第4回

 蒼白い光を纏った蝶が、頭上を行き過ぎた。瞼を開けていた確信がないから、あるいは幻覚かもしれないと思った。私の肉体はとうに死んでいて、土をかぶって腐食を待ちつづけているのではないか。

 足首の冷たさを意識して、はたと身を起こした。やはり幻なのか、さっき見た蝶と同じ色の光が淡く差し入る空間だった。周囲を背の高い木に囲まれた泉である。私は水に素足だけを浸したまま、草の上で意識を失っていたのだ。

「気が付いた」

 傍らから声をかけられ、心臓が躍り上がった。青い薄衣に身を包んだ、髪の長い少女だった。目を瞬かせる。焦点を合わせる。月明かりに濡れた肌、細く薄らとした体。

 少女が屈みこんで私と視線の高さを揃えた。造形の精緻さに戦慄した。

「――叔父さまは? みんなはどうしたの?」

「知らない。いるべきところに帰ったんじゃないの? 森の外に。人間の住処に」

 吐き捨てるように答える。想像が確信になった。伝承は真実を語っていた――迷い子だ。 

 蟲に憑かれた迷い子が、私の目の前にいる。

「私たち、蟲に襲われて」

「蟲はいきなり人間を襲うような真似はしない」

「見たことのない、大きな蟲だったの。蜈蚣みたいな」

「あなたに蟲のなにが分かるの?」

 鋭い眼光に射竦められて言葉を失った。もっともだ。

「ごめんなさい。先に手出ししたのは私たち」

 少女は短く吐息し、

「人間を傷つける気なんかなかった」

 私は自分の背中に腕を回して触れた。今更のように、痛みがまるきり失せていることに気付いた。あの格闘までもが幻だったとは思えない。私は確かに、後方から殴りつけられたはずだ。

 私の内心を察したかのように、少女がぽつりと、

「森があなたを死なせなかった」

「どういう意味? どうして私だけがここにいるの?」

「その子が連れてきた。私が助けたわけじゃないよ」

 少女が泉のほうへと顔を向けた。訳も分からずにその視線の先を見つめていると、やがて水面が蠢いた。単に波立っているという感じではない。なにかが泳いでいる。

 目の錯覚かと思ったが、違った。水が盛り上がり、鎌首をもたげるように伸びた。思わず悲鳴を上げ、傍らの少女に縋りついた。しかし彼女は平然たる態度で私を無視し、水中から現れたそれを抱き留めるように両腕を広げた。

 蛇を象った水――としか呼びようがない。なにしろ体が完全に透けている。光の錯綜によって、そこに物体として存在すると分かるのみだ。形状を自在に変えられるらしく、ゆっくりと頭らしき部位だけを差し出して、少女の肩に乗せた。

「それも蟲なの?」

「蟲はもとより水に近い存在なんだよ。器に応じて変容する。相対するものの心を映し返す。小さな光の粒に見える場合もあれば、人間の目には怖ろしい姿をとる場合もある。そのくらいのことはせめて、承知なんだと思っていたけど」

 はっとし、立ち上がって腰のあたりを弄った。笛袋は下がったままだ。しかし中身が――。

「私の蟲笛! どうしよう、あれがないと」

 膝から崩れ落ち、両掌で顔を覆った。やはり曾祖母に逆らうべきではなかった。予告を軽んじた罰だ。蟲笛を失くした。もう取り返しがつかない。

「あなた」

 と少女が呼びかけてくる。ややあって、頬の近くにひんやりとした感触を覚えた。彼女の掌ではない。液体と固形物の境目の柔らかさ。弾力。蛇が私に寄り添っているのだと分かった。

「ありがとう、でももう駄目なの。楽器抜きじゃ、私はなにもできない」

 かた、と低い音が聞こえた気がして、私は顔を上げた。足許を見やって、跳び上がるほどに驚く。まさしく私の蟲笛が、そこに落ちていたからだ。

「ちゃんとあなたと一緒に運んできたんだから、安珠に感謝してね」

 安珠という名前らしい蛇に抱き着き、ひとしきり頬ずりをした。笛を拾いあげ、軽く鳴らしてみる。異常はない。確かに私の楽器だ。

「本当に助かった。大事なものだって分かってくれたんだね」

「私にも大切にしているものがあるから。安珠も覚えていたんでしょうね」

 そう語った少女の手には、いつの間にか小振りな楽器があった。初めて見るには違いないのに、記憶のどこかを撫で上げるような、どうにも名状しがたい感覚をおぼえた。

 おそらくは木製で、形状としては狩人の弓に少しだけ似ている。ただし湾曲の具合が、はるかに複雑である。途中で捻りが加わり、表裏の区別があえて曖昧になるような構造でひとつの円環を成している。縦向きに張られた数えきれないほどの弦は、あたかも流れ落ちる滝のようだ。

