どうしてお兄ちゃんからあの女のニオイがするの?



「お兄ちゃん、おかえりなさい!」


 帰宅するやいなや、なずなが俺の胸に飛び込んできた。

 背中に腕を回され、ぎゅうーっと抱きしめられる。

 瞬間、甘やかな花の香りが鼻先に昇った。

 なずなは俺の学生服の布地に顔面を突っ込み、何が楽しいのか、クンカクンカと俺の体臭を堪能している。


「ちょ、ちょっと、なずな」

「えへへ、お兄ちゃーん」

「……まったく、なずなはしょうがないな」

「むへへ~」


 よろけた俺にかまわず、なずなは緩み切った声を出す。

 俺は嘆息した。

 なずなの過剰な感情表現にはだいぶ慣れたが、何しろ玄関に立ちっぱなしだった。下校直後の身としては、ただちにベッドかソファにダイブしたいというのが本音だった。




 ――信じられないことだが、この荒廃した世界にも学校はある。



 住所が移った関係で、俺は別の学校に転校することになった。

 転校先の学校は花降はなおり家縁故の組織が運営する学園で、つまりは普通の学園ではなかった。

 〈髯籠ひげこ学園〉。対憑蟲ひょうちゅうの防衛機構を備えた半官半民の学府。幼稚園から小中高教育、大学から多数の研究施設までを擁する超マンモス学園。四方を山に囲まれた盆地に位置し、全体面積は小規模な地方都市にも匹敵する。特殊部隊が校内に常駐し、授業を通して学生は憑蟲に対する知識や護身術を教授される。その要塞のような学校が、俺の新しい学び舎だった。

 なずなは小学校の時からこの学園に通っていたというのだが、ここ最近は授業にもほとんど出てはいなかった。

 それには白髪赤眼という外見的特徴を気味悪がられていたとか、花降家という良家の生まれであることでやっかみを受けていたとか、理由はひとつではなかったらしいが、あまり詳しい経緯を、なずなは語りたがらなかった。

 では、学校へ行かずになずなが普段何をしているのかと言えば、もっぱら家に引きこもっていた。

 昼間は自分の部屋に閉じこもり、俺が帰ってくると待ち構えていたかのように出迎え、その後は俺と部屋で過ごす……というのを、連日の日課としていた。



「…………お兄ちゃんから別の女のニオイがする」



 幸せそうに俺の胸に鼻をこすりつけていたなずなが、にわかに顔を歪めた。

 女のニオイ。


「ああー……それはたぶん、花南かなみのニオイだな」

「カナミ……って、お兄ちゃんの学校の後輩さんだよね?」

「そうだな」

「どうして? どうしてお兄ちゃんからあの女のニオイがするの? おかしいよね?」

「どうしてって言われてもな……」

「ねえどうして? もしかしてお兄ちゃん、さっきまであの女と一緒にいたの?」

「……いや、今日は花南には会ってないな」

「じゃあどうしてお兄ちゃんの制服からあの女のニオイがするの? ニオイがつくまで一緒にいたんじゃないの? 放課後一緒に過ごしていたんじゃないの? 違うの? 放課後の教室で二人でイチャイチャしてきたんじゃないの? 私のいないところであの女と仲良くしてたんじゃないの?」

「いや、それも違うな」

「じゃあなに? ああそっか、あの女がお兄ちゃんを誑かしたんだね。大丈夫だよ、お兄ちゃんはあの女に脅されてるだけなんだよね。そうなんだよね? ね? 隠さないでホントのこと、言って?」

「今日も昨日も花南には会ってないよ」

「それじゃあどうして? どうしてあの女のニオイがするの? どうして? ねえ、どうして? どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして?」


 どうして俺の服から花南のニオイがするかって?

