第13回

 初めに、水が湧き上がる場所がある。おそらくは森の奥、小さな岩の割れ目だ。僅かに滴り落ちてくる程度だった水だが、やがて勢いを増していく。そこを中心に新たな草木が芽生え、周囲を覆い、小ぢんまりとした泉が生まれる。

 続いて水の底から、小さな生き物が這い出してくる。形は様々だが、私にはその正体がすぐに分かった。蟲たちだ。彼らは数を増し、森全体へと生息地を拡大していく。

 次の絵には新たな場面が登場する。見覚えのある場所だ。断崖と谷川。その近くに集まっているのは――人間? 縄を綯い、丸太を運んで、崖に橋を渡そうとしている。

 橋渡しは成功する。先頭に立って歩いていくのは、若い女性である。見る限り手の中にはなにもない。蟲の住処を訪れるのに蟲笛抜きでは拙かろうに。

 ついに人間は蟲たちと出会う。私が予想したような争いは、そこには生じない。むしろ蟲のほうが興味津々といった様子で近づいてきて、舞いを見せて歓迎さえする。人間もこれを喜び、受け入れる。二種族の関係の始まりは、この上なく平和的だった――。

 蜜月は続く。絵にははっきりとその喜びが現れている。彩度が上がり、線も躍動感を増す。

 人間と長く触れ合ううちに、蟲たちは新たな知恵を獲得する。寄り集まって人の姿を作り、仕種を真似しはじめるのだ。もとより小さくて不定形、相手に合わせて変容する習性を持った生き物である。変身はすぐさま至芸の域に達し、彼らはその姿を維持するようになる。別々の存在だったことがふと疑わしくなるほどに、ふたつの種族は似通っていく。

(あとは声――言葉)

 慄いた。思考がそのまま音として頭蓋に反響したからだ。語ったのはむろん、私ではない。

 これは私の声ではない。これは私の言葉ではない。

 なんなの、と私は訊く。ただ頭の内側で言葉にする。教えて、あなたは何者なの?

 眼前の壁が、絵物語が穏やかに光を放ち、明滅しはじめる。ゆっくりと息をつくように、心臓が脈打つように。いや、実際に蠢いている? 手を触れてみればその感触がある。

 生きている。

 憑かれたように通路を下っていくと、再び水に足首が浸った。迷うことなく歩みを進める。深さが増し、膝が、そのうち腰が水中に沈んだ。優しく抱かれている感じで、少しも恐怖はなかった。絵物語はまだ終わっていない――不思議な声もまた。

(蟲と人間の話をしましょう。あなたが見てきた物語の続きを。ふたつの種族の愛と憎しみの話を)

 蟲は人間の姿のみならず、声をも真似ようとする。人の耳には意味をなさないはずのさざめきが少しずつ、少しずつ、質量を伴いはじめる。形を結びはじめる。

 蟲たちは学習する。粘り強く寄り添いつづけた人間の貢献も、むろんある。ふたつの種族は二人三脚で、互いを進歩させてきた。ともに生きようとしてきた。

 そして、革新が起きる。初めて言葉を発した蟲は、自らこう名乗った。

 久遠。

(もっとも熱心に、献身的に、蟲に言葉を教えた人間の少女の名前が、永遠を意味するものだった。だからそれにあやかって、蟲は自分に名前を付けた。少女はとても喜んだ。自分たちふたりの、そして両方の種族の友情がずっと続くようにと願って、お互いに贈り物をしようと提案した。蟲から人に渡ったのが、蟲の声を模した笛。そう、あなたたちが蟲笛と呼ぶ楽器。人から蟲に渡ったのが、人の魂を波立たせる琴。蟲たちはそれを水琴と呼んだ)

 しかし――彼女たちの祈りが絶えるときが訪れる。能力を高めすぎた蟲たちに、人間は恐れを抱くようになるのだ。

 自ら作り上げた知性に反逆されることへの恐れ。外観のみならず内面までもが限りなく近づいた二種族の、区別が不可能になることへの恐れ。それほどの可能性を持つ生命を平然と産み落とした自然への恐れ。あらゆる感情が混合し、御しがたいほどに膨れ上がった。

 そう遠くない未来に、蟲たちはこう言い出すのではないか?

 私たちは、人間だ。

(蟲たちはもちろん、人間になろうとしたわけじゃない。ただ鏡のように、水面のように、相対する者を映し返しただけ。愛をくれた者には愛を、憎しみを寄越した者には憎しみを、ただ返すだけ。そうと信じてくれた人間はほとんどいなかったけれど)

 人間たちのあいだでは議論が紛糾した。このままの関係はもはや続けられない。ならばどうする?

 絶滅させてしまえという圧倒的多数の意見に待ったをかけたのは、久遠に言葉を教えた少女だった。

 千代。最初の、そして歴史上最高の、蟲笛吹き。

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