夜毎さざめく蟲たちは

下村アンダーソン

第1回

 西の森の蟲たちが騒ぐというので、橋渡しは繰り延べになった。そう聞かされた。知らせを携えてきたのは例によって文乃で、私はちょうど、蟲笛の稽古の最中だった。

 下弦の月の晩のことだ。薄らと伸びた雲は青く、風が遠い木々を穏やかに揺らしていた。私は笛を下ろし、溜息交じりに、

「念のため訊いておくけど、決めたのは誰?」

「ばばさまです、千歳姉さま」

「そう。やっぱり覆りそうにない?」

「あのご様子だと、まず無理でしょうね。納得いきませんか」

 からかうような調子で文乃が言う。長らく傍についている気安さからか、ときたま主の私にもこうした顔を見せることがある。生意気と感じたことはない。下手に形式張っていられるよりは、余程のこといい。

「直々に説得されますか? すぐに戻って、姉さまがお怒りだとお伝えしましょうか」

「別に怒ってはいないよ。残念なだけ」

「では引き下がられますか?」

 問いには答えず、私は土手のほうに視線をやりながら、

「ねえ文乃、いまなにが見える?」

「ただの河原としか思われませんが」

 お定まりのやり取りだ。稽古には何度となく立ち会わせているから、これから起きることを予期しているには違いない。文乃は頭を巡らせながら、私の隣で寄り添うように立っていた。

 蟲笛をそっと口許に運んだ。短く合図するように息を吹き込み、それから長々と尾を曳くように伸ばした。空気が揺れる。独特の振動が手に、頬に、体に伝わる。

 蟲笛の音色は蟲の声を模している――曾祖母がかつてそう、私に語った。彼らには彼らの言葉があり、歌もまたある。人の耳に意味を成すことはないが、蟲たちは夜毎、さざめいているのだと。

 意思を通じ合わせるには、この蟲笛を使うほかない。そして旋律に力を宿らせうるのは、森に選ばれた一族の娘だけ。

 反応はまず、足許から現れた。小さな光の粒がぽつり、ぽつりと生じ、広がって、やがて地面は星空を映し返したかのようになった。白、青、緑――そのひとつひとつが呼吸するようにゆっくりと色を変えながら、静かに佇んでいる。

 新たな光が土手からも湧き立ち、ふわりと宙へ浮かんだ。寄り集まって塊をなし、膨らんだり縮んだりしてみせながら、こちらへ向かってくる。ずいぶん息の合った群れと思しい。早くも私を取り囲み、じゃれるように飛び回りはじめている。

「お見事です、姉さま」

 私は頷き、笛を構え直した。指示を受けた極小の蟲たちが、いっせいに舞い上がる。踊る。まったく従順だ。中空に弧を描かせるのも、規則的に運動させるのも、複雑な模様を作らせるのも、蟲笛の奏者たる私の思うままである。今夜は特別に機嫌が麗しいらしく、動きも、光の色具合も、なにもかもが鮮やかで生き生きとしていた。

「少なくとも、東の蟲たちは素直なようですね」

 感心した様子の文乃に、私は念押しするように、

「そうでしょう? 西の子たちだけ様子がおかしいなんてこと、ある?」

「さあ――ばばさまの仰ることですから」

「大お祖母さまじゃなくて、あなたはどう思うの?」

 文乃は腕組みし、宙を見やり、蟲たちを見やり、最後に私の顔を見やって、

「蟲のことはなにも分かりません。しかし私はいつでも、姉さまのお傍におります」

 私たちは連れ立って村へと帰った。蟲たちは最後まで名残惜しげに瞬きを見せていたが、追いかけてくるような真似はしなかった。振り返るたびに光が甦るのが愉快だったのか、道すがら、文乃は何度も立ち止まっては河原のほうを眺めていた。いい加減に寝かせてあげなさい、と窘めねばならないほどだった。

「蟲というのは、夜に活動するものではないんですか」

「そうだけど――文乃だって四六時中構われていたら疲れるでしょう?」

 彼女は少し間を置き、短く、

「姉さまならば、別に」

 そうは言うものの、文乃の足取りには明確な疲労が覗いていた。私を迎えに来るまで、ずっと働きどおしだったのかもしれない。村ではありとあらゆる雑用が、彼女に回ってくる。奴隷ではなく私の付き人だと、改めて皆に言い聞かせてやろうと思った。

「大丈夫? 少し休んでから帰る?」

「平気です。もう遅いですから、急がないと」

「ちゃんと歩けるの?」

「歩けますよ。子供と思って――もう、姉さまは」

 口では強がっていたくせに、文乃はけっきょく途中で意識を失くした。起こさぬようにそっと背負い、屋敷へと引き上げた。灯りは点さないままで寝床を拵え、横にならせる。

 姉さま、姉さま、と寝言を繰り返すので、しばらくのつもりで隣にいて、手を握ってやっていた。小さく震えているような感じがしたが、そのうち落ち着いた。寝言も収まり、静かに胸を上下させるばかりになった。

 安堵のせいか、どうやら私もその場で寝入ってしまったらしい。夢のなかにいる自分に気付いて、はっとなった。たまにこういうことがある。夢を夢であると知りながら、自らの意思では決して目覚められない。提示される物語をただ、受け止めるほかはない。

 蟲たちの出てくる夢だった。場所は水辺のようなのだが、いつもの河原とは違っている。小ぢんまりとして秘密めいた、これまでに訪れたことのない泉だ。水は信じがたいほどに澄み、冷たい。私は素足を浸しながら、蟲笛を吹いている。その曲もまた、現実の私の知っているものではない。

 演奏の合間、うっかり手を滑らせる。笛は水に落ちて沈んでいく。そう深いはずもなかろうに、どれほど探しても見つかることはない。

 大切な楽器を失ってしまった衝撃で、私は泣き崩れる。疲れ果て、捨て鉢になり、このまま自分も溺れてしまおうかと思い詰める。曾祖母にも、村の人々にも、言い訳するすべがない。蟲笛を欠いた私は、単なる小娘でしかない。

 虚ろに見つめていた水面が、やがて鏡のように凪ぐ。揺らめいていた自分の影が、ゆっくりと輪郭を定める。

 私は弩級の発見をする。泉の中の自分が笛を携えているのだ。しかも平然と、先刻までと同じ曲を吹きつづけてさえいる。

 返して、と叫びながら、私は手を伸ばす。水面が乱れ、影は掻き消える。そしてどれほど待とうとも、もう戻って来はしない。

 打ちひしがれた私を慰めようとしてか、蟲たちが近づいてくる。彼らは寄り集まり、人間そっくりの像を作る。私が泣くのは、水影を失ったせいと思っているらしい。

 探しているのはそれじゃないの、と咽声で言う。楽器がいるの。私の楽器。

 蟲たちはいったん散らばる。再び集まったかと思えば、ゆっくりと不思議な形を成して、固まった。

 楽器のように思えたが、確証はない。単なる美しい置物のようにも、異国の文字のようにも見えた。それは私の知るどんな楽器とも違っていた。優美な曲線のあいだに複数、張り渡されているのが弦だろうと、かろうじて見当をつけたに過ぎない。

 なんなの、と私は訊く。教えて。それはなに?

 無意味なことは承知していた。返ってくるのはただ、蟲のさざめきばかり――。

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