グロッソ――誠実という名の狂気
エンリケが初めて諸侯から討伐隊の指揮を引き受けて戦ったとき、相手の陣営には斬り込み隊長としてグロッソがいました。
その戦いではリンファのアイデアが採用され、エンリケのパーティは、戦場から離れた小高い丘から魔導士たちによる「風の壁」の魔法のサポートを受けて少数突撃を敢行しました。作戦は大成功を収めました。
「風の壁」は相手方の剣を弾き、矢を吹き飛ばし、草原の緑を刈り取って天高く巻き上げながら、触れたものを鋭く切り刻みました。その内側でエンリケのパーティは、「風の壁」を乗り越えてくるわずかな強者を、ネフィの魔法とジョゼの呼び出した召喚獣で駆逐していきました。
「風の壁」の中で、最後まで粘り強く戦い抜いていたのがグロッソでした。「風の壁」をものともせずパーティの目前に迫り、ネフィの魔法も召喚獣の攻撃も戦斧でいなしながら立ち回り、エンリケ、ユーキリス、エレラたちに囲まれながらも、まったく退くことなく戦っていました。
グロッソの勇壮な姿とは異なり、相手方の二千五百の軍勢のほとんどは見る見るうちに「風の壁」に押しのけられて、戦場にたおれていきました。さらに、指揮を執っていた相手方の領主が、よく言えば果断、悪く言えば愚昧だったものですから、逃げ出すことはなく、こちらに向かって全軍突撃してきました。
結果、エンリケたちは相手の領主の首を狩れたのです。
戦闘が終わり、ネフィが手を挙げて合図すると、小高い丘から送られてきた魔導士たちの「風の壁」の魔法が収まっていきました。辺りは草が刈り取られた荒野になっていました。ジョゼの召喚獣も魔法陣の中に消えていき、ユーキリスたちも剣を収め、フリオがパーティの傷の処置の準備を始めました。
そんな死屍累々の戦場で、グロッソが立ち尽くしていました。それを見つけたエレラが、人を斬り足りないのか、再び鞘から剣を抜いて、グロッソに近づいていきました。グロッソも気が付いて、二人が刃をあわせようと間合いを詰めます。それを見つけたエンリケは、ふたりに向かって叫びました。
「もういいだろ! お前さんとこの大将はここだ!」
エンリケが腰にぶら下げていた領主の首を高々と掲げました。すると、グロッソは膝から崩れ落ちました。
「弱い! 弱すぎる! もっと強い将はいないのか!」
血で真っ赤に染まった顔に涙が伝って、両の目の下から顎に向かって筋を作っていきました。エレラはその姿を見て首を振り、再び剣を鞘に納めました。
泣き崩れるグロッソに、エンリケはゆっくりと歩み寄り、膝をつくグロッソのそばに屈みこんで、囁きました。
「それなら、私についてこないか?」
こうしてグロッソは、エンリケのパーティに一番最後に加入したのでした。
グロッソが戦斧を振り回して敵をなぎ倒す様は鬼神を思わせるものでしたが、普段は温和な、それまでの人生で一度も人を傷つけたことが無いのではないかとも思わせる、物腰の柔らかい人でした。
彼は私と同じく南方の出でしたが、代々の軍人の家の出らしく、奴隷の身分だった私は、たとえ肌の色が近かろうと、引け目を感じてむやみやたらに近づくことはできませんでした。
しかしそれでも、グロッソは私にも優しく接し、奴隷の立場を理解しようと努めてくれました。彼は奴隷の身分について話を聞きたがったので、私は自分が育った奴隷の村のことをよく話しました。
彼はよく子供になつかれるので、街に行くと広場でフットボールの相手をしたり、お手玉の手本を見せたりして見せました。パーティの中で一番身長が高く屈強な男性でしたが、その笑顔の人懐っこさが人を惹きつけるのだと思いました。
よくあのパーティの中でそんな優しさを保っていられたなと、今となっては思います。すこし、狂っているのかなとさえ思ってしまったほどでした。
酒や煙草はほとんどやりませんでしたが、かといってユーキリスやフリオに冷たくすることもなく、むしろ心配して節制するように言い聞かせている様子も見られました。ジョゼとも肉体関係はあったようですが、そんなに頻繁ではなかったと記憶しています。
いつも気丈なグロッソでしたが、ある日、珍しく悲しそうな顔を私の前で見せたことがありました。
ある宿場で、幌馬車を整備に出している間、パーティは宿屋に泊まり、いつものように私は四頭の馬と一緒に、馬小屋で一夜を過ごすことになりました。
