第5回
最初に迎えてくれたのは文乃だった。私の胸元にしがみつき、心配しました、心配しました、と叫んでは泣く。言葉が思いつかず、熱は下がったの、と咄嗟に問うと、
「そんなことを気にしている場合ですか? 私がどれだけ――」
嗚咽で、言葉の終わりが不明瞭になった。文乃が握り拳を作って、私をぶつ。
「ごめんね。叔父さまたちは?」
「みな戻られました。怪我をされた方もいるようですが」
命に別状はないという。聞いて安堵した。報告をすべく曾祖母の家へ向かおうと提案すると、文乃は私の袖を掴んでかぶりを振り、
「武彦さまは、姉さまが帰ってこられたら養生させるようにと。長く森におられたわけですし、お体が大事ですから。身の回りのお世話も、しばらくは私ひとりで致します」
あえて反駁せず、文乃に連れられて真っ直ぐに家へ帰った。叔父も、村の人々も、おそらくは森の気配を恐れているのだろうと思った。出迎えが文乃ひとりだったのも、きっとそのためだ。
扉も窓も締め切った屋敷でふたりきり、数日の籠城を強いられた。宣言どおり、あらゆる雑事は文乃が取り計らった。私はただ寝起きしていたのみである。病気ではないと告げても聞き入れられず、食事は軟らかく煮た粥ばかりだった。
とにかく水を飲むように、とも言われた。部屋には常に水差しが置いてあって、減っていないと見るやお説教をされる。これではどちらが主なのか知れたものではないが、彼女なりに私の身を案じてくれているのは理解できたから、なるべくは従うようにした。水は初めのうちどこか苦く、森にいるあいだに味覚が変わってしまったのかと危惧したが、やがて気にならなくなった。
そうして一週間ほど過ぎた夜、武彦叔父が我が家を訪れた。まったく突然のことで、私は久方ぶりに衣服を整えねばならなかった。
「先日は大変な目に遭わせて悪かった。千歳、一緒に東の森まで来てくれ」
「どういった御用でしょう」
叔父は履物をしたまま、玄関の土間から内をちらりと覗き込み、
「蟲笛だけ持ってこい。文乃はどうした。もう眠っているのか」
「内密なお話かと思いまして、今は奥に。呼んで参りましょうか」
「おまえだけでいい。急ぎ仕度しろ」
文乃に留守番を指示し、軽く笛を磨いてから出掛けた。月明かりを頼りに、大股で歩く叔父の後方から追従する。
「遅れるな」
振り返った彼の額、乱れた髪の下に、まだ生々しい傷跡があるのに気付いた。思わず息を呑む。ああ、これか、と叔父は手を触れながら、
「あの大蜈蚣にやられた。肌を切っただけだから、大したことはない」
「ご無事でなによりでした」
「おまえも。逸れたときはどうしようかと思ったが、ともかくもこうして、生きて再会できた」
ふだん稽古に使っている河原に至った。叔父は土手に腰かけ、笛を吹くよう命じた。予想どおりと言えば予想どおりだったから、私は淡々と頷き、音を響かせるにふさわしい場所を探した。耳を欹てる。蟲たちの機嫌は悪くない。
「曲はどういたしますか」
「なんでもいい。おまえの得意なもので」
あるていど華々しくすべきかと思い、目覚めの旋律を奏でた。あたりに潜んでいる蟲たちが続々と浮かび上がり、鮮やかな色を放ちながら模様を描き出す――そういう手筈だった。稽古の準備運動代わりに使うような、簡単な曲だ。
しかし様子がおかしい。一度目の主旋律が終わりかけても、蟲たちが一向に反応しないのだ。草叢も川面も静まり返って、一匹たりとも姿を見せない。慌てた。汗で手が滑り、背筋が冷え冷えとした。
「どうした、千歳」
「違うんです、叔父さま。少しだけ――もう少しだけお待ちください。いま御覧に入れますから」
主題を反復したが、結果は同じだった。叔父が見かねたように立ち上がり、私のもとへ下りてきた。表情を険しくしている。
「今まで、こういうことがあったか?」
「すみません、曲を変えても構いませんか。別の曲なら大丈夫だと思うんです」
「正直に答えろ。蟲がおまえに応じないことが、一度でもあったか?」
諦めて蟲笛を下ろした。私は唇を震わせて、
「ありません」
「理由が思い至るか?」
「いいえ」
強く肩を引き寄せられた。笛を取り落としかける。間近に迫った叔父の、血走った両目。
「森でなにがあった」
「お答えできるようなことは――なにも」
「嘘を吐くな。この村で蟲笛吹きが力を失ったらどうなる? ばあさまだって明日も知れないのに。道理の分からぬおまえではないだろう。なにもかも話せ。これは村の長としての命令だ」
胸倉を掴んで持ち上げられていた。息ができない。かろうじて首を上下させると、無造作に手が離れた。咳き込み、眦に浮いた涙を指先で拭いつつ、
「迷い子に会いました」
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