 それは――、


「それはだって、。その血のニオイがまだ落ちていないんだ。なずなも知ってるだろ?」


 ちなみに、なずなとは昨日も一昨日も、ほぼ同様の会話をしている。

 なずなの過度な感情表現には慣れたつもりだったが、こうも毎日続くとさすがに疲労を覚える。再びため息をつきながら、俺は、もういない後輩の彼女のことを思い出していた。



 ――石木いしき花南かなみは、同じ委員会の後輩だった。


 その栗色の髪と同じふわふわとした雰囲気を漂わせ、人懐っこい笑顔が印象的だった。花南は中等部の三年生であり、高等部一年の俺とは使う校舎も教室も別だったが、たまたま所属していた委員会が同じだった関係で親しくなった。委員会以外でも、花南とは何かと顔を合わせる機会が多かった。

 学年こそ違ったが、中高一貫制である髯籠学園が、学年間の積極的な交流を推奨としていたことも手伝い、あまり年齢差を垣根に感じたことはなかった。

 歳の隔たりを感じさせない自然な親しみやすさが、花南にはあった。


『私のことは花南って名前で呼んでください。私も先輩のこと、名前で呼びますから』


 初対面の俺に、どうしてか花南は随分と世話を焼いてくれた。

 花南は転校してきたばかりの俺に、学園の仕組みをいろいろと教えてくれた。花南は俺のことを先輩と呼んだが、俺からしてみると、あの学校では実質的に花南のほうが先輩的な立ち位置にあった。


『仕方ないですよ。先輩はここに来てまだ日が浅いんですから。ふふっ。いいですよ、私に任せてください』


 実際、委員会の仕事だけでなく、教室の場所だとか、教師との接し方だとか、校内の生徒間での噂やジンクスだとか、学園のことで花南といて知ったことは数知れない。

 花南と過ごす時間が、俺を普通の学生に引き留めてくれているような気がした。


『そんなこと、面と向かって言われるとなんか照れちゃいますね……。あっ、先輩もしかして、私のこと口説こうとしてます? いたいけな後輩をからかっちゃダメですよ?』

『でも、先輩だったら私も――なーんて。ふふっ、本気にしちゃいました?』


 半年が過ぎる頃には、軽口を叩き合えるほどには、俺と花南は打ち解けていた。

 俺もこれから委員会の仕事や学園のことを覚えて、少しでも花南に恩返しができればと、そう思っていた。



 それが。



 数日前の放課後だった。

 学園の廊下で、俺と花南は憑蟲に襲われた。

 絶対安全と言われていた学園の防衛機構だったが、どこに隙があったのか、その日はみすみす外敵の侵入を許してしまったらしかった。そもそもこの世界のどこにも安全な場所などないのだと、俺は遅ればせながらに思い知らされた。

 先輩……っ、先輩……! 

 ――と、助けを求める花南の手を、俺は引いてやることができなかった。《神虫しんちゅう》の加護によって、俺自身はいくら憑蟲の毒が直撃してもそれが致命傷となることはない。

 しかし、花南は違った。

 花南は一般の生徒だった。

 憑蟲に対抗する特殊な能力など持ち合わせていないごく普通の中学生だった。

 憑蟲に怯える花南の姿は、いつもの頼りがいのある花南と比べてひどく小さく見えた。

 せめて無防備な後輩の盾になろうと、俺は目前に迫る憑蟲に立ち向かった。

 どうやらここにたどり着くまでに他の追っ手を逃れてきた後だったようで、その憑蟲はすでに瀕死の傷を負っていた。俺が《神虫》の力を発動させた拳で数発殴打すると、憑蟲は呆気なく沈黙した。

 だが。

 その過程で憑蟲が苦し紛れに放った毒液を、花南がまともに受けてしまった。



 憑蟲が吐き出す毒は、超自然的な作用を以て、人体の構造を造り変えてしまう。

 たいていの場合は、体内の急激な変化に身体が耐えられず自壊するか、弱っているところを他の憑蟲に捕食されてしまうかする。

 だが、その場で死ぬことができるケースはまだマシと言えた。下手に生き延びてしまうと、その先に待っているのはさらなる地獄でしかない。


 


