お隣の秀子ちゃん

夏山茂樹

お隣の秀子ちゃん

 文化住宅に住む真田みだれは、学校で教師をしている義父と、戦争で前夫とみだれの姉を亡くした戦争未亡人だった母、義父と母との間に生まれた弟の昌也の四人暮らしである。

 戦争で夫と娘を亡くした母は、よく空襲の話をして「戦争を繰り返してはならない」とみだれと昌也に説いていた。だが結婚した義父は闘争心の強い人間で、小学校の教師に敵対するイデオロギーの者がいればその悪口をボロボロこぼすほどだ。

 義父と母。いかにも真逆の二人だが、どうして母はこんな男を選んだのだろう。二人は本来ならばウマが合わないはずなのに、仲良しなのだ。実際、朝に母が鉄製の弁当箱にお弁当を詰めると義父は手伝ってこう言うのだ。

「祥子の料理は美味いからな。今日も昼が楽しみだよ」

 すると母は「まぁ、あなたったら」なんて付き合いたての恋人のように顔を赤くして、その顔を見ようとする義父の目線から逃げようと顔を伏せるのだ。

 そして玄関でキスをして、義父は勤務先の小学校へ向かう。キスは見慣れたが、そこまで熱いものを見せられると思わずみだれは恥ずかしくなるのだった。

「ねえ母さん、キスはやめて」

 恥ずかしくてみだれが母に玄関での日常を止めるように頼むと、母は惚けた顔で首を傾げるのだ。

「ええ……。みだれも大人になればわかるわ。キスくらい、お隣さんもしてますからね」

「お隣さん……。そんな、隣には佐倉のおっちゃんしかいないじゃない! あの人一人暮らしよ!」

 それを聞いた祥子がどこか気まずそうな顔をして、左側の壁を指さした。それにつられるように、みだれも左側の壁をじっと見つめる。モルタル製の壁一枚隔てて、隣にはみだれのクラスメイト、葉山秀子とジャズ喫茶で働く女性が住んでいた。

 その二人がどうしたというのか。秀子は血の繋がらない母と昔住んでいたのだが、その母はどういうわけか身元不明人として道端で亡くなり、葬式も最近済ませたばかりだった。

 赤ん坊の取りあげ婆をしていた秀子の母は、占領軍の兵士と身元の知らない少女の間に生まれた秀子を取り上げ、そのまま娘として育てたのだという。

 占領軍の兵士と日本人の母親との間に生まれた秀子は、一九五〇年代当時差別される存在で同じような赤ん坊は生まれたらそのまま捨てられ、衰弱死することも後をたたなかった。

 そんな秀子も無事に生まれ育ってはいるものの、学校ではクラスの教師が率先して彼女をいじめるように教え子たちへ指導し、子供たちも秀子をいじめていた。

 おかげで秀子は学校から帰ると標準服をボロボロにして、膝に切り傷を作って帰ってくるのが当たり前となっていた。そんな秀子をみだれは、家にある赤チンで彼女の傷元を消毒して処置をしてやるのが日常となっていた。

「また中学生にいじめられたの? そんな時は交番に行けばいいのに……」

「一度そうしたことがあったわよ。でもね、お巡りさんは私を無視して守ってくれなかった。そんな場所に頼る時間があるならみだれに怪我を治してもらうわよ」

「あはは……。そんなに私を信じてくれるんだ」

「友達だもの。当たり前でしょ。だからみだれに何かあったら、私がみだれを助けるわ」

「うん……」

 そんな会話をするのが日常となっていたある日、彼女の母親が帰宅途中に心臓発作を起こして、道端で倒れているのを発見された。それから病院に運ばれたが、着いた時にはもうこの世の人ではなかった。

 その知らせを聞いた秀子は崩れ落ちて、泣き伏せていた。生きられるかわからない自分を育てた唯一の親を亡くし、頼れる大人がいなくなったのだから、悲しくなるのも当然だ。

 泣き伏せる秀子を見て、みだれも何だか悲しくなって共有スペースの玄関前で泣いていた彼女と一緒にその日は一緒に泣いた。両親に頼みこんで、秀子を家に招いてその日はすき焼きを一緒に食べた。

 高価な肉を卵でしゃぶしゃぶして食べる。それが数ヶ月に一度の真田家の贅沢だったが、秀子は肉の前でも涙を流したままだった。気まずい雰囲気の中、みだれは秀子の隣で肉をみせた。

