第11回

「文乃、大丈夫? 怪我はしてない?」

「していません。着物が乱れただけのことです。どうか少しのあいだ、こちらを見ないでいてください」

 軽口を叩けるくらいだから無事なのだろう。近い距離ならば薄らと視認できる、といった程度だが、あたりは完全な真っ暗闇ではない。要求どおりにそっぽを向き、片方の手で水琴を引き寄せ、もう片方の手で再び壁を撫でた。

「こんな場所があったなんて――」

 石は隙間なく敷き詰められ、破るのも掘るのも不可能なように思われた。よじ登るにしても相当な高さがあり、やはり現実味が薄い。小規模とはいえ牢獄なのだから、そう簡単に抜け出せるはずもないのだ。

「ばばさまには隠して、勝手に急拵えしたのでしょうか。やりたい放題ですね。姉さま、もうこちらを向いていただいても平気です」

 文乃は壁際で、己の膝を抱くようにして座り込んでいた。ひとまずその隣に腰を下ろし、

「ごめんね、文乃」

「姉さま。覚悟の上と申し上げたはずです。ともかく今は、方策を考えましょう。まさかあの外道が出してくれるのを期待して待っているわけにもいかないでしょう?」

「そうだね――とりあえずこの場所について調べようか」

「ええ。機巧仕掛けの隠し部屋のようですから、どこかに機械が隠されているかもしれません。むろん内側からは弄れない仕組みでしょうが、探さないよりはましです」

「さっきの檻みたいな拷問機械かもしれないから、気を付けないとね。悪趣味な人間が作った感じだもの」

「ありえますね。私たちがこうしているのも、どこかで見張られているかもしれませんが、考えても仕方ありません。今はこの隠し部屋を査察しましょう」

 私たちは二手に分かれた。いったん言葉が途切れる。

 沈黙のさなかに、ぴた、ぴた、と水の滴る規則的な音がどこからか響いてきた。古びた建物の地下である。雨漏り程度のことがあってもなんら不思議ではない。

「ここですね」

 と文乃が片方の掌を差し伸べた格好で言った。しばらくその状態で静止していたが、やがてこちらへ顔を向けて、

「姉さま、ちょっと来てください」

 彼女のもとまで這っていって、覗き込んだ。小さな手に雫が落下する。その瞬間、幽かに色が変じたような気がした。透明から、薄い青へと。見間違いだろうか。次の一滴を待ってみた。文乃と顔を見合わせる。確かに変わっている。

「どういうことでしょう。今度は緑」

「角度の問題かな」

「でしょうか」

 いったんはそうと納得して頷きあったが、絶えることのない水の変容ぶりを眺めているうちに、久遠の言葉が脳裡を掠めた。蟲はもとより水に近い存在なんだよ。

 連鎖的に記憶が甦ってきた。別れ際に受け取ったもの。森の命と彼女は言っていた――まだ腰の袋の中にある。

 ゆっくりと摘まみ上げた。想像とそう違わない、小さな植物の種のような感じだった。心を決め、一粒を噛んで飲み下した。覚悟したような苦みはなく、むしろ僅かに甘くて瑞々しかった。味も触感も果物に近い。

「食べ物があるんですか」

「一般的な意味での食料ではないけど。これがもしかしたら、私たちの切り札かもしれない」

 事情を手短に説明した。彼女は黙って耳を傾けていたが、聞き終えるなり強く頷いて、

「これに解毒作用がある、と」

「たぶん。想像だけど、いちばん強力なのはあの泉の水。大蜈蚣との戦いの最中に、思い切り後ろから殴られたって話はしたでしょう? 目覚めてみたらもうなんともなかった。気を失っているあいだに、水が癒してくれたんだと思うの」

「傷跡もまったく残っていませんでしたしね。なんらかの不思議な力、それこそ森の魔力なんでしょう。もうひとつ考えたのですが――姉さまを殴ったのも、本当は蟲ではなく累だったのではないでしょうか。さっき得意げに振り回していた杖。縮めて手の中に隠してしまえば、気付く者はおそらくいません」

 あのときの理不尽なまでの衝撃を思い起こした。意識を失う寸前に認識できたのは確かに、鈍い打撃だった。あの攻撃に蟲の気配は? おそらくなかった。

 自分にだけ蟲避けの薬を振り撒いて安全を確保してから、西の森の調査へ同行する。大蜈蚣が現れたどさくさに紛れて私を殴りつけ、再起不能にさせんとする。無事に舞い戻ってきたと見るや、薬を使って蟲笛の力を抑え込む。

 私を曾祖母の後継者から外させたあとは――もとより蟲嫌いだった叔父を焚きつけて殲滅戦を開始する。累には可能だ。いまや叔父のもっとも信頼する側近なのだから。叔父を排除してその立場に取って代わることさえ、簡単にできるだろう。

「野心家の考えそうなことです。姉さまが愚か? 哀れ? その言葉だけでも万死に値します。あんな人間をいっときでも信じてしまった私も大莫迦者です」

「私だって騙されていたんだから。相手がそれだけ巧妙だったんだよ。文乃、口を開けて。指まで噛まないでね」

 私たちは種を分け合って食べ切った。やがて胸の内側で氷が溶けていくような感覚が満ちてきた。体の末端まで清浄な水が巡っていく。文乃も気持ちがいいらしく、私の肩に凭れて軽く目を閉じ、ゆったりと息をついていた。

 まったく自然な動作で、私は蟲笛を引き出して唄口に唇をあてた。大丈夫だという確信があった。瞼の裏側には久遠の姿が、耳朶には旋律が甦った。泉の蟲たちの舞い。音楽。

 どうか助けて。久遠のもとへ連れていって。

 落ちつづけていた水滴が、床の水溜りが、また煌びやかに光を放ち、揺らめき、ついには収束した。地下牢の中に、人の背丈ほどの鎌首をもたげた、透明な蛇の姿が形成された。泉の守り神。久遠の半身。

「――安珠、私たちに力を貸して」

 鳥肌を立てながら言うと、蛇はゆっくりと頭を下げ、それから引っ込めた。一瞬ののち、矢のような勢いで石の壁へと体当たりする。崩落の轟音と、立ち込める砂煙。

「行こう、西の森へ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る