 少女が近くの平たい石に腰かけ、楽器を正面に据えた。両脚のあいだで固定する。指が優雅に滑って、弦を掻き鳴らした。低音から高音へ。雫が滴るような柔らかい音色の合間に、金属音を思わせる硬質で煌びやかな響きが混じる。決して耳にしたことのない、しかし懐かしくて堪らない音楽が、そこに生まれた。

「その楽器は――」

「水琴とだけ、私は。弾き方を教わったのはずっと昔だけどね」

 弦が摘ままれ、撓み、弾かれた。新たな旋律が中空に満ちる。掌は楽器の両側で踊っているかに見えた。背筋が震え、胸は昂揚した。

 音楽に呼応して、泉のあちこちから蟲たちが姿を現した。ひらひらと飛び回り、光を放つ。差し入る月光を跳ね返すもの。溶け合うもの。瞬く間に数を増していく。星の川が、手の届く高さに下りてきたかのように。

 安珠が頭を伸べ、私の手をつつく。蟲笛。少女の様子を伺った。口許だけで笑み、挑みかけるような視線を寄越している。

 控えめに笛を重ねると、途端に蟲の踊りが激しさを増した。私を鼓舞するように、揃ってこちらへ近づいてくる。調子を合わせて乗り切ろうという目論見は外れた。その頃合いで少女が音色を抑えて引き下がり、伴奏に徹してしまったのだ。どうしても私が、彼らの期待に応えねばならなくなった。

 蟲たちのための音楽。

 不思議な迷い子、そして数多の蟲を交えたこの奇妙な合奏に、私は心から満足していた。立場も使命感も、依怙地な自尊心も抜きに、ただ音と舞いを楽しむこと。思えば、これほど正直に蟲笛と向き合ったのは初めてではなかったか――。

「あなたはどうしても、村には帰らないの?」

 泉を辞去する直前、私は振り返って少女に訊ねた。頷いてもらえるとは、もとより思っていなかった。無理やりに連れ帰る心算もなかった。ただ、もういちど遊びにおいでと、また遭えるからと、そう言って欲しかったのだ――きっと。

「帰るもなにも、私の居場所はここだから。いい? あなたは森に生かされた。それを忘れないでね」

「覚えておく。あなたのことも――」

 少女は答えず、こちらに歩み寄ってきて、両手で私の手を取った。握られた掌が離れる。冷えた感触とともに、乾いてざらついた、柔らかいなにかが残った。

「あげる。森の命が、そこには入ってる。もしものときには、それを食べて」

 小さな革袋だった。手の中で転がしてみると、中に粒状のものが収まっているのが分かった。私は礼を言い、腰に下げた袋へと仕舞った。

「途中までは蟲に案内させる。光を見失わないように歩いて。見慣れた場所に出たら、もう振り返っちゃ駄目。分かった? それからもうひとつ。私のことは、誰にも話さないで」

 頭上を舞っていた蝶の形をした蟲が、すっと方向を定めて飛んでいく。少し離れたところで留まり、羽ばたきながら、私を待っている。

 行って、と促され、躊躇いがちに歩き出した。導きの光が強まる。同時に泉の入り口、少女の立つ側が翳った。振り返るなと指示されたばかりなのに、私は肩越しに彼女の影を探して、

「私は千歳。蟲笛吹きの千歳」

 泉のある一帯は早くも霧に覆われ、全貌が視界から失せつつあった。張った声が届かないかもしれないと予感し、もう一度同じことを繰り返そうとしたとき、

「私は久遠。水琴の奏者」

 くおん、と精一杯に呼びかえしたが、もう返事はなかった。声は残響ごと森に呑まれ、失せた。心配したように蟲が引き返してきて、私の肩に止まって羽を休める。小さく鼻を啜り上げてから、分かってる、行くよ、と話しかけた。

 水音が聞こえてくる。木々の向こうに遠く村の灯りが見えるまで、私は決して足を止めなかった。

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