馬糞の匂いが漂う中、藁に身を沈めてウトウトしていると、外に人の気配がして、私は慌てて藁の山から身を起こし、土がむき出しの地面へと体を移しました。
馬小屋の入口にランプの光が差し込んで、中に入ってきたのは、ワインボトルとグラスを二つ手にしたグロッソでした。
「どうされたんですか」
私が身を起こして訊くと、グロッソはランプを地面において、二つのグラスを大きな左手で器用に持ち、右手に持ち替えたボトルからワインを注ぎました。
「独りで酒を飲むのも寂しいからな」
「お酒、お好きでしたっけ」
「嫌いだ。さあ、飲め」
グロッソが差し出したグラスを、私は首を振って、うやむやにしながらに断ります。
「奴隷の身分で、そんな」
ユーキリスやフリオの付き添いで酒場に同席を許されたことはありましたが、酒を酌み交わすことはありませんでした。そんな奴隷の立場を知っていながら、グロッソは私にグラスを差し出します。
「奴隷なら持ち主の言うことを聞くんだろう?」
「……頂きます」
グラスを受け取り、注がれたワインを、私は恐る恐る口につけて、少しずつ喉に通していきました。アルコールを飲んだのは初めてではありませんでしたが、私の故郷の村の人々は、乱暴な飲み方しかしないので、こんな風に、開襟を求められるような飲み方はしたことがなかったのです。
「珍しいですね。グロッソさんがお酒を飲みたがるなんて」
美味しいワインでした。思わずグラスを飲み干して訊くと、私の空のグラスにワインを注ぎ足して、グロッソさんが言います。
「両隣がお盛んでうるさい。私は娼婦を呼ぶ趣味はない。酒場は周りがバカ騒ぎして静かに飲めない。馬糞の匂いをつまみに呑んでいたほうが何倍もマシだ」
グロッソさんは自分のグラスを空にして、手酌でワインを注ぎ足しました。
「軽蔑しないのか」
「何をですか」
私が首をかしげると、藁の山の上に座っていたグロッソは言いました。
「嫌にならないのか、私たちといることに」
「私は奴隷です。買われた身分です。何も言えません」
「奴隷、か」
グロッソはそう呟いて、またワイングラスを飲み干しました。隣の位置に座っていた私は奴隷の身分もわきまえず、聞き返していました。
「貴方はどうなんですか、彼らといることに」
グロッソは私のその問いには答えず、質問で返してきました。
「私がエンリケ殿からお前を買って、解放したら、どうする」
私はその問いに、返答することができませんでした。きっと驚いた顔で硬直していたことでしょう。なにしろ私は奴隷です。どうするもこうするも、私に選択権はないのです。
しばらく私とグロッソの間に沈黙が漂いました。馬たちも寝息を立てています。
「デック、文字の読み書きはできるか?」
「できません」
「では教えてやろう」
私は驚きを通り越して、困ったことになったと思いました。奴隷の身分もわきまえず、知識を得ようとするなどということは、所有者への反旗とみなされかねないからです。
「私はただの荷物持ちの奴隷ですよ」
「じきに荷物持ちでも読み書き計算が必要になる時代が来る。むしろ私たちでそうしなければならない」
「私、たち?」
「そう、私たち、だ」
グロッソはそう強調して、ワインボトルの口をくわえて、中身を飲み干しました。
「そのためにも、今はエンリケ殿に仕えるのが最善だ。彼は強い。仲間も強い。その強さを間近で見られるのは幸運だ。彼の強さのもとで、私も立身出世しなければならない。しかし、いつか乗り越えなければならない強さだ。私自身が、彼よりもっと強くなるために。そして、デック、お前のような奴隷も自由に生きられる世界を、私は実現してみせる」
グロッソは藁の山から立ち上がって、グラスとボトルを手に、馬小屋を後にしました。
「エンリケ殿とは交渉する。このパーティに居る条件として、お前に読み書きを教えることを、だ」
去り際にそう言ったことを、私は今でもよく憶えています。なぜなら、彼が嘘つきではないという証拠が、私がこうして手記を書けるほどに読み書きを習得したことに現れているのですから。
グロッソが実際に奴隷解放を実現しようと奔走していることは、彼の現在の大宰相という立場が物語っているわけですが、私たちはその崇高な目標の実現に、エンリケが関わっているということを、心に留めておかなければならないでしょう。
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