした。


「これをわざわざ、マヒタンの城から、移したのですか?」


「移したんじゃない。新しく作ったのさ」


「では、もとの『装置』は」


 私が訊くと、グロッソは微笑みをたたえたままの顔で、しばらく硬直したあと、次の部屋へと私を導きました。


「行こう。面白いものがまだある」


 次に案内されたのは、大きな水槽の中に浮かぶ、一体のゴブリンでした。意識があるのかないのか、目をつむっているゴブリンは、様々な管が繋がれて、薄い茶色の液体の中で浮かんでいました。


「これが複製ゴブリンの『原体』。知能は高く、理性も働く。野生のゴブリンとは大違いだ。所内では『エース』と呼ばれている。マヒタンはこいつを複製して、先の戦役で軍隊を形成していたようなんだ」


「なぜ、こんな危険な存在を、その……生かしておくんです?」


 私が恐る恐る訊くと、グロッソは自慢げに胸を張りました。


「このゴブリンの血を使って、中メンデシアの領地は、蛍光草の汚染から回復したんだ。『エース』は蛍光草に弱いが、それは蛍光草が『エース』の血中成分を分解してしまうからなんだ。逆に言えば、この『エース』の血は、蛍光草の毒性を分解する効能が高いということになるんだ」


 そのときでした。水槽のある部屋のドアが勢いよく開き、所員がグロッソに駆けよって、何かを耳打ちしました。すると、グロッソは小走りで部屋を出て、もと来た廊下を戻っていきました。嫌な予感がして、私はその後を追いました。


 エントランスまで戻ると、すでにそこでは、ネフィがグロッソに泣いてすがり付いていました。


「何をした」


 ネフィを胸に抱きながら、グロッソはエンリケを睨みつけます。


「いや、私は」


 私の見たことがない、顔面蒼白のエンリケがそこにいました。


「ネフィさんに何をした!」


 所長、と言わず、ネフィさんと言ったグロッソの眼光を受けて、エンリケは震えたため息を吐きました。


「失礼する」


 エンリケがエントランスの床を踏みしめて出ていくのを、私はグロッソへの挨拶もほどほどに、ついていきました。


 帰りの馬車の中、行きと同様に客車に同乗した私は、エンリケと一言も言葉を交わせませんでした。ドアの外を見つめ続けるエンリケの表情は分かりませんでしたが、恐らくは、後悔と怨念に囚われていたのではないでしょうか。


 館から都市までの道中で、突然、馬車が止まりました。客車の前方の窓を見ても、馭者の姿はありませんでした。


「すこし、見てきます」


 私が馬車を降りて、馭者台に回ろうとすると、すでに道に馭者が倒れていました。それを見た直後、私の視界は、暗転しました。


 私が拉致されたのは、そのときでした。

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