「ねえ、肉でも食べてきでも紛らわしましょ」

 すると肉を見た彼女は、みだれが運んできた肉を口にしてその味を噛み締めた。すると、泣き笑いをして真田家の人々に言った。

「ありがとうございます。お隣さんというだけなのに、こんなによくしてもらって……」

 すると祥子が笑って秀子に慰めの言葉を言った。

「私たちにできることはこれくらいだけど、少しは慰めになったかしら。昌也もあなたのお母さんに取り上げてもらったから。あの人がいなかったら昌也はここにいなかった」

「……はい」

 それから秀子と一緒に寝たのだが、彼女は枕元で涙を流してなかなか眠ろうとはしなかった。みだれが手をつないで「私はここにいるよ。怖くないよ」と言っても涙を流すだけだった。

 それから秀子の母親の葬式が行われ、秀子は児童相談所の職員によって施設へ連れて行かれるはずだった。

 ある日、隣の葉山家から女の声が聞こえてきた。声の持ち主は秀子と後一人、駅近くのジャズ喫茶で聞いたことのある声だ。父がその声の持ち主と静かな声で何か話していたのを覚えている。

 それが気になってみだれは秀子の部屋へ飛んできたのだが、そこには確かにジャズ喫茶の女と秀子がいた。しかも秀子は、今まで休日も標準服だったのに、この時はチェック柄のワンピースを着ていた。

 状況が飲み込めなくて唖然としているみだれに秀子が近づいてきて、微笑みかけて女を紹介する。

「智枝加代子さんよ。私の親代わりをしてくれることになったの」

「はあ……って、えっ?!」

「かくかくしかじかで知り合って。家を貸す代わりに私、頼んだの。『じゃあお姉さんかお母さんをやって』って。それで身寄りのないもの同士、共同生活よ」

 今まで滅多に笑うことのなかった秀子の顔に笑みが浮かんだ。その笑みに思わず安心して、みだれは安心した。

「加代子姉ちゃん、みだれちゃんっていうの。義一さんの娘さん」

 すると加代子は切り揃えた前髪から覗く黒い瞳でみだれを眺める。きっと吊り上がった大きな瞳、少し高くて外国人のような鼻、陶器のように白い肌。外国人が好みそうな日本人女性のようだ。いや、義父が浮気するならきっとこんな顔の女が好みだろう。みだれの母もそんな顔をしていたから。

「義一さんにはお世話になってるわ。こんにちは、みだれちゃん。これでお隣さんね」

 加代子の顔が微かに笑ってみだれに握手を求めてきた。みだれは言われるがままに握手して、そのままその日それで終わったが、この日以降、みだれは秀子が傷を負って帰ってくる日がなくなった気がした。

 さて母の祥子との場面に戻る。みだれは隣の部屋で、秀子と加代子が何かいやらしいことをしているのではないか。そんな気がして、母に問うた。

「お母さん……。加代子さんと秀子もそんなことをしてるの?」

 すると祥子はあっけらかんとした様子でみだれに答えた。

「お母さんねえ、加代子さんと秀子ちゃんのもとにおすそ分けを持って行って二人の住む部屋を開いたの。すると、二人がキスをして……しかもディープキスよ? 唇を舐めて、舌を吸って、唾液が床に伝い落ちる……。海外のいやらしい映画のシーンみたいだった。それで思わず私、お裾分けを入れた皿を落としてしまったの。二人とも、『やっちまった』って顔をしてたのが忘れられないわ」

 友人の思わない顔を知って、みだれは思わず頬を赤くしてしまう。時計は夜九時をさしていた。

 まさか同性同士でキスをし合うなんて……。しかも子供と大人。なんかいやらしい。みだれは秀子が心配になった。だが今の時間、隣を訪ねる気にもならない。隣からは壁越しに二人の楽しそうな声が聞こえてくる。

 秀子に笑顔が増えたのは喜ばしいことだが、このままでは彼女が不健康不良少女になってしまう。そんなことを思いながら、みだれは弟の読んでいた雑誌を取り上げた。

「ちょっと姉ちゃん返せよ!」

「いいじゃん、……アトムとか鉄人とか少年探偵団とか。あんたの読む雑誌は面白そうなものでいっぱいね。ちょっと秀子のところ行ってくるわ。これを持ってね」

「秀子姉ちゃんのところ? ならおれも行くよ」

「みだれ、昌也! お隣さんに行くならこれも持っていってくれない?」

 母親に渡されたのは、水玉模様の布だった。当時の人たちは服を買うのではなく、自ら布を買って服を作るのだ。秀子は自分で服を作っていたから、きっとおすそ分けなのだろう。

