番外・月はどっちに出ている
中将為正は恋多き男だったが、たった一つ、奇妙な結末を迎えたものがあった。
それはとある名家の若君の
皆と違って彼だけが、この若君を宴席から連れ出した。横笛の吹き方を教えてやると言って。大人たちは少年同士、友情が育まれるものと思って主役が席を外すのを見逃した。
それでまんまと物陰に引き込んで衣の下をまさぐって横笛どころか男女の恋を教えてやろうとしたが、若君は顔が女のようだっただけで若君だった。なかなかに血の気が多くもあった。
騙し討ちに若君は怒り心頭に発し、十六歳だった彼を散々殴りつけた。宴は台なし。事情を知った大人たちはまず笑い、家名を
彼の妻も笑った。夫が顔を腫らして
「何と我がお飾りの夫は男と女の見分けもつかぬとは。それで情けなくも元服したばかりの童子に
妻はかの若君のことを〝
唐の詩人、
「近くに見えても手に取ろうとすればお前が死ぬるぞ、その恋は。こたびは生きて帰れて幸いであったな」
今思えば妻は面白がっていた。
明け方、藤壺を出て清涼殿から弘徽殿まで渡殿を渡るときが一番肝心だ。ここさえ通りすぎてしまえば何とでもなる。
だがそこで、今日に限ってばったり白い
「これはとんだ有明の月だ」
悪びれもせずに中将為正は笑った。公卿たる者は慌てた顔などしてはいけない。悠然とかまえていなければ。
「お喋りな
「どうでもよい」
明空は大人になって一層可憐な顔で、男の声で吐き捨てた。
「些細なことをいちいち騒ぎ立てて
「はは、今日は下手を踏んだな。そちらこそ何をしているのか」
何とかごまかして、弘徽殿の方に向かう。これでよかったと思ったが――なぜか明空がついて来る。弘徽殿や麗景殿にも忍び入ると思われているのだろうか。もう朝日が昇るのに。いまいち何を考えているのか。経験がないからわからないのか?
「――忠臣なあ。お前もおかしなやつだな。そんなにみこさまが好きか?」
「お前の思うような穢れたものではない」
「どうだか」
円頭が艶めかしく見えるようになったのはいつからだろうか。並みの者が見せることのない肌を晒して歩くのはどんな気分か。男の着ない裳を着けて。
「中将さまこそなぜそんなに躍起になって漁色に励むのか。北の方とは円満と聞くし男が多情と言っても妾など二、三人もいれば足りるのではないか。危ない橋を渡らずとも。なぜわざわざ危険を冒す?」
「なぜと言われても。できるから? 花が咲いているのに手を伸ばさないのがわからん。目に入るのを端から摘んで何が悪い。皆、二、三人で満足しているのではなく己の力が足りなくてできないだけなのだろう? 不出来な者と足並みを揃えてゆっくり歩く義理などない」
つい笑みがこぼれた。いつだって少しも嘘はついていない。
「それでお前のことも手折ってやろうと思ったのにがっかりしたなあ! 他人に譲ってやったのはお前だけだぞ」
「ぬかせ、やったり取ったりされた憶えなどない。この身は我がものだ」
「本当にそうかな」
皮肉を言ってやったつもりだが、明空はゆっくりと頭を左右に振った。
「――己の身すら病や怪我でままならぬこともあるこの憂き世で、一心に菩薩を目指すのだ。誰が触れたとか触れないとか些細な話だ。お前に穢されていたとして唯々諾々とお前のものになったということはなく、拙僧の歩む道に変わるところなどない」
「そういうものなのか? ならもう少し穢してやろうか、修行の励みになるだろう」
尻でも撫でてやろうと手を伸ばしたら、思いきりつねり上げられた。皮を引っ張るので痛い。
「僧をおからかいになるものではないですよ、中将さま。拙僧は修行ができておりますが他の者の妨げになります」
「何が他の者だ、お前以外にこんなことするか!」
引っ込めた手の甲が赤くなっていた。どんな力を込めたらこうなる。
「思いついたことを何でもなさるのではなく後先を考えるとよろしいでしょう。全てが思い通りになるというのは驕りが過ぎるかと。人はもっと慎み深く生きるべきですよ」
禁欲的な白の衣に婉然としたその笑み。
見えていても決して手の届かない月。
「――人は慎み深く生きるべき、か。そのように思っていた頃もあるぞ」
少し、試してみた。
