第12回

 鼻を突く煙のにおい。炎があちこちで木肌を舐め、広がり、視界を赤々と染め上げている。頭上からなにかが舞い落ちてくると思えば、真っ黒な灰だった。風に流されて不規則な軌道を描きながら、絶えることなく降りつづける。

 猛烈な蒸し暑さだ。火の手を避けながら森の奥へと踏み進める。執拗な熱と煙。

「姉さま、このままでは遅かれ早かれ立ち往生してしまいます」

「分かってる。安珠、でもこっちなんでしょう?」

 唐突に炎が噴きあがった。焼けて変色した木がゆっくりと、しかし連鎖的に崩れ、進路を塞ぐ。振り返れば後方はすでに火の海で、引き返すこともできない。

 灼熱。万策尽きたかと諦めかけた瞬間、安珠が体を変形させた。襟巻を広げるような調子で平たくなり、私たちに覆いかぶさる。驚くべきことに、その肌はまだ冷気と湿り気を保っていた。その心地よさ。

 安珠が私たちを包み、絡まり、ついには飲み込んだ。肌と肌を触れ合わせるうちに境界が失せ、ひとつに溶け合ってしまったような感覚だった。清浄な水に裸で潜ったときにも似て、ただ冷たく、柔らかく、そして静かだった。

 手を伸ばして文乃を引き寄せる。私たちを抱えた安珠が火の壁を突き破り、空中へと身を躍らせるのが分かった。

 落ちていく。時間が引き延ばされていく。

 音を立てて着水した。崖から谷川へと飛び込んだのだ。自分がまだ安珠の中にいるのか、あるいはひとりで泳いでいるのか、まるで判然としなかった。水中の息苦しさは感じなかった。胸を満たすのは、生きながら身を焼かれる恐怖から逃れえたという安堵ばかり。

 優しい泡に包まれる。頭上から光が差している。

 漂いながら夢を見ていた。幻の私は安珠と同じ、不定形の生き物だった。身をくねらせる水蛇になり、尾鰭の生えた魚になり、やがて結び目がほどけるように体が解体されて、どこまでも小さく、小さく――。

 水になる。森の記憶の奔流。

 いつの間にかこちらを覗き込んでいた誰かの影が揺らぎ、崩れ落ち、嗚咽する。悲しみの強い律動。「私」の傍らに――あるいは「私」の中に、半身とも呼べるほどに慣れ親しんだ物体の感覚が生じる。これは蟲笛だ。なにも変わっていない。「私」が持っていた頃から。

 あなたが今の蟲笛吹きなの? 「私」によく似ている気がする。大丈夫、失ってなどいない。ほら、優しい蟲に届けさせるから。だから泣くのはやめて。笛を聴かせて。

 あなたの音楽は素敵ね。あなたなら――。

 目が覚めると、浅瀬に辿り着いていた。周囲は薄暗い。横向きで、腰から下あたりを水に浸している自分に気付いた。体を起こして見渡す。洞窟のような場所だった。

 隣に、仰向けになった文乃がいた。意識を失ってはいるものの、穏やかに胸を上下させていた。頬や首筋に触れてみる。眠っているだけのようだ。まだ夢を見ているのかもしれない。

 不意に水面が盛り上がった。安珠がこちらへ頭を寄せてくる。そっと撫でてから、

「ありがとう、助かった。久遠はここにいるの?」

 明確な反応はなかった。奇蹟としか呼びようがないが、私は蟲笛も水琴も失っていなかった。手放さないよう、安珠が守ってくれたのかもしれない。

 洞窟の奥の闇の中で、ちらちらと光が明滅している。蝶? だとすれば久遠が遣わせた蟲だろうか。追いかけるべきかと一瞬だけ逡巡する。

「安珠、文乃のことを見ててくれる?」

 待ってて、と文乃の耳元に声をかけてから、私は水に踏み込んだ。足首が浸かる程度だったが、急に深みに嵌ったりする危険は無視できない。光を頼りに、ゆっくりと進んだ。 

 僅かな傾斜がある。地下へと向かっている感覚だ。壁に手を付くと、触れたそばから発光した。湿った岩肌が灯りに晒される。表層に、肉眼では視認できないほど小さな蟲がいるのかもしれない。

 下りていくにつれて光量が少しずつ増し、星の目立つ夜ほどの明るさになった。やがて空間が開け、小部屋のような場所に出る。奥へと続く細い通路が正面にあった。

 先に進みかけ、壁になにかあると気付いて立ち止まった。それらしい箇所を撫でてみる。明確に平らで滑らかだ。そこに……絵が描いてある。顔を近づけて目を凝らした。

 単純な線のみで構成されており、大胆な省略も多い画風だった。しかし矛盾はない。高度な技術で描かれていると感じた。横向きに長く伸びたその壁画は、なんらかの物語のていを成しているようだった。

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