第3回

 張り出した枝に進路を遮られて立ち止まった。奇妙に傾き、蔓草の絡みついた幹を観察したが、蟲の姿はない。耳を澄ませてみても、それらしい波長は響いてこなかった。

 森に入ってからずっとこの調子である。葉の所々に穴が開いているから、生息してはいるはずだ。気候か、時間帯か、あるいは私たちを警戒して隠れているのか――。

「なにかお分かりですか、千歳さま」

 ずっと傍らを歩いていた青年が私に問う。名を累という。細面だが、自ら志願してこの調査隊に加わったとのことで、腕は確かなようだ。彼は灯りを持ち上げて周囲を照らし、

「騒ぐというわりには反応がありませんね。わらわらと湧いてくるのかと想像していましたが」

「東の子たちは、私が行くとすぐ出てきてくれるんだけどね。西の子たちだって、きちんと言って聞かせれば従ってくれるはず」

 累は薄く笑い、

「ずいぶんと自信がおありだ。歴代最上の蟲笛吹きと言われるだけはあります」

「誰がそんなことを」

「誰もがそう言いますよ。しかし肝心の蟲の気配さえない」

「だから、ばあさまの取り越し苦労なんだろうよ。いちおう崖まで行ってみて、千歳に一曲吹かせる。それで終わりにしよう」

 後方から叔父が声を上げる。彼の周囲は、自身で選抜したという屈強な男たちに固められている。全員が武装し、いつ訪れるともしれない争いに備えてか、ひりひりとした空気を放っていた。

 彼らにはあえて後方に控えてもらっている。蟲たちの幽かなさざめきを捉えるには、感覚を鋭敏に保たなくてはいけない。押し殺しきれない気配は、どうしてもその妨げになるのだ。いざというときに飛び出せる限界の距離にいてほしいと、依頼せざるを得なかった。

「昔はこのあたりの木も伐採してあって、ちゃんとした道があったんだ。しばらく放っておいたら好き放題に伸びてきて――くそ」

 制止する間もなく、叔父が鉈を振るって枝を掃った。彼は身を屈めながらこちらへ近づいてきて、

「この歩みじゃ遅すぎる。ついでだから邪魔なのは切っておこう」

「叔父さま。蟲たちを刺激しないようにと、大お祖母さまが。蟲は刃物に怯えます」

「怯えさせておけばいい。委縮して静まってくれるなら、俺たちは万々歳だ。やれ」

 合図を受け、数名の部下が歩み出てきた。それぞれに鉈や鋸を提げている。大振りな斧を持った者さえいた。一斉に仕事にかかろうとする彼らの前に、私は立ち塞がって、

「待って、みんな。今ここで騒がしくしたら、蟲の声が聞こえなくなる。私たち、なにが起きているのか調べるために来たんでしょう? 余計なことはするべきじゃない」

「なにが余計だ。どっちにしろ、橋を渡すには一帯を整備しなきゃならない。ここは蟲だけのものじゃないんだぞ。いずれは人間が住むんだ。おまえも承知だろう」

「分かっています。なるべく穏便に済ませる方法を探るべきだと――そう申し上げているだけです」

「もし騒いだらおまえが鎮めろ。そのための蟲笛吹きなんだろう?」

 反論はできなかった。まさにそう主張して、曾祖母の許可を取り付けて来たのだから。私は黙って後方へと退いた。叔父が満足げに顎をしゃくる。

 作業は手早かった。考えてみれば橋渡しも彼らが行うのだろう。貴重な男手であり、労働力だ。森を開いて村を繁栄させるという使命感を抱いて、ここにいるのだろう。どっち付かずな態度が歓迎されようはずもない。

 お進みください、と促され、ゆっくりと草を踏んだ。突貫工事とはいえ人ひとりが歩けるだけの道が充分に確保されている。再び元の並びに戻って、私たちは進軍した。遠くから低い水音が響いてくる。

 やがてぽかんと視界が開けた。木々が途切れ、切り立った崖が現れる。覗き込めば遥か下方で、轟轟と川が流れていた。むろん手摺などはないし、落ちればただでは済まない高さだ。思わず足がすくみ、私は後方を振り返った。

「さっさと済ませよう。笛を――」

 言葉を発し終わらぬうちに、叔父が鉈を振り上げて構えた。部下たちが素早く位置を変え、私を守護するように取り囲んだ。

 枝が軋み、へし折れる音。突如として長細い影が突き出し、中空を泳ぐように身をくねらせた。私は呼吸さえ忘れ、その奇怪な動作に見入っていた。こんなにも大きな、そして複雑な――。

 無数の節が長々と連結した胴体と、左右でざわざわと蠢く、これまた数えきれないほどの脚。一本一本は独立しているはずなのに、大人数で漕がれる櫂のように、全体が規則的に連動している。体の内側、腹に当たるであろう部分は白っぽく、どす黒い背と対比を成していた。

 頭部は水疱にまみれたように、大量の眼球に覆われていた。中でも丸々として大きなものが三つ、ちょうど三角の形に配されている。その下から触手が二本、弓なりになって伸びていた。

 殺せ、と叔父が叫ぶ。同時に、巨大な蟲の頭がこちらへ向けられた。赤い満月めいたその目。私は反射的に声を張り上げて、

「駄目。私が蟲笛を聴かせるから――みんな、手出ししないで」

「莫迦を言え。全員食い殺されるぞ」

 男たちがじりじりと後退する。誰ひとり武器を下ろさない。いっぽうの蟲は酔ったようにふらふらと、もたげた鎌首を揺らしているばかりで、敵意があるともないとも分からなかった。

 私は慎重に笛を取り出した。すぐさま襲ってこないところを見ると、怖ろしげな外見とは裏腹に、きっと理知的な蟲なのだ。上手いこと音楽で落ち着かせれば、おとなしく引き上げてくれるのではないか。

 そう信じて唄口に唇を添えようとしたときのことだ。誰かが鎌を投げた。勢いよく回転し、蟲にぶつかる。命中したのが柄だったのか、あるいは刃だったのかは、私の目には判然としなかった。確かなのは、その一撃で怒らせてしまったということだけだ。

 金属どうしを擦り合わせたような、甲高い、耳障りな音が轟いた。蟲の触手がびりびりと振動している。今度こそはっきりと私たちに狙いを定め、頭を下げた。湾曲した大顎を打ち鳴らしつつ開閉している。

 雄叫びを上げつつ左右から躍りかかった男たちが、いとも簡単に薙ぎ払われる。想像以上に外殻は固いのだ。別な男が真正面から体当たりを食らって、後ろざまに倒れた。

 お逃げください、という絶叫で、ようやく我に返った。もはや笛を使う余裕はない。ここに残っても足手纏いになるだけだ。一刻も早く村へ戻り、助けを呼ばなくては――。

「蟲けらが、舐めやがって」

 隙をついて駆けだそうとしたとき、後方から背骨が破裂するような衝撃に見舞われた。転倒しかけ、反射的に手を伸ばした。体を支えられるつもりでいたが、気が付いたときには地面に伏していた。一瞬で息を吐ききってしまい、悲鳴を上げることも叶わなかった。

 思考が空白になった。なにが起きたのかさっぱり分からない。立てるはずだ、走れるはずだという意識に、体がまるでついてこない。

 やむなく土を這った。ともかくその場から離れるべく、闇雲に這いずって逃げた。怒号、金属音、低い打撃音……背後に響く音のいっさいが薄れ、遠ざかる。感覚がじわじわと暗転していく。やがて手足が痺れはじめ、脳裡を乳白色の靄が包み込んだ。

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