「自分がおかしいのではないかと。他人はこうではない、分を弁えて大人しく暮らしている。よからぬことを次々思いついて落ち着かず、心がざわめくのは己だけかと。夜、皆のように長く寝ていられない。おれが寝ている間に何か面白いことがあるのではないかと気が逸って目覚めてしまう。童の頃は乳母子やらを起こして話し相手をさせていたが、眠そうで迷惑そうで。一人でいると余計なことを考えて一層眠れない。結局起きていても何も面白いことはないが、寝床でじっと横になっているとかえって疲れる。誰も彼も目をつむって数を数えろとか縁起のいいことを考えろとか言うがうまくいかない。所詮、眠るのが得意なやつが考えた方法だ。香や煎じ薬を試したこともあったな。夜の闇が恐ろしく、皆が寝ている間にこの世が滅ぶのではないかと思った。昔は生きているのがつまらなくて困った」
反応を待った。――この話をすると大抵の女は「おかわいそうに、中将さま。夜の闇が怖いなんて。わたくしがお慰めします」となるのだが。男でも「意外な苦労をしているのだな」くらい思うものだが。
明空にそれらしい様子はなく仏頂面のまま。仕方ない。ため息をついて話を進めた。
「だが比翼連理を得て、あの方と万里を飛ぶためにこの身と心があったと知ったのだ。
にんまりと笑ってやった。今度は明空は呆れを隠さず、白けた目をしていた。
「尚侍の局から出てきた後でなければもっと含蓄のある言葉だったのだろうな。おぞましい言いわけを思いついたものだ、女を漁るのが妻のためとは。どうかしている」
「おれは愛が深すぎて一人にかまけていると疲れさせてしまって女にもよくない。散らさなければ毒だ。女を抱くとよく眠れるし、一晩で二人、三人通う手もある。今や夜の闇はおれの味方だ。男女の和合で宇宙は成る。わざわざこの道を捨てるとはまこと僧とは度しがたい」
「度しがたいのはどっちだ。煩悩を断つのは俗人には難しいのだろうが、まさか一晩に二人も三人も女を抱かなければ眠れないなどと言い出すとは思わなかった。物の怪が憑いてるんじゃないか。早死にするぞ」
「そんな毎日ではない。秋や冬は夜が長いから」
夜居の僧は夜間、経を読むことしかないのだろうか。それで生きていると言えるのか。
「お前たちはどうだ、
「万里を飛ぶための比翼連理ではないし知音でもない。わざわざ
明空は面白くもなさそうだった。
「そちらに理解できないのは当たり前だ、己でも己がわからないままなのだから。たかが女一人を得てはしゃいで月まで飛べると思っていられるとは羨ましい話だ。――いや皮肉でなくまこと羨ましい。女一人のために月まで飛ぼうと思えるのは中将さまくらいであろうよ。こちらははしゃぐどころか恋を知って以来、枷を嵌めて
「水底の恋?」
妻は彼を湖水の月と呼んだものだが。
水に映った月は水の上にあるのか底にあるのか。
少しひねってみた。
「――ふみもみず渡るせもなく水底に君を待つらむ
「歌はよせ、面倒くさい」
「よくそれで内裏で生きられるな」
「大きなお世話だ。瀬田の橋姫?」
「水の底と言うから。――淡海から流れ出る瀬田の川の底には龍がいるとか。女の龍だ。恐ろしい姿だが臆せず踏んで歩けば豪傑と認められ美女に変じ、愛が得られるそうだぞ。文の一つもやれば沈まず渡れるのではないか」
「何の話だ?」
「仏に成れるのは龍王の姫だけなのだろう?」
――手を伸ばしてみた。
立ち止まり渡殿の柱に手を突いて、行く手を遮った。明空は足を止め、
「おれは童殿上で最も美しいと言われていたのをお前に五年で追い越されて、もっと脅かされると思っていたのだがな。やっとまともに勝負になる者が現れたかと思ったのに坊主なんぞになりおって。どういうつもりだ」
仏身は男ではないという、それを模すための白い法衣。
半端者の装束だと思う。全ての欲を捨てて何にもならないなんてできるはずがない。
彼が今、ちゃんとした男の姿をしていたら。
「邇仁を守りたければ俗世にいるべきだったろうに、なぜ」
「おやまさか、中将さまにおかれましてはついに女だけでは足りなくなって男を口説いていらっしゃる? 一夜で三人とおっしゃるだけあって随分煩悩があり余っておられる。それほどこの身を欲しておられたとは」
足を止めさせたのがよほど
「生兵法は怪我のもとですよ。こちら、男の甘い言葉には慣れてございます。少うし褒めただけで傾くと思ったら大間違い。食べ慣れぬ味をご所望ならば火傷させてあげましょう。不動明王の