 それまでもっとも恐れていたはずの捕食者に、自身が成り変わってしまう。

 そして、石木花南はまさしくそうした犠牲者のひとりだった。



 花南の悲愴な叫びが、まだ耳の奥から消えない。

 黒煙を吐いて憑蟲へ変じていく花南を、俺はただ見ていることしかできなかった。

 ようやく見馴れてきた景色が変容していくあの感覚。

 放課後の学園の廊下の真ん中で、後輩の少女が異形に取り込まれていく。

 俺の内にある《神虫》の力は、憑蟲の毒を拒絶する。俺には憑蟲を倒す力があるはずだった。

 このまま放置しておけば、花南は完全に憑蟲となり、新たな魂魄を求めて生きた人間を襲い始めるだろう。その前に何とかしなければ……。

 花南が憑蟲の声で哭く。

 花南の肩からは黒い外殻が剥き出し、手足はすでに六本の甲脚に変わっていた。

 いや。

 それはもはや花南とは呼べない何かだった。

 もうじき翅が生え揃えば、それは外界へと飛び立っていくだろう。

 そうなってからでは遅い。

 これ以上犠牲が増える前に、俺がやらなければ――。


 誰を? 

 花南を。

 憑蟲になった、花南を。

 誰が? 

 俺が。

 力のある、俺が――――でも。だけど。

 そうして、どのくらい逡巡していたのだろうか。




 ――白い、光が見えた。




 駆けつけたのは、なずなだった。《天道花てんとうか》の火焔が憑蟲の甲殻を貫き、まだ未成熟だった憑蟲の体は水風船のようにあえなく弾け飛んだのだった。

 気づけば俺は、膝を衝いた姿勢で廊下の天井を仰いでいた。憑蟲の体液を頭から被り、全身どろどろになってなずなに抱きかかえられていた。

 なずなに続いて来た特殊部隊の人の話によれば、到着した時、俺は目の前の憑蟲に抵抗もせず喰われる直前だったという。


 俺は結局、後輩を救うどころか、自身を守ることさえもできていなかった。

 己の無力さを呪う――なんて思うこともおこがましい。

 俺にあるのは力だけだ。

 人類のために戦う覚悟なんて、どこにもない。




      ◆




「ねえ、お兄ちゃん」


 またある日。

 夕食の席で、なずなが俺に訊ねた。


「なんだい、なずな」



「今、お兄ちゃんが食べてるお肉……何のお肉だと思う?」



 何の肉って……。


「そりゃ、あいつの……しきみの肉だろ」

「せいかーい♪」


 俺が答えると、なずなは愉快そうに口角をつり上げた。

 しきみ――高野こうのしきみ

 樒は俺と同い年の女子で、俺の幼馴染だった。樒は活発かつ快活な性格で、髪型や身なりもスポーティーな感じにしていることが多かった。からりとした樒の人柄には俺もなずなも幾度となく助けられた。

 樒とは、俺が元住んでいた街を離れたことで一時的に音信不通となっていたが、転入先の教室で再会した時にはさすがの俺も驚いた。樒もまた憑蟲の害を逃れ、髯籠学園にやって来ていたのだった。


『また昔みたいに、お互いご近所づきあいができるといいね!』


 以来、樒はかつてと同じように、たびたび俺の家を訪れるようになった。

 再会に至るまでには樒にもきっと一言では語れない苦労があったと思うのだが、そういった事情を想像させないくらいに樒は明るく振る舞ってみせた――あるいは、環境が変わって本当は樒も淋しかったのかもしれないと、今となっては思う。

 しかし、樒は俺となずなの境遇についても詮索せず、すぐに受け容れてくれた。


『なずなちゃんホントかわいい! あたしもなずなちゃんみたいな妹がほしかったなー』


 特になずなに対しては、樒は妙にお姉さん然と接していて、人見知りのなずなも樒にだけは心を開きつつあった。それを見て、樒と比べて俺はなずなに年長者らしいことをまったくしてやれていなかったと実感させられた。

 樒の明朗さは俺の目にはあまりにまぶしく映った。

 そんなふうに不貞腐れていた俺を、樒は叱咤した。


『なあにしみったれた顔してんのよ。しゃんとしなさいよ、しゃんと。今はあんたがなずなちゃんのお兄ちゃんなんでしょ!』


 樒が訪れるようになってから、我が家にはまるで家族がもう一人増えたみたいだった。

 失われたはずの日常が帰ってきたように感じて、俺は言い知れない感慨を抱いた。

 だけれど――その穏やかな関係も、長くは続かなかった。


「あの女、いつまでもお兄ちゃんにつきまとってきて……。私が何度言っても聞かなくって……。だから、殺しちゃった。しょうがないよね、私はちゃんと忠告したのに。これ以上、私のお兄ちゃんに近づかないでって。何度も何度も忠告したのに。ほんっとしつこい。お兄ちゃんも迷惑してるって、なんで分からないのかな。それで、口で言っても理解できないみたいだったから……。だから……だから、私が……。……そうだ、私が殺したんだ。樒さん。お姉ちゃん……私が。あの時、だって。だって、あ。ああ。えうっ、ぃ、ぁ――」

