第10回
水琴が曾祖母の家の別棟にあるのを見たと、文乃は言う。私たちが長らく御堂と呼んできた建物だ。質素な板の間で、小さな祭壇や拝み所が設けられている。昔は事あるごとに連れていかれたものだ。思い返せば蟲笛を曾祖母に渡されたのも、あの御堂においてだった。
文乃の語った水琴の外観は、私の記憶と一致していた。久遠から奪ってそれきりになっているのだろう。とはいえ分解して調べたりする危険は充分にあるから、できる限り早く取り返さねばならない。
叔父が部下たちと訓練に出る日を待って、文乃とともに忍び込むことにした。陽が落ちるまで帰ってきたことはないから、そう焦らずとも大丈夫だろう。
母屋の裏手に回り、文乃を肩車して高い位置にある窓を探らせる。建付けが悪く、きちんと鍵がかからないのは以前から知っていた。案の定、あっけなく開いた。文乃が軽々と体を持ち上げて中へと滑り込み、内側から裏口を開けて私を招き入れた。渡り廊下を経由し、御堂へと向かう。
「姉さま、あそこです」
祭壇の傍らに、水琴が置いてあった。板を軋ませぬよう近づいて、静かに抱え上げる。
「これで間違いありませんか」
「うん。久遠に返そう」
その場を離れようとしたとき、ぴん、と糸の弾けるような幽かな音が響いた。水琴の弦が切れてしまったのかと思ったが、違った。私たちは同時に頭上を見上げた。梁のあいだに何本も縄が渡されていた。鈍い音とともに天井が落ちてくる――そう感じた。なんらかの仕掛けが作動したと気付いたときには、私も文乃も、木組みの檻の中に捕らえられていた。
「いい加減にお目覚めなさいと、忠告したでしょうに」
物分かりの悪い子供に講釈するような声。格子に縋りついた私たちの前に、累が勝ち誇った様子で現れた。
やられた。奥に潜んでいたのだ。
「とんだ獲物がかかったものだ。がらくたの餌に」
ゆったりと歩き回りながら、片手に提げた杖を軽業師のように弄んでいる。自在に伸び縮みするようだ。何度か回転させるとそれで満足したのか、畳んで掌の中に収める。
「千歳さまともあろうお人が、蟲ごときに思考を支配されて――まったく哀れなことだ」
「累。なにが目的なの? ただ蟲と殺し合いがしたいだけなの?」
「まさか。僕は人間を守ろうとしているんですよ」
「守る? 意味もなく憎悪を駆り立てて、意味のない戦いにみんなを巻き込むことが?」
はは、と累は可笑しげに唇を湾曲させた。
「理解していただけませんか。僕はあなたのことだって守りたいと思っているのに」
「よくもそんなことを。私に薬を盛ったくせに」
累は悠然たる仕種で懐に手を入れた。透明な小壜を取り出し、私たちの眼前で振ってみせる。
「これのことですか。こいつは蟲除けですよ。ゆくゆくは効き目を高めて、奴らを皆殺しにしようと思っていたんですが。現状、致命的な効果はありません。むろん、人体に対してもね」
そうか、と思う。私は蟲笛の技術を失ったのではなかった。単に蟲に避けられているだけだったのだ。
「盛ったという事実に変わりはない。あなたのしたことは許されない」
「千歳さまを案じるがゆえです。蟲に煩わされずに、平穏に過ごしていただきたかっただけなんですよ」
「私が邪魔だって、はっきり言ったらどうなの」
「僕の立場としては、正直なところ、多少はね。しかし意見が対立するからといって、人間を殺すのは本意ではありません。除くべき諸悪の根源は、蟲ですから」
言葉の意味が分からず、私はただ累を睨んだ。彼は小さく顔を上下させて、
「まず前提として、われわれ人間が主、連中はそれを取り巻く環境のひとつにすぎないということです。ご機嫌を伺いながら生きていく必要なんかない。邪魔な木を切り倒して道を作るのに、いちいち悩む必要がないのと同じです。ところがあなたのように、あの迷い子のように、蟲に肩入れする人間が必ず現れる。蟲のために我慢すべきだと言いはじめる。最後にはこうなるでしょう――蟲のために私たちが滅びるべきだ、と。そうなる前に手を打たなければならないんですよ」
「そんな狂信的な考えで――」
「狂信的なのはどちらですか? 大蜈蚣に殺されかけたことを、もうお忘れらしい。蟲ははっきりと人間に牙を剥いたんですよ。一線を超えたんだ。もう引き返せはしない」
累がことさらに顔を近づけてきて、低い声で言い放つ。冷静になれ、と自分に言い聞かせた。文乃を引き寄せ、肩を抱く。考えろ。なにか手はある。
「問答はそろそろ切り上げにしましょう。僕にもやることがあるのでね」
薄笑いを浮かべた累が後退し、檻の上部に取り付けてあると思しい装置を動かした。手摺らしきものを握って、回転させている。きりきりと耳障りな音が生じ、同時に、左右の格子がこちらに迫り出してきた。
もとより狭い檻の中である。私たちは折り重なったまま、まるで身動きが取れなくなった。振動とともに持ち上げられ、宙吊りにされる。文乃が呻いた。少しでも私と水琴のために空間を作ろうと、必死になって体を縮まらせている。
かろうじて下の様子を伺えば、いかなる機巧か、いつの間にか床がぽっかりと口を開けていた。檻がするすると暗がりへ下りていく。這いあがってきた恐怖に抗うべく、固く奥歯を噛みしめた。誰が叫ぶものか。
「ことが終わるまでは、そこでごゆるりと」
まったく唐突に檻の扉が開いた。吐き出されるように外へと転がった。足許と壁を弄ってみれば、冷たい石の感触ばかりがあった。地下牢だと直感した瞬間、天井がぴったりと閉じ、光の大半が失せた。
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