「馬鹿の一つ覚えめ、大人に同じ手がいつまでも通用すると思ったら大間違いだ」
あえて顔を近づけ、目を覗き込んだ。息がかかるほどの距離に。間合いを取ると殴られる。
目を見て呼吸を合わせ、どう動くか全身で読む。
――わかる。今、目の奥が波立った。動揺した。
「お前は何か全然違うものを仏道だ悟りだと言ってごまかしている。このおれを上っ面の言葉だけで欺けると思うなよ。お前は只人と同じだ、人並みの煩悩がある。生臭を断って珍妙な格好をして夜通し経文を読めば人間をやめられるなど、世の中はそんなたやすいもののはずがない。いや、そんなたやすくなれるものがお前の目指すところのはずがない」
読み取ったものをすらすらと唱えた。――なるほど、そういう。
言葉で更に目の奥が惑った。
湖水の月がざわめいた。
手が届きそうだ。
「何だ、何を求めている。今の自分に何が足りないと思ってそれを始めた。最初のきっかけは?」
後少し。
「邇仁? 尼御前?」
半歩踏み込んだ、そのとき。
目の奥が一気に崩れ、息の塊が洩れた。
長い裾を踏んだのか明空はよろめき、少し戻って渡殿の柱にもたれた。口許を袖で覆って小娘のようにくすくす笑い出す。声を上げて笑うのは珍しかった。
「――いや失敬。修行の足りぬ身の上で。道浅き若輩者なれば中将さまのような立派なお方に、格好ばかりの半端者め、何をしたいのかわからんとなじられても当然です。怒る資格もございません。笑うしか。おっしゃる通り、若造が頭を丸め袈裟を着ただけで尊ばれると思ったら大間違いです。肝に銘じることとしましょう」
言いながらまだ笑っていた。
「口説き文句とは甘いばかりではないのですねえ、ときにきつく当たるのも手だと。押して駄目なら引いてみろというわけですか。万事に通じそうですね。勉強になります」
――しまった、逃げられた。確かに口に針をかけたのだが、竿を上げるのが早かった。仕掛けはこれで合っていたはずなのだが。
「今のはまさか尼に仕掛ける策を拙僧でお試しになったのですか? 女ならば、入道してなお何者でもないこの身が情けない、浅ましいと恥じ入って動けなくなってしまったりすると? そこをすかさず中将さまが抱き寄せて月まで飛べる心地にしてやるのですか? 罪深い方ですね」
「お前だけだ、嘲られて笑うな痴れ者め。興が冷める」
「己のことなど笑い話ですよ。この頭で何を言ってもたわごとです」
「そんな風に思ってないくせに。笑って逃げるような男ではないくせに」
「はて中将さまが拙僧の何をご存知とおっしゃるのでしょう」
「知っているとも」
そうそう笑う男ではないし、そうそう怒る男でもない。
あの夜、愛してやるつもりで触れた身体は怒りに満ちていた。
それがいつからか鈍っていた。
巷では不動明王の忿怒などと言うがあの少年の日のが本当の怒りで、後は全て怒っているふりのように見える。年々、ふりばかり上手くなっていく。
ついに笑うふりまで憶えたとは。
いつから鈍った?
どこぞの上人に床でかわいがられて飼い慣らされたのかとも思ったがそうでもないようだ。
牙を抜いたのが邇仁にせよ尼にせよ、老いてもないのに鈍るのは許せない。
自分が目をかけたような人間は前にしか進んではいけない。寝る間も惜しんで高く飛んでほしい。同じ月なら天高く。
手が届くものならいずれ摘んでしまう。
今日しくじっただけで、水底の月なら網をかけて引きずり上げるときが来るだろう。
そのときは龍女も一緒に。
「そんな逃げ方ではいつか足を掬うぞ。速く逃げねば喰ってしまうぞ」
「おお怖、男をどのように喰らうつもりでいらっしゃるのか」
僧は宿直装束の裾を捌いて清涼殿に戻っていき。
「尻ばかりが隙ではないぞ、護身を怠るなよ」
中将は踵を返し、
※来週から『縦横無尽のウォークラフト』開始ですが、pixiv限定公開です。
ここにURL張ったら多分怒られるのでpixivを korumono で検索してください。
尼御前さま、オーバーキル!!!! 有為転変のハニートラップ 汀こるもの @korumono
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