「なずな」


 俺が名を呼ぶと、なずなは口を開けて数秒、動きを止めた。

 そして、


「………………あ、お兄ちゃん」


 何かに気づいたように、しかし死んだ表情で、はたと俺を見た。


「ああ。それで、どうしたって?」

「うん。……だ、だけど、もうあの女はいないからね。大丈夫だよ、お兄ちゃん」

「そうか。ありがとうな、なずな」

「えへへ」


 そうして俺たちは、何事なかったかのように食事を再開する。

 なずなは今日の料理はここの味つけにこだわっただとか、ここの焼き加減が難しかっただとかいうことを滔々と語っていたが、俺はうわの空だった。



 ――高野樒が憑蟲の毒に冒されたのは、今からちょうど一週間前のことだった。


 俺と樒は街で移動中に憑蟲のはぐれ個体と遭遇してしまった。

 その憑蟲自体は特殊部隊が即座に駆除したのだが、その際にまたしても俺たちは、憑蟲が噴射した毒霧を受けてしまった。

 最初は、手足に軽く痺れを感じるくらいだし問題ないと、樒は笑って言っていた。

 俺ほどではないが樒にも憑蟲の毒に対する耐性が備わっており――それ故に俺と同じく学園の施設で対憑蟲戦闘の訓練を受けてもいた――、ちょっと毒液を浴びた程度では何ともないと常日頃から豪語していた。

 しかし、樒の症状は悪化するばかりだった。

 樒は日に日に疲弊していった。

 二日目には頭痛や眩暈、嘔吐に苛まれ、三日目には肌の半分近くが黒ずみ、呼吸をするのも困難になっていった。四日目には皮膚が暗色の甲殻に覆われ始めた。五日目を過ぎるころには自我を保っていることも難しくなり、何度も意識を失うようになった。

 最期には、途切れ途切れの言葉で、どうかお願いだから殺してほしいと、樒は俺に縋って泣いた。

 体のほとんどが憑蟲となっても俺のそばから離れようとしない樒を、しかし俺は見捨てることができなかった。

 最終的に、樒に引導を渡したのはなずなだった。

 樒は玄関先で半分以上が毒蟲の姿となって俺にもたれかかっていたが、意を決したなずなが《天道花》でその身体を打ち砕いたのだった。

 まだすべてが憑蟲になりきってはいなかった樒は、霧散することなくそのまま動かなくなった。それが、昨日の夕方の出来事だ――――。



「――――どうしたの、お兄ちゃん」


 顔を上げると、なずなが光彩の欠いた瞳で俺を凝視していた。

 紅い双眸。

 怪訝そうに首を傾げるなずなの口元には微笑みが張りつけられていたが、その目はやはり笑っていなかった。


「冷めちゃう前に食べよ?」

「……ああ、そうだな」


 俺はうなずいて、箸を取った。

 この世界で人類は絶滅の危機に瀕している。

 もちろん、そのような状況の中で、自力で食料を得る手立ては失われて久しかった。政府の供給も充分とは言い難く(それでも我が家は花降本家の仕送りがある分、まだましだったが)、生き延びるために俺たちは、憑蟲と化した元人間の肉を喰らうしかなかった。

 憑蟲となってしまったとは言え、元が人間であることに変わりはない。

 自分が殺した人間の肉を自分で調理し、嬉々として食卓に出すなずなも狂っているが、それを黙々と食べる俺もとっくに壊れてしまっていた。


 こんな生活が、あとどれくらい続くのだろう。


 未来は見えない。

 俺たちは引き返せないところまで来てしまっている。


 それでも。

 それでも俺たちは、こうやって生きていくしかないのだ。




      ◆










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