第7回

「それをどうするつもり?」

 冷たい声が耳朶に生じた。久遠は前回と変わらぬ青い薄衣を身に着けているのみで、見る限り手の中にはなにもない。丸腰だ。

 叔父は答えず、背後にいた部下へと水琴を回した。短剣の切っ先は久遠へと向けられたままだ。まだ距離はある。しかしこのままでは――。

「逃げて」

 駆けだそうとした私を、誰かが背後から羽交い絞めにした。藻掻きながら、逃げて、逃げて、と連呼した。久遠は動かない。なぜ動いてくれない? 涙が滲んできた。

「お分かりにならないのですか? あれは迷い子です。あなたまで蟲に憑かれてどうなります? 気を確かにしてください」

「だとしても殺さないで。お願いです、久遠を殺さないで」

 迷い子、と呼びかけつつ、叔父が前に進み出た。

「あの道具はおまえのものか?」

「ええ」

「楽器だな?」

 久遠は黙って頷いた。

「迷い子であるおまえが、なんのために楽器を持つ? 蟲笛吹きから力を盗み取るためとしか考えられない。千歳から奪った音を返してもらおう」

「私は奪ってなどいない。なにも知らない」

「とぼけるな。八つ裂きにされたいのか」

 知らない、と久遠は繰り返し、薄く笑った。それから私を見、唇だけを動かす。声はまったく発されていない。しかし私の脳裡にははっきりと、彼女の言葉が響いていた。

「うらぎりもの」

 どうやって拘束を脱したのか、自分でも判然としない。誰もが唖然としている一瞬の隙をついて、水琴をもぎ取った。胸元に抱きかかえて走り――ほんの数歩行ったところで腹部に強い圧迫感をおぼえた。呼吸と嘔吐への衝動。縄だと気付いた瞬間にはもう、強い力で後ろへ引き戻されていた。

「千歳――莫迦が」

 万力のような力で締め上げられ、思わず楽器を取り落とした。叔父が呻くように、

「いま蟲の妖術から解放してやる」

 ぱきぱきと音が轟き、久遠の背後で木々が左右に別れた。巨大な、そして奇怪な頭部が飛び出し、高々と持ち上がる。ずっと身を潜めていたのか、主の危機を察してやってきたのかは分からない。夜の暗がりに鮮やかな、鮮血めいた複眼。怒り狂った大蜈蚣が、私たちに向けて牙を剥き出した。

 次の瞬間、あちこちから悲鳴が上がった。男たちが次々と武器を落とし、手首や肩を押さえてよろめく。訳も分からないうちに抱え上げられた。縄に絡めとられたままの身が強張る。

「毒だ。あいつ、奥の手を隠していやがった。千歳を遠ざけろ」

 ふわり、体が後方へと運ばれた。奴は怪我してる、押し切れ、といった調子の声が聞こえていたが、すぐに飛び去る。私を抱えた累が凄まじい速さで戦線を離脱し、森の出口へ向けて疾走しはじめたのだ。

「久遠を助けて。死なせないで。お願い、友達なの」

「いい加減に目を覚まされることです。迷い子はもう、人間ではありません。それを友達などと――『あれ』からすればあなたは、単なる裏切り者なんだ」

 見ていたのだ。久遠にとって私は裏切り者――まったくそのとおりだ。たとえ蟲笛の音が戻らなくても、いや、あの場で叔父に絞め殺されていたとしても、決して話してはいけなかったのだ。青く小さな泉での記憶、私たちだけの美しい秘密は、永遠に胸のうちに留めるべきだったのだ。

 こうして後悔の涙を流すこともまた、私が蟲に憑かれた証と見做されるのだろう。力を失い、迷い子のために泣く。蟲笛吹き失格だ。

「私はただ、蟲と一緒に暮らせると思ったの。もっとお互いを知って、仲良くなれるって。蟲と人との境界に立って、橋渡しできるって」

「愚かな」

 私の独白を、累はたった一言で切り捨てた。

「居残れば、確実に殺されていた。ご自分で理解できませんか? そもそも蟲笛は、蟲を従わせるための道具です。なにを勘違いしておられるのか知りませんが、あの崖への橋渡しは我々、村の人間にために行うことだ」

「みんなの都合は分かってる。だから、蟲たちにきちんと言って聞かせようと――」

「あなたを最上の蟲笛吹きと評したのは取り消します。蟲と戯れるだけのお稚児だ。今度の失態でよく分かりました。あなたに村の指揮は取れない。後継者にはふさわしくないと、僕は進言するつもりです」

 そうね、とだけ応じ、あとは黙り込んだ。累もまたなにも言わなかった。後継者のことなどもはやどうでもよかった。私は目を閉じ、届くべくもない祈りを捧げた。

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