「じゃあ母さん、秀子のところ行ってくるね!」

「うん、いってらっしゃい!」

 みだれは昌也を連れて雑誌と布を持ってお隣の葉山家へ向かう。ちょうど葉山家の家の前に立つと、どこか楽しそうな声が聞こえてきた。私がいなくても秀子は幸せだ。そんなことを思いつつも、秀子はドアを開けた。

「こんばんは。秀子ちゃん、昌也の雑誌とお裾分けの布を持ってきたよー!」

 すると標準服を着た秀子が髪を後ろにひとつに結って出てきた。

「あら、みだれちゃん。昌也くんもいるのね。……でも今日はみだれちゃんだけがいいわ。昌也くんは帰って」

「えーっ、せっかく加代子さんに会いに行こうと思ったのに……」

「加代子さんは私のお姉ちゃんだから」

「ちぇっ」

 そういうと昌也はそのまま帰っていった。それを眺めて、秀子はみだれに微笑んで言った。

「即席ラーメンでも食べてく? 加代子さんがお客さんからいただいてきたの」

「秀子、ずいぶん変わったね……。そんな高いもの、私食べる気にはならないよ……」

「まあ、私も加代子さんと出会ってから色々楽ができるようになったから。やっと人並みの生活ができるなって」

「秀子……」

「あがってよ。私、今日は加代子さんが仕事でいなくて寂しいから」

「……うん。いいよ」

 すると秀子は嬉しそうな顔をして微笑んだ。

「やったっ! ねえ、昌也くんの読む雑誌、読んでみたいな。アトムとか鉄人、漫画が気になるのよね」

「もちのろんよ!」

 みだれは履いていた下駄履を脱ぎ捨てて、そのまま部屋へあがった。部屋には冷蔵庫とタンス、ちゃぶ台以外には何もなく、二人は一体どんな生活をしているのかみだれは気になった。

「即席ラーメンを作るためにはお湯が必要なの。お湯を沸かすからちょっと待っててね」

 秀子がコンロの上にヤカンを置いて火を起こす。そのままお湯ができるまで二人は雑誌を読んで盛り上がることにしたのだった。

「ねえ、最近男子の間で『てつじん』って流行ってるよね。どんな話なの?」

「さあ……。昌也は『なんかカッコいい』っていうんだけど、私はロボットが味方にいくか敵にいくかで立場が変わる。そこがいいと思うの」

「みだれちゃんってかなり読みこんでるわね。なんかこう、忍者みたいな感じのロボットだね」

 秀子が足をジタバタさせて、狼の瞳のような両眼で雑誌を読む。大きなロボットを操る少年をじっとみて何か考えているようだ。

「正太郎……、ふーん。未成年なのに車なんて運転しちゃって、銃なんて持っちゃって。変なの」

「えっ、そういえば鉄人の話だけど……、『忍者みたい』ってどういうこと?」

「むかし本で読んだの。雑賀衆って、鉄砲のうまい忍者っていうか、傭兵集団がいたって。お金によって敵も味方も変わっちゃうの」

「へー、秀子ちゃん物知り……。ちょっと見直しちゃった」

「見直すのってそこ? まあいいわ」

 ちょうどその時、ピーッと大きな音がヤカンからなった。

「ちょっと即席ラーメンを作ってくるわ」

 秀子が立ち上がってキッチンへ向かった。秀子が即席ラーメンを作る様子を観察しながら、みだれは秀子の柔らかいうねり髪を眺めていた。ブルネットの髪を一つに結って、どこか大人の女性のように背が高い秀子をみだれは羨んだ。

 だがこの日本人離れした外見のせいで、秀子は生まれた頃から苦しんできた。いつかこの秀子の容姿が個性として認められる時代が来てほしい。みだれはそう願ってやまなかった。

「秀子ちゃん」

 思わずみだれは秀子の名前を呼んでしまった。自分のしてしまったことに「やばい」と思いつつも、気がついたときにはもう遅かった。

「ん? なあに、みだれちゃん」

 秀子が不思議そうな表情で振り向く。狼の瞳は優しく、赤子を慰める母親のようだ。その表情が優しければ優しいほど、みだれの心は気まずくなっていく。

「あっ、あっ……」

「即席ラーメンのこと? もう、みだれちゃんったら贅沢なんだから!」

 秀子のどこか天然らしい答えにみだれはほっと胸を撫で下ろす。そして、みだれは秀子の持ってきた器に入ったラーメンを見つめた。

 ちゃぶ台の上に乗せられたそれは黄金色に輝き、なかなか美味しそうな鶏がらスープの香りをみだれの鼻へ誘ってくる。

「これ、食べていいの?」

 不思議そうな顔でみだれが秀子に尋ねる。すると、秀子は嬉しそうな顔をして答えた。

「いいに決まってるでしょ! あの日、すき焼きを食べさせてもらったお礼よ!」

 あの日……。ああ、秀子が母を亡くして泣き明かした夜のことか。お礼はいらないのに。報いなんていらなかったのに。みだれは秀子との距離感に寂しさを覚えつつ、手を合わせた。

「いただきます」

「うん。いただきます」

 秀子が麺をすする音がする。学校の給食は脱脂粉乳とコッペパンが基本で量も少ない。美味しくないのだ。それが高い値段ではあるが、なかなか美味しいものを食べる秀子の顔が綺麗で、芸術品のようだ。

 みだれが見惚れている顔を見て、秀子が尋ねてきた。

「おいしいよ。どうして食べないの?」

「え……、それは……秀子ちゃんが可愛いから……」

 ヤバい。秀子にとうとう自身の想いを吐いてしまった。秀子には加代子という相手がいるのに。女が女を好きなんて、社会的に許されることじゃないのに。こんな想い、知られたら秀子に嫌われる。嫌われてしまう。

 そんな想いをずっと隠してきたのに、どうしてこんな時に自分で吐いてしまうのか……。みだれは自分が情けなく思えてきた。だが、このまま押し黙るのも秀子に申し訳ない。もういっそのこと吐いてしまい、秀子に嫌われよう。

「秀子ちゃん……! 今まで黙ってたけど、あなたのことが好きです。……秀子ちゃんの、狼のような瞳が好きです。みんなに虐められても必死に生きようとするあなたの強さが好きです。……加代子さんという恋人がいるみたいだけど、それでも友達でいてくれますか?」

「……みんな、加代子さんと私の関係を勘違いしてるのね」

 秀子がため息をつく声が聞こえてくる。「ああ、嫌われたな」みだれが覚悟を決めると、秀子が頭を撫でる。

「加代子さんはね、みんなの恋人なの。ある時は大学生のにいちゃんとデートして、ある夜は私たちの学校の先生とまぐわって、ある日は私の悲しみや寂しさを癒してくれる。なんだろう、加代子さんといると、寂しさが和らいで、なんだか温かい気持ちになるんだ……」

 秀子が胸に手を当てて、うっとりした瞳で答える。若干十一歳で大人の女性とキスをしている。それほどまで秀子は追い詰められていたのだ。その寂しさや悲しさに気付いてあげられなかった自分が情けなくて、悔しさがこみ上げてくる。

「ねえ、秀子ちゃんは私のこと、どう思ってる?」

「実は……」

「『実は?』」

「わたしも、みだれちゃんが好き」

 予想とは反した答えに、乱れは思わず嬉しくなって内心舞い上がってしまった。

「秀子ちゃん……!」

 みだれが秀子に抱きつく。秀子の体は石油ストーブで部屋が温められているせいか、それとも即席ラーメンのせいか。みだれが触れる時は普段冷たかった秀子の体が暖かく感じられる。こんなに暖かくて優しい夜。初めてだ。

 すると突然、秀子がみだれの唇に口づけしてきた。みだれが思わず体を固くして胸を高鳴らせると、彼女の柔らかい唇が、みだれのカサカサした唇を食んで舌を入れてきた。

 その刹那、秀子がみだれの体に重心をかけてきて、みだれの体が倒れる。押し倒された形になって、みだれは内心これから何が行われるか気になった。

「みだれ……、すき……」

 畳の上で、これから行われるであろうまぐわい。秀子は狼の瞳で優しそうな顔をして、みだれに言う。

「ここで、しよう……」

「うん、秀ちゃん……」

 みだれは頬を赤くして、恍惚とした表情の秀子の顔を「美しい」と思った。そして無言で頷くと、そこからは秀子とまぐわい朝まで踊り続けたのだった。


 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お隣の秀子ちゃん 夏山茂樹 @minakolan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