第2回

 文乃が熱を出してしまったので、私はひとりで曾祖母のもとへ出向いた。ここ数日は体調がいいと聞くから、面会はできるだろうと思った。起きているのを見越して、朝早くに訊ねる。彼女の暮らす家は、村の西端近くにある。

「千歳か。入れ。ばあさまは息災だよ。早死にしがちな一族だってのに、たいしたもんだ」

 扉を開けてくれたのは武彦叔父だった。ここへ住み込んで、曽祖母の世話をしてくれている。その意思を代行するのも彼の役割だ。すなわち立場としては、村の最高権力者に近い。彼の言葉どおり、一族で存命なのは私たち三人だけだ。

「大お祖母さま、千歳が参りました」

 椅子の傍らに屈みこみ、手を握って話しかけた。曾祖母というのは、母の母の母だ。もはや百歳近い高齢である。髪は真っ白で、顔には深い皺が刻まれている。じっと目を閉じているように見えたが、私の声は届いているらしかった。彼女は小さく頷いて、

「元気そうだね。よく顔をお見せ」

 若い頃は私によく似ていたそうだ。もっとも当時を知る人はもう、誰ひとり生きてはいない。曾祖母が自身の記憶を、私に重ねているだけかもしれなかった。

「西の森の橋渡しを延期にしたと聞きました」

「そのことか。確かにね、私が判断したよ」

 私は顔をより近づけ、少し声を張って、

「橋渡しは村全体の希望です。崖の向こう側を開ければ、ずっと便利になるんですよ」

「承知しているよ。しかしねえ――」

「蟲が騒ぐと仰るんでしょう。蟲笛吹きの出番です。西の森へ行く許可をください」

 この歳に至ってなお、蟲に関する曾祖母の感覚は鋭い。私では及びもつかないという確信があるが、だからといって村の利益を蔑ろにはできない。騒ぐならば鎮める。それが蟲笛吹きだ。

「おまえは達者な笛吹きだ、千歳。私にはよく分かる。それでもね、蟲たちが怒っているときに森に入ってはいけないのだよ。村の掟だ」

「迷い子の話か? ばあさま、蟲がどうやって人間を操る? 子供が迷子にならないように言い聞かせる、ただの昔話だ」

 壁に凭れてやり取りを聞いていた武彦叔父が、そう加勢してくれた。迷い子の話は私も知っている。蟲に憑かれると森から出てこられなくなる、といった類だ。叔父同様、これまで真剣に受け取ったことはなかった。

「蟲はね、怒らせなければ人に害はなさないよ。だが今はよくない時だ」

「どこに怒らせる理由がある? 今は駄目、今は駄目で、ばあさまに従ってたら永遠に橋が渡せない。千歳を無事に帰らせればいいんだろう? 俺が一緒に行く。腕の立つ奴らも何人か連れていこう。それでいいだろう」

 大お祖母さま、と私も懇願した。

「必ず戻ります。叔父さまもこう言ってくださっていることですし――私にやらせてください。村のお役に立ちたいんです」

「お聞き、千歳」

「今の蟲笛吹きは千歳だ。ばあさまじゃない。千歳、準備をしておけ。明日の夜、出発する」

 言い捨て、叔父が苛立たしげに部屋を出ていった。曾祖母は反駁しなかった。こうなっては譲る人ではないと、半ば諦めたのかもしれない。私は握る手に力を込め、

「笛を手入れしておきます。心配なさらないで。やり遂げて御覧に入れますから」

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