04 無題
木造アパートの1階。
彼は夢中で小説を書いていた。
書きたかったのは自分のこと。
自分を取り巻く世界のこと。
小さな頃から物語を書くのが好きだった。
理由はたぶん、みんなが褒めてくれるから。
でも今じゃ褒めてくれるのは、一緒に暮らしている彼女だけだった。
彼女とは仕事の都合で、共に過ごす時間にすれ違いがあった。
けれど彼はそれで幸せだった。
テーブルにはいつもの置き手紙があった。
彼女の書いた桜模様の便箋が愛おしかった。
彼は借金をして、自作小説を出版した。
物語のあらすじは、彼女と過ごしたかけがえのない日々の恋愛小説だった。
気付いたら夜が明けていた。
気付いたら日が暮れていた。
ある日、初めて小説が売れた──。
それから状況は変わり始めた。
次の月には彼の小説はすべて売れた。
新人作家である彼の小説を、誰もが称えてくれた。
出版社専属の小説家として過ごす生活が始まった。
いくつもの書店に次々と彼の小説が並んだ。
変わっていくのはいつも風景だった。
彼女は嬉しそうにこう言った。
「信じていたこと、正しかった」
小説を買ってくれた人たちから、時々感謝の手紙が届いた。
感謝される覚えもなかったが、特別嫌な気がするわけでもなかった。
机に重なっていく原稿用紙の束。
小さな部屋に少しずつ増える宝物が彼は嬉しかった。
いつまでもこの状況が続けばいいと思った。
彼はますます小説が好きになった。
もっと素晴らしい物語を書きたい。
風景が色鮮やかに変わった。
描きたいのは『自分』のこと。
もっと深い本当のこと。
数日、夜も眠らずに手を動かして文章を書き続けた。
物語は赤黒く染まる。
本当に書きたかったことを絵の具で色を塗るように描いた。
最高傑作ができた。
出来上がったのは、暗くてどろどろとした深淵を覗くようなストーリー。
誰もが目を背けるような、人の浅ましい本性の物語だった。
誰もが彼の小説に眉をひそめた。
まるでその作品から潮が引くように人々は去った。
人々は彼を無能だと嘲笑った。
変わっていくのはいつも風景。
彼女は最高傑作をカッターナイフで切り刻んだ。
喧嘩が増えるようになり、やがて二人は別れた。
彼女は部屋を出ていった。
それでも彼はひたすら机に向かって物語を書いた。
自分の描きたい世界を書き続けた。
「信じていたこと、間違ってたかな」
あれから10年の月日が流れた。
木造アパートの1階で、彼は今でも小説を書いている。
表情は痩せこけ、髭が伸び、いつ切ったか忘れた髪の毛は長くなっていた。
いつだって書きたかったのは自分のことだった。
結局、空っぽな僕のことだった。
小さな頃から物書きが好きだった。
今じゃ理由はもうわからない。
増える原稿用紙に名前はもう無くなっていた。
何もかも嫌になって床にねそべったとき、隣に彼女の残像をみた気がした。
褒めてくれる人は、もう誰も居ない。
彼はそのまま眠りに落ちた。
その日、久々に夢をみた。
荒れた海の中でもがいて、必死に空に手を伸ばしていた。
苦しい。苦しい。
水面に上がった時、彼は空に浮かぶ何かを見上げた。
神様のように思えたが、それは丸くて沢山の目がついた月のような球体だった。
僕はその球体に助けを求めるように腕を伸ばした。
球体と視線が合った。
その瞬間、自分の価値観や感性が音を立てて崩れていくのを感じた。
僕はまた深海の暗闇に沈んでいった。
彼は夢から覚めると、机に向かって筆を走らせた。
気づけばどれくらい月日が過ぎたのだろう。
窓の風景は変わり、春の足音がすぐそこまでやってきていた。
彼は昔を思い出し、いつか彼女と過ごした日々の恋愛小説を書いた。
その日久々に、一篇の恋愛小説が売れた。
後日、その買い主から手紙が届いた。
桜模様の便箋。
書いてあったのは、ただ一言。
「信じていたこと、正しかった」
彼は床に膝をついて、顔を手で覆った。
溢れる涙は止まらなかった。
信じていたこと、正しかった。
変わっていくのは、いつも風景。
【短編集】100作品書くまで終われない 中村ケンイチ @kenichi